月が眠る夜.1
/ユイちゃんあ~んどメイちゃんのこわいこわいお月様が眠る夜/
初夏が香ってくる季節に訪れた新月の日だった。夕暮れが終わる頃、恵は郊外の公園に来ていた。入学したばかりの学校でクラスメートから誘われた、花火を用いた交流会だ。花火はそれぞれ持ち寄りのうえ、集合は既定時間に現地という大雑把な企画のもとで開かれた交流会ではあったが、クラスメートの多くが姿を見せている。
集まりのよさは高校生になったばかりという高揚感が手伝っているからだろうか。企画が決まったとき、それぞれの席周辺で打ち合わせが行われることで、細かなグループがいくつか生まれており、それが交流会の出席率へと繋がっているようだった。公園では二十数人の男女が集まり賑やかにしていた。恵はかたわらに水を半ばほどにまで注いだバケツを用意して、ベンチからそれを眺める。
やがて、集団の中に千紗都を見つけた。ちょうどやってきたところなのか、誰かを探すようにきょろきょろと辺りを見回している。しばらくして千紗都はベンチに座っていた恵に気がついたようで、花火の袋を持った手をこちらに見えるよう大きく振り、恵を目がけて駆けてきた。胸元で手を振り返す。千紗都の姿を捉えた視界の端で、気の早いクラスメートが花火に火をつけているところが見えた。
月が眠る日、誰かの楽しそうな声と、それに応える笑い声が聞こえてくる。光が失われる夜が、まもなく訪れる。
花火の企画が決まったとき、恵を一番最初に誘ってきたのは、目の前の席に座っている堤千紗都だった。
「花火っち、まだ早いと思うんやけど。もう売っとんかねえ」
千紗都が肩越しに振り返り、威勢のよい声をかけてくる。やや早口に聞こえるのは千紗都が以前住んでいた地域特有のもので、聞き取りにくいということはないのだけれど、威圧感が少なからずあった。もっとも、その口調にはもうすっかり慣れてしまった。
「コンビニに置いてるのみたよ。デパートにもあるんじゃないの」
「気ぃはやっ。夏やないやん。シケるよ」
「そんなこと言ってもね」
「使っちゃらないけんね。買ってこー。恵も来なね」
「それは、いいけど」
出席番号順で並べられている席で偶然前後になっただけの恵と千紗都だったが、クラスで小さなグループが出来はじめる程度の時間が経つと、気づけば「恵」「千紗都ちゃん」と呼び合う仲になっていた。小柄な恵と、女子としては身長の高い千紗都が用いる互いの呼び方にしては、傍からみると若干のギャップが感じられるものに聞こえるかもしれない。恵自身、その外見の為か、家族以外から名前を呼び捨てにされることがなかったので初めこそ戸惑わずにはいられなかった。しかし、千紗都の声に慣れるにつれ、自然と千紗都の勢いある名前の呼びすてに親しみを感じられるようになっていった。
「花火か。なに買おうかな」
「あたしが置くやつ買うけ。恵は手に持つの買っとって」
千紗都の言葉を聞きながら、恵は教室の中空をただよう“謎の生き物”や、壁側にある“そこに存在しないはずの”剥がれかけたポスターをぼんやりと見つめる。謎の生き物はなんにアピールしているのか不思議なダンスを踊っており、ポスターはポスターで台風にでも煽られているかのようにばたついたりと、どちらも動きがせわしない。
「どしたん? ボケーっちして。なんかある?」
「ううん、花火買うお金あったかなって、それだけ」
意識が向くまま視界の端に“変なもの”を捉えながら、そういえば――と思い当たることがあった。
今日は、新月の日だ。“変なもの”が元気に見えるのは、気のせいではないのだろう。月が欠ければ欠けるほど“変なもの”達は少しずつ活動的になったり、うるさくなったりする。普段まったく動かないような“変なもの”もふらふら動き出したりする。しかし、べつに悪さをするというわけではない。新月の影響で活動的になっているとはいえ、いつも通り、“変なもの”達は彼ら自身のルールに従って好きなように動くだけだ。積極的にこちらへ干渉するようなことはないだろう。ただ問題があるとすれば、恵が授業に集中する為の妨げとなることだった。視界の端に映るだけならいいのだけれど、あまりちょこまかと動かれると気になって仕方がなかった。
学校が終わりに近づくにつれ、クラスメートと“変なもの”達は同じように元気を増し、賑やかさは区別がつかないようになっていった。
たくさんの花火が一堂に会するという風景はなかなか不思議なものに思える。次から次に花火を手に取る千紗都、その向こう側にいる色鮮やかな火に囲まれるクラスメート達。まるで花が生まれる瞬間に迷い込んでしまったようだ。活動的な“変なもの”達を背景に、小さなお祭りが繰り広げられている。
背景の役割を担っている“変なもの”の中には、案の定、普段公園では見かけないものがたくさん混じっていた。恵はまだ陽が沈みきっていない時間から公園にいたが、そのときに比べてずいぶん増えている。公園の賑やかさを嗅ぎつけてきたのかもしれない。雄ライオンのような姿をした大きい獣が立って泰然と歩いていたり、犬のようなものが木をよじのぼっていたり、大きな木かと思ってよく見てみたら逆立ちしている“変なもの”の姿だったりと、意味のわからないことになっている。幸いなことに人型の“変なもの”は見あたらないので、クラスメートの人と間違えることはなさそうだ。
恵は千紗都と二人で集団から少し離れた場所にいた。これは癖みたいなもので、人に囲まれすぎて見えないものが多くならないように、普段からできるだけあたりを見渡せる場所に身をおくようにしているのだ。
「恵、そっちのやろー」
「はい。これでいいね。火、お願い」
「なんで? つけたらいいやん」
「こういう大きいの怖いもん」
「えー、火つけるのが面白いのに」
聞く人が聞くと誤解されそうな発言をする千紗都に、地面に設置するタイプの花火を手渡した。千紗都は地面に小さなくぼみをつくると、そこに花火を置いて、なんの躊躇いもなくあっさり着火した。千紗都の剛胆さに思わずもう少し慎重にやってもいいんじゃないかと声をかけそうになる。火がついた瞬間、激しい音とともに火花が散らばったりするかもしれないのに、怖くないのだろうか。
しかし、そんなことを考えていられたのも一瞬のことで、恵達の目の前ですぐに火花が舞いあがり始めた。急速にその身を大きくしていく夜を押しのける、あざやかな色彩の力強い火花の乱舞に、恵の心はあっという間に呑みこまれていった。太陽や蝋燭の火には見られない躍動が飛び交い、留まることなく、ためらうことなく散っていく。一度弾けた火花は二度と生まれることはない。それでも、恵の心のいくらかを奪って眠りについていった。火花の勢いはおさまり、やがて夜が舞い戻ってくる。静けさが来てひとつの花火は消えた。花火というものは、いつ見ても新鮮で、心が躍る。すこし速まった呼吸を感じながら、火薬の匂いが漂う空気の中に夜を味わう。
それが新月の夜の始まりだった。
「はー、次なんしよ。そっちの貸して」
「いいよ、はい」
「なんがいい? 筒のとかちっちゃい箱とか」
「筒はあとにしたら? 長いし、綺麗だし。最後の締めに良いと思うよ」
「えー、そんなんもったいないっちゃ。先に派手なのやっとかんと」
「そう? って、だったらなんで聞くの……」
「おんなじやったら『よし、やろやろー』っちなって、違ったら『あ、間違った』っちなる」
「もう、千紗都ちゃんは。まあどっちでもいいんだけど」
「じゃ、こっちを……ん、火ぃ、どこ?」
「さっきそっちに置いてたじゃない――あれ、どこかな。暗くてよく……」
「こんなん暗かったっけ」
「外灯切れたのかな……」
顔をあげて、周囲を見る。
「え……、なに、これ」
見ようとした。しかし、なにもわからなかった。そこにあったのは恵の知る夜ではなかった。隣にいる千紗都の他にはなにも息づかいが感じられない不自然な暗闇が広がっていた。先ほどまで賑やかだったはずのクラスメートの姿どころか、声すら聞こえない。“変なもの”も見えない。無音だけが耳鳴りのように聞こえてくる。
異様な風景だった。一歩動き出してしまえば、この夜に喰われてしまうのではないかと、恵は恐怖に駆られた。いったい今自分は何と対峙しているのだろう。その先を見通させない暗闇が重圧を増してくる。視界が埋め尽くされていく。
「うわ暗っ、なんこれ! 暗すぎやない!?」
暗闇に埋まりかけた視界を切り開くように、ビリッと小さな光が走ったようだった。千紗都の大きな声で恵は我に返る。同時に、ぼんやりとした灯りが視界に入ってきた。ただ、灯りまでの距離がいまいちつかめない。恵は千紗都の腕を掴んだ。
「ち、千紗都ちゃん、あっち」
「あっちってどっち?」
「ほら、あっち明るいみたい。あっち行こう」
「んー、どこなん。よお見えんよ」
「どこって……」
見えていたのは弱々しい灯りではあるが、点滅するわけでもなくゆったりと周囲を照らしている。辺りが真っ暗なので、すごく目立つ。いくら灯りが弱いとはいえ見えないはずがない。千紗都の目がそこまで悪いという話も聞いたことはなかった。しかし、見えないというのなら仕方がない。恵は千紗都の腕を引いて、灯りへと向かう。
足下もろくに見えないので、転けないように慎重に歩みを進める。あまりに静かすぎて、握った千紗都の手から脈すら聞こえてくるような気がした。
しばらく歩くと、千紗都が苦言を呈してきた。
「どこまで行くと?」と。
恵は前方にある灯りを見ながら、口を閉ざした。なにも答えられなかった。
そのときすでに、恵はその灯りが“変なもの”ではないかと思い始めていた。二人が灯りに向かって歩き始めて十数秒は経っていたが、一向に灯りへたどり着く気配がない。しかも、歩いた距離を考えるともうとっくに公園から出ているはずなのに、どこまで行っても他の灯りが見えてこない。ただ、遠ざかることも近づくこともない灯りだけが暗闇の中に漂っている。まるで夜道を照らす月のように。
恵は灯りを追うのを諦めて、引き返そうかと考えた。あの灯りは千紗都には見えないらしい。千紗都をごまかしながら無理やりに引っ張っていくのも限界があった。
だが、どうすればいいのだろう。戻っても状況は変わりそうになく、第一、同じ場所に戻れるのかどうかわからない。恵はいま自分がどこにいるのかさえわからなかった。
「いっちょん明るくならんねえ。なしかねえ。よー、わからんけど、どっか電話しようか? 停電情報とか聞けるかもしれんし。どこで聞くか知らんけど。消防署とかならわかるかね。恵、ケータイ持っとる?」
電話という言葉にハッとして携帯電話を探ろうとスカートのポケットに手をのばす。恵と同じく“変なもの”が見える陽子――恵の姉ならこんなときどうすればいいのか知っているかもしれない。
携帯を取りだして、着信履歴からすぐに発信する。祈るような気持ちで待っていると、横で千紗都が不安そうな目で覗きこんできていた。そんなに心配させてしまっただろうか、それとも千紗都も状況の異常さに不安を感じ始めているのだろうか。恵は一言、口元で大丈夫、とつぶやいた。そのとき、電話の呼び出し音がふいに途切れた。
『どうしたの』
「おねえちゃん! よかった。いますごく“変なもの”に……」
『手短にお願い。いま立てこんでいるから』
「う、うん。さっきね、みんなといっしょに公園にいたんだけど、いきなりあたりが真っ暗に――」
「まっくらー」「くらくらー」
「えっ?」
「うわぁっ! びっくりした! なんなん? どしたん、この子ら」
通話が途切れたことに気づくまで、しばらく時間を要した。恵と千紗都の二人の意識が、唐突に目の前に現れた二人組の女の子が支配されていたからだった。千紗都が疑問符を掲げる隣で、恵は困惑した。
恵はその二人に見覚えがあった。小学生の中学年ぐらいで、可愛らしい服を来た双子の女の子だ。一見して人となんら変わらないが、この少女たちはここに生きていない。この女の子たちは“変なもの”で、いわゆる幽霊と呼ばれるものだということを、恵は知っていた。高校にあがってまもなかったころ、一度あったことがあるのだ。
しかし、その少女が現れたということよりも強く恵を困惑させたことがある。それは、千紗都がこの双子の少女を“見ている”ことだった。
「なにしてるのー?」
「なにするのー?」
「おまつりー?」
「うねうねー」
女の子たちはテンポ良く交互に言葉を連ねながらうねうねと左右に体を揺らす。
「ヘンな子たちやねえ。もう夜遅いのに。こんなとこでなんしようと?」
「なんしようと?」「なんしようと」
顔を見合わせておかしそうに笑う二人の女の子を中心に、すこし周囲の闇が和らいだのがわかった。
次いで、遠くににぎやかな喧噪が聞こえてくる。それはさきほどまで聞こえてきていたクラスメートたちの声ではなく、もっと大勢のものだった。雑然とした声の群れは“変なもの”たちの声だろうと恵には理解できた。
「ユイちゃんと、メイちゃん……だったよね」
「そっちめーちゃん」
「こっちゆーちゃん」
二人はお互いを指さして名前を言い合う。
「この子ら知っとるん?」
「えっと……千紗都ちゃん、見えるんだよね? 二人とも」
「見える? 暗くても、こんなん近かったら見えるよ。かわいい子たちやねえ、そっくりな双子ちゃんとかはじめて見た。瓜二つっちこういうの言うんやねえ」
「かわいい?」「そっくり?」
「かわいいし、よお似とうよ」
「えー、なんでー」「わーい」
「お家まで連れてっちゃるけ、ちょっと待っときぃね。恵、電話は?」
千紗都に言われて手に握ったままだった携帯のことをいまさら思いだし、画面に意識をもどすと通話終了の文字が浮かんでいる。さらに、電波が圏外になっているようだった。
「圏外になってる……。圏外マークなんて、はじめて見た」
「めずらしいねえ。なんでこんなとこで圏外とかなるん」
恵の肩に寄りかかるようにして千紗都が携帯をのぞき込んできた。
「おおー。あたしも圏外マークっち、はじめて見たよ」
「どうしよう?」
千紗都、双子の少女と順に見やって、考える。このままここでじっとしておけば元に戻るのだろうか。それとも、なにかをしなければ元には戻らないままだろうか。
妖怪や神、幽霊、その他いろんな“変なもの”を多く見てきた恵だったが、こんな状況に陥るのはまったくはじめてのことだった。“変なもの”はいつもただそこにいるだけで、恵が話しかけてもとくに反応を示さず、また恵に対して何事かの興味を示すことも滅多にない。そういうもので、それが恵の経験のすべてだった。
ただ、見えるだけ。それだけが恵が他の人とは違うことで、それ以上なにもできることはないのだ。
千紗都と双子の少女のおかげで恐怖に支配されずにすんだのは良かったが、恵は暗闇の中で途方に暮れる以外のすべを持たなかった。
「電気がほたられとうごとあるね。なんか事故でも起きたんかも。みんなは静かみたいやけど、じっとしとんやか」
こんな状況でも千紗都の声はあまり悲観的ではない。恵は頼もしく思いながら、千紗都の腕をつかんで身を寄せた。
それまでじっと黙って恵達のやり取りを見ていた双子の少女が、腕をあげ、ある方向を指ししめした。見ると先ほどから恵が見ている灯りの方向だ。
「みんな、あっちいる」「あっちでおまつり」
「あっち? あの灯りって、なんなの」
「あかるいところ」「にぎやかなところ」
「なんか見えると? 恵もこの子らも目良いんやねえ。それとも、あたしが鳥目なんかな。まあ、なんかあるならそっち行こっか」
「うん……見えるというかなんというか、よくわかんないけど」
「おまっつり、おまっつり」「うねうねダンス」
千紗都と寄りそうようにして、恵は灯りに向かって歩きだした。双子の少女も二人で手をつなぎ、鼻歌を歌いながら恵たちの前を進む。先ほどまでとは違い、たしかに灯りへの距離が近づいているのがわかった。少女たちが現れてから遠くに聞こえていた“変なもの”たちの喧噪もだんだんと大きくなってくる。
そして二人と“二人”で灯りの下にたどり着いた。
暗闇が晴れ、視界が開けた。
まるで扉が開くかのようにして暗闇とはかけ離れた光景が恵の前に広がっていった。
“変なもの”たちが出店を開いている。お祭りのように屋台が並べられ、なにかしら商いのようなことをやっているようだった。そして、そんな店の前を楽しげに歩いている人たちの中に、恵は何人かのクラスメートの姿を見つけた。さきほどまで花火をしていたはずなのに、手にはなにも持っていない。
ごく普通のお祭りの光景だった。“変なもの”とクラスメートの人たちが普通に接しているということを除けば。
「おまつりー」「くるくるー」
目の前の光景に戸惑っていた恵の前で、双子の女の子が手を取りあってくるくると回りだす。よく手入れされているふうに見える長い髪が、にぎやかな祭りの空気の中をふわふわと泳いだ。
「お祭りって、なんのお祭りなの?」
「お月さまがいないからおまつり」「おこられないからおまつり」
「そうなんだ」
“変なもの”たちにとって月はかなり特別なもののようだと恵は理解しながら、これからどうしようかと考える。千紗都を見るとぼんやりとした顔で祭りの風景をながめていた。千紗都にも“変なもの”は見えているのだろうか。
「千紗都ちゃん」
「お祭り……」
「……どうかしたの?」
「ああ、うん。なんでもないけ。ちょっと頭がボーっちしただけ」
「どこか座ろうか。あれ、でも……」
屋台や人の流れ、それを囲む風景をあらためて見まわして、地形がすっかり変わってしまっていることに気づいた。神社の境内のような場所になっている。公園の近くに神社はなかったはずだが、いったいどこまで来たのだろうか。
祭囃子の音に追われるようにして、恵たちは祭りの中へと踏みいれる。