満月と頭痛と炎の灯る世界
月は嫌いだ。満月の晩は頭痛がひどい。低気圧の日に頭痛がするって話はよく聞くけど、俺のように月の満ち欠けで頭痛がおこるって話は聞いたことがない。理由は分からないけど、潮の満ち引きと同じように、人体にも影響を与える事があってもおかしくない。とにかく頭が痛い。イタイ、イタイ、いたい、いたい。
会社帰りの道すがら、あまりの頭痛に朦朧としながら、あのニクッタラシイ満月を睨む。ぼやけて見えたその満月は気候のせいかやや赤く見える。
赤い月は凶荒の前触れとか、不幸の象徴のように扱われるが、光の屈折によるものだと聞いた事がある。地平線近くに見える時など、赤く見えるらしい。今日は高い位置に見えるけど……。
そんな事よりも、頭が痛い。脳味噌全体がズキズキと痛む。こめかみを抑えると痛みが和らぐとか、そういうレベルの痛みではない。今日のは特にひどい。これまでの痛みとは比べようのない痛みが、俺の思考能力を奪っていく。
会社帰りいつも通るこの路。静かな住宅街の中で、時折聞こえてくる笑い声。日常が詰め込まれた、いつもの風景。それがなんだが現実の物ではないような、夢の中で歩いているようなこの感覚。浮遊感と嘔吐感。たまらず、道路の脇でしゃがみ込む。聞こえていた日常の音が、どんどん遠くなっていく。視界がぼやける。赤い満月が大きく見えた。意識が……。
けたたましい音に目が覚める。太鼓の音? 俺は上体を起こして、ゆっくりと周りを見渡す。広場のような場所の中心で炎が燃えている。その周りを男達が上半身裸で踊りながら回っている。そのさらに周囲を女達がそれぞれ太鼓や笛などで、騒々しい音をかき鳴らしている。何かの祭りか? まだ痛む頭で必死で状況を把握しようとした。さっきまでの日常と、この非日常の風景。ふと自分に目をやると、自分も上半身裸で、下には履いたこともない派手な紫色のズボンのような物を履いていた。素材は綿のようだったが、その形はなんと言ったらいいのだろう。膝の少し上までスカートのようになっているが、そこからはズボンのようにそれぞれの足に別れている。内股のあたりがスースーして気持ち悪い。どうやらその下には何も履いていないようだった。自分の股間に直接風があたるのを感じていた。つまり、しゃがんだりしたら、丸見えな訳である。いつこんな格好にされたのか……。考えると、急に恥ずかしくなった。ともかく、俺はその広場の隅っこの方に横たわっていた。広場の外の方を見ると、鬱蒼とした林に囲まれていて、その向こう側は暗くて見えなかった。空を見上げると、あの赤い満月が炎の灯りに負けることなく輝いていた。
とりあえず、立ち上がる。大丈夫、フラフラするものの、ちゃんと一人で歩ける。頭痛も少しましになったようだ。少し離れた場所に座っている老人に目が止まる。背中はありえないぐらい丸まっていて、片膝を立てて座っていた。手元にある石をぶつけ合って何かをぶつぶつ言っているようであった。何してるんだろう? この状況を説明して欲しくて近づいてみた。
「あの、すいません」
老人はこちらに一度目をやると、再び石遊びを始めた。無視されてると思い、もう一度強めに問いかけた。
「あの……」
「ようやくお目覚めかの」
「え、あ、はい。えっと、ここは?」
「そうじゃのう。なんと言えば納得してもらえるか……」
老人はそう言って炎の方を眺める。俺もつられて、そっちを見る。相変わらず、男も女も浮かれ騒いでいた。
「まぁ、平たく言えば死後の世界かの」
老人の言葉に俺の思考は止まる。
「え? 何です? 死後の世界?」
死後の世界。その言葉から連想するもの。三途の川、花畑、地獄、天国……。それらの言葉を感じる物はここにはなかった。しいて言えば、楽しそうに馬鹿騒ぎしてるから天国?
俺はそんな馬鹿な事を考えてる自分がおかしくて、頭を振った。頭がぢくんと痛む。
「信じるも、信じないのもアンタの自由じゃが、ここはあんたが創ったあんたの死後の世界。こういった世界がいくつも存在していて、それを纏めて人は死後の世界と言うのかの」
「あ、あなたは、いや、彼らを含めて」俺は炎の周りで踊り狂う人たちを指さして「何者なんです?」
老人の言葉は納得できるものではなかったが、この非日常の状況が普通ではない事は納得できた。
「ワシはこういった世界を回って管理調整する役目を持っている。いや楽しいぞ、この仕事も。人それぞれに創られる世界というのは、実に個性的で創造性に満ちていて」
「あの、じゃあ、どうしてあの月は、あの月は満月なんですか! 俺が創った世界ならどうしてあれがあるんですか!」
言葉が荒い。こんなふざけた冗談につい本気になってしまった。
「昔から言うじゃろ? 月は死後の世界への扉。開いては閉じ、閉じては開いて、絶えず魂の行き来をしている」
「じゃあ、彼らは?」
「お主が創った、この世界の住人達。これから未来永劫、彼らと共に過ごす。仲良くせにゃならんなぁ」
俺は炎の周りを踊る人影を見て、背筋が凍るような感覚にとらわれた。
「あんたの冗談に付き合ってなんていられない。帰るんだ。俺は帰る」
広場を出て林へ飛び込む。
どれだけ走っただろう? 時間の感覚がない。死後の世界だから? そんな馬鹿な。林の中はじめっと暑かった。木々のざわめきは現実そのものだった。これが死後の世界の訳があるか。汗ばんだ手をぎゅっと握る。爪が掌に食い込み、痛みを感じる。大丈夫、大丈夫だ。現実だ。額に浮いた汗を拭い、俺はいったん立ち止まる。木々の間から見える空に月が見えた。
ちくしょう。月なんて嫌いだ。
俺はまた走り始める。
そういえば、よくこんな夢見たな。先が見えない林の中をひたすら走る夢。決まって同じ所をぐるぐる回って、同じ場所に出るって夢。
そう思った瞬間、俺はまたあの広場に出ていた。
「どうじゃ? 納得できたか?」
あの老人が俺に話しかけてくる。俺は絶望という言葉を初めて実感した。膝の力が抜け、カクンと、その場に座り込んだ。
「お願いだ、俺を戻してくれ。まだやりたい事が、やり残した事があるんだ。結婚だってまだしてない。せっかく貯めた金だって、使わずに死んだらやりきれない。何のために俺は我慢して生きてきたんだ? 毎日、毎日、くだらない事に付き合って、毎日、毎日だ。このままだったら、俺の人生ってなんだったんだ? なぁ、戻してくれよ、頼むよぉ」
俺は、泣き出していた。こんなに泣いたのは初めてだった。
「月が決める事じゃ。おまいさんの人生を月が終わらせてもいいと思ったから、おまいさんはここに来た。もう一度、月を見てみい。戻れるかもしれんな、なんせ月は気まぐれ屋さんだからのう」
涙で滲んだ目のまま月を見上げる。赤い満月。
赤い満月が見える。背中には堅いアスファルトの感触。遠くから車が走る音と、かすかに聞こえてくる人の声。よろよろと立ち上がると、いつもの風景が見えた。倒れているのを誰にも見つかってないということは、意識を失ってからそれほど時間が過ぎていないのだろう。
夢? だったのか?
まだ痛む頭を抑えて、よろよろと立ち上がる。目尻を触ると、泣いていた跡が残っている。掌には爪の跡。
どっちでもいいか。
俺は月を見上げて、そしてまた歩き出す。
やっぱり月は嫌いだ。
ボツ理由。
単なるオナニー作品になってしまいました。
異世界物を書いたことがなかったので
挑戦のつもりで書いたんですが、
いまいち書ききれなかった。