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第六話 五月、ある青く晴れた日に、君と

(1)


 その日も爽やかな晴天だった。

 優司とマリアが教室に到着して席につこうとすると、小柄な女子生徒が近付いてきた。

「あの…和田くん」

 かわいらしく弱々しい声。楕円の細縁メガネをかけた俯き気味なその声の主は、このところずっと休んでいた学級委員の倉田紀子であった。尤も男子からはこう呼ばれていた。

「おう、いいんちょ、ひさしぶりだなー。体はもういいんか?」

「うん…」

 紀子は少し頬を紅潮させていた。色白のため、ほんのちょっと赤らめただけでもそれはよく目立った。

「あの、ごめんなさい、いろいろ迷惑かけちゃって」

「あー、気にすんなって。オレもつかの間のボス気分を楽しんだしな」

「ぼ、ボスって…」

「まーでも二のCのボスはやっぱりいいんちょだよな。復帰してくれて助かるよ」

「ありがと」

 紀子は視線をそらし、少し肩をもじもじさせていた。

「あの、これ…」

「?」

 紀子は後ろ手に持っていた白い紙袋を差し出した。袋の口は、赤いリボンが綺麗な蝶々結びで結ばれていた。

「クッキー…焼いたの。お礼にと思って」

 優司は紙袋を受け取った。

「おー、気が効くねえ。どれどれ…」

 リボンを取り、中のものをガサガサと取り出した。手には、小さなハート型のクッキーが数個入っていた。優司は彼女のこれらの細やかな気遣いを全く気にせず、ボリボリと食べた。

「う、うまい! まじでこれいいんちょが焼いたん?」

 紀子は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「えへへ…このくらいしかできないから」

「いやいや…頭いいししっかりさんだし、それでこのくらいって言われたら、他のやつら全員落ちこぼれだよ」

「ご、ごめん」

「冗談だよ、いちいち気にすんなよ。こーいつぅ」

 優司は紀子の頬を軽くつついた。

「やあん、もう…」

 紀子の頬はさらに紅潮した。二人は笑った。

「じゃ、じゃあ」

「おう」

 紀子は自分の席に戻っていった。複数の女子生徒が彼女の復帰を祝い、談笑し始めた。


「今のコ、誰?」

 優司のすぐ後ろでじっとだまって聞いていたマリアが口を開いた。その声には浮気の疑惑を追求する女の様な疑念の感情がこもっていたが、もちろん優司がそれを感じ取ることはなかった。

「ああ、マリアはまだ会ったことなかったよな。このクラスの学級委員してる、倉田紀子ってコ。で、オレ副学級委員だから、あのコの休み中オレが代わりにいろいろしてたってわけ」

「ふうん…」

「あのコちっちゃくて可愛らしいだろ? けっこう男子に人気あるんだぜ。まじめだし、料理もうまいしな…あ、そうだ、これ食う?」

 優司は紙袋を差し出した。

「ええ、いただくわ」

 その声は姑か小姑のようであった。マリアは紙袋の中身をわし掴みにして、数個のクッキーをいっぺんに口に放り込み、バリバリと噛み砕いた。

「…あ!おいしい」

 その一言で、つい今しがたまでのドロッとした感情はどこかへすっ飛んでいた。


(2)


 休み時間、優司はトイレに行った。用を足しての戻り際、廊下で寂しげな顔の桐崎・クローディア・留華を見かけた。

「…なんかあったのかな?」

 予鈴が鳴った。だが留華は教室を通り過ぎ、階段を上がっていく。気になった優司は後を追った。


 留華は屋上に消えた。

 優司は階段を上がり、そっと屋上のドアを開けた。空は青く高く、日差しが眩しかった。

 誰もいない…と思ったら、少し離れた所で、留華がフェンス越しに風景を眺めていた。優司は気づかれないように近づいた。

 風が留華の髪をたなびかせ、花の香りを優司に届けた。

 よく見ると、留華は肩を震わせていた。自身を抱える。泣いているようだった。

(桐崎さん…?)

 留華はその場にしゃがみ込んだ。


 優司はなんとなく悪いことをしているような気分になっていた。戻ろうか…と思っていた所で、本鈴が鳴った。

(やべっ、戻んねーと)

 振り向いた時、何かに足を捕られて派手にずっこけた。

「あいてて…」

 誰かが忘れていったサッカーボールだった。

「…んだよこれ…!」

「和田君…?」

 声の方を振り向くと、留華が見ていた。

「あ! …や、やあ」

「大丈夫? 凄い音したけど」

「ああ、へーきへーき。大したこと…」

 優司は立ち上がった。右肘が痛い。見てみると擦りむいていた。

「待って。わたし絆創膏持ってるから…」

 二人はその場に座った。


「はい、できあがり」

 肘に貼り付けられたそれは、ファンシーな柄物の絆創膏だった。ちょっと意外なギャップに、優司は少し笑った。

「なに?」

 留華と目が合った。彼女との距離はわずかだった。

「いや、かわいい絆創膏だなって。桐崎さん、見た目はすごく綺麗でしっかりしてそうだったから、ちょっと意外なカンジ」

 留華は少しきょとんとしていたが、やがて顔がゆるんだ。

「ありがとう…」

 そういうと、留華は顔を下に向けた。表情は曇っていた。

「ごめん!」

「え?」

 留華は再び顔を上げた。また目が合った。

「さっき、廊下で偶然桐崎さん見かけてさ。なんか思いつめた感じだったから、気になって見に来ちゃった」

「ううん、いいのそんなこと…」

「なんかあったの?オレで良かったら話聞くよ」

「……」

 留華は少し躊躇していた。

「大したことじゃないんだけど…」

 留華は間を置きながら話し始めた。

「知ってるかな。わたし、つい最近イギリスから戻って来たの。でもなかなか周囲になじめなくて…。向こうにいたときは、とても仲良しの友達がいたの。それを思い出しちゃって…」

「へえ…そうなんだ」

 留華はだまって中空を見つめていた。優司はその寂しげな横顔に言った。

「桐崎さん、すごいや。頑張ってるんだね」

 留華は少し驚いたように優司を見た。

「だってさ、オレらの周りは多かれ少なかれ入学した時から一緒のやつらだけど、桐崎さんは遠い所からいきなりこっち来たわけじゃない? 向こうの友達ともはぐれちゃってさ」

 優司は留華の顔を注視することができず、視線を反らしながら続けた。

「でも、ほんのちょっとだけだけど、オレが見た桐崎さんはいつも綺麗でちゃんとしてて…そんな大変な思いしてるなんて全然気付かなかった」

 留華は手をぎゅっと握りしめ、優司をみつめている。

「あーオレ何言ってんだろ…はは」

 その視線を優司は感じ、ちょっとテレた。

「まあアレだよ、辛いなって思ったら、ちょっと力抜いてもいいんじゃないかな。オレなんかいつも力抜けてっから全然緊張感ないけど…」

 留華は少し笑った。

「周りとかあんまり気にしないでさ。周りと話しづらいんだったら、オレにグチ言ってくれていいよ。なんなら、ウサ晴らしにサンドバッグにしてくれてもいい」

 そう言っている間に、留華は俯いて肩を震わせていた。

「オレ口固いし、丈夫だから殴られても平気だし…?」

 優司は、留華がすすり泣く音に気づいた。

「あ…ごめん、なんか悪いこといっちゃったかな、オレ?」

 留華は泣きながら笑う。

「ううん、違うの。嬉しくて…」

 健気な姿が、優司にはとても愛おしく思えた。

(やべー、すげーかわいいよ…)


 少しの間、静寂が訪れた。

 留華はいきなり優司に抱きついた。優司の胸に、顔をうずめている。

「き、桐崎さん…?」

「お願い…少しだけこのままでいて…」

 優司は手を回そうかどうかしばし迷ったあげく、こわごわと手を回してみる。それに応えるように、留華の腕にも力がこもった。

 お互いをしっかりと抱きしめた。


 風が通り過ぎた。優司は留華のリンスの香りに心が和んだ。

 ほんの数十秒だったが、二人にはとても長い時間が流れた気がした。

 留華が力を緩めた。

「落ち着いた?」

「うん…もう大丈夫」

 留華はハンカチで涙を拭った。

 留華が立ち上がろうとすると、優司は手を貸した。立ち上がっても手は繋がれたままだった。


 留華は大きく深呼吸をした。

「大丈夫」

 そしてにっこりと笑った。以前の彫刻品のような笑みとは異なり、それはいつか「潤いの泉」で見た、一人の少女の笑みだった。

「授業…戻らないと」

「うん、そうだね」

 二人は出口に向かった。

 出口のところで、留華は手を離した。

「先に行くわ。一緒のところ見つかるといろいろ大変でしょ」

「うん。…桐崎さん!」

「え?なに?」

「良ければその…と、友達になってくれるかな」

「友達なんて…」留華は呟くような小声になった。「それ以上に…なるかも」

「え?」

「ううん、なんでもない! …ええ、喜んで」

「ありがとう!」

「それじゃ…」

 優司は留華を見送った。夢のような展開に、頭の中に花畑が咲いていた。

(まさか、これ夢じゃないよな…?)


 そしてはっと気付く。

「げ…次、古文…平松じゃんか!」

 学校一恐ろしいと言われる教師に、こっぴどくしかられる自分の姿が目に浮かんだ。


(3)


 数日後の帰りのHR。優司と倉田紀子は担任に、明日配るプリントを職員室まで取りに来てくれと頼まれた。また面倒だな、と思っていると、優司のもとにマリアとカスミがやって来た。

 カスミの話では、体育実技の中距離走で尋常じゃないハイペースを披露したマリアの噂を、陸上部のキャプテンが聞きつけぜひ会いたい、ということだった。マリアは乗り気だった。

「優司、どうかな?」

 マリアが尋ねた。

「オレに遠慮するこたねえよ。行ってきな」

「うん!」

「じゃ、借りるわ」

 カスミがマリアの手を引いた。

「あーマリア、ちょっとちょっと」

「何?」

 優司はマリアを呼び寄せると、小声で話した。

「おまえの能力は普通の人間に比べたらとんでもなく高いってこと忘れんなよ。適当に合わせるだけでいいから」

「…うん、わかった。抑えるのね」

 教室を出て行く二人に、優司が言葉を投げた。

「用事済んだら後で行くわ」


 マリアは陸上部の部室で体操着に着替え、トラックに出た。キャプテンがマリアを迎えた。彼女は肩まで伸ばした髪をポニーテールにしている。そして色気、というよりもハツラツとしたスポーツマンの雰囲気であった。

「おお、君が阿部さんか! わたしは陸上部の石山。よろしく」

「二年C組の阿部まりあです。よろしくお願いしまーす」


..*


 優司の用事はすぐに終わった。倉田紀子は優司に別れを告げ、待ち合わせていた友達と共に教室から出て行った。

「さて、マリア達がどーなったか見に行ってみますかね」

 教室を出ると、桐崎・クローディア・留華にばったり出くわした。

「やあ、桐崎さん。今帰り?」

 留華の雰囲気がちょっと変わっていることに気づいた。彼女は開襟シャツを着ていた。それでなんとなく胸元に色気が出ていた。

「ええ、あなたも? …あら、いつも一緒の髪の赤い子は?」

「ああ、あいつは陸上部に誘われて走りに行ったよ」

「そうなんだ…」

 留華は、目線を横にやってちょっと考えた後、手を合わせた。

「ねえ、わたし、行きたい所があるんだけど、付き合ってくださらない?」

「え? …うん、いいよ。別に用事もないし」

「良かった!」


..*


 校庭の直線レーンでは、百メートルのタイム計測が行われようとしていた。三人の走者の中に、マリアも含まれていた。マリアのライバルとなる陸上部員は二年の短距離専門だった。

「スタート!」

 部員達は猛然と走り出した。マリアはスタートで出遅れた。

(抑えて抑えて…)

 軽くダッシュするとあっという間にゴールを越え、勢い余ってゴールから五十メートルほど先で止まった。ゴール付近にいた部員達はあっけにとられた。

「何?今の…」

「やけに軽やかに走ってったぞ?」

「た、タイムは?」

「…十二・五六」

「いや、でも五秒くらい出遅れてたでしょ」

「そんなは遅れてないっしょ」

「計り間違えたとか」

 マリアは騒ぎを遠くで見ていた。

「あれー? 今のでもだめか…」

 端で見ていた他の運動部が陸上部に寄ってきた。


..*


 優司達は駅前に出た。ショッピングセンターのアパレルフロアで買い物をする。といっても大して金を持っているわけではないので、ウィンドウショッピングではあるが。

 エスカレーターに乗っていると、外に観覧車が見えた。桐崎留華が目を輝かせた。

「ねえ、あれ乗ってみない?」

「いいね」

 このショッピングセンターには他にライド系のアミューズメント施設はないが、大きな観覧車だけが設置されていた。というのも、以前この近辺には実験的なテーマパークがあったのだが、借地の使用期限が切れ、惜しまれつつも閉園となってしまった。駅前の再開発でこのショッピングセンターができた時に、周辺住民からの要望で、観覧車が併設されたのだった。一周十五分程度と、本格的なものだ。


 二人は観覧車に乗り込んだ。向かい合って、窓際に座る。ゴンドラが円周に沿って数メートル上昇すると、もう二人だけの世界となった。

「今日はありがとう。前からここ来たかったんだけど、一人だとちょっと来づらくて…」

「そうなんだ。オレも楽しかったよ。ありがとう」

「あ、あそこ、羽高ね」

「え? あ、そーだね。じゃあ家は…」

 二人はしばし、夕暮れに染まる外の様子をネタに語り合った。

 やがてネタも切れ、ゴンドラ内は静かになった。互いを意識し合いながら時が過ぎていく。遠くに目をやると、川向こうに見える都心の高層ビルが、オレンジ色の光を反射させている。

 優司はふと、留華の横顔を見た。その横顔は廊下で初めて会った時の精緻な、憂いをまとった雰囲気はなく、柔らかな笑みが浮かんでいた。

 留華が優司の視線に気づいた。

「どうしたの? なんかぼーっとしてる」

「え、あ、ああ…。なんかさ、ほっとしたよ」

「どういうこと?」

「こないだの屋上のこと思い出してさ。桐崎さん、今いい顔してるから、もう大丈夫なんだなって」

「え…?」

 留華は頬を赤らめた。そして、頷いた。

「ええ、そうね…友達は遠い所にいるけど、もう平気。…今は、あなたがいるから」

「桐崎さん…」

 留華の言葉に、優司は胸を射抜かれたような衝撃を受けた。

 込み上げてくる熱い思いを押さえながら、二人は黙って互いに見つめ合った。


 突然強い風が吹き、ゴンドラが大きく揺れた。

「キャ…!」

「おっと…今のはちょっと怖かったな。大丈夫?」

「ええ。でもちょっと怖かった。…そっち…行っていいかな」

「うん。気をつけて…」

 優司は留華の手を取った。留華の移動で、またゴンドラが揺れた。留華は尻もちをつくように優司の横に座った。

「痛っ!」

「あ、大丈夫?」

「ええ、平気」

 結果的に二人は体が触れるくらいの間隔になっていた。


 遠い景色がゆっくりと動いていく。

「この観覧車、夜景がまたいいらしいんだ。オレ見たことないけど…」

「わたしも。…見てみたいな、夜景」

「え? そ、それって一緒にってこと…?」

 男女が個室で夜景を見る、というのは、ここではまた別の意味がある。ゴンドラ内はごく弱いムーディな照明に演出された、約十五分間の密室となるのだ。

「うん…」

 二人は互いの眼を見つめ、黙った。自然と顔が近づき、ためらうように唇が近付き、やがてそれらは溶け合って一つになった。


 留華はキスを続けながら優司の手を取り、自分の胸に当てた。優司は開襟シャツの上から、留華の胸の辺りをさする。なぜか夢で同じようなシチュエーションを見た時よりも落ち着いていた。というよりも、頭は真っ白になって何も考えられなかった。それで、留華が気持ちよくなっているかどうかなんてことは全く配慮することができなかった。

 ふと、視界に周囲の景色が目に入った。

「やべ、そろそろ終わりだ」

 時間切れとなり、不完全燃焼のまま二人は観覧車を降りた。


 二人はより添って歩いた。優司は緊張のためか、少々膝が笑っていた。

「な、なんか興奮しちゃったよ」

「続き…する?」

「……」

 優司は留華を見つめた。

 どちらともなく、手を繋いだまま小走りになった。


「ここか…」

 優司は、留華の誘導で駅前から少し離れた、誰もいない平屋のスーパーの通用口の前にいた。ここはいろいろなテナントが入るが長続きしないといういわく付きの店舗だ。中途半端に駅前に近く、競合が多いことが要因だろう。特にショッピングセンターができてからはさっぱりだ。近く店舗を解体してマンションを建設するという。

「でもカギ開いてないんじゃ…」

「うん、どうかしら…」

 留華がドアノブに手をかけた。回すと同時にカチャリ、という音がして、ドアを引くとさして抵抗もなく開いた。

「お、開いた…不用心だな」

 二人は手を繋いで中に入っていく。

「ホームレスとか、いないかな…」

 優司は不安になるが、留華が先導し、事務所のドアを開けた。中には誰もいない。広さはそれほどでもなく、秘め事をするにはちょうどいい感じだ。

「だいじょうぶ…」

 二人は向かい合い、目が合った。それがゴーサインだった。荷物がその場にドサリと落とされた。

「桐崎…」

「留華って…呼んで」

 留華は優司の唇を人差し指で押さえた。

「わたしもあなたのこと、優司って呼んでいい?」

 ほてった声だった。

「うん。留華…かわいい名前だね」

 優司は彼女の名を呼ぶと、大切にしてあげたいという気持ちでいっぱいになった。

「優司…」

 改めてキスをする。人目はない。二人は互いにむしゃぶりついた。


..*


 学校では、マリアがいろんな運動部から引っ張りだこになっていた。なぜかキャプテンを始め、陸上部の数人も連れだって移動していた。その中にカスミもいた。


 体育館で、バレーボールのミニゲームが行われている。マリアはアタッカーポジションから、飛んできたボールを「手加減、手加減」と言いながら豪快に相手側のコートに叩き込んだ。マリアから放たれたボールはあまりにも強烈で、相手側のコートは誰一人身動きができなかった。それは反応ができないのではなく、当たったらただでは済まないと思ったからだ。

「おおー!」

 一同の歓声が上がった。

 女子バレーボール部のキャプテン樋渡真知子は唸った。

「スパイクは恐ろしいパワーを誇るわね」

 その横で部員達が嘆いた。

「しかしレシーブもトスもからっきし…」

「あとルール全然理解してないし!」

 マリアがコートから戻ってきた。

「ああーなんか妙に疲れた…」

 陸上部キャプテンの石山千尋は、興味深そうにしている。

「ううむ。君は走る、跳ぶについては極めて優秀だが、球技はおしなべてダメダメだな…」

「はいー、難しいルールは苦手ですぅ」

 マリアはしょぼくれた顔で答えた。

「なるほど…」

 石山は深く頷いた。

(ば…バカ…?)

 一同は、声には出さないが同じことを考えていた。

 石山はニカッと笑った。

「まあほぼウチ向きだと言うことがわかったわね。あと他に得意なことは?」

「うーんと。あ、剣技!」

「剣…? フェンシングとか、剣道とか?」

「なんでもいけます!」

「よし、前田さんに紹介するか…」


..*


 廃店舗の事務所では、優司と桐崎留華のねっとりとしたキスが続いていた。二人は互いの舌を絡ませた。

「はうん…ふぁ…」

 留華は脱力したように、ぺたんと座りこんでしまった。優司は留華の首筋に鼻を当てると留華の匂いを深く吸い込んだ。コロンに交じり、皮脂を含んだ汗の匂いが感じられた。それから優司は留華の首筋にキスをした。留華は優司を抱きかかえる。優司が強く吸って離すと、ちゅぱっと音がした。

「ん…」

 留華の優司を抱く力が強くなった。

(今の気持ち良かったのかな…?)

 優司は、同じようにして留華のさまざまな部分を、時に甘噛みしながら吸ってみた。彼女の滑らかな皮膚と薄く柔らかい皮下脂肪は、優司の唇や舌に心地良かった。

 ちゅぱっ、ちゅぱっという音が事務所内に響く。

「あん、優司…くすぐったいよ…」

 そう言いながらも留華は時々火照った息を漏らし、身をよじる。そして彼女は、自分の胸を触り始めた。それを見た優司は、鎖骨を経て、胸元へとキスの嵐を移動させた。彼女の胸に顔をうずめ、その谷間の匂いを堪能した。

「あん、だめだったらぁ」

 留華は真っ赤になっている。

(おおお、男の夢をまたしても実現してしまった!)

 優司は顔をぐりぐりと押しつけながら、手でも留華の胸への愛撫を始めた。


..*


 室内運動場の下には、柔道部と剣道部の武道室がある。その一方の剣道場に、胴着を着け、手ぬぐいを頭に巻いたマリアがいた。

「じゃあ、これ着けて」

 剣道部の主将、前田多佳子が面を手渡した。

「?」

「剣道知らないの? 頭に被るの。手伝うから」

 前田多佳子はショートヘアでちょっとボーイッシュだが、目が大きく整った顔をしている。きりりと結ばれた眉が、実直で意思が強そうな印象を与えている。

 前田が面をマリアの顔に近づけた。えた汗の匂いがする。マリアはくわーと口を開け、嫌そうな表情になった。

「いや…これいらない」

「何言ってるの? これがないと危険なのよ? 相手だってまともに攻められないし…」

 前田は少し怒り気味の声だった。

 マリアは竹刀を拾い、立ち上がった。そして数歩歩き、振り向く。左手に竹刀を携えたまま、構えてはいない。

 そして前田を見据え、軽く笑みを浮かべた。


 その直後、前田の視界からマリアは消えた。

 ダーンという床を踏みつける音が道場に響く。


 マリアは前田の横を過ぎ去り、根元から先のない竹刀を構えていた。竹刀の残りは、割りばしのようにほそく細かくなって周囲に飛び散っていった。

 前田の体は一瞬宙に浮いたあと、床に倒れた。

「ぐっ!」

 胴の上からだったが、今まで受けたことのない衝撃を受け呼吸ができなかった。

「ぐはあっ…はあっはあっ…」

 やっと呼吸ができ、前田は生きていることを再認識した。

 胴にはヒビが入っていた。


 マリアは前田に近づき、手を差し出した。

「ごめんね、ルール守れなくて。…いつも真剣勝負だから」

 前田は混乱していたが、落ち着きを取り戻し、半身起き上がった。

「ええ、よく分かったわ…。あなたの太刀は、超高校級…いえ、スポーツの域を越えてる」

 前田はマリアの手を取り、立ち上がった。二人の間に何か友情めいたものが芽生えていた。


 陸上部の石山は、フッとため息をついた。

「うむ。これは剣道部と取り合いかな…」

 キャプテンの言葉を聞き、カスミはすごいライバルが現れたと感じた。


 突然、マリアが叫んだ。

「あ! そういえば優司?!」

「優司? …そういや、さっき後で来るっていいながら見ないわね」

 カスミがそう言うと、石山も口を挟んだ。

「あちこち移動してたから、行き違ったんじゃない?」

 マリアは何か不安を感じた。

「…すいません、あたしこれで!」

 胴着を脱ぎ捨てながらその場を後にした。


(4)


 廃店舗の周囲はいつのまにか異様な雲、あるいは煙のようなものに覆われ、鈍く赤黒い光を放っていた。

 中にいる優司は、その事実にまったく気づいていなかった。彼は以前にも同じ状況を体験していたのだが、今は眼前に広がる留華の白く張りのある胸に視線が釘付けになっていた。大きくはないが、美乳と言えるその形はとてもエロチックで、優司を興奮させた。それになにより、膨らみの先端に息づく職人の工芸細工のように美しいピンク色の突起は、優司には興味深かった。もちろんエロ雑誌やその筋のネットやDVDなどでほぼ毎日のように見てはいるが、実際に目の前にすると、その迫力は鮮烈だった。

 優司はその突起を口に含んだ。硬くなった先端が、舌に触れた。

「ああん…」

 留華が吐息交じりに声を漏らした。その声は優司の耳を通じ、脳を刺激した。

(もっと気持ちよくさせてあげたい…)

 優司はもう片方の胸に手を当て、突起を指の間に挟んで大きく回した。留華の胸は柔らかく、優司の手に吸い付いて離れなかった。優司は口でも愛撫を続けた。その行為はだんだんエスカレートしていった。

「留華…ここすごく綺麗だよ…それにおいしい」

 優司は舌で硬くなった突起を弄り回した。

「もう、やだぁ…」

 優司の次なる興味は留華の下腹部だった。優司のキスの旅は、留華の丸い胸を離れ、肋骨の波状路を切り抜け、さわやかな平原のような脇腹を通っていく。そして、途中まではずしていた開襟シャツのボタンを全てはずす。キスの旅は、途中で小さなおヘソの周辺をぐるぐると寄り道した後、いよいよスカートの中を目指した。

 スカートをめくると、留華の白いショーツにはシミができ、うっすらと黒い毛が滲んでいた。そして濡れてくっきりと認識できる窪んだ部分を指で触れると、留華は大きく反応した。

「きゃうんっ…!」

 優司は留華の顔を見た。留華ははしたない声を上げたことが恥ずかしいのか、真っ赤になっていた。

「恥ずかしい…汚れちゃったでしょ? 優司、脱がせて…。わたし、あなたが欲しい…」

(うをををを、キタ───ッ!)

 その言葉を聞いて、優司はこの後のことを頭の中でいろいろ展開シミュレートした。優司の下半身は既に痛いほどパンツの中でやんちゃになっていた。

(ああこれからどうすんだ? いきなり行っていいのか?)

 かなりいっぱいいっぱいだった。しかし。

「いい? えっちは絶対禁止よ!」

 突然マリアの顔が思い出された。途端に罪悪感が優司を襲った。


「…ご、ごめん…やっぱり今日はやめよう」

「? だめよ、そんなの…がっかりさせないで」

 留華は、少女の顔つきから以前の少し冷たい顔つきに変わった。

「!?」

 優司は体が言うことを効かなくなった。

 留華は動けない優司のスラックスとパンツを引き下ろした。優司の下半身が露出した。それは優司の上半身の決断とは異なり、先に進む気満々だった。

「これ、すごい大きい…わたしの、壊れちゃうかも…」

 留華は優司のものを見ながら、恍惚の表情を浮かべた。そして、自分のスカートとショーツも脱ぎ捨てた。彼女の美しいボディラインが露わになった。

「あなたの力を解放することがわたしの役目だけど…もうそんなのどうでもいいの。優司…あなたと一つになりたい。あなたの最初で最後のひとになりたい…」

「力…解放…? 何、言って…」

 留華は仰向けになった優司の上に乗ると、徐々に腰を落としていった。

「留華…だ、だめだ…!」


 その時、ドォン、と空気が破裂するようなけたたましい音とともに、強烈な光の球が現れた。光の中から回転する円陣が現れ、輝く人の形が現れた。

 それは青い髪の少女だった。せいぜい十三、四といった頃合いか。胸はわずかに膨らみを持ち、華奢な体つきだった。青い髪は一見ショートヘアのようだが、後ろで左右に分けられ根元で留められた髪は彼女の足元に達するほど長く、無重力のようにふわふわとたなびいている。

 全身が現れると、少女はゆっくりと目を開いた。やや寂しげな憂いをまとった瞳は、南海のサンゴ礁を思わせる鮮やかなライトブルーだった。

 少女はふわりと床に着地した。全身は、マリアが出現した時のように、絹のようなノースリーブのボディスーツに白いジャケットとスカートを身に着けていた。

 少女は半裸の二人を見ると、極めて冷静に口を開いた。

「おや…お楽しみでしたか」


(ま、マリアみたいな出現のしかただったけど…なんでこんなところに?)

 優司はまだ身動きが取れずにいた。剥き出しの下半身も文字通り無防備な状態だったので、どうにもバツが悪かった。

 留華はゆっくりと立ち上がった。険しい顔つきで青い髪の少女を睨む。

「あなた何よ…邪魔しないで!」

 留華の周囲に、十数個の小さな黒い物体が出現した。先端はするどく、小型の剣のような形だった。それらの先端が青い髪の少女を向くと、ものすごい速さで一斉に少女へと飛んで行く。少女はあくまでも冷静に、ギリギリの距離でそれらをかわした。黒い小剣は後方の壁に突き刺さった。その小剣は欠けたようにいくつもの面が刻まれ、ガラスか宝石のように光を反射させていた。

 いつのまにか、留華は黒い皮のボンデージのような服を着ていた。皮の面積は最小限で、胸は突起部をやっと隠せる程度、下半身は超ハイレグで、ヒモのような細さの皮のパンツはヒップの溝にきつく食い込んでいる。腕には二の腕まで覆う皮のグローブ、脚には太腿まで覆う皮のロングブーツを穿いていた。そして頭からは、牝牛と思われる小ぶりのツノが突き出ていた。

(留華…? 一体どうなってんだ?)

 優司はさすがに萎えたが、留華の切れあがった剥き出しのヒップはまた刺激的だった。そのためもうしばらくやんちゃなポールの撤収は延期された。

「スキュブス…。なるほど、ここはあなたの結界内ってことね」

 青い髪の少女が言った。

「それならわたしも真剣に戦おう」

 少女の瞳が、青から赤に色を変えた。それは変貌した留華の眼と同じ色にも見えた。

 首元の金属ともプラスチックとも言えない素材の輪が光を放つと、それが変形しながら大きくなって、少女の胸部を覆い鎧のようになった。スカートは形を変え、鎧の草摺のように下腹部から太腿を覆う。そして、マリアにもあった腕やふくらはぎの黒い穴から骨のようなもの(アウターフレーム)が伸び、内側と外側でそれぞれ結合してループを作った。それはさながら、肋骨のようにも見えた。さらに、髪の毛で隠れていたが、頭部のこめかみの辺りと、後頭部から同じようなものが伸びて前後で結合し、左右それぞれ三本づつのアウターフレームが頭部を覆った。一見それは髪飾りのようにも見えた。全体として、それらはプロテクターを形成していた。少女の両の太腿には黒いホルスターがあり、右側には白銀色の、左側には赤銅色の銃が納められていた。それらは少女にはやや不釣り合いの大きさであった。

「お手並み拝見といくわ」

 留華、いや、すでにスキュブスの本性を現したクローディアは、再び黒い小剣を出現させ、少女に向けた。少女は一瞬でホルスターから二丁の銃を抜くと、驚くべき正確さで全て打ち落として見せた。小剣はガラス玉のように粉々に砕け散った。まるで出来過ぎた曲芸のようであった。

 しかしクローディアは動じる様子もなく、むしろ余裕の笑みを浮かべた。

「面白いわ。あなた素敵な特技を持ってるのね」

 クローディアの眼が光を放つと、地響きが聞こえた。

「!?」

 少女の足元の床にひびが入った。そして、いきなり大きな黒い岩がせり出してきた。その岩は、小剣と同じ材質のようだった。少女は飛びのいて避けたが、その先からも黒い岩がせり出してきた。事務所は黒い岩だらけでめちゃめちゃになった。そして、壁までもが崩れ出した。

「うわわわ!」

 動けない優司はたまったものではない。

 少女は壊れて穴が開いた壁から、事務所の外に出た。クローディアも後を追った。

 優司はその場に取り残された。

「オレどーなっちゃうの?」


 少女の逃げた先は、店舗の販売フロアだった。フロアにはほとんど何もなく、いくつかのダンボールや販売台、陳列棚等が散乱していた。遮るものは少なかったが、事務所よりは動きやすかった。

 黒い岩はフロア内にも出現した。少女が岩を撃つと、岩はバラバラに砕けた。しかし、その砕けたものは、小剣のように鋭利な破断面を見せた。どうやらそれは黒耀石こくようせきと思われる。黒耀石は、石器時代なら刃物として使われていた石だ。

(むやみに破壊すると後が悪いな…)

 少女はそう考えた。


 フロアの床はやはり穴だらけになった。青い髪の少女がかわしていると、背後、そして天井からも黒い小剣が飛んできた。想定外の攻撃をかわしきれず、少女の体に小剣が襲いかかった。

「くっ!!」

 プロテクターとなっている箇所は表面に傷がついた程度だったが、ボディスーツ部分は一部が裂けた。それでも、ストッキングのように薄い素材を考えれば、そのスーツは驚異的な防御力を有していた。

 周囲をよく見ると、コンクリートの一部に黒耀石が見える。コンクリートや土、砂利に含まれるケイ素が黒耀石に変成したと思われる。理屈の上では、この凶器はこのフロア、店舗全体に存在するということだった。

(こいつ…ただのスキュブスではない…)


 廃店舗の外は日が暮れかけ、帰宅する人や買い物客がひっきりなしに歩いていた。店舗の中で起こっている出来事を誰も感じることはなかった。実際、外からみた店舗内は真っ暗で静まり返っていた。その内側だけが、外界から切り出された異空間にあった。


..*


 校舎の屋上で、マリアは首輪から光のリングを展開し、優司の意識を検索した。だが、反応はなかった。

「だめ…わからない」

 マリアにはリングのスキャナー以外に優司の居場所を突き止める手だてがなかった。唯一の方法としては、一度元の世界に戻ってから優司のいる「第四の座標(ブレーンポイント)」を特定し、空間位相転移ブレーンジャンプすることくらいだった。しかしそれにはかなりの時間を要する。第一、スキャナーに反応しないということは、最悪の場合既に優司は絶命している可能性もある。

「優司…!」

 マリアは陽が落ち、茜色から紫を経て急激に色彩を失いつつ青黒く変色していく空を仰いだ。


..*


「くそ…なんとかならないのか…!」

 優司は開襟シャツにくつ下という情けない格好で仰向けになっていた。このままだと彼女達の戦いに巻き込まれるかも知れない。少なくとも、あの青い髪の少女の足手まといにはなりたくない。優司は手足に渾身の力を込め、見えない拘束から逃れようとした。すると足の指が動き、足首が動き、膝が動き、脚全体が動くようになった。

「よし、このまま上半身も…」

 下半身で懸命にもがくと、半身が回転できた。

「うおおおおお!」

 体が完全に回転し、優司は…うつ伏せになった。

「……」

 足をじたばたしてみたが、どうにもならなかった。しかも息苦しい。懸命に呼吸をすると、床にまき散らされた砂埃を吸い込んでしまった。

「ぐふっ、げへげへ…ごほぶあっくしょい!」

 咳とくしゃみがいっぺんに出て、喉が強烈に痛かった。

「ぐぅぅ…あれ?」

 ふと気が付くと、動けるようになっていた。

「うおおお復活じゃー!!」

 とフルチンで雄たけびを上げた。

「…パンツパンツ…」

 優司は前かがみになって周辺を捜した。スラックスはすぐに見つかった。

「うわー、ヨレヨレだよ。母さん怒るだろうなぁ…」

 しかしパンツが見当たらない。靴は片方みつかった。周囲は瓦礫だらけで黒い石のかけらも散乱していたのでありがたかった。

「あーもう片方は…あ、あった!」

 拾ってみると、それは女物だった。

「こりゃあいつのか…」

 優司はそれを放り投げた。

 やがて、もう片方の靴が見つかった。優司はとりあえずスラックスを直接穿き、靴も穿いた。

「くっそー、股間が気持ち悪いぜ…」


 一人でコントをする優司の隣のフロアでは、クローディアと青い髪の少女の攻防が続いていた。状況はクローディアが優勢に見えた。

「全然歯応えがないわ…。ちょっとがっかり」

 クローディアは余裕の笑みを浮かべた。少女の銃は、次々と迫る黒い小剣を撃ち落とすための防御に使われ、攻撃に転じるスキが与えられなかった。

(このままではラチがあかない…)

 少女は合い討ち覚悟でクローディアに迫った。無数の黒い小剣が、クローディアから発せられた。少女は右手の白銀の銃で最小限の突破口を開く。いくつかの小剣が少女の体を切りつけたが、少女は構わず左手の赤銅色の銃を撃った。クローディアは難なくその弾丸をかわし、弾丸は背後の壁にめり込んだ。

「なによそれ。ムダなことを…」

 クローディアは次の小剣を出現させた。

 少女が口を開いた。

炸裂ブラスト!」

 クローディアの背後の壁が大爆発を起こし、クローディアは吹き飛ばされた。

「くああっ!」

 クローディアは数メートル先で、砂埃を舐めるハメになった。

「…その慢心が命取りよ」

 少女が冷ややかな目で言い捨てた。


 店舗内を囲む結界が、ろうそくが風に揺れるように消えかけた。


 校舎の屋上で、がっくりと手を付いていたマリアのリングのスキャナーが、数キロ離れた場所の重力場の乱れをキャッチした。

「! これだわ!」

 マリアの首輪が光を放ち、青い髪の少女のように、戦いの衣装を身にまとった。プロテクターの背中から、白い小さな翼がせり出した。それは鳥の翼ではなく、プロテクターと同様に金属ともプラスチックとも言えぬ光沢を持っていた。小さな翼の下側の面が数箇所光を発すると、妖精の羽、あるいはトンボの羽のような薄いフィルム様のウィングが左右に数枚、長く広がった。ウィングはピンク色の強い光を放ち、ハレーションのように輪郭がぼやけて見えた。

 マリアは助走も羽ばたくこともなく空中に飛び上がると、ものすごい加速で駅前に向かった。


 クローディアはゆっくりと起き上がった。

「フフフ…なかなかやるわね。…じゃあ」

 少女を見据えると、両腕を左右に広げた。クローディアの周囲に黒い霧が発生し、霧の中から十数体の魔物が現れた。その魔物は、小型の肉食恐竜のように、よく発達した下肢と尻尾を有し、二本足で立っていた。前足は細く、長い鉤爪を備えていた。細長い頭部の左右の大きな目は爬虫類のように縦長の瞳孔で、長く突き出た口には、内側にびっしりと細かいキバが生えていた。

 魔物は少女を取り囲むように散り、クローディアと連携した。魔物達の動きは思いのほか素早く、少女が狙いをさだめると、別の魔物がそれを阻んだ。魔物達の鋭利な鉤爪が、少女の体に幾筋もの傷を付けた。


 壁を隔てた瓦礫の山の事務所で、優司は懸命にパンツを探したが、どうにも見つからなかった。半ば諦めかけた時、先ほど投げ捨てた女物の靴が足に当たった。優司はふとそれを見つめた。

「……」

 優司は靴を拾った。黒い小さな革靴だった。優司は中の匂いを嗅いでみた。すっぱい汗の匂いがした。

「…普通の女の子みたいだったのに。スキュブス…なんでだよ…留華」

 優司は留華と過ごした日々、そしてつい先ほどの燃え上がった行為を思い出し、いろいろと考えていた。信じたくはないが、自分を襲うために留華は近づいたのか…?

 その時、事務所のはずれかけた扉が吹き飛び、魔物が一匹現れた。それはクローディアが召喚した魔物だった。魔物は優司を見つけると、サルか何かのような甲高い、けたたましい鳴き声を上げて飛びかかった。

「うわっ!」

 優司はなんとかかわした。魔物は振り返り、キバのびっしり詰まった口を開けて、笑うようにまた鳴き声を上げた。

「やべえよ…!」

 優司は迫りくる魔物の攻撃をかわし、壁の大穴に飛び込んだ。


 優司は転がるようにして受け身を取った。体育実技で今まさに受けている柔道が初めて役に立った。

「!!」

 優司の前方に、青い髪の少女に群がる魔物達の姿が眼に入った。背後から、事務所にいた魔物も販売フロアに入って来た。

 群がる魔物の中から、一匹が優司の方へ寄って来て、前後を挟まれた。二匹の魔物は、獲物に襲いかからんとする肉食動物のように、じりじりと距離を縮めた。

「……」

 優司は後ずさりした。が、瓦礫に足を取られ、バランスを崩した。その途端、二匹の魔物が飛びかかった。

 万事休す、と思った時、フロアの空中に大きな円陣が出現し、それを突っ切るように現れた白い影が優司をさらった。

「マ、マリア!?」

 その白い影は、戦闘殻エンゲージ・シェルをまとったマリアだった。マリアは床に着地すると、優司を降ろした。

「優司、大丈夫!?」


 青い髪の少女は、マリアの元へ移動した。

「マリア! 守護対象を放って何をしていた」

「え?あなたは…? あ!あんたナンバーツー!!」

 無表情だった少女の眉がピクッと動き、額に青筋が浮かんだ。

「…つもる話はあるけど、話は後」

「…うん、わかった!」


 三人は魔物に囲まれていた。魔物達の背後から、クローディアが歩いて近づいてきた。

「…留華!」

 優司はそう呼んでみたが、クローディアはちらりと優司を見ただけだった。しかし、その顔は一瞬悲しさを見せた。

「あなたは…桐崎さん?」

 マリアは驚いた。

「マリア、あれはスキュブスだ! それも並じゃない」

 青い髪の少女が銃を構えながらマリアに忠告した。

「ギアア!!」

 魔物の一匹が三人に飛びかかった。青い髪の少女は、魔物の頭部を撃ち抜いた。

「…とにかくこいつらをなんとかしないと」

「うん。優司、わたし達から離れないで!」

「ああ、わかった…」

 そう言った優司の視線はクローディアにあった。


 魔物達は再び連携を始めた。しかし二人の精霊の守りは固かった。魔物の数が一匹、また一匹と減っていった。形勢は逆転したかに見えたが、三人の立つ場所に、巨大な黒い岩がせり出し、三人はバラバラになった。

「うっ!」

「きゃあっ!」

「うわっ!」

 優司は瓦礫に落下し、全身を痛打した。

「ぐっ…」

 優司は衝撃と痛みで息もできなかった。

「大丈夫か、しっかりしろ!」

 傍にいた青い髪の少女がカバーに入った。

「優司!! …あっ?!」

 マリアも駆けつけようとしたが、黒いロープのようなものがレイスウォードに絡みつき、取り上げられてしまった。

 レイスウォードの行方の先に、クローディアが立っていた。

「阿部さん…いいえ、マリア。この時をずっと待っていたわ」

「桐崎さん…どういうこと?」

「あなたよりも先に、わたしのほうが彼に…優司に出会うはずだった…。そこへあなたがのこのこと割りこんで来たのよ!」

 クローディアの顔には嫉妬の怒りが滲んでいた。

「そ、そんなこと言ったって…」

「あなたと…そこのガキみたいな女さえ来なければ、わたしは優司と…!」

 高ぶった声でそう言うと、無数の黒い小剣をマリアに向けた。マリアはそれらを高速移動で難なくかわした。が、床からせり上がった岩がバリケードを作り、極端に移動範囲が狭められてしまった。

「死ね!」

 再び無数の小剣が襲いかかった。マリアはジャンプし、上方にかわした。だが、黒いロープが足に絡みつき、床にたたき落とされた。

「痛ぁッ!!」

 黒いロープは、クローディアによって作られた、黒い小剣が連なったロッドだった。

「フン!」

 クローディアが念じると、床から巨大な黒い岩が現れ、マリアの上に落ちてきた。

「ぐふっ…!」

 岩はマリアを押し潰した。プロテクターによって致命傷は免れたが、マリアは衝撃で気を失いかけた。傍らに、レイスウォードが転がっていることに気付いたが、それを取る力はもう残っていなかった。

 クローディアが近付いてきた。

「これまでのようね…」

 ロッドが縮まると、ひと振りの黒い剣になった。剣は鋭利な面をいくつも覗かせ、宝石のように光を反射させた。クローディアはマリアの横に立ち止ると、剣を振り上げた。マリアは、ただそれを見るしかなかった。


「さよなら」


 剣の先がマリアの喉元に振り下ろされた。

 しかし、剣は突然ガラスの割れるような音を立て、粉々に壊れた。青い髪の少女の銃から、硝煙が上がっていた。

 クローディアとマリアは目が合った。マリアは、最後の力を振り絞ってレイスウォードを手に取ると、クローディアの顔面に突き刺した。レイスウォードは、クローディアの左目に深く突き刺さった。

「ぎゃあああああああああああああああああああ!!」

 レイスウォードの光の力が、クローディアの傷口を焼き焦がした。辺りに肉の焼けるいやな匂いが漂った。

 クローディアはがくりと膝をつくと、うつ伏せに倒れた。そして動かなくなると、彼女の体は黒い霧に包まれ、跡形もなく消え失せた。


 廃店舗の結界が解かれ、外から灯りと街の喧騒が漏れてきた。気が付くと、販売フロア内は何事もなかったかのように殺風景な景色に戻っていた。天井に残された蛍光灯が、切れかかったように点滅していた。


..*


「ま、マリア…!!」

 優司は倒れているマリアに駆け寄ると、抱きかかえた。自分の痛みなどすっかり忘れていた。

「大丈夫か?!」

「ゆう、じ…なんとか、だいじょうぶ」

「ありがとう、マリア…!」

 優司はマリアを優しく抱きしめた。

「うん…優司…」

 マリアはクローディアの言葉を思い出していた。

(優司…あなたはいつのまにかわたし達のこころの中に入り込んでる…)

 マリアは優司の温かみを感じ、満たされたようににへら~としていた。

「こほん、うぉっほん!」

 青い髪の少女がわざとらしい咳をした。

 マリアは半身起き上がった。

「あ、そうだった…。あいさつがまだだったわね、ナンバーツー」

「…その言い方、いい加減やめてほしいんだが…まあそのくらいの余裕があるってことか」

 青い髪の少女は、銃をホルスターに納めた。

「わたしにはセレナという言う名前コードがある」

「セレナちゃんか…助けてくれてありがとう」

 優司が礼を言う。

「礼には及ばない。我々の任務だ」

 青い髪の少女、セレナは無表情に答えた。

「でも、なぜあなたが?」

 マリアが尋ねると、セレナはちらりとマリアを見た。

「ま、今回みたいにあなたにスキがあるから、そのフォローってことよ、マリア」

 セレナは続けた。

「魔王の復活が近付いてる。捜索隊が魔界へのルートを探しているけど、いまだに見つかってない。魔界そのものが巨大な結界だからな。でも、やつの力は復活前から少しずつ強くなってきている。その力は優司、恐らくあなたと少なからず関係してる」

「オレと…?」

 セレナは頷いた。

「詳しい話はもうちょっと落ち着いてから話す。とりあえずしばらくは顔つき合わすことになるから。よろしく」

「ああ、よろしく…?って、またウチの住人が増えるってことか…?」

 優司はこの先の状況を案じると、ちょっとうんざりした。

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