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第三十二話 救いの天使

(1)


 そこは暗がりだった。

 上方に、光に照らされた水面がきらめいていた。

 そこは水の底だった。水面からは、淡く優しい光が差し込んでいた。そこは寒くもなく、暖かくもなかった。

 周辺で、くすくす笑う子供たちの声がする。

(もうすぐかな…)

 楽しげに話す、小さな男の子の声がした。

(もうすぐだよ…)

 楽しげに話す、小さな女の子の声がした。

(ぼくたちずっといっしょだよね?)

(うん。ずっといっしょだよ…)

 二人のくすくす笑う声が響いた。

 水面の光が、静かに消えていった。


..*


 暗闇に、再び水面の光が差し込んだ。

 くすくすと楽しげに笑う子供たちの声が聞こえてきた。

 だがその声が、突然止まった。

(しっ!…誰か来るよ…)

 子供達は息を殺した。彼らの緊張感が伝わって来る。


 水面に、おぼろげな影が現れた。


 どこからか、ざわざわとささやく声がした。

 そして男の声が響いた。

『…持つ者…プロトコルを持つ者…』

 それはこの世のものとは思えない、地獄の底から這い出るような低い恐ろしげな声だった。


 今まで青白く見えていた光は、次第にオレンジに色相を変えていった。

 いつのまにか、ドー…という低い地鳴りのような音に交じり、ドクン、ドクンという鼓動の音が聞こえる。

 そこはどうやら、母親の胎内のようであった。


 突然、プツッという音とともに、水面を赤い液体が覆い、辺りは真っ赤に染まった。


 外で女性の悲鳴のような声がした。直後に、カラーンと金属のパンが転がる音がした。

「先生!和田さんが急変しました!」

 間もなく走り寄る足音が聞こえた。

「まずいな…すぐ帝王切開の準備を!」

 バタバタと足音が聞こえてきた。外は騒然となっているようだった。


 ガラガラとローラーの音がした。

「和田さん、和田恵さん、がんばってください!」

 女の人の声がした。


 真っ赤に染まった液体の中で、小さな男の子が半べそをかいている。

「うえ…おねえちゃん…いやだよ、血の味がする…」


 そこに、さきほどの地獄の底から這い出るような恐ろしい声が響いた。

『鍵…プロトコルを持つ者…おまえだな』

 体を震わすような太い声だった。


 突然、水面を鉤爪を持つ黒い腕が遮った。それは影ではなく、すぐそこにあった。

 黒い腕は、こちらに伸びてきた。


「だめ! このコは渡さない…!」

 小さな女の子の声がした。

 はだかの男の子を守るはだかの女の子がいた。

 女の子は泣きじゃくる男の子を抱え、黒い腕を睨みつけた。


 男の低い声が響いた。

『ふむ…お前もプロトコルを持つか…だが弱い。じゃまだ…どけ!』

 太く大きな黒い手は、小さな男の子に伸びた。

 女の子はその腕にしがみついた。

「だめえー!!」

 もう一本の黒い腕が、女の子の細い首をグッと掴み、絞めた。

 ミシリ…という痛々しい音が聞こえた。

 小さな女の子は、ぐえっ…ゼエゼエと浅く息をした。

「だめ…この子は…弟はあたしが、絶対にまも…るの…」

 女の子の顔は、うっ血して真っ赤になった。


 水面に裂け目ができ、強く白い光が差し込んだ。

 白く薄いゴムの手袋をした人の手が入って来た。

 男の子は、その手によって取り上げられた。


 若い男性の声がした。

「出たぞ、男の子だ!」

 男性は、若いながらも手慣れた手つきだった。

「よし、次は女の子だ」

 若い女性の声がした。その声は、必死だった。

「さあ泣いて…息をするの…!」

 けっ、こほっ、おぎゃあぁ…。

「良かった…男の子は無事です!」


「よかっ…た…」

 女性の声を聞くと、女の子はやすらかな表情になり、抵抗する力が抜けていった。


『ふふふ…生まれた…。プロトコルを持つ者が生まれた』

『我々のものだ…』

『我々のものだ…』

 ざわざわと笑うような声がした。この世のものとは思えない、低い恐ろしげな声だった。


 女の子は目を開けた。その顔には緊張が走っていた。

「…! だ、だめえ…!!」

 女の子はもがいた。


 若い男性の声がした。

「よし、女の子も出たぞ…! がんばれ…息をするんだ…!」


 だが、小さな女の子は一人ぽっちでまだ暗闇にいた。

 上方から差し込む光が、次第に遠のいていく。

 残されたわずかな水にぽこぽこと小さな泡が浮かんでいく。そして、水面が歪んだ。


「ごめん…ね…」

 女の子は悲しげに言った。

「待ってて…絶対…また逢いに…行くから…」

 女の子は、底なしの暗闇に沈んでいった。


 遠くで、若い男性の声がした。

「がんばれ…! がんばれ…!」

 数人の女性達も手伝い、懸命な処置が行われているようだった。

 しかし、女の子にはもう光は届かなかった。


 若い男性が、絶望するかのように呟いた。

「くそっ、女の子は…だめだ…」


..*


 優司が見ていた記憶の断片とほぼ同じものを、床で苦しむマリアも繰り返し見ていた。

 彼女は、すぐ近くで泣きじゃくり、苦しむ優司の声を聞いた。

「いやだよ…おねえちゃん…こわ、いよ…」

 彼の声は子供のようで、ひどく怖がっていた。

「ゆ…うじ…泣かな、いで…」

 マリアは拳を握りしめた。次第にその手に力が入った。

「わたし、が…まも、る…あなたを…まもる…!」

 マリアの目に正気が戻り、虹彩が鮮やかなマゼンタに輝いた。


『なに…。精神拘束を…破るだと…?』

 デュナミスの声がした。だが、それを聞く者はいなかった。


 マリアは這うように優司に近づくと、彼を胸に抱いた。

「ゆう、じ…ゆうじ…大丈夫、大丈夫だから…!」

「うえ…お、ねえちゃん…?」

「そうよ、おねえちゃんがここにいる…だからもう、泣かないで…」

 彼女の全身は淡く輝きを放った。その背中には、おぼろげに光る翼のようなものが見えていた。

「おねえちゃんだ…。あったかい…」

 優司は次第にやすらかな表情になっていった。彼は、マリアの胸に甘えた。


『ばかな…そんなことができるはずが…!』

 デュナミスは、何か操作をしたようだった。セレナやアレシアは一層激しく苦しんだ。


 だが、抱き合う二人には効かなかった。


 優司はゆっくりと目を開けた。マリアが女神の様に優しげに微笑んでいた。彼は、マリアと初めて逢った時のように、しばらくそのかわいらしい顔を見つめていた。

「マリア…。今分かったよ…あんたはオレの姉さんか」

「うん…わたしはたぶんずっと知ってた。あなたに会う前から…」


『わたしに逆らうなど…最下級精霊エンジェルズふぜいが…!』

 室内の天井に備え付けられた小さなアームが動き出した。


 二人は抱き合ったまま、見つめ合っていた。

「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ…?」

「だってはっきりしなかったもん。心のどこかで、あなたがわたしの大切な人だって、思っただけ。でも今は絶対わかる。あなたはわたしの姉弟きょうだいだって!」

 優司は頷いた。

「ああ…」


 アームは正確な動きでマリアの背後に移動すると、勢いを付け突進した。


「はぐっ!?」


 アームの鋭い先端が、マリアの背中に深く突き刺さった。彼女の背中の光の翼が弾け散った。

「うわっ!?」

 勢いで優司は突き飛ばされ、転がった。


 優司はマリアを見た。アームは、彼の視線の先で何度も揺れながらマリアに深く突き刺さっていく。

「ごふ…」

 マリアは血を吐いた。優司は血の気が引いた。


「や、やめろ…やめろおおお───ッ」


 優司は起き上がろうとしたが、全身に激しい痛みが走り、腹ばいに倒れ顔面を痛打した。それでもなんとか立ち上がると、足を引きずりながらマリアに近づいた。

「マリア、しっかりしろ!」

「ゆ…じ…」

 彼女は顔面蒼白で、視線だけを優司に向けた。

 優司はアームを押さえ、マリアからそれを引き抜こうとした。だがアームは彼女に食い込み、全く引き抜くことができなかった。

「ちくしょう! どうなってんだよ! ちくしょお…!」

 なすすべのない彼は悲痛な表情で嘆いた。


 アームが止まると、内部でモーターの回転音が響いた。

 突然、マリアは叫んだ。

「い…いやああああ…!」

 彼女の瞳から涙があふれ出た。

 ガリガリという音がすると、円錐状のドリルがマリアの胸を突き破って飛び出した。

「な…?!」

 優司はそれを目の当たりにした。

 次にアームが動くと、マリアの体内からドリルに串刺しになった、ソフトボール大の真珠のような球体が露出した。


 デュナミスの勝ち誇るような声が響いた。

『見るがいい…中枢殻エレメンタルシェル、これが精霊の儚い実体だ』

 アームの先端がエレメンタルシェルを掴むと、軋むような音を立てた後、アームはそれを押し潰した。エレメンタルシェルはスチール缶が潰れるように、ベコリと音を立てた。ドリルで開けられた穴から、少量の液体がこぼれ出た。


 マリアは目を見開いたまま、がくりと脱力すると動かなくなった。




「おい…うそだろ…?」

 優司の声は震えていた。




「マリア、おいマリア…!」

 彼女を揺さぶるが、反応はなかった。優司の目から涙が溢れた。


「マリア──────ああぁぁぁ…!」


 優司は心の底から叫んだ。そして泣いた。


『美しい光景だな…だがもう幕を引こう。クラヴィス、貴様の力はわたしの中で永遠となる…』

 マリアからアームが引き抜かれた。守るべき魂を失ったエレメンタルシェルは、ゴトリと床に転がった。そして、アームの次なる目標は、優司に向けられた。

 アームが距離を置くと、細く尖った先端が勢いを付け、マリアを抱きかかえたまま床に座り込む優司の頭部に襲いかかった。


 だが、アームは優司の額の直前で突然、何者かに押さえられたかのようにピタリと止まった。

『どうした…故障か?』


「…さねえ…許さねえ…」

 優司は肩を震わせ、ぶつぶつと繰り返し呟いた。

 彼の全身の幾何学的なパターンが赤く輝きだした。

 アームがバキ、バキ…と音を立てながら曲がり、紙が丸められるようにくしゃくしゃに圧縮されると、突然ボキリと折れて壁に吹き飛んだ。大きな金属音がして、アームは壁の太いパイプにめり込んだ。

 周囲に、地鳴りのような連続的な振動が響き始めた。優司の周辺の空間が、陽炎のようにじわりと歪み出した。


『なんだ…一体何が起こっているのだ?』

 デュナミスの声は狼狽しているようだった。

 周囲のパイプがベコッとへしゃげると、室内全体のパイプが突然大きな音を立てて、外側にへしゃげた。直後、半球状の部屋全体が、大きな金属音を立てながら異常な形へと歪みだした。


 その現象は、デュナミスの中央管制棟セントラル、都市全体に及んでいた。デュナミス全体が激しく振動していた。

 デュナミスの精神拘束は中断され、精霊達は弱々しく起き上がった。

 デュナミスのただならぬ異常に気づくと、精霊達は敵も味方もなく、施設外へ退避を始めた。


「う…」

 セレナとアレシアも起き上がった。

「なに…? 何が起こっているの?」

 二人は辺りを見回した。

「ゆ…優司…?」

 二人は険しい顔をした。

 優司の体からは黒い瘴気が立ち上り、瞳はギラギラと真っ赤に光っていた。二人には、異様に大きな優司の気が、デュナミスにも匹敵するように感じられた。


 半球状の部屋の分厚い床板が、厚紙のようにめくれ上がった。その下に、巨大な白い球体が見えた。

 セレナが叫んだ。

「あれは…デュナミスの中枢殻エレメンタルシェル…!?」

 その部屋全体が球体で、その中央に、直径二メートルほどの巨大なエレメンタルシェルが納められていた。


 それを見た優司は呟き、叫んだ。

「やっと出会えたな…それがおまえのエレメンタルシェル…おまえの実体か!」

 彼は正気を保っていた。

 彼の目が光ると、エレメンタルシェルはボコン、ボコーンと大きな音を立てながらへしゃげた。その音が、球状の部屋に響き渡った。


『こ、これはプロトコルではない…この力は、アズラエル…魔王の力…!?』

 エレメンタルシェルは真空にでもなるかのように、次々に内側へとへこんでいく。その破壊的な音は、そこにいる精霊達には恐ろしくさえあった。


『き…貴様が…なぜその力を…!?』

 デュナミスの声には、苦痛が伴っているようだった。

「へ、人間のオレが知るかよ…!」


『う、ぐ…せ、精神拘束を…』

 デュナミスは優司への浸食を再度試みたが、それは効果がなかった。


 巨大なエレメンタルシェルは、もうこれ以上は潰れないだろうという所まで潰れながらも、なお紙を捻じ曲げるかのように小さく潰れていく。


 擬人化されたデュナミスの少女が現れ、優司に近づいた。少女の顔は苦痛に歪んでいる。少女は優司の体を叩くが、元より実体はない。その手は優司の体を虚しく突き抜けた。

 少女は頭を抱えながら膝を付き、もがきながら消滅した。


『ぐあああ、やめろおおおおッ!!』

 デュナミスの悲鳴が、球状の部屋全体にこだました。


 グシャ。


 最後に大きな音を立てると、巨大なエレメンタルシェルは初期の頃に比べれば驚くほど小さくなっていた。

 シェルにできた裂け目から、中の液体が勢いよく吹き出した。それは粘り気のある黒い血のようだった。


(2)


 辺りは一応の静寂を取り戻した。遠くで低い振動音がしている。時折り、どこかから金属のパイプがへしゃげるような音が響いている。


 優司は黙ってそこに座り、動かないマリアを抱きかかえていた。彼の体の幾何学的な模様は消え、元の姿に戻っていた。

 セレナとアレシアは立ちすくみ、優司を見つめていた。


 マリアの目は閉じられていた。彼女の体が次第に冷えていくのを感じると、優司は唇を噛みしめた。こらえきれない涙が頬を伝わり落ち、マリアの顔を濡らした。


「……?」

 セレナとアレシアは、細かな光の粒のようなものが降りて来て、マリアの半分開けられた口に入っていくのを見た。

 すると、エレメンタルシェルがないはずのマリアは、ゆっくりと目を開けた。

 それを見た優司は呟いた。

「奇跡だ…」

 二人の精霊は嬉しいような悲しいような複雑な顔をしながら涙を流していた。


 マリアの目は虚ろに宙を見ていたが、優司の声を聞くと、彼の顔を見た。

「マリア姉さん…」

 彼女は弱々しく笑った。

「ゆ…じ…。わたし…あなたを…まもれたよね?」

 優司は涙を流しながら、何度も頷いた。

「ああ、ああ! ちゃんと守ったよ!」

 マリアは満足げな笑みを浮かべた。

「よかっ、た…」

 マリアは目を閉じた。


 彼女の体は、光の粒となって優司の元を離れた。

 暗い球体の部屋の上方に光が現れ、水面のように揺らいでいた。マリアの粒はそこに吸い込まれていった。一同はそれを見守った。


 やがて光は消えた。


 優司の涙は止まっていた。

「ありがとう、姉さん…」

 彼の顔はやすらかだった。


..*


 やがて、中央管制棟セントラルの振動が強くなっていった。ディナミスは都市ごと崩壊を始めていた。

 周囲の空間にもヒビが入り始めた。低い振動音と、雷のような乾いた破裂音が、そこかしこで聞かれた。


 優司達は、誰もいなくなったセントラルの階層を次々とジャンプし、施設外に出た。

 上空を見上げると、精霊達が各々円陣を出し、別の空間へと退避していく。


「おまえ達…!」

 背後から、グラディスの声が聞こえた。ブレンダの声が続いた。

「みんな、どうやらやり遂げたようだね」

 そこに監視者の二人がいた。

「あれ? マリアは…?」

「あいつは…」

 優司は目を伏せた。

 ブレンダがセレナと目を合わせると、セレナは残念そうに首を振った。

「そうか…残念だね…」

 ブレンダも悲しそうに視線を落とした。


 アレシアはグラディスに話しかけた。

「お二人もエクスシアイに行くんですか?」

「いや、我らはキュリオテーテスの元へいく。おまえ達も早く行ったほうがいいぞ」

「そうですか…」

「さらばだ。…また会うこともあるかも知れんがな。おまえ達とは縁を感じる」

 アレシアは頷いた。

「ええ…」


 ブレンダは、優司の前に立った。

「優司君」

「はい?」

 ブレンダはおもむろに優司と唇を重ねた。

「?!」

 ブレンダの唇がもにゅもにゅと動いた。思わず優司もそれを返し、一応形にしてみせた。

「ん…ふ…」

 その行為がしばし続いた後、ぷちゅっと唇が離れた。粘り気のある唾液が糸を引いた。

 ブレンダはうっとりとした表情を浮かべた後、ペロリと唇を舐めた。

「うん…。なるほど、悪くない」

 あっけにとられる優司を見て、ブレンダはニッコリと笑った。そして、優司の肩をポンと叩いた。

「元気でね!」

 優司も、笑みを返した。

「ああ」

 二人の監視者は円陣に消えて行った。


 振動は一層強くなった。

「そろそろ行った方がいいわ…!」

 周囲の状況を見ながら、セレナが叫んだ。

 優司は彼女を見た。

「セレナ、ここが滅びると、世界はどうなるんだ?」

「少なくとも地球は制御を失うわ。…そのためのデュナミスだもの」

「そうか。とんでもないことになっちゃったな…」

 優司は視線を落とした。

「そうでもないわ。このシステムはそんなに脆弱チャチじゃないわ」

「? どういうことだ?」


 突然、三人は強烈な光に包まれた。


..*


 そこは眩しい光の中だった。

「みんな、大丈夫…?」

 アレシアの声がする。

「ここは一体…?」

 優司は呟いた。

 よく見ると光は均一ではなく、全体が明るい空間内で、優司達はその空間に浮かんでいた。そして周囲を、光の筋が一方向に流れているようだった。それは、ワープ航法で星の海を突き進むようにも感じられた。重力はほとんど感じず、三人は方向感覚を失いかけた。


 どこかから、声がした。それはデュナミスのように、直接頭の中に響いてきた。

第三のデュナミス(デュナミス・トレシア)には問題があった…。我らは新たなデュナミスを構築する…』

 声はゆったりと喋り、威厳のある者のようにも聞こえた。

「誰だ…!?」

『おまえはデュナミスのクラヴィスか…。我が名はキュリオテーテス。デュナミスの上位に在りて、原子を統べる者…』

「地球は大丈夫なんだな?」

『それを決めるのは我ではない…。少なくとも今はまだ存続が許されている…。だが地球の管理は、次のデュナミスに委ねられる…』

「次のデュナミス…? あんなのがまだいるのか?!」

 その問いには誰も答えなかった。


 突然光が消えると、三人は見覚えのある屋上に佇んでいた。


 そこは羽高の普通棟だった。

 日はだいぶ低くなっており、大きな雲が逆光になって、幻想的な景色を描き出していた。音楽部の楽器の音や、運動部の掛け声が聞こえるそこは、ひどく懐かしく、平穏に思えた。


 少し早い梅雨明けのさわやかな風が通り抜ける屋上で、優司、セレナ、アレシアの三人は、しばし夕陽を眺めた。

 ふと優司が呟いた。

「マリア…」


(3)


 日もかなり暮れかけた頃、三人は屋上で輪になっていた。

「これからどうすんだ、おまえ達?」

 優司の問いに、アレシアが答えた。

「デュナミス・トレシアも魔王もいないし。たぶん、もうあなたの守護はいらないわよね…。わたし達、しばらくはエクスシアイに仮住まいかな」

「そういやさっきの光の声が次のデュナミスとか言ってたけど…?」

 その問いに対しては、アレシアの代わりにセレナが答える。

「フェイルセーフシステムよ。なんらかの異常で都市精霊が正常な作動をしなくなった時は、次の都市精霊に引き継がれ、機能は維持されるの」

「つまり、デュナミスはいくらでもいるっていうことか…」

 優司は少し残念な気がした。

「まあ、精霊が入れ替われば判断も変わるわ。次のデュナミス(デュナミス・クアータ)には期待しましょう」

「…ああ。でも、元はと言えば人間のエゴがあいつの判断を狂わせたんだよな…」

 優司の言葉は呟きとなっていた。

 セレナは続けた。

「デュナミスの構築には時間がかかるわ。候補は選定してるでしょうけど。でも、地球が壊れる前には十分間に合うはずよ。どっちにしてもキュリオテーテスかエクスシアイが補うはずだし」

「それ全部都市精霊なん? いろいろいるんだな…」


 しばらく静寂が訪れた。夕暮れの、少し涼しい風が吹き抜けていく。

 優司はふと、二人を見て寂しげに言った。

「もう、きみらに会えないのかな…?」

「どうかしら。でもどっちにしろ下っ端(エンジェルズ)は地上勤務だから、またいつか会うわ」

 アレシアはそう言って笑った。

「アレシア…」

 優司はアレシアを見つめた。彼女はゆっくりと首を振った。

「だめ…。行かないと…」

 優司は彼女の気持ちを悟った。


「優司」


「ん?」

 優司が見ると、セレナは口をすぼめてとんがらせていた。

「え?」

「…わたしは一回もしてないもん」

「いや、魔王と戦った時したじゃん」

「あんなのじゃいや! もっとちゃんとしたのがいい…」

 セレナは顔を赤くしていた。だが目は真剣だった。

 優司はフッと笑った。

「セレナ…。おまえやっぱりツンデレだな」

「うん…。あなたの前でだけはデレるの…」

 セレナは甘えるような目で優司を見つめた。優司は彼女の言葉が嬉しかった。

「よっしゃ」

 優司はセレナのお尻に腕を回し、抱き上げた。軽いセレナは簡単に持ちあがった。

「えっ、えっ…?」

 セレナの眼前に、優司の顔があった。

「ちゃんとしたいんだろ?」

 セレナはこくりと頷いた。

「うん…」

 セレナは優司の首に手を回した。優司の顔が近付くと、彼女は心臓をばくばくさせ、はー…はー…と浅い息をする。彼女の緊張が、優司に十分伝わってきた。

 そして、柔らかな粘膜がぷちゅっっと触れあった。

「ふん! …む…ふん~…!」

 優司はセレナに感謝の想いを込め、彼女の唇を愛した。セレナは嬉しさで胸がいっぱいになり、涙を流していた。そして、本当は好きで好きでたまらなかった優司への想いを唇で伝えた。


(だめ…だめだめだめ…!)

 アレシアは後ろを向き、懸命にこらえた。これ以上見ていると、優司に飛びこみそうになったからだ。彼女は湧きあがる感情を、首を振りながら抑えた。


 長く濃厚なキスが終わると、セレナは前後不覚になり、ヘロヘロになっていた。注ぎ込まれた愛により体は青く輝き、心は無重力に浮かび、顔はにへら~とだらしなく笑っていた。そのため足を地に付けた後も、しばらく優司が支えている必要があった。


 最後の別れを惜しんだ後、二人の精霊はエンゲージシェルを展開した。

「うえっ…ゆ…うじ…」

 セレナは泣いていた。こんな彼女をみるのは初めてだった。

「なんだよ、最後くらい笑えよ…」

「ひっく、だって…うえぇ…」

「笑えっつの」

「むりぃ…」

 優司は指をうねうねと動かした。

「笑わないとくすぐるぞ~」

「もう、ばかぁ…!」

 セレナは泣きながら吹き出した。


 優司のちょっとしたからかいによって、セレナは少し落ち着いた。

 アレシアはフッと深呼吸すると、笑ってみせた。

「それじゃ…。またね、優司」

「ああ、二人とも元気でな」

「……」

 セレナはジト目のままだった。


 二人の精霊はウィングを広げると、音もなく飛び立った。そして空中を旋回すると、夕陽に向かって消えて行った。

 優司はフェンス越しにそれを見送った。

 そして一言呟いた。

「ありがとな…救世主達」


..*


 優司は階段を降り、校舎を出た。


「おかえり」

 そこには、練習着姿のカスミが立っていた。


 優司はニッコリほほ笑んだ。

「ただいま。…全部終わったよ」


「優司だけ?」

 優司は空を見上げた。

「うん。彼女達は…行ったよ」

「そっか。…また、逢えるかな…」

 カスミも見上げた。

 優司はカスミを見た。彼女の横顔は、離れた友を思うかのように少し寂しげだった。

「ま、生きてりゃそのうちな」

「…んもお!」

 優司は歩き出した。

「待って、あたしも帰る!」

 カスミは優司の腕にしがみついた。

「おまえ部活終わってねーんだろ? その格好で帰んのかよ」

「いーの!」

 カスミは甘えるように優司の腕に顔を寄せた。


「ね、向こうの話して」

「いやー今日は勘弁してくれ、オレ疲れてんだよ…」

「ねぇーいいじゃーん」

 会話しながら二人は学校を出て行った。


 陽が沈んだ。

 紫色の空に星が輝き出した。

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