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第三十一話 浸食

(1)


「お、おい、どうしたんだよ! マリア、アレシア!」

 優司は床に倒れ、目を見開いたまま震える精霊達を揺すった。精霊達の武装は解かれ、絹衣殻シルキーシェルだけになっていた。

「セレナ…しっかりしろ!」

「あ…ぅあ…!」

 セレナは呻き声を上げていた。その顔は、何かの恐怖におののくようにも見えた。

「おい、頼むよ…そんな顔しないでくれ…」

 優司はセレナを抱きかかえた。腕の中で彼女が震えているのを感じると、悲しみと絶望感に包まれた。

「ちくしょう…! おい、デュナミス! 一体何をしたんだ!」

 その問いに反応はなかったが、しばらくしてデュナミスの声が半球状の部屋全体に響いた。

『…クラヴィスよ…貴様に面白いものを見せてやろう。これは、そこの精霊達がそれぞれに見ているものだ。言っておくが、これは彼女達自身の記憶だ』

「…?!」

『その精霊を見よ』

 優司は腕の中のセレナを見た。セレナは引きつりを起こしたように体を仰け反らせた。

「あぁ…あー…いやぁぁ…!」

 それは激しく、優司が抑えているのもやっとだった。

 彼女は、心の中で自分の過去を見ていた。いや、強制的に心の最も触れられたくない部分を揺さぶられていた。

「セレナ…かわいそうに…」

 優司は、呻くセレナの頭を優しく撫でた。

「うっ!?」

 突然優司は目の前が真っ白になり、次の瞬間、彼は彼女の意識に入り込んだ。


 優司は、彼女の意識の中で彼女が見ているものを見た。


 いつかは分からないが、おそらくそう昔ではない。幼いセレナはアメリカの低所得者層の集まる街に住んでいた。名前も容姿も異なっていたが、面影はあった。

 飲んだくれで暴力の絶えない父親に捨てられたセレナの若い母親は、女手一つで幼いセレナを懸命に育てた。だが稼ぎは少なく、セレナは学校に行くことができなかった。母親は時間さえあれば娘に読み書きを教え、残る時間を全て仕事に費やした。時には体を売ることもあった。母親は美しく魅力的なプロポーションだったので、金持ちを相手に体を売る商売はそれなりに稼ぎになった。それでセレナは学校に行くことができるようになった。

 セレナは、学校では天才的な学力を発揮した。奨学金も約束された。だが幼い彼女は、自分と同じくらいのクラスメイトと遊ぶよりも母親といることが何よりの楽しみだった。

 人生が上向きかけた頃、母親は悪い病気を罹った。母親は蓄えを全て娘のために使っていたためろくな治療が受けられず、セレナが八歳の誕生日を迎える前に他界した。前後してセレナは学校に通わなくなったため、奨学金の話はなくなった。

 彼女はその街の養護施設に入れられたが、当時の状態はひどく、職員の質は極めて悪かった。職員は泣き叫ぶ子供たちに対し、放置をしたり、鬱憤のはけ口として体罰を与えた。子供達は恐怖のあまり、みな無口になっていった。そして乱暴な職員に従った。


 だが摘発を受け、養護施設の状態は劇的に改善した。

 施設の改善運動に多額の援助を行っていたある資産家が、セレナの才能に目を付けた。しかし妻の猛反対に遭うと、せめてもと思い、自分の家の住み込みのメイドとして引き取ることにした。セレナ十二歳の頃であった。

 その家には四人のメイドがおり、そのうちの一人、メイド長は年は五十を過ぎていたがベテランで、主人からは大変な信頼を得ていた。メイド長はセレナを時に厳しく、時に優しく指導した。セレナはメイド長に幼き日の母の面影を見て、彼女を慕った。セレナの料理の腕前は目を見張るものがあった。彼女は本格的なフランス料理から、ありものでもおいしい創作料理を作ってみせた。メイド長も、優秀なセレナを我が子のように可愛がった。そして、ことあるごとに主人に彼女を救ってあげて欲しい、と頼んだ。

 しかし残る三人の若いメイドからは、メイド長や主人からの寵愛に反比例するかのように反感を買った。メイド達は、家人やメイド長の目の届かない場所で、セレナを虐めた。それは陰湿で、時には表面には傷が現れないよう、体を殴った。セレナは最悪の父親や養護施設での恐ろしい体験を思い出すと、抵抗できなかった。その上、メイド達からメイド長に報告すれば、おまえはここを追い出されると脅され、報告することもできなかった。

 さらに悪いことには、資産家のセレナと同じくらいの息子、娘が、メイド達のセレナに対する仕打ちを見ていたことだった。兄妹は、以前から素行の悪いメイド達に既に丸めこまれていた。そして、セレナは悪い人間だから罰を与えているのだと吹きこまれると、自分達も真似をするようになった。その内容には容赦がなく、セレナは度々兄妹から暴力や性的な嫌がらせを受けた。彼女が女性的に成長するほどその行為はエスカレートした。不思議なことに、彼女の成長は止まってしまった。


 最悪の状態は一年半続いた。しかし救いは突然現れた。

 メイド長が別の家で働くことになり、セレナも誘われたのだ。やっとここから抜け出せる、と思った彼女は、喜んでついていくことにした。


 ところが、直前にメイド長は不慮の事故で死亡した。

 新しく入ったメイド長はプロフェッショナルで、部下が仕事さえすれば後は面倒をみない、という堅物で、メイド達の私生活にも一切口出しはせず、自分の仕事を終えるとただちに家に帰った。当然、セレナなど面倒を見ることもなかった。

 メイド達のセレナに対する鬱憤晴らしは、もはや習慣となっていた。メイドの一人はメイド長から家を任されることが多かったため、メイド長が家を空けた時には、激しい虐めが行われた。なにしろ兄妹の許しがある。セレナは心も体も壊れていった。


 彼女が十四歳になった次の月の雪の降る日、激しい虐めによりズタズタになったセレナは、耐え切れず着の身着のままで家を抜け出し、体を震わせながらフラフラと街をさまよった。

 行き場所などなかった。

 ふと、養護施設にでも戻ることを考えた。あそこならば、今はマシになっているに違いない。


 セレナが通りを渡り始めた時、暴走した車に跳ね飛ばされ、彼女は息絶えた。


 彼女の魂は、暗い闇に沈んでいった。ふと気付くと、近くに、全身黒ずくめの男がいた。

 セレナは裸だった。

「あ、あなたは誰…?」

 男は何も言わず、近づいた。

「なんでも言うとおりにします。苛めないでください」

 セレナは胸を隠していた手を下げ、全身をさらけ出した。セレナの体は白く、幼い少女のようだった。

「おまえはなんと悲しいこころの持ち主なのだ…。わたしとしても、驚嘆に値する。わたしの名はメフィスト。おまえを救いにきた」

 その男、メフィストは、自分のマントを彼女の体に優しくかけた。彼女は小さく震えていた。

「おまえはただ悲しいだけではない。窮地を予知し、正しく行動する能力がある。だがそれはまだ目覚めていない。わたしが力を分け与えれば、おまえはそれを手にできる。そして、強大な力をも手中に納めることができる」

 彼女は顔を上げた。

「おまえはあのメイド達が憎いか? あの兄妹が憎いか? そしておまえをあの家に誘った資産家が憎いか?」

 彼女はおずおずと頷いた。

「それならばその手で彼奴(きゃつ)らを地獄に突き落とすがいい。さあ、わたしの手を取れ。そうすれば、おまえは力を手に入れられる」

 彼女は手を伸ばした。

 彼女は体に力が漲るのを感じた。彼女の目は燃えるように赤く光り、黒く長い髪が広がった。そして、頭には牝牛の角が生えた。細身の体は革のボンデージが、女性の部位を最小限隠した。手足には、それを深く包み込む革のグローブ、革のブーツが身に付けられていた。


 若いスキュブスとなったセレナは驚くべき跳躍力で、夜の街を飛び回った。彼女は自分の信じられない能力に胸が踊った。

「ははは…。素晴らしい。わたしは自由だわ!」

 そして、資産家の家を目指した。

 彼女はまず、住み込みのメイド達の命を奪った。彼女はメイド達を裸にすると、両脚を開いて手当たり次第のものをそこに突っ込んだ。彼女達のその部位は破壊され、泣き叫んだ。

「どう? わたしが受けた苦しみはこんなもんじゃないわよ?!」

 黒髪のスキュブスは冷たく笑った。そしてそれぞれに異なった、考えられる最も残忍な方法で殺した。

 彼女は最も憎かった者達に復讐を果たすと、次に兄妹を狙った。兄妹はセレナに気づくと泣き叫び、家じゅうを逃げ惑った。だが、ほどなくセレナは二人を追い詰めた。

「心配ない、ひと思いに殺してやる…!」

 セレナの手刀が兄妹に伸びた時、銃声が響いた。

 彼女の背中に、散弾が撃ち込まれていた。撃ったのは主人だった。散弾の一部は子供達を傷つけた。

「そんなもので…死ぬと思ったのか!」

 セレナの手刀は主人の頭を貫いた。主人のガウンから、美しい装飾の入った赤銅色の拳銃がゴトリと落ちた。彼女は銃を拾った。

「父親の銃で死ぬ…おもしろいじゃないか」

 彼女は兄妹を見た。そして赤銅色の銃口を向けた。

「お願いです…もうやめて!」

 子供達の母親が、身を呈して兄妹を庇った。

「じゃまを…す…るな!」

 セレナは突然目まいを覚えた。若いスキュブスの彼女は、回復が思うようにできていなかった。と同時に、目の前の母親に、メイド長や自分の母の面影を重ね合わせた。セレナは突然、罪の意識にさいなまれた。

「ああ…あああああ!」

 混乱した彼女は、家を飛び出した。


 誰もいない街の一角。降り積もる雪の中、彼女は佇んでいた。

「わたしは…わたしはなんてことを…!」

 彼女の目の色から、赤い光が失われた。散弾が撃ち込まれた全身に、強い痛みが走った。

「ああ痛い、痛いよ…誰か助けて…!」

 傷は深かったが、中途半端な回復によりすぐには死ねなかった。彼女は震え、泣き叫んだ。

 ふと気付くと、手には主人の赤銅色の拳銃があった。

「これでわたしは死ねるの…?」

 セレナは、銃を自分のこめかみに当てた。

「ママ…」

 引き金を引くと、彼女は倒れた。

 白い雪に赤い鮮血が飛び散り、華奢な彼女の亡骸を花のように彩った。


「悲しく愚かな魂だ…だがこれは面白い…」

 頭の上の方で声がした。

 うつ伏せていたセレナが顔を上げると、暗闇に柔らかな光が差し込んでいた。

「おまえは、精霊として生まれ変わる資質を備えている…」

 光の中から、光り輝く手が差し伸べられた。


「困るな…。この素材はわたしが先に目を付けた。力も与えた」

 下の方で、聞き覚えのある声がした。黒ずくめの男、メフィストだった。

「いや…来ないで!」

 セレナは黒い男に恐怖した。そして、上を見た。

「誰でもいい、わたしを連れていって! そしてこんな嫌な思いを全て忘れさせて!」

「良かろう。わたしの手を取れ」

 セレナは光の手を握った。

 彼女の体が光に包まれると、何処かへと消えた。


 その記憶の最も忌むべき部分は、彼女のこころの中で繰り返しプレイバックされた。彼女は暗闇と光を何度も行き来し、何度も絶望を味わった。


(2)


 優司は元の場所に引き戻された。

「…な、なんだよ、今のは…?」

 まるで、リアルな夢を見ているようだった。彼は精神がすり減るような感覚を覚えた。

『もう一人見せよう。隣の精霊を見よ』

 優司は恐る恐るアレシアを見た。彼女は苦しげな表情で涙を流していた。

「いや…いやあ…」

 彼女はもう疲れ果てたように、弱々しい悲鳴を上げていた。

 優司は首を振った。

「い、いやだ、見たくない…」

 だが次の瞬間、優司はアレシアの意識の中に入っていった。


 恐らく二十世紀初頭。時代は西欧列強、超近代国家の激動の時代を迎えていた。この時代にあっては、名ばかりの貴族などほとんど価値を為さなかった。貴族たちは実業家として、戦争や商業に投資をしていた。

 アレシアはかつて、そんな時代に取り残された、とあるイギリス侯爵家の令嬢だった。優しい父と美しい母に育てられた彼女…パトリシアは、純真無垢な娘へと成長していた。母に似たその容姿は美しく、華麗だった。そして性格は明るく、男女問わず周囲の人々を魅了した。そのため社交界では多くの注目を集め、言い寄る男達も少なくなかった。

 事業がうまく行かず生活が苦しくなっていた両親は、パトリシアに期待した。だがパトリシアは両親の期待とは裏腹に、大学で知り合った生真面目な青年に心惹かれていた。しかし青年は両親が期待するような家柄ではなく、家も貧しかった。

 パトリシアは両親の目を盗んでは、その少し痩せた金髪の青年と会っていた。

「パティ、いいのかい? こんなとこを君のご両親に見つかったら、君はひどくしかられるんだろう?」

 不安げな表情をする彼の言葉に、彼女は首を振った。

「いいのよ、ジョン。父様も母様も家のことしか考えてないんだから。時代遅れだわ」

 そして彼女は微笑んだ。それで彼は安心した。だが、その顔は沈んでいる。

「そうか…。でもぼくは、君を養う収入すらまともに得ることはできない弱い人間だ」

 苦悩する彼の横顔に、パトリシアは訴える。

「そんなことない。あなたの優しさはわたしを満たしてくれる…。わたし、あなたと結婚したい。家柄も家の名も全て捨てて、ただの女として」

 彼女の言葉が、彼を勇気づけた。

「パティ…ぼくは君を愛する心だけは誰にも負けない! ぼくは大学を出たら、事業を始める。君だけでも幸せにしたい」

「ああジョン。無理だけはしないで。わたしはあなたがそばにいるだけで幸せなのよ」

「パティ…!」

 二人は固く結ばれた。


 だが、二人の関係はパトリシアの両親に知れた。ジョンは大学での成績が突然悪くなり、卒業すら怪しくなった。彼の将来設計は根底から崩れた。焦った彼は、大金が手に入るとそそのかされ、植民地の諍いが起こっているアフリカに赴き、そこで戦死した。


 ジョンの悲報を聞いたパトリシアは打ちひしがれた。三日三晩泣き続け、涙が枯れ果てると、もう二度と恋はすまいと誓った。

 毎日家に閉じこもり、抜け殻のように過ごすパトリシアの元に、ある日一輪の赤いバラが届けられた。それから、そのバラは毎日届けられた。始めは気にしていなかったパトリシアも、その相手が少しずつ気になった。

 ある時、そのバラに一通のメッセージが添えられていた。

「あなたは笑っていてこそ美しい。あなたのいない外の世界は、漆黒の夜闇のように色あせ沈んでいます」

と書かれていた。

(素敵なメッセージ…どんな方かしら?)

 パトリシアは、少しだけ気持ちが暖かくなった。それから彼女は、家の中だけでも動き回るようになった。


 ある日一階の居間に降りると、両親が一人の黒髪の青年と話をしていた。その青年は綺麗に整えられた口髭を蓄え、立派な身なりをしていた。だが、少々キザな感じがあった。両親は娘を呼び寄せた。

「おお、ミス・パトリシア…間近で見るのは初めてですが、噂通りお美しい…」

「ほほほ、嫌ですわ、カーディーニ男爵。このコったら最近は家に籠ってばかりで、もやしのように痩せたと思ったら今度はぶくぶくと太ってしまっているのですよ」

「お、お母様…!」

 パトリシアは顔を赤らめた。

「いやいや、そんなことはありません。あなたは十分お美しい。しかし、あなたは笑っていてこそ美しい」

「え…?」

「あなたのいない外の世界は、漆黒の夜闇のように色あせ沈んでいます。どうかぜひ、以前のように快活に振舞っていただきたい」

「あ、あなた様は、もしかしてバラを送っていただいた方では…?」

「ご記憶に留めていただきありがたき幸せ。あのバラなど、あなたの前では香りさえ凡庸な存在。あなたのお部屋を彩ることは到底叶わぬことでしたでしょうが…」

「いえ、そんなことはありません。毎日お花が届くのが楽しみでした」

「そう言っていただけると私は何より嬉しい。…失礼、長居が過ぎました。私はそろそろこれで…」

 カーディーニ男爵は去って行った。


「パトリシア、あの方は財界でも有名で、とても立派でいらっしゃるのよ。あなたが家で塞ぎこんでるのを聞いて、少しでも励ましになればと、名前は伝えないようにして毎日バラを送ってくださったの」

「そうだったんですか…」

「立派な青年だ。あの年で結婚していないなど、不思議でたまらない。だが、彼はパトリシア、おまえに興味があるようだ」

「はあ…」


 カーディーニ男爵は三十五歳と、パトリシアからは十六も離れていたが、一代、そしてその若さで一財を築き上げた、名うての実業家であった。彼は仕事に明け暮れ、恋愛をするヒマがなかったと打ち明けた。事業も軌道に乗って来たので、少し余裕を持ちたいと思っている、とも語った。

 カーディーニ家とパトリシアのウィンズホック家の交流は回を重ね、男爵とパトリシアの接触も次第に増えていった。その頃には、パトリシアも普通に社交の場へ出れるようになっていた。花のような彼女は再び周囲から羨望の眼差しを浴びた。


 一年後のある時、カーディーニ男爵はパトリシアに結婚を申し込んだ。彼女は躊躇したが、両親は喜んだ。彼は、家柄を保つためならば自分が養子になってもいいと申し出た。そしてウィンズホック家の再興のために力を尽くすとも言った。

 周囲の強力な薦めにより、パトリシアはついに首を縦に振った。

 結婚式は盛大に執り行われた。


 始めは幸せに思われた結婚生活だったが、男爵の実態が明らかになるにつれ、それは急転直下した。

 彼には性倒錯の性癖があった。彼は、暗く湿った秘密の地下室でパトリシアに強引に恥ずかしい衣装を着せると、狂ったように彼女を痛めつけ、凌辱した。彼女の体には革が食い込み、鞭の傷が付けられた。時には怪しげな器具が導入され、彼女を苦痛と快楽の地獄へと追い落とした。

 彼女は家を出ることを許されず、来る日も性の奴隷と化した。


 男爵は表向きには極めて紳士的に振舞い、仕事も精力的にこなした。社交の場に美しい妻が出てこないことを周囲がいぶかると、彼女は最近体調が優れないと嘆いた。周囲は同情した。

 そして家に戻ると、新しい性具を手にしては、パトリシアに試した。彼女は屈辱的な行為を受け泣き叫んだ。だがそれは、男爵を余計燃え上がらせた。

 その歪んだ生活が半年ほど続いた。男爵は既にパトリシアに飽き始めていた。もともと彼は燃えやすく冷めやすい性格だった。一向に開発されないパトリシアは、彼にとって退屈であった。

 ある日彼は、いつものように彼女を攻めながら、こう言った。

「オレがおまえと別れないのは、ウィンズホックの侯爵の位を得るためだけだ。おまえの両親が死んで爵位さえ継承すれば、おまえなんぞいなくてもいい。せいぜいケツを振ってオレの機嫌を損なわないようにしておくんだな!」


 パトリシアは絶望した。一度ならず、二度までも…。

 行為の場に一人残された彼女は、その場に力なく倒れたまま、泣いた。

「もう生きていても何の意味もないわ…。ジョン…あなたの元に行きたい」

 パトリシアは再び生きることを諦め、徐々に衰弱していった。


 そんな彼女に男爵は怒り狂った。彼は嫌がるパトリシアを激しく犯し、孕ませた。

 衰弱しきった彼女は、流産の後、体調を崩し命を落とした。


 暗闇に横たわるパトリシアの頭上に、柔らかく暖かい光が差し込んだ。

「辛く悲しい人生だ。おまえは、精霊として生まれ変わる資質を備えている…おまえには周囲を優しく包み込み、未来を見据える力が備わっている。だがその能力は今は発現していない。我々の元へ来ることで、おまえはその力といくばくかの幸せを手に入れることができるだろう」

 パトリシアは顔を上げた。光が体にしみ込んだ。

「あなた様はこんな薄汚れたわたしを救ってくださるのですか?」

「なんと謙虚な娘だ…。我らはおまえを見捨てはしない。さあ、この手を取りなさい」

 光の中から、光り輝く手が差し伸べられた。

「ひとつお願いがあります。わたしのこの淫らな記憶を、永遠に消し去ってください」

「よかろう。われわれにはその技術がある。さあ、手を取れ」

 パトリシアは、光の手を掴んだ。彼女は光に包まれ、別の世界へと旅立った。


 その記憶の最も忌むべき部分は、彼女のこころの中で繰り返しプレイバックされた。彼女は両親に愛された少女時代とジョンとの楽しい思い出、ジョンの死とカーディーニからの屈辱的な仕打ちを何度も体験し、何度も絶望を味わった。


(3)


「わああああ───ッ!」

 優司は再び元の空間に引き戻された。彼は息ができなかったかのように、必死に呼吸した。

「はぁっ、はぁっ…。ひどすぎる…。なんでこんなことを…!」

 優司は怒りに震えた。


『…気持ちは分かる。だが、今のビジョンは元々彼女達が体験したものだ。わたしはそれを繋いで見せているだけに過ぎない』

「そんなことはいい! なぜこんなひどいものを彼女達に見せるんだ!?」

『それは少しおとなしくしてもらうためさ。放っておくと収拾がつかなくなりそうなのでな。魂に刻まれた負の記憶は深い。それを呼び起こされれば、そこの精霊達のように冷静な判断力を失い、前に進もうとする気力も喜びも失う。拘束し従わせるには暴力も使わず平和的だろう?』

 優司はいつか、セレナが言っていたことを思い出した。悪魔が入り込むのは人間の弱い心のスキだと。

「彼女達の弱みにつけ込むなんて…卑劣だとは思わないのか?! おまえは悪魔と同じじゃないか!」

『ああ、言いたいことはわかる。だがこの拘束は此度のように不測の事態にやむを得ず行ったまでだ。悪魔のように操ることが目的ではない。それは今まで精霊と接してきた貴様ならわかるはずだ』

 デュナミスの言うとおり、三人の精霊達はごく普通の女の子のように自由に振舞っていた。だが、それはデュナミスが今やっていることとは関係がない。優司は精霊工場ハイヴで見た少女達を思い出しながら、食らいついた。

「そんなことは表向きだけだろ? 今見た彼女達の体験…。おまえは彼女達を操るために、心に傷を負った女の子を見つけて精霊にしてるんじゃないのか?」

『少し違うな。半分は付随的なものだ。本質的には、感受性の強い若い女の持つ精神エネルギーが、精霊としての能力を引き出すのに最適だから彼女達を選んでいる。彼女達は大抵、恵まれない境遇にある。悲劇的な体験をするほど心のエネルギーは強いものとなる。まあ、実際には同じ容量のエネルギーをより早く消耗しているだけのことだがな。だがそれをエレメンタルシェルに閉じ込め、エネルギーを外部から供給し続ければ、彼女達は精霊として永遠にその力を発揮することができるのだ。うまくできているだろう?』

 優司にはその言葉はほとんど理解できなかった。理解できたとしても、いずれにしろデュナミスが自分の都合で彼女達の魂をいいように利用していることには変わりない。優司はそう捉えた。

 デュナミスは続ける。

『そして残りの半分だが…。彼女達のネガティブな体験は、時として彼女達を制御するのに役立つ。今の様にな。だがそれらは大抵憎悪に満ちているから、時折り悪魔と競合することもある。困ったことに、悪魔の力は魅力的だ。何しろたやすく復讐ができるのだからな。そのセレナとかいう精霊のように。我々としては困りものだ…』

 優司は傍らのセレナを見た。うなされ続け憔悴する彼女の髪を、優司はただ優しく撫でることしかできなかった。優司には、彼女が取った行動はある程度理解ができた。

 それを見透かしたかのように、デュナミスは続けた。

『それにしても人間とはひどいものだな。自分の憎しみや欲望のために、他人を犠牲にするのだから…。どうだ、クラヴィス。これでも救うに値するものなのか、人間というのは?』

「……」

 優司は目を伏せた。

「ああ、そうだな。最低のやつらが多すぎる…。そんなやつらは生かしておく価値はない」

『やっと分かってくれたか。とても嬉しい…』

 だが優司は目を開け、中空を睨んだ。


「何言ってやがる。おまえだってその一人じゃねーか」


『…何?』

 優司は立ち上がった。

「さっきアレシアが言ってたよ。おまえも精霊だってな。てことは、おまえだってかつては人の魂だったってことだろ?」


『…それがどうしたというのだ?』


「さらにおまえもいった。神なんて大それた存在じゃねえってな」


『…そうだ。わたしは精霊だ』

「精霊。元は人間。てことは、おまえが自分の義務だか責任だかを果たすために、何十億もの人を殺すってのも他人を犠牲にすることじゃねーのか?」

『な…何を言っている? そんなことはない!』

 デュナミスの声は狼狽していた。優司は突破口を見た。

「いいや、そうだね。おまえは最低だ。しかも平気で何十億も殺す、クソ野郎だ。生かしておく価値はない!」


『ふ…ふはははは…! だからと言って貴様に何ができるというのだ?』


「オレはクラヴィスだ!」


 優司の目の縁、そして体中の幾何学的なパターンが七色に輝いた。彼の髪は総毛立ち、全身が光り出した。

 部屋の中のパイプがビキビキと割れ、ガスが噴き出す。パイプの中の配線はひとりでにブチブチとちぎれ、室内の外板が飛び始めた。

『や、やめろ…』

 デュナミスの声は震えていた。

「見えるぞ…おまえが全て見える…。オレはおまえをぶっ潰す!」

『ムダだ。そんなことができるものか…』

「は、どうかね!」


『ムダだというのが分からぬのか!』


 突然、優司は頭の中をハンマーで殴られたような感覚に襲われた。周囲の音が何も聞こえなくなった。


「な…んだ…?!」

 優司は目まいがして、ガクッと膝をついた。


 デュナミスの声が、直接頭に響いた。

儀典プロトコルか。それはわたしを解釈し、わたしに干渉する力だ。だが、実際にはプロトコルとは送受信の手続き方法。貴様がわたしに干渉できるなら、わたしも貴様に干渉できるということだ』

「ふざけたことを…!」

 優司はデュナミスの干渉を跳ねのけようとした。だが彼の能力は失われたかのように何も起こらなかった。それどころか、優司の頭の中はまたしても殴られたように痛んだ。彼の耳から血が噴き出した。

『フッ…どうやらアイテールの使い過ぎで肉体がボロボロのようだな』

 デュナミスの言葉を聞くまでもなく、優司は少し前から体調の異常を実感できていた。

『貴様がわたしを潰すだと…笑わせる。人間ごときが最下級精霊の十億倍以上の処理能力を持つわたしの魂を冒すことなど、できるわけがなかろう。その圧倒的な情報量に逆に押し潰されるだけだ』

 優司の頭の中が、再び何度も殴られていく。

「ぐっ! …んぐっ!!」

 優司はおびただしい量の血を吐き出した。


『ふむ。貴様の記憶を見てやろう』

「ぐあ…あ…!」

 優司の顔の静脈は浮き上がり、弱い部分の血管が破れ血が噴き出した。彼は全身の血が絞り出されると共に、何者かが頭の中に無理矢理侵入し、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回しているような気がした。


「あぐ…や、やめ…ろ…!」

 優司はその場に倒れた。彼はデュナミスに精神を浸食され、意識は暗闇に落ち込んでいった。


..*


「こわい…こわいよ…」

 優司は震えていた。


 彼のこころは暗闇の中にいた。

 その頭上には、光に照らされた水面のイメージが浮かんでいた。

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