第二話 押しかけ天使はナイスバディ
(1)
優司は、自分の部屋のベッドに大の字になり、天井を見つめていた。壁のハンガーには、ボロボロのブレザーがかけられていた。
優司の体には、至る所絆創膏が貼られている。幸い、ケガは大したことはなかった。
頬の絆創膏を撫でる。
「アテテ…」
場所によっては、結構深く切れている所もあった。
「にしてもさっきの…まだ信じらんないよ…」
優司は、ついさっき起きた出来事を回想していた。
「マリア、か…。彼女は一体…」
「……」
優司はマリアに抱きつかれた時のことを思い出していた。今日、ついに女の子のおっぱいを枕に眠る、という夢を実現してしまったのだ。…厳密には、自分の顔がおっぱいの枕にされていたような気もするが。とにかく、あの感触は感動的だった。
「結構、でかかったな…」
不意にドアががちゃりと開いた。
「あーいいお湯だったー」
バスタオルを巻いたマリアが部屋に入ってきた。
「うわっ! お、おまえなんだよそのカッコ…!!」
優司はとっさに飛び起き、顔を真っ赤にしてベッドの隅に後ずさりした。
マリアは優司の行動を全く気に留めずにベッドに乗り上げ、ずいっと近づいた。
「わたしおフロって初めてだったの。とっても気持ちいいんだねっ」
前かがみになると、胸の谷間が露わになった。優司は見ないようにしながらも見てしまう。
「わわっ! ちょっと待てー!!」
さらに距離を縮めようとするマリアの二の腕をなんとか掴み、引き離した。
「おまえな! オレにあんなこと言っときながらそんなカッコで迫るなよ!!」
..*
「わたしは、マリア。あなたの守護精霊です」
獣のような怪物を倒した後、マリアは自分の胸に手を当て、優司に自己紹介した。
「守護精霊…? 天使?」
「うーん…まあ、そんなとこね」
マリアは唇に指を当て、どう説明するか迷ったが、面倒なのでとりあえず優司が理解できるもので手を打った。
「天使がなんでこんな所に…?」
マリアは真顔で優司を見つめた。
「原因は優司、あなたよ」
「へ?」
「あなたは悪魔に狙われているの」
「あ、悪魔ってまさか…。さっきのあれか?」
優司はどちらかというと非科学的な事象を信じるタイプではなかった。唐突な話をにわかには信じられなかったが、実際に目で見、体験したことは否定しがたい。あるいはこれ自体が夢オチという可能性も残されてはいるが。
「でもなんでさ…オレ狙われるようなコトしてないよ!」
悪魔はともかく、怪物に狙われケガまでしたという事態に優司は勘弁してくれ、とちょっと泣きそうになった。
「それはね、あなたが…」
マリアはびしっと優司を指差す。
「スケベだからよ!」
優司は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
「はい?」
…というよりも、あまりにも唐突で、マリアが何を言ったのか理解できなかった。たかだか数文字の言葉が脳に届き、脳がそれを解釈するまで、かなりの時間を要した。
「た…確かにオレはスケベでヘンタイと女子から絶賛バッシング受けてるが…」
優司は腕組みした。判断力はだいぶ回復してきた。
「それが悪魔に狙われることとなんかカンケーあんのか?」
マリアは至って真顔で話を続ける。
「聞いて。あなたには特別な力があるの。悪魔達…魔界の王はそれを狙ってる」
「特別な力…? 魔界の王…? ああー!!」
優司は実際に身に起こったこととすっとんきょうな話のギャップに頭を掻き毟った。
マリアはまあまあと優司をなだめた。
「力はまだ解放されてないから平気。だけど、女の子と交わると解放されちゃう。特にスキュブスとの交わりは…」
「スキュブス、って…?」
「女の悪魔。男を誘って…するの」
マリアはなぜかもじもじしている。
「あー?よく聞こえなかった」
優司は手を耳に当て聞き直した。
「えっちするの!」
マリアは顔を赤くしながら、優司の耳元で思いっきり大声を張り上げた。
「おお!?」
「そ、そうすると大変なことになるの。…封印されている魔王に力を与えてしまう」
マリアは落ち着いた。
「あなたの命にかかわるかも知れないし、世界にも危険がおよぶわ」
「げ!」
優司は、一応この話が全て事実であると仮定して話を理解しようとしていた。
「…でもさっきの悪魔はえっちじゃなくてオレを殺そうとしたぞ?」
「うーん、へんね…。でも種族もわからなかったし頭悪そうだったから、たぶん下っ端で勘違いしてたんじゃないかしら」
「ひでえ言いようだな。そういや最初は女の子の姿で…?!」
優司は急に血相を変えた。
「翔子ちゃん!? …ここにいた女の子はどこいったの?」
「女の子?…見なかったけど」
「あの悪魔は最初女の子だったんだよ!」
優司は別の結論も考えた。
「まさか、翔子ちゃんは悪魔だったのか…?」
「なるほど…」
マリアは優司の手を取った。
「聞いて優司。スキュブスはもちろん、悪魔は女の子の姿であなたに近づいてくるんだと思う」
優司はおとなしくマリアの話を聞いている。
「スキュブス以外は、女の子の体を乗っ取るか、女の子の姿に変身するか。体を乗っ取った場合は、本来の姿に戻る時に体から抜けるから、女の子はいるはずよ。いないってことは、変身したのね」
マリアは、目線を少しそらし、続ける。
「もしかしたら、女の子は食われたかも知れないけど…」
「なんだって?!」
「もしその子が死んでしまったのなら、いずれ騒ぎになるはずよ」
優司は大きくため息をついてへたりこんだ。
「なんてこった…大変なことになっちゃったよ…」
「優司。その子のことはあなたのせいじゃないわ。自分を責めたりしないで」
マリアは優司の両肩に手を乗せた。そして、優司の目をしっかり見据えて話を続けた。
「とにかく今後、あなたに近づく女の子の誘いには絶対に乗っちゃダメ!」
さらに念を押す。
「いい? えっちは絶対禁止よ!」
..*
「…とかなんとか言ってさー」
優司はふてくされた。しかしマリアはけろっとしている。
「その上ちゃっかり家に転がりこんでるし…」
..*
「いい? えっちは絶対禁止よ!」
「いや…どっちにしろそんなチャンスないから」
優司は力なく立ち上がった。急に傷の痛みを感じた。傷口はとても鋭利でそれほど深くもないため出血は止まっていたが、体を動かすと、皮膚が引っぱられた時にあちこちパクッと開いた。
「…イテテ…。もう帰るわ」
独り言のようにぼそっと呟いたあと、マリアに視線を向けた。
「マリアちゃん…だっけ? 助けてくれてあんがとな」
「うん!」
マリアはニッコリと笑った。
優司は振り向いてよろよろと歩き出した。
「大丈夫?」
マリアはすかさず優司の腰と腕を支えた。
「あー大丈夫。結構丈夫だから…」
優司はマリアの手を振りほどこうとした。
「なによー。これからしばらく一緒に暮らすのに、冷たいのね!」
聞き捨てならない言葉に、優司はマリアに正対した。
「はい? …それってオレん家に来るってこと?」
「そ」
「…キミん家に帰らないの?」
「空間位相転移はそんなに簡単じゃないもん。近くにいたほうが守りやすいし」
マリアの話の半分は優司には理解できていないが、簡単には帰れないということだけは伝わった。
「いやー大変なのは分かったけど、うちの親がなぁ…絶対ムリだろ」
結局マリアはその後、体を密着させた状態で優司についてきた。優司は初めこそなんでこのコはこんなに馴れ馴れしいんだ…それに絶対わざと体密着させてるだろ、逆セクハラだろ、といぶかっていたが、家に着くころにはどうでもよくなっていた。
(母さんが体よく追い返すだろ…)
優司はそう思って家のドアを開けた。
「ただいまー」
玄関からまっすぐ伸びる廊下のすぐ横にダイニングがあり、暖簾をくぐって母親が姿を現した。二十歳台でもギリギリ通りそうな美貌で、スタイルもまだまだいける風であった。もちろんそれは、この母親自身の努力の賜物だった。
「優司、遅かったじゃない…ちょっと何その傷?! まぁ、服もボロボロじゃない!」
母親の若く優しい声は、一転して驚きと怒りに満ちた。
「ああ、ちょっとトラブルがね…」
「トラブル? あら…そちらさんは?」
「わ、私はICPOから派遣されたドイツの特別捜査官です」
(なんだそのでまかせは…!? オレと同い年くらいのこんな若い捜査官がいるかっつーの!)
優司は適当なことを言ってごまかすテクニックには自信があったが、マリアのはったりには少々度肝を抜かれた。
いつのまに用意したのか、マリアは何やら黒皮のIDケースを取り出し、顔の辺りで広げて見せた。
「優司さんはある国際テロリストの標的にされています。先ほども襲撃を受け、危ない所でした」
「まあ…!」
優司の母親は両手を口に当て、険しい顔をした。
「警視総監の命により、事件が解決するまでの間、私が優司さんをお守りすることになりました」
マリアはだんだん口の滑りがよくなっていった。
「そ、そうだったんですか、わざわざありがとうございます」
母親は深くお辞儀した。すっかりマリアのペースにはまっていた。
「お守りするには、できるだけ近くにいることが重要です。つきましては、お宅のお部屋を拝借いただきたいのですが…」
「分かりました。取り敢えずお上がりください。さ、優司も」
「いや、か、母さん…?」
「まー外国からいらしたんですか…」
母親は、マリアを居間に通した。既に優司の言葉など全く聞く余地がなかった。
(このはったりはどこまで通用するんだ…いや、ひょっとするとこれはこのままいくぞ!)
優司は、母親が一度決めたら簡単には考えを変えないことをよく分かっていた。そして、父親は完全に母の尻に敷かれていることも知っていた。つまり、母親が籠絡された今、この話はこれで決まったも同然と言うことになる。
優司はなんとか事実を伝えようとしたが、「事実? 事実なんか、信じるわけねーだろ!」と思うと言う気になれなかった。でまかせを別のでまかせで否定するわけにもいかず、母親に近づく度に服を脱げだのフロに入れだのと追い払われた。
母親の関心は既にマリアに行っていた。マリアは言葉巧みに話題を誘導し、いつのまにか捜査官だのテロリストだのはすっかり消し飛び、「かわいい娘さん」が家にやってきた、ということになっていた。
父親も帰宅し、マリアを含む四人全員での食卓となった。夕食は、優司の好物のカレーだった。
「おいしい! お母様のお料理ほっぺが落ちそうですー」
「まあ嬉しい。うちの男どもはなーんにも言ってくれないのよ」
父親と優司は気まずかった。マリアは完全に母親の心を掴んでいた。
「まだたくさんあるから、どんどん食べてねー」
「はい、お母様」
「ママ、って…呼んでくれる?」
母親は「ママ」の部分を異様に強調した。
「じゃあ…ママ、おかわりお願いしまーす」
「はあーい」
母親は妙に上機嫌だった。ママ、なんて言葉は、優司がかわいいお子ちゃまだった頃以来長らく聞かない言葉だった。
「わ、わたしのことはぱ、パパって呼んでくれるかな?」
いつのまにか、父親も優司を裏切りノリノリになっていた。マリアが「はい、パパ」というともうデレンデレンになって喜んだ。
「…なーにがパパ、ママだよ…このバカ親共」
和気あいあいとなる三人の横で、優司は一人ふてくされた。
..*
「…まったく。おまえの場に馴染む技は天才的だよ」
優司は呆れている。
「えへへー」
マリアはベッドに腰掛け、仰け反って風呂上がりのほてった体を冷やした。ここに居座る気満々だった。
「わー、だから!」
優司は再びうろたえた。
「おまえの部屋、隣だろ? 早く服着て寝なよ!」
その腰の引けた行動は、マリアの小悪魔魂に火を付けた。
「なに? わたしのコト意識しちゃってるの?」
マリアは思わせぶりな表情で優司ににじり寄った。背中が壁に当たり、優司は後退できなくなった。マリアの肩を押さえ、必死に抵抗した。
「ほれほれ~」
マリアは体を揺さぶって、胸を優司の目の前にちらつかせた。バスタオルの留めてあった端がはずれ、ハラリと剥けた。
「ち、ち違うって。何やってんだよ…あッ?」
「きゃんっ!」
優司の手が滑り、マリアは優司の上に倒れ込んだ。優司はマリアの体を支えようとしたが、その手は、暖かくとても柔らかいものを鷲掴みにした。
「いったーい…」
「あわわわ…」
優司は自分の手の先を見てうろたえていた。優司の両手の中にはマリアの生おっぱいがあった。正確には、優司の手では包みきれておらず、指の間からぷにぷにの身がこぼれていた。
「あっ☆ ちょっと!何してるのよ!」
「いやこれはその…」
動転しているためか、手がむにむにと動いている。
「いやーん手動かさないでぇ~」
「マリアが上なんだから、は、離れろよ…」
「離れたら見えちゃう~」
そのまま二人はじたばたともがいた。
「ちょっと、じっとして!」
「はいっ」
マリアの殺気に、優司はピタリと静止した。
マリアの首元の白い輪から、布のようなものがシュルシュルと伸びて来てマリアの体を覆った。それは、マリアが現れた時に来ていたあの密着ボディスーツだった。
「ふぅ…」
マリアは立ち上がった。アイドル系のブレザーもスカートもないその全身は、優司から見れば全裸も同然だった。
マリアは胸を押さえると、ジト目で優司を睨んだ。優司は自分の部屋なのに、借りてきた猫のように小さくなっていた。
「ホントにやらしいんだから…!」
マリアはすたすたとドアに向かう。
「おやすみ!」
バタンとドアが閉まった。
が、しばしの後、カチャリとドアが開く。
「…スケベ」
またパタンとドアが閉まった。
優司は、一人部屋に残された。
「な…」
ここは自分の部屋だ。勝手に入って来て勝手にトラブって、あの言いようはなんなのだ。あまりにも不条理だ。
「なんなんだよお───ッ!!」
やり場のない怒りを吐き出した。
..*
外には、和田家の騒々しい明かりを遠巻きに見つめる、黒い影があった。
「……」
細い足音が、その場を去って行った。