第一話 オレにもモテ期がやってきた!?
(1)
車がすれ違うには狭すぎる入り組んだ路地を、ブレザー姿の男子生徒が歩いている。
「うぁイテテ…」
彼は自分の後頭部を優しくなでた。そこには、できたてほやほやの大きなたんこぶができていた。
彼の名は和田優司。もはや冒頭の説明以上は必要のない、さして特徴のない高校二年生だ。
「いやー、それにしてもリアルな夢だった…」
優司は先ほど見た夢での感覚を確かめるように、掌を見つめた。
「やっぱ昨日のアレが衝撃的だったからか…」
優司は思いだすように中空を見つめた。
前日の放課後、彼は夕暮れの屋上で一年生の女子生徒から告白を受けていた。彼女は単刀直入に付き合って欲しい、といってきた。不毛な人生を送ってきた優司が清楚でかわいい下級生の告白を拒む理由はどこにもなく、瞬時に「は、はい!」と交際を受け入れていた。
その女子生徒は、夢に出てきた少女とほとんど変わらなかった。もともと、知り合った女の子と夢でいい仲になるのは彼の「特技」だった。その夢はしばしば実際の出来事を大きく脚色し、長いこと(小学生以来だったか?)女縁から遠ざかっている彼の悶々とした心を慰めた。そして、夢から覚めるとさらに悶々とするのだった。ここ最近は特にその夢がリアルで過激なものとなり、現実と夢の区別がつかなくなっている。いや、もちろん現実で白昼夢を見ているというわけではないのだが。とにかくそんなわけで、どこか物足りない学生生活を送っていたのだった。
しかし、今日からは違っていた。今まで逢った中でも美少女と言ってよいピチピチの後輩が、自分を好きだと言ってくれたのだ。
「翔子ちゃん…かわいすぎるよ…」
それが彼女の名だった。優司は一人、デレデレになっていた。
「くそー、オレは今最高に春だぜ───ッ!!」
力いっぱい叫び、青春を謳歌する。
「うーす、バカ」
「アタマすっかり春だな!」
自転車に乗った二、三人の級友達が、優司の横を通り過ぎて行った。
「…ぉ、おう」
優司はバツが悪くなり、他に知り合いがいないか周囲を確認してから姿勢を正し、歩き出した。
..*
クラス札に2-Cと書かれた教室の、後ろ寄りの窓際の席という恵まれた立地に、優司の愛すべき席はあった。大抵、優司は移動の必要がなければ、登校後は専らこの快適な席で過ごすが、訪問者は少なくない。特に今、目の前で自分とだべっている悪友、矢島ヒロシとは一年の頃からの仲で、何かとつるんできた。なぜか気が合い、席も近くくされ縁と言っても良い。そして、長年女の子と縁がないという心の傷を舐め合う仲でもある。
「マジ? …おまえにそれはあり得ない」
ヒロシは大いなる疑念と少々の妬みの混じった表情で優司の話を否定した。
「いやホントだって! …思えばフレミの時のオレ様の雄姿! あれはウケたからなー」
優司は意気軒昂に返した。
フレミ、とはフレッシュマンミーティングの略で、新入生歓迎説明会のことだ。優司達の通う私立羽生島政経大学附属羽生島学園高校、通称羽高では、新入生に対し同じ級番の先輩が学園についてオリエンテーションを行う。通常は学級委員が行うのだが、学級委員が病気で休んだため、名ばかりの副学級委員、優司が急きょ代役を押しつけられたのだった。
「…おまえあん時の代役死ぬほど嫌がってたよな? 恥ずかしい~、とか言ってさ」
ヒロシは呆れている。
「嫌だろーがなんだろーがオレはやる時ゃやるんだよ! ホンバンに強い男だからな! それに気弱でクソマジメないいんちょよりもオレのほうがウケいいんだよ」
「あーわかったわかった、お笑い副学級委員」
ヒロシはもはや聞く耳持たなかった。そして、「いやでもやっぱりあり得ねえ…」などとブツブツと呟いていた。
「優司」
別の級友が、ヒロシの念仏を遮った。
「これ渡してくれって」
級友はピンク色の封筒を差し出し、依頼主の方向を見た。それに倣い前の出入口に視線を投げると、そこには栗色の髪のかわいらしい女子生徒、翔子がやや顔を紅潮させて立っていた。
翔子は小さく一礼すると、パタパタと立ち去った。
「ええ!?」
ヒロシはピシ、と固まった。ギギギ…と首を動かし、がっと優司を見た。その顔はひきつり、血の気が引いている。
同じような状況が、教室に居た他の級友にも起こっていた。
「ええ───っ!?」
一同は悲鳴のような声を上げた。
(2)
放課後、帰宅部がゾロゾロと帰宅を始めた。
校門に、一人の美少女が佇んでいる。そこへ、昇降口から全速力で走り寄る男子生徒の姿があった。優司だ。
「翔子ちゃん…! はあ、はあ…、ごめん、待った?」
優司は大したことのない距離で、もう息が上がっていた。尤も、この全速力は帰りのHRが終わるなり、席を一歩離れた所から始まってはいたが。その意味では、短距離走のペースで中距離を走ってきたとも考えられる。
翔子は思わずクスッと笑った。
「いえ、大丈夫です。先輩六限まであるって知ってましたから」
その頬笑みは、優司の眼には花をしょってるか、翼の生えた天使に見えた。優司はしばし見とれていた。顔をばっちり緩ませて。
「…先輩?」
翔子が首を傾げる。
「え?ああ、なんでもないよ! じ、じゃあ、行こうか!」
「…はい」
彼女はにっこり笑った。優司は思わず前が膨らみそうになる熱い感情を冷静に抑え、歩き出した。
..*
夕方の駅前は帰宅するサラリーマンや買い物をする主婦、ヒマそうな学生らでごった返していた。大して所持金もない二人は、学生らの憩いの場所、ハンバーガーショップの二階でソフトクリームを食べていた。
「学校にはもう慣れた?」
「うーん、授業がちょっと難しいです」
「そっかー、難しいよね。でももうちょっとしたら慣れるよ。あ、そういえば翔子ちゃん、どこ中?」
「世田二中です」
「あ、じゃあ隣町じゃん。自転車で来てるの?」
「いえ、歩きです」
「へー、三十分くらいかかるんじゃないの? 平気?」
「ええ。健康に、と思って頑張ってます」
話題は健康の話から通販の健康グッズ、よく見てるテレビ、好きな芸能人等々、もう文字にするのも面倒などうでもいい内容だったが、二人の時間を共有する上ではそれで十分だった。時折り笑いながら、満ち足りたムダな時間が過ぎていった。
逆光の高架を、シルエットの私鉄が滑っていった。陽はまもなく落ちようとしていた。
翔子はふと腕時計を見た。優司もそれに気づき、店内の壁掛け時計をみた。
「おっと、もうこんな時間か…。家どこ?近くまで送るよ!」
優司は立ち上がった。
「はい、ありがとうございます」
二人は人通りのまばらな住宅街を歩いていた。陽は落ち、周囲は夕方とも夜とも言えない微妙な暗がりになっていた。優司は翔子を不安にさせないように、会話を続けた。
歩道の横に、小さな公園があった。寂しげな白銀灯が一つ、敷地内を照らしていた。立木とベンチと小さな砂場がある以外は目を引くものがなく、夜ここに人がいるとしたら、イイことをするカップルか、それを覗く変態くらいのものだった。
翔子はふと歩みを止めた。
優司の話題は今夜の歌番組のゲストに差し掛かっていたが、話し相手が横にいないことに気づき、慌てて振り向いた。翔子はすぐ近くにいたので安心した。だが、彼女はだまって俯いている。
「どしたの?」
優司は歩み寄った。
顔を上げる翔子。街灯に照らされた彼女の瞳孔は開き、顔が紅潮していた。
「先輩…」
少し緊張した空気が流れた。
「し、翔子ちゃん…」
優司はごくりと唾を飲み込み、彼女の肩に触れようとしたが、翔子はするりとかわすように公園に向かって歩き出した。
「あ…」
優司も後を追った。
二つの人影が、公園の奥へと進んで行く。
公園の照明は、切れかかっているのか時折り点滅していた。暗さはイイことをするにはありがたいが、点滅はちょっと気になるな、などと優司は考えた。
その照明の下で、翔子は背を向けたまま立ち止った。
「翔子…ちゃん…?」
優司の頭の中では、少しの不安と多大な期待が入り混じっていた。
「先輩…わたしのこと…好きですか?」
翔子は背を向けたまま優司に問いかけた。
「え?…う、うん…好き…だよ」
優司は下心を見透かされたような気がして少し驚いた。
「わたしを…抱きたいと思いますか?」
(がっ、これは…ついにキタのか?!)
やや意外な、それでいてどこかで期待していたセリフに、優司は思わず下半身に力がはいった。
「え、ええっとその…そりゃ、思うか思わないかっちゃ思うけど…」
だが上半身はまるでだらしなく、急にどぎまぎしてしまった。
「まだ知りあったばっかりだし、もっと君のことよく…」
優司はデレた。
翔子はふいっと優司のほうに振り返った。
(あれ? 怒っちゃったかな…?)
優司はそれから何も言えなかった。
照明の逆光で、翔子の顔はよく見えなかった。
「わたしの恥ずかしい所…見たいですか?」
「わたしと…一つになりたいと思いますか?」
呟くように挑発的な言葉を投げかけながら、翔子は一歩ずつ優司に近づいた。
「えぇ? いやでも…まさか今?」
心の準備ができていない優司はたじろいだ。
照明が切れ、辺りは闇に包まれた。いや、公園の周囲にはいつのまにか異様な雲、あるいは煙のようなものが立ち込め、鈍く赤黒い光を放っていた。
翔子の体は赤黒いオーラのようなものに包まれ、その輪郭だけが映し出された。
優司はふと身の危険を感じ、不安になった。それはあるいは彼女の誘惑に憶しただけかも知れなかったが、底なしの闇の空間が彼女の肉体から口を開けるような恐ろしさを感じ取った。
「わたしに…あなたの…くれますか?」
翔子の眼が赤く光り、体から黒い霧のような瘴気が発せられた。メリメリと骨から肉や筋が剥がれるような音が響き、翔子のシルエットは歪み始めた。
「!?」
わけがわからない優司は動くことができず、その場に腰が抜けたようにしゃがみこんだ。
「わたしに…あなたの…命を…くれますか?」
翔子の開いた口は獣のように裂けていた。いつの間にか、翔子のシルエットは見上げるほど大きな怪物のようになっていた。
翔子から発せられた黒い瘴気は、優司と翔子の周囲を高速に動き回り、やがて剃刀のように優司の制服や手、顔を二度三度と切り裂き始めた。
「さあ…わたしを抱いて…!」
翔子「だったもの」は地を蹴り、優司に飛びかかった。
優司はただ腕で顔を覆う程度に身をかばうことしかできなかった。
「うわ───ッ!」
その時、ドォン、と空気が破裂するようなけたたましい音とともに、強烈な光が優司と怪物の間に割って入った。光と共に発生した空気の圧力が、怪物を押し返した。
優司は驚き、顔を覆っていた腕の間からその光を窺った。光源はまるで巨大な電球か何かのような球状で、優司が手を伸ばせば届くほどの所にあった。発せられる光は強烈ではあったが、まぶしくはなくほのかに暖かかった。
かん高い金属音と低いハム音の連続的な音圧が、周囲を圧倒した。彼のもの…巨大な怪物は動くことができなかった。
光の中から、呪文が書かれた光る円陣が現れた。円陣は何層かのリングで構成され、それぞれが異なる速度でゆっくりと回転している。
その中央から、輝く「何か」が優司の方へ身を乗り出した。
優司は一瞬頭が混乱したが、それがすぐに人の形であると理解できた。背中には光の翼のようなものがあった。
そう、例えるなら、それは天使だった。
半身ほど出現した辺りで人型の輝きは弱まり、ディティールが窺えるようになった。それは女性…優司と同い年くらいの女の子だった。長い睫毛の瞼は、眠るように閉じられていた。肩ぐらいまでの長さの赤毛の髪は、無重力に浮かぶようにふわふわと優しくたなびいている。
女の子の顔が近付き、額がぶつかるような距離になった。ややふっくらとした頬の輪郭、幼い子供のように艶やかでやわらかそうな肌。やや開いた唇はぷるんと潤い、吸いつきたくなるような妖艶さを醸し出していた。
優司は何も考えず、ただその光景、そのかわいらしい顔を見つめていた。
女の子はゆっくりと目を開き、優司と目が合った。潤んだ赤紫色の瞳に、優司の顔が映り込んでいる。
女の子はにっこりとほほ笑み、口を開いた。それは優司にも日常的に理解できる言語だった。
「あなたが、優司…和田優司ね…」
「…え…?」
なぜその女の子が自分の名前を知っているのか、優司には分からなかった。
が、そう思う間もなく、女の子は
「やっと、逢えたね!」
と叫んで優司に抱きついた。というよりも、優司の頭を抱きかかえた。半ばボディプレスを受けた状態の優司は、後方にひっくり返って今朝打った後頭部をまたしても痛打した。
だが優司は痛みを忘れた。女の子の柔らかく十分な大きさの胸が、優司の顔にのしかかっていたからだ。
光はやがて納まった。優司にはとても長い時間のように感じられたが、その一連の出来事はほんの数十秒のことであった。
黒い瘴気はいつのまにか消し飛んでいたが、彼のものはそこにいた。その姿は人のようではあったが、二・五メートルはあるだろうか、でかい。そして異様に隆起した上半身から、太い上腕が伸びている。指は鉤爪のように醜く曲がり、指と同じ長さの鋭くとがった爪を有していた。顔は犬とも熊とも言えぬ獣のように鼻と口が突き出て、大きく裂けた口からは鋭い牙がいくつもはみ出し、よだれを垂らしていた。
女の子は…優司に抱きついたままだった。優司は女の子に抱きつかれたことでちょっとほっとしたような、まるで母親に守られているような気分になっていた。もっともそれは、顔を圧迫する幸せな柔らかい物体がもたらしていたのかも知れないが。
彼のもの、有体に言えば怪物は、もはや翔子のそれではない低くこもっただみ声を上げた。
「貴様…精霊か?」
怪物は女の子が何者かを知っているようだった。
女の子は優司に抱きついたまま、興を削がれたように振り向いた。
「そうだけど…何?」
実に不機嫌そうな表情であった。
「くっ…貴様なぜここへ来た?」
怪物にはやや焦りが見られた。
「なぜって…」
女の子は立ち上がり、優司をかばうように立ちはだかった。
「わたしは優司の守護精霊だもの」
優司には彼女の言うことがまったく理解できなかった。ただ彼女と怪物を交互に窺うだけだった。
しかし、ここで初めて彼女の全身を見ることができた。翼と思っていたものはどこにも見当たらなかった。彼女はノースリーブの、濃い色のストッキングのようなものを全身に見に付けていた。その生地は絹のように滑らかな光沢があり、透けているとも透けていないとも見えるが、とにかく薄く体に密着しており、細い腰から張り出したヒップにかけての体のラインがくっきりとわかる。優司のアングルからは、スカートの下の、女の子にとっては大切な部分のスリットの輪郭まで分かるほどだった。スカートと言えば、その全身ボディスーツの上には、流行りのアイドルグループのような、白い短めのブレザーと大きな箱ひだのついた短めのスカートを着ている。よく見ると、腕とふくらはぎには内側と外側にそれぞれ三つずつの黒い穴が開いていた。それはボディスーツの模様というよりは明らかに立体的で、彼女の肉体に向かって窪みを作っていた。
女の子はその怪物を追い払うようなゼスチャーをした。
「わかったら巣に帰れ、小物」
獣のような怪物は辺りを震わす咆哮を上げた。
「貴様なぞ殺すのはたやすい!」
怪物は後足で地を蹴ると、するどい爪と牙で女の子に襲いかかった。
だがその直後、ヒョン、という空気を切り裂く音と共に怪物の体に光の閃光が走り、怪物の体は上下に切断された。その切断面はあまりにも綺麗で、血も流れなかった。
速度の衰えない二つの肉の塊は優司の頭上を越え、数メートル先にズドン、ズドン、という大きく重い音とともに転げ落ちた。
優司は声も出ず、それを茫然と見ていた。
そしてはっと気づき、女の子を探した。
女の子は怪物のいた数メートル先に一瞬にして移動していた。その右手には、ひと振りの剣が握られ、真珠のような光を放っていた。
女の子は振り向きながら、その剣をどこかへしまった。しまった、というよりも光と共に消えてしまった。
そして優司に駆け寄ると、再び抱きついた。
「ああん優司ぃ、大丈夫?」
優司は再びのおっぱい攻撃で窒息しそうになった。
「ち、ちょっとまっ、…ストップストップ!」
もがきつつやっとのことで女の子の腕を掴むと、女の子を体から引き離した。女の子はきょとんとしている。
「君は一体誰? んであの化け物は…あれ?」
振り向き怪物のほうを見ると、そこには何もなかった。
いつのまにか、周囲も元の薄暗い公園の風景に戻っていた。照明は点滅すらしていなかった。
「いない!?」
優司はキョロキョロと辺りを見渡した。
「夢…? え、これ夢…じゃないよな?」
女の子は優司の行動をしばしきょとんと見ていたが、優司を安心させるように優しくほほ笑んだ。
「うん、夢じゃないよ…」
彼女は立ち上がると自分の胸に手を当てた。
「わたしは、マリア」
「あなたの守護精霊です」
そう言ってにっこりと笑った。