第十七話 再生(はじまり)
この話には性的な表現が含まれています。予めご了承ください。
(1)
暗く虚ろな意識の中、優司は上方で水面がきらめいているのを見た。
(なんで上に水面があるんだろう…)
水面はモノクロで色は分からなかったが、そのきらめきは暖かく、優しいものだった。
(ああ、そうか、オレ水の底にいるんだ…)
遠くで小さな子供達がクスクスと笑う声がする。優司には、その光景がひどく懐かしく思えた。
(これは…夢…なのか…?)
暗闇の中に、弱く赤い光が差し込んでいた。固く平たい石のベッドに敷かれた毛皮の上で、優司は生まれたままの姿で横たわっていた。その上に、もう一つの生まれたままの体が重なった。メレルだった。
彼女は優司の全身をマッサージしていく。優司は虚ろな意識の中で、そのざわつく感覚に反応した。
「ああ、すごいわ…」
メレルは恍惚の表情を浮かべた。彼女は体のあらゆる部位を使って、なおも優司を愛した。
(ああ…なんだか気持ちいいな…)
優司の意識は夢と現実の狭間にいた。尤も、現実もとても信じられるものではなかった。優司の肉体は彼方の深淵のどこかで、メレルと行為に及んでいたのだ。
メレルは自分をじらすかのように、優司と体を一致させた。彼女の敏感な部分が優司の敏感な部分に触れる度、一線を越えようとする自分を強く律した。
「ああ…いい…いいわ…」
彼女はハイライトに至る前のモラトリアムをしばし楽しんだ。
優司はゆっくりと目を開けた。目の前で女性が揺れていた。その豊かな胸はアレシアやマリアを想像させた。優司は既に湧き立つような感覚の虜になっていた。目の前で歪みながら大きく揺れる褐色の胸を不思議そうに見つめた。
「ふふ…いいのよ…好きにして…」
メレルの色香を伴う甘い言葉に、優司は躊躇なく彼女の胸にむしゃぶりついた。彼女の声が漏れると、彼女が心地よいと思う行為を繰り返した。
メレルは既に十分に優司を受け入れる準備ができていた。自分を極限までじらした彼女はご褒美を得るべく腰を浮かせ、優司を誘うとそのままゆっくりと腰を落とし、彼を受け入れた。
「ああ…ん…」
メレルの熱い吐息が漏れた。彼女は優司を強く感じた。体の奥から沸き立つようなその感覚は、優司にも訪れていた。
「う…ああ…」
メレルが動くと、その感覚は優司の一点から全身へと広がっていった。いつのまにか、優司から動いていた。その動きは次第に激しさを増していく。
メレルは体の奥から湧き起こる大きなうねりに、上ずった声を上げた。彼女の胸が激しく揺れ、優司はそれをもみくちゃにした。優司には、メレルが時にクローディアのように、時にセレナのように見えた。
かつてない快楽に堕ちた優司は、自らメレルを激しく愛した。だがいつしかその行為は、ただその感覚を貪るように乱暴になっていた。
優司はメレルの姿にマリアやアレシア、倉田紀子、そしてカスミを見た。彼女達が泣きながら自分にしがみつく様を見て、罪悪感と共に征服する悦びを感じ、ひたすら快楽に耽った。
やがてその高みが頂点に達すると、この上ない感覚が全身を駆け抜け、彼はメレルの奥に全てを放った。その放出はひどく長く続き、メレルは満たされた。
優司の肉体は、メレルの上で力なく倒れた。
優司のこころは、彼の肉体が行った行為を断片的に、他人事のように捉えていた。厳密には、自分がそれを行ったということを受け止めることができず、彼のこころは肉体との予定調和を離れ、彷徨い始めていた。言い換えれば、優司のこころの中で最も弱く大切な部分は、行為によって生じる罪の意識、痛み、恐ろしいほどの快感に耐えることができず、彼のこころの奥深い所へと逃避を始めたのだった。
深みに落ちていく意識の中、頭上できらめく水面が暗く、遠ざかっていくのを感じた。もう二度と、そこへは戻れないような不安を感じながらも、彼のこころは重力に従うように沈んでいった。
そして優司の体から、白いオーラが沸き立った。オーラは回転を始めながら上昇し、渦を作った。渦は上方で収束し、筋となって漂いながら彼方の深淵の深みへと注がれていった。
完全な闇に吸い込まれた優司のオーラは、その闇に長い間横たわっていたものに浸透していった。周囲の空気が震え、音とも言えないような低周波が起こり、岩壁はひび割れた。それが収まると、横たわっていたものは「フー…」と大きな深呼吸をした。
そして彼方の深淵の深みから大きく無骨な手が伸び、生きていることを歓喜するかのように力強く拳を握りしめた。
(2)
「はあ、はあ…」
カスミは走っていた。息を切らしながら、ひたすら激しい雨の中を走っていた。その行く先には、校内の片隅に佇むずぶ濡れの精霊達の姿があった。
見失った精霊達を見つけたのは、校舎をくまなく探し、半ば諦めた頃だった。普段は誰も通らない特別棟の裏に、焼け焦げた残骸と共に佇む人影を見つけた。それは化学準備室のほぼ真下だったが、カスミが化学準備室に行った時には、準備室は誰もおらず、整然としていた。準備室の窓から見下ろした時には外で何かあった形跡もなかったので、発見が遅れてしまった。
「マリアー、セレナー…!」
カスミは三人に走り寄った。ずいぶん長い距離を走ったためか、彼女は呼吸をするのも苦しくなっていた。走るのは得意だが、彼女は長距離向きのランナーではなかった。そのため、その後に何か言うためには少々呼吸を整える必要があった。
「はあ、はあ…よかった、みんな突然いなくなるんだもん」
「…? ゆ、優司は?」
三人はお互いに目を反らし、黙ったままだった。アレシアはへたりこんだまま、ぐずぐず言っている。
「どうなったのよ優司は? ねえ!?」
セレナとマリアの顔を交互に見ながら、肩を揺さぶった。
「優司はあの女に…スキュブスに…さらわれた…」
マリアは涙声で答えた。互いの言葉の間を、激しい雨の音が繋いでいく。
「うそ…さらわれたって、何よそれ!」
「本当だよ…もう、どこにもいない」
「そん…な…」
カスミは力が抜けてマリア達から手を離した。倒れそうになったがなんとかこらえた。稲光が走り、地響きのような雷鳴が轟いて、四人の体を震わせた。しかし四人は微動だにしなかった。
「マリアが悪いんだ」
不意にセレナが呟いた。そして、マリアを睨んだ。
「マリアが優司をちゃんと見てなかったから悪いんだ」
セレナの急襲に、マリアは怪訝な顔をした。
「な…何言ってんの?」
「マリアは優司を一番に守らなきゃいけなかったのに」
「…そんなの、言われなくても分かってるよ!」
二人は取っ組み合いになりそうな距離で睨みあった。
「なによ、自分はナンバーワンとか言ってたくせに。仕事もまともにできやしない」
セレナからはいつもの冷静な口調は消えていた。
「…! そーよ、わたし一人じゃできないからあんたが来たんじゃない!」
「ちょっとマリア、セレナ…?」
二人にはカスミの声など全く届いていなかった。
アレシアもただならぬ二人の様子に、よろよろと立ちあがった。
マリアは続ける。
「セレナ、あんたこそいつも優司を見てたくせに、肝心なところで何も役に立ってないじゃない! ナンバーツーどころかビリよ、あんたなんか」
「あなたこそナンバーワンが聞いて呆れるわ。戦うこと以外ヘタレのくせに」
「ええそうよ、わたしはなんにもできないわよ! 料理がうまいとか頭がいいとか、精霊にカンケーないじゃない!」
その距離はもう、噛みつきそうな間隔になっていた。
「二人とも、やめて…」
アレシアが二人の肩を押さえた。二人の視線はアレシアに向けられた。
「なによ!」とセレナが口火を切った。マリアが横取りするように叫んだ。
「アレシア! 大体あんたも何よ! プロビデンス? 地の果てまで見通す眼? まるで役に立たないじゃない!」
「そ、それは…」
アレシアはマリアの剣幕にたじたじになった。
セレナも冷たい言葉を浴びせた。
「そうね、ご自慢のイージスでも優司を守ることはできなかったし。自分すら守れてない」
「そんな、ひどい…」
アレシアはとばっちりを食ってまた涙ぐんだ。
「あんたたち!」
怒号が飛び、バシャリという音とともに、水溜りが大きな飛沫を上げた。カスミが脚で地面を蹴ったのだった。ドロ沼化する精霊達の低レベルな口ゲンカに、彼女はついにキレた。
飛沫はカスミと精霊達に降りかかったが、どのみち全員既にずぶ濡れだった。
精霊達は鳩が豆鉄砲を食らったようにカスミを凝視した。
「…何やってんのよ。ええそうよ、その通り、よく分かってるじゃない。あんたたち全員、使い物にならない能なし天使よ!」
カスミの剣幕に、三人は圧倒された。そして第三者の、人間の辛辣な言葉を聞き、気恥かしさを覚えた。
「あのさ、優司はなんとかって悪魔にどっかに連れ去られただけで、まだ死んだわけじゃないんでしょ?」
「え、ええ…」
アレシアが思わず頷いた。
「あいつが頼りにしてんのは、あなた達なのよ? ここでお互いにいがみ合って何もしなかったら、それこそ悪魔達の思うツボじゃない」
「そ、そうだけど…」
そう言ったセレナはカスミと目が合わせられなかった。
「あなた達は天使なのよ? あたしみたいな人間はこういう時何もできないの」
カスミの言葉には、いつしか悲壮感がこもっていた。
「ただあいつが…優司が無事でいることを祈ることくらいしか…」
そこまで言うと、カスミは言葉につまった。顔を伏せ、泣きだすのを必死にこらえていた。
「カスミちゃん…」
マリアはカスミの思いを感じ、胸が痛かった。
「お…ねがいだから…みんなケンカしないで…。あいつを…助けて…」
そこまで言うのが精いっぱいだった。カスミはその場にへたりこみ、嗚咽をもらした。
空でゴロゴロと雷鳴が響く。その音と激しい雨が水溜りを叩く音、そしてカスミの嗚咽だけが聞こえていた。
「カスミちゃん、ごめん…」
マリアがカスミに手を差し伸べた。
カスミが泣く姿をみて、アレシアは自分が泣いてなんかいられない、と気を取り直した。
「そうだよね。わたし達がこんなことやってたら、優司助けられないよね。もちろん泣いたって…」
セレナがカスミの肩を優しくささえる。マリアの手とセレナの支えで、カスミはなんとか立ちあがった。
「ごめんなさい…あたし、生意気なこと言っちゃって」
「謝ることなんてない。カスミの気持ち、わたし達と一緒なの分かってる」
セレナはカスミの肩に添えた手に力を込めた。
「セレナ…みんな…」
お互いが支え合うことで、四人には笑みが戻った。
マリアが努めて明るく言った。
「さあ、こうしちゃいられないわ。一刻も早く優司を助けなきゃ!」
アレシアが頷く。
「うん。でも…実際のところこれからどうすれば…」
その時、激しい稲光と空気が張り裂けるような雷の音がこだました。どこかすぐ近くに落ちたようだった。
「ハッ?!」
アレシアはその一瞬、魔王の意識を感じ取った。すさまじく大きな意識だった。
「これだわ!」
アレシアはヘイローを展開し、プロビデンスの眼で検索を始めた。
「アレシア?!」
「アレシアさん?」
「何か掴んだのね?」
マリアとカスミが同時に叫び、セレナが続いた。
アレシアは魔王の意識を追っていった。やがて、一つのビジョンに暗く赤い空が見えた。そこは地上ではなく、巨大な結界内のような場所だった。
「見えたわ…魔界が」
「あいつは…? 優司はそこにいるの?」
カスミがアレシアに迫った。
「わからない…魔界の悪魔達も、優司の意識も感じ取れない…」
アレシアはスキャンを終えた。
「でもあそこしか考えられない」
アレシアは視線を上に向けた。彼女は、ついに魔界の空間位相、「第四の座標」を掴んだ。
雨はいつしか小ぶりになっていた。空は急激に回復し始めた。
..*
わずかに滴る雨粒がほうぼうの水溜りに落ちて王冠を作る中、四人は円陣を組んでいた。
「準備が整えば守護隊の応援が来ると思うけど…」
アレシアの言葉に、セレナが応じた。
「どれくらい?」
「二、三日ってとこかしら」
「遅いな」
「…行くしかないわね」
マリアはセレナの言葉を言い換えた。しかしアレシアは慎重だった。
「でも敵の本拠地よ…わたし達だけで勝ち目はあるの?」
アレシアは二人の顔を窺う。セレナもアレシアを見た。
「わたしの予測では勝てる要素は全くないわ…」
そして、残る二人に顔を向けた。
「でも優司を『救えない』可能性も全く見えない」
その言葉は単なる気休めに過ぎなかった。だが、マリアは口元に笑みを浮かべた。
「ふふ、いい兆候じゃない…やる気が出てきたわ」
セレナとアレシアは深く頷いた。
「行こう!」
マリアが手を出した。二人の精霊も手を重ねた。
雲の切れ間から、その場に光が差し込んだ。
精霊達は視線をカスミに向けた。三人の無言の誘いに応じ、カスミも手を重ねた。
マリアが音頭を取った。
「絶対優司を助けよう!」
「オー!!」
四人の声が雨上がりの裏庭に響き渡った。
..*
精霊達はそれぞれエンゲージ・シェルを展開した。
マリアはカスミの手を取った。
「カスミちゃん、じゃあ、行ってくるね」
「うん」
マリアの後ろで、アレシアも声をかける。
「絶対優司を取り戻すから!」
「うん。頑張って」
セレナも口を開いた。
「ついでに魔王も倒してくる」
「クスッ…。あなた達なら大丈夫ね」
「…じゃ」
マリアが一歩、二歩と下がり、カスミとの手を離した。
カスミが見守る中、三人はウイングを広げ大空へ飛び立った。
雲の切れ間から行く筋もの光の筋が地上へ注ぎ込む中を、三人の精霊が突き進む。先頭はアレシア。すぐ後ろにセレナ。
そしてマリアが少し遅れて飛ぶ。
「待ってて優司…わたし達、あなたを絶対あきらめないよ」
マリアは加速した。
三本の光の軌跡が大空にシュプールを描き、霞に消えていった。