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第十六話 アイ・ミス・ユー

(1)


 彼方の深淵、魔界の城の一角で、メレルは相変わらず陰鬱な風景を眺めていた。その風景は、今は一層陰鬱に見えた。彼女の後方には、逃げ帰った悪魔達が膝をつき頭を垂れていた。

「貴様らのバカな火遊びのおかげで計画が狂ってしまったよ」

 メレルは呟くように言った。

「申し訳…ありません」

 スパービアは重苦しく口を開いた。マリアに切り落とされた右腕は、再生を始めていた。

「まあいいさ。やけどして少しは懲りたろう」

 メレルはゆっくり振り向いた。

「状況は少し変わったが、作戦は続行するよ。貴様らは精霊達と心中するつもりで役目を果たせ」

「へへ…望むところだぜ」

 そう笑ってみせるルクスの声には覇気がなかった。マリア、そしてセレナに傷つけられた体の再生はおぼつかなく、顔面は蒼白だった。

 メレルは氷のように冷たい目で彼を見下ろした。

「ルクス。残念だが貴様の出番はもうない」

 彼女はイーラに目で合図した。

「だが喜べ、まだ役には立つぞ」

 イーラは立ち上がり、バキボキと指を鳴らしながらルクスに近づいていく。

「…え? ウソだろ、おい」

 イーラの素早く重い拳がルクスの顔面に直撃し、彼を黙らせた。ルクスはさらに一方的に殴られサンドバック状態になった後、城の石垣から放り落とされた。彼は急斜面の丘を長いこと転げ落ち、枯れた森に突っ込んだ。


 やっと解放されたルクスは、なんとか半身を上げた。

「ち、畜生…お払い箱かよ…」

 周囲の暗がりに、赤い目が浮かび上がった。そこにも、そこにも…。


 城の高台で、独り言のようにメレルが言う。

「復活して間もない悪魔達が腹を空かせていてな。残った貴様の魔力がいい栄養になる」


 暗がりから数体の悪魔達が姿を現し、ルクスに近づいていった。

「な、なんだてめえら…!?」

 小鬼が耳まで裂けた口を開け、するどい牙でルクスの脚に噛みついた。

「痛ぇっ、何しやがる!」

 ルクスはその小鬼を掴み、頭を潰した。

 しかし気が付くと、周囲は無数の悪魔達でいっぱいになっていた。悪魔達は彼に襲いかかった。

「やめろ…ぐあっ!! ぐあああああーーっ…」


 なおも悪魔達が群がり、ルクスの姿は見えなくなった。

 肉を引き裂き骨を砕く音が、暗く乾いた森に響いた。


(2)


「ここんとこ曇り多くてなんか滅入るなー」

 優司は教室の自分の席から、窓の外を眺め呟いた。梅雨入りした空はどんより怪しい雲行きだった。

 あの戦闘から一週間が経っていた。

 彼の周囲にはマリア、セレナ、カスミ、ヒロシのいつもの面々が揃っていた。この所、隣の教室からセレナと一緒にカスミもこのグループに加り、彼の周りはいっそう華やかになっていた。

 優司の呟きに、ヒロシが合の手を入れる。

「もう梅雨だからな。でもさ、涼しくていいよな!」

 優司は視線をヒロシに向けた。

「雨降るとおまえの好きなプール潰れるぜ」

「あぁ、それが悩みのタネだな…。まあ、どっちにしてもほとんど女子の水着姿を拝むことはできないけど」

 ヒロシはおもむろに手を自分の頬に当て、くねくねと体を揺らした。

「ああ、まりあちゃんやセレナちゃんやカスミちゃんの水着姿がもっと見てえ~! 青春の一ページをこの目に、焼き付けてえ~!」

 セレナは頬を赤らめ、カスミは彼に痛い視線を浴びせる。

 そしてマリアは陽気に言うのだった。

「わたしはいつも優司にバスタオル姿見せてるよっ」

「えっ!?」

 その言葉にカスミが反応した。優司はくわーと口を開け、困った顔でマリアを見た。

「おまっ…余計なことを!」

 ヒロシは埴輪のように無表情になった。いや、手を頬に当てたままだったのでムンクの「叫び」のようになっていた。

「なんとっ!? 優司、おまえそんなおいしい生活してたのか!? …まさか、セレナちゃんとも!? まさかまさか、いつぞやのむちむちお姉さんとも!?」

 そして立ち上がり、優司の肩をゆさゆさと揺らし出した。

「どおなんだあ? 吐け、吐けえーい!」

「あああああ」

 優司は抵抗もせず身を任せた。その頭がガックンガックンと力なく揺れる。

「矢島! やめなさいよ優司死ぬわよ!」

「カスミちゃん、止めないでくれ。こんな甲斐性なしヘンタイ男がもてるのはおかしい! 世の中間違っとる!」

「ヒロシくん!」

 マリアを始め周囲が止めても、ヒロシの暴走は止まらなかった。

 優司はもうどうにでもしてくれ、という感じだった。

「ああ…そーいやいつぞやのむちむちお姉さんは今頃どうしてるんかねぇ…」

 揺さぶられながらそんなことを呟いた。


..*


 優司達の教室の一つ上の階には、3─Cの教室があった。そこでは、むちむちボディの金髪女子生徒が男子生徒に囲まれ、わいのわいのと質問攻めに遭っていた。

 結局彼女、アレシアも羽高に転入していた。制服はなんとか自分のサイズに合うものを当てがってもらったが、薄いブラウスだけではけしからん、ということで、サマーセーターを羽織ることになった。しかし凶暴な胸はセーターをも浸食し、男子生徒の劣情を誘っていた。

 アレシアは男子達の質問にスマイルで受け答えしたが、もともと湿度の高いこの時期に、むんむんする熱気に当てられ少々気分が悪くなってきた。

 耐え忍んでいるうちに本鈴が鳴った。

「じゃあアレシアさん、また後で~」

 飢えた男共は、口々に自己をアピールするあいさつをしながら散り散りになった。

「助かった…」

 次の休み時間は、下の優司達の所に逃げようと心に誓うのだった。


..*


 アレシアが望む平穏の地、2─Cは化学の授業だったが、担当は例のケガした教師だった。本鈴が鳴っても教師が誰も来ないため、自習と決め付けた教室内は好き放題にざわついていた。

 そこへ学年主任がやってきた。

「こらーおまえら席につけー」

 主任はつかつかと教壇に立った。前の出入口には、白衣姿の背の高い女性が立っている。

 やがて教室内が落ち着いた。

「あー君達も知っての通り、佐藤先生はケガで一ヶ月ほど療養されます。その間の化学の授業ですが、臨時の先生にお願いすることになりました。高峰先生、お願いします」


 女性が教壇に近づく。少々日本人離れした顔立ちとボリュームのあるプロポーション。切れ長の目には黒いフレームの三角メガネがかけられ、知的な印象を与えている。ナチュラルブラウンのカラーがかかった髪は艶々で、コンパクトにまとめられ頭の上で留められている。留めているものをはずせば、恐らく腰にまで達するだろう。白衣の間からちらちらと見える脚は長く肉感的で、きつそうな黒いタイトスカートに消えていく。歩くたびに淡いピンク色のブラウスに包まれたバレーボールのような胸が揺れた。教室内の生徒は男女問わずその迫力に口を開けた。

 主任が黒板に名前を書く。

『高峰 亜理紗』


「藤田先生、ありがとうございます」

 女性はニッコリ笑い、主任に向かって丁寧に会釈した。そして一同を見渡しながら、色気を伴う張りのある声であいさつを始めた。

「みなさんこんにちは。高峰と申します。佐藤先生が大変なことになってしまいましたが、先生がいない間、しっかり留守を守りたいと思います。短い期間ですが、よろしくお願いします」

 高峰は一礼した。

 教室内に拍手が起こった。

「いよっべっぴん先生!」などと数人の男子生徒が囃し立てた。


「それでは高峰先生、よろしくお願いします」

「はい」

 主任は教室を後にした。

 高峰は軽く自分の経歴や羽高についての印象を語った後、授業を始めた。

 優司も自分好みのスタイルの高峰には多少興味があったが、化学は最も苦手な科目だったので、授業になるとあまり興味がなくなった。それで窓の外に視線を移した。灰色の空と彩度の落ちた風景を眺めていると、視点が定まらなくなった。高峰の声も次第に遠くなっていった。

 マリアと出会ってから二ヶ月以上になる。今まで大して抑揚もなかった平凡な毎日に、劇的な変化が訪れた。家での三人の天使達との生活はもちろん、学校生活も少し慌ただしくなった。今までも面白おかしく過ごしてきたつもりだったが、ヒロシやカスミ、それにマリアやセレナとのふざけ合いは刺激があるし、いいんちょやクラスの女子達とのやり取りもずいぶんと増えた。だが、何か奇妙な、祭りのようなハイテンションには違和感を感じる。特に時々やってくる悪魔達。やつらと遭遇する度に、この楽しい毎日が突然奪われてしまうような不安を覚える。

 もちろん、悪魔なんて来ないに越したことはないし、この間のように悪魔達と戦う天使達が苦しむ姿を見たくなんかない。でも、もし悪魔達がやって来なかったら、マリア達と会うことはなかっただろう。この楽しい毎日もなくて、以前の平凡な暮らしを続けていたかも知れない。

 果たして自分はどっちを求めているのだろう…。


「こぉら!」


 突然ぽん、と頭を筒状の教科書で叩かれ、優司は我に返った。

「お?」

 教室は一斉に笑いに包まれた。

 目の前で高峰が腕組みをしている。その腕の上に、大きな二つの物体を載せて。さぞ重いことだろう。そして、さぞ掴みがいのあることだろう。などということを優司は一瞬考えたりもした。

「あなたの名前は?」

「あー、こりゃ失礼。和田優司と申します」

「和田君ね…わたしの授業は退屈かな?」

「あーいやー、先生のお姿が眩しすぎて前を見ていれませんでしたー」

 周囲にクスクスと笑いが漏れる。

「うまいこと言うのね。…気に入ったわ。あとでちょっと手伝ってもらおうかな」

「え、ふ、二人きりでですか?」

 優司は、またポンと叩かれた。

「なーに変なこと考えてるの!」

 高峰は再び腕組みをした。優司からは高峰の胸越しに彼女の顔が見えた。ぱっつんぱっつんになったブラウス越しから見る彼女の不機嫌そうな顔は、細い顎のラインやおいしそうなボリューム感たっぷりの唇などもあってか、異国のそっち系グラビアモデルが女王プレイで奴隷を見下ろすようにも感じられた。

「後で説明するから。今はちゃんと授業を聞いてなさい」

「はいー、すいませんでしたー」

 高峰は教壇に戻り、授業を再開した。

 それから優司は、まじめに授業を聞いているふりをした。聞いていようが聞いていまいが、どちらにしても頭には入ってこなかった。


..*


 授業が終わると、高峰は優司を教壇に呼び寄せた。

「さっきの話。午後に化学実験室で実験があるの。その準備を手伝ってもらうから、お昼の一時に準備室に来て」

「それは秘密の逢瀬ということですか?」

「こーら、からかうんじゃないの! あなた初対面の女の人にはいつもこうなの?」

 高峰は呆れたように口をOの時に開けた。鮮烈な赤い口紅が扇情的だった。

「いや、亜理紗先生は特別です!」

 優司は兵士が上官にものを言うようにビシッと立って話した。

「もう…。いい?一時よ! 待ってるから絶対に来なさい!」

 高峰はこれ以上優司のコントに付き合わされまいと、彼の返答を待たず教室を去った。


 周囲で始終を眺めていた男子達が、ヒューヒューと声を上げた。

「ポイントゲットじゃん、優司」

「このやろー、早速亜理紗先生とツーショットかよ」

「亜理紗先生か、大人の色気だよなー」

 やがて男子達はわいのわいのと優司そっちのけで高峰の印象を語り始めた。


「付き合ってられんわ」

 優司が席に戻ろうとすると、教室に高峰と真っ向勝負できる女性が入って来るのが見えた。

「優司!」

「あれ、アレシア…?」

 周囲の視線がアレシアに集中した。高峰の大人の色香に対し、彼女は隣のお姉さん的な雰囲気を持っている。その胸に飛び込んで甘えてみたいという点では、双方とも甲乙つけ難い魅力がある。

 そんな男共の視線を全く気にしないアレシアはほっとしたような顔をして、いそいそと優司に近寄った。

「どうしたの?アレシア」

 マリアも近寄って来た。そのまま三人で優司の席へ移動した。

「上にいるとクラスの男の子達がすごくって…」

 アレシアは身を守るように肩をすくめ、片手でもう片方の肘を掴んだ。サマーセーター越しからでも、アレシアの胸が十分強調された。

「ああ、そりゃアレシア見りゃそうなるわな。マリアも最初はそれなりに凄かったよな。今じゃたいしたことないけど」

「あ、ひどーい!」

 マリアが口をとがらせた。

「ハハ…。同級生だと余計遠慮ないでしょ。ま、ここもあんまりリラックスはできないと思うけど…」

 周囲には一定の距離を保ってギャラリーができていた。

「でもここは上ほどじゃないわ。それにあなた達もいるし。…ねえ、これからもここに来ていいかな?」

「いいかなも何も、オレが仕切ってるわけじゃないし…。でもさ、学校に来たんなら、慣れも必要だと思うぜ?」

「そ、そうだけど…。今日だけお願い! ね?」

 アレシアはねだるような目つきで懇願した。優司はちょっとテレた。

「あ、ああ、そんなら」

「そうだ! お昼一緒に食べましょうよ」

「ああ、いいんじゃん? みんな集まるし」

「やった! それならお昼まで耐えられるわッ」

 アレシアは見事に復活し、軽やかなステップで教室を後にした。


「ああ見えて意外とシャイなんだよな…。なんか世間知らずな箱入り娘みたいなイメージだしな」

 優司は出入口を眺めながら呟いた。マリアがそれに続いた。

「初めての環境で不安なんじゃないかしら。わたしは優司と一緒だったから大丈夫だったけど」

「かもな」

「おいおいおいおい、あのお姉さまオレらの真上かよ! ああ、すげえ~」

 興奮気味のヒロシが手を震わせながら近づいてきた。

「ヒロシ…おまえ天井透視して彼女のスカートの中覗きそうな勢いだな」

「ああ、現実にはムリだが、心の眼で覗かせてもらうよ。ああ、すっげえ~!」

 ヒロシは天井を見ながら嬉しそうにその場でくるくると回った。

「…まあ、ほどほどにな」

 優司はなぜ上の階に彼女がいることが凄いのかさっぱり理解できなかったが、この脳天気野郎がちょっと羨ましかった。


 階段を上がるアレシアは、弾むようにるんるんしていた。が、だんだんそのステップが遅くなっていく。上の教室での不安とは異なる、寒気のような感覚。誰かに見られているような…。

(何かしら、このいやな感覚…)

 本鈴が鳴った。

「あ、いっけない!」

 アレシアは走って教室に向かった。


(3)


 生徒達の大好きな昼休みの時間が訪れた。

 精霊三姉妹、優司、カスミ、ヒロシは、教室で空いている机を寄せ合い、弁当を広げた。和田家の弁当は、セレナと優司ママが作った。栄養バランス、カロリー、味ともに申し分のないヘルシー弁当だった。

 一同は和気あいあいで楽しい昼食を楽しんだ。


「ごっそさん。オレ一時から用事あるから。ゆっくり食ってて」

「あ、優司…!」

 急に立ち上がる優司をマリアが呼びとめたが、優司はさっさと教室を出てしまった。

「用事ってなんだろ?」

 カスミはグループ内の2─Cの面々に視線を投げた。質問にはヒロシが答えた。

「あいつさっき化学の先生の授業全然聞いてなくてさ。バレて実験の準備手伝えって言われてた」

「あー、化学か…あいつニガテだもんねー。あれ?でも化学って言えば、佐藤の代わり誰やってるの?」

「女の人!」

 マリアが脳天気に答えた。

「高峰っていう臨時の先生なんだけどさ。すっげえ美人でスタイルもいいんだよ。胸なんかこーんな! 亜理紗、とかもう名前からしてエロいしさ。アレシアさんはかわいい感じだけど、あの先生はなんかビシっとしててかっこいかった~」

 ヒロシの目はもう遠くに行っていた。

「はいはい。あんたのフィルタは特殊だからね」

 カスミは彼の言葉を話し半分で聞くことにした。


 一同はそのまましばらくだべっていたが、アレシアはまた不安な感覚を覚えた。

(やっぱり誰かに見られている…?)

「ごめんなさい、わたしちょっと」

 彼女は団らんの輪を離れた。


 アレシアは女子トイレの個室に籠った。スッと目を閉じると、首のセレスシャル・ヘイローから光のリングを展開した。金色の髪がふわりと浮き、額に赤い目が現れた。赤い眼が輝くと、それは強さを増していく。


 意識の中で、アレシアは暗闇に一人浮かんでいた。

 暗闇にぽつぽつと人の顔、意識が、ポートレートのように浮かび上がった。

(あの感覚はどこ…?)

 膨大な視覚ビジョンの海をかいくぐり、こちらに意識を向ける「糸」をつきとめた。

(これだ…)

 糸を辿って行く。周囲を無数のビジョンがものすごいスピードで流れていく。

 その先に、一つのビジョンがあった。アレシアはそこを覗き込んだ。

 暗闇に無数の赤い目。そして数日前に戦った、男の悪魔達が見えた。

 その傍らに、体の殆どと言ってもいい大きな一つ目の小悪鬼インプがいた。小悪鬼はこちらに気づき、大きな目を見開いて「ケケケ!」と笑った。


(はっ…!!)

 その瞬間、アレシアは現実に引き戻された。


 元のトイレの個室で、彼女は目を開けた。

「あいつだわ…」

 ぞっとする視線に、アレシアは戦慄した。

(あいつがわたし達を見ていた…)

 やつらが今どこにいるかは探知できなかったが、彼女には、ほどなくやつらがここを目指してやってくることが確信できた。


 アレシアは個室のドアを勢いよく開け、教室に戻った。既に一同は弁当を片付け、落ち着いていた。

 彼女は今見た光景を伝えた。

「もしかして優司は…!」

 一同の顔から血の気が引いた。ただ一人、ヒロシはアレシアが何を言ってるのかさっぱり理解できず、ただヘラヘラ笑っていたが…。

「カスミちゃん、あとよろしくね!」

 精霊達は、優司が向かった特別棟を目指した。


 カスミもじっとはしていられなかった。

「矢島、あとよろしく!」

 そう言い残すと、自慢の足で精霊達を追った。

「おうカスミちゃん、任しとけ!」


 ヒロシは一人残された。

「…って、何を?」


..*


 精霊達が二階の渡り廊下に差し掛かると、不意に暗闇が訪れた。それは結界が張られたことを意味していた。

 黒い霧とともに、スパービアとイーラが現れた。彼らが負った傷はすっかり元に戻っていた。

「またお会いしましたね、みなさん」

 彼らの後ろに、赤い目をギラつかせた魔物の集団が姿を現した。


 特別棟三階の化学準備室は遮光カーテンが閉じられ、薄暗かった。わずかに開いたカーテンの隙間から、グレーの弱い明かりが差し込んでいた。

「始まったようだね…」

 高峰は一人呟いた。その眼前では優司がリストを見ながら、戸棚から実験器材を取り出していた。

 高峰はいやらしい目つきで優司を眺め、笑みを浮かべながら音も立てずに彼の背後につくと、そっと彼を抱きしめた。

「うわっ! …なんすか、先生?」

 優司は機材の入った小さなダンボールを危うく落としかけた。それをなんとか台の上に置いた。

 高峰は優司の耳裏の首筋で大きく息を吸い込み、耳元で囁いた。

「和田君…あなたとってもいい匂いがするわ…」

 弾力のある胸を押しつけたまま、優司の体をまさぐる。彼の下半身に辿り着いた彼女の手は、その周辺をゆっくりとマッサージした。

 優司はただ困惑した。

「先生、な、何を…?」

 高峰は優司の首筋を舐め、唇で耳を愛撫した。

「んふ…おいしそうな魔力が溢れてる」

 高峰の眼が赤く光った。留めていた髪が解け、銀色に変わる。全身から黒いオーラを吹き出し、白衣は散り散りになった。その下には、弾けるボディに最小限の黒皮が申し訳なさそうにまとわりついていた。

「せ、先生あんたは…? うっ?! か、体が…!」

 優司は全身が痺れ、身動きが取れなくなった。血圧が下がったのか、ひどく目まいがして意識が薄れていく。

「うふふ、かわいいわ。今すぐ食べちゃいたいくらい…」

 高峰に扮していたスキュブス、メレルはなおも優司を愛撫した。


..*


 精霊達はエンゲージ・シェルを展開し、魔物達を押しのけた。数は多かったが、三人の敵ではなかった。斬り込むマリア、それをフォローするセレナ、二人をバックアップするアレシアの陣形ができあがっていた。しかし今は敵を掃討するよりも、優司を救い出すことが先決だった。


 三人は魔物達を引き連れ、怒涛の勢いで化学準備室になだれ込んだ。

「優司!!」

 三人がそれぞれ声を上げた。

「おや…思ったよりも早かったね」

 優司は痺れで全身の力が抜け、等身大の人形のようにメレルに支えられていた。彼の開襟シャツはボタンが引きちぎられ、メレルの手で乳首をマッサージされていた。

「み…んな…!」

「残念だけど、この子に会うのはこれが最後。じゃあね」

 メレルの背後の空間が歪み、黒い穴が開いた。

「貴様ら、後は任せたよ」

 彼女は優司を伴い、穴の中に消えて行く。

「優司ーッ!!」

 マリアが駆け寄るが、穴はフッと消え失せ、彼女は宙を掴んだ。

「優司…そんな…」


「あなた方の用事はまだ済んでませんよ」

 スパービアが後方で腕を突き出し、黒い球を成長させていた。球はうなりを上げ、台風のように渦を巻きながらなおも巨大化していく。渦の中で、バチバチと紫色の電撃が走った。そしてそれが最大限に大きくなると、渦は勢いよくスパービアの元を離れ、化学準備室全体を襲った。準備室は爆風を上げ、めちゃめちゃに壊れた。壁には大穴が開き、中にあったものは全て吹き飛んでいた。

「あっさり終わってしまいましたねえ…」

 スパービアは大穴から外を窺った。スパービアは下に落ちた残骸を見ていたが、ふと気配を感じ見上げた。

「なに!?」

 三人はウイングを広げ、空中に浮遊していた。吹き飛ばされはしたものの、アレシアのイージスにより、ダメージは全く受けていなかった。

 彼女達は怒りに震えていた。

「じゃまを…邪魔をするなー!!」

 誰が発したかわからないが、その言葉を合図に三人は魔物達にその吹き荒れる感情をぶつけた。


 アレシアは、イージスから複数の雷撃の矢(ライトニングアロー)を前方に撃ち出し、魔物を串刺しにした。ライトニングアローは強い光と電撃を放ち、魔物を跡形もなく焼き焦がした。

 セレナは魔神銃をイーラの全身に撃ち込んだ。神銃の聖弾ホーリィバレットでイーラの筋肉をえぐり、魔銃の超圧縮魔弾を骨にまで食い込ませた。

業火インフェルノ!」

 イーラの体中の血液が一気に沸騰し、体中がぼこぼこと変形した。

「ぐああああ!」

 体中の穴という穴から血が、そして周囲の空気が歪むほど高温の炎が噴き出し、イーラは瞬く間に燃え上がった。イーラは苦しみに悶え、周囲に残った魔物達を見境なくなぎ倒した。

 マリアはレイスウォードを分離させ左右に持ち、二振りの刃でスパービアに襲いかかった。スパービアは黒い小球を撃ち出したが、もとより何の意味もなかった。光の軌跡を描くレイスウォードによって小球は粉々に消し飛び、レイスウォードの二つの刃はスパービアの首を撥ねた。空中に浮かび上がった首は、残った体とともに縦に真っ二つに切られ、それが床に落ちる頃には真っ黒に焦げていた。


 わずかの間に、魔物達は二度と復活することなく消滅した。

「はあ、はあ…」

 三人の荒い呼吸だけが響いた。


..*


 カスミは化学準備室にいたが、優司も、そして三人の精霊達もいなかった。

「どうなってるの?」

 彼女は優司と精霊達を探し、特別棟を走り回った。


 精霊達は特別棟の裏庭で、アレシアのプロビデンスの眼に懸けた。

「優司…どこ…どこなの…?」

 うなされるように呟きながら、アレシアは懸命に優司の意識を探す。

「アレシアどう? 何か分かった?」

「……」

 心配そうに見つめるマリアの声はアレシアには届かなかった。彼女は呟きながら悲痛な表情を浮かべていた。

「アレシア!! どうなの?」

 マリアはアレシアを激しく揺すった。

「マリア…」

 セレナはマリアをなだめたが、気持ちはマリアと同じだった。


 上空を覆う真っ黒な雲からポツリ、ポツリと雨が降り始め、やがて本降りになった。


 アレシアは懸命に探索を続けたが、やがて震える声で二人に結果を伝えた。

「…だめ…だめなの…優司の心が…伝わらない…」

 そう言うと力を使い果たしたようにガクリと膝をつき、へたりこんだ。肩を震わせ、水を含んだダストを掴んだ。


「そんな…」


 ついさっきまでふざけ合っていた優司がいない。彼を守護することが目的だった三人の精霊達にとって、彼の存在はいつのまにか心の中で大きな部分を占めていた。今はその大きさに比例した大きな穴が、そこにぽっかりと開いていた。


「優司…」

 セレナは天を仰いだ。降り注ぐ冷たいものが彼女の頬を濡らした。

 雨は次第に激しさを増し、三人の体と心を冷やしていった。

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