第十話 香澄のいけない恋心?
(1)
「はぁ、はぁ…暑っつ…!」
ある五月の放課後。今年は晴天が多く、その日もそろそろ雨の恵みが欲しいような陽気だった。カスミは陸上部の練習に出ていた。
カスミは短距離が得意で、ハードル走を専門としている。いつものことではあるのだが、今日もTシャツにハーフパンツという出で立ちで、ぜい肉のないスラリとしたボディラインと女の子としてはたくましい太腿を惜しげもなく披露していた。一時は真っ黒に日焼けしていたが、優司に十年後にはシミだらけになるぞ、とからかわれてから、半ばムキになって全身に日焼け止めクリームをたっぷり塗るようにしたのでだいぶ黒みは抜けた。それでも他の女子に比べれば「濃い色」に見える。運動部なのでもちろん化粧などしていない(…というのは建前で、本人がずぼらだというのが実際のところではある)が、少し幼い顔立ちと、ややタレ気味の大きな瞳はそのままでも十分魅力的で、さっぱりした性格もあって一部の男子生徒には人気があった。
陸上部は男女合わせて六十人ほどいるが、普段の練習は一部の種目を除き、男女分かれて行われている。伝統的に全国的な大会で優秀な記録を納めた選手はいないので、部として特に力を入れている、ということはなかった。そのため、部員にはただ走るのが好きだから、という感覚で参加している者も少なくない。もともと個人技ということもあるが、それは一方では途中で部員が辞めるということがあまりない、という長所にも繋がっていた。しかし他方では目立った結果が出せていないという課題にもなっていた。そんな中で、カスミは顧問やキャプテンに今後が期待されている数少ない部員で、あともう少しでインターハイも狙えるというラインまで来ていて本人も熱を入れているのだが、最近どうもタイムが伸び悩んでいた。
全体でのウォームアップが終わり、各自が散り個別練習を始めようとしていた所で、ウォームアップ時に不在だったキャプテン、石山千尋が皆を呼び戻した。始めは集まりが悪かったが、キャプテンの側に見慣れない明るい髪色の女子生徒がいるのを見つけると、女子部員達は小走りで集まってきた。
まとまったのを確認し、キャプテンは口を開いた。
「遅れてごめん。今日から入る仲間を紹介するね。じゃ」
キャプテンは隣の女子生徒にあいさつを促した。その女子生徒は栗色の髪をした外国人で、すらりとした長身に、モデルのようなはっきりした顔立ちをしており、流れのあるワンレングスショートボブで、中性的な魅力も備えていた。
女子生徒は意外にも流暢な日本語で自己紹介を始めた。
「みなさんこんにちは。わたしはレベッカ、レベッカ・カーヌスです。父の仕事の都合で昨日ここに転入してきました。三年生なのでもうあまり長くはいられないけど、どうしても走りたくて陸上部に入りました。短い間だけど、よろしくね」
全く物おじしないあいさつに、部員達はだまっていた。見かねてキャプテンが合の手を打った。
「ほら、何やってるの、みんなあいさつ!」
「…よろしくお願いしまーす!」
パラパラと拍手が起こった。
「ウォームアップはもう終わったよね。じゃ、各自練習始めて」
部員達は散り散りになり、個別練習を始めた。
(レベッカさんか…)
カスミのレベッカに対する第一印象は、さわやかなお姉さん、という感じだった。
カスミと同じハードル班の太田清美が近付いてきた。
「ねえねえカスミ、彼女素敵だよね?」
「うん…」
「種目何かなぁ?」
「さあ…」
清美の質問にはあまり関心がないように答えたが、練習用のハードル台が並ぶいつもの場所にたどり着くと、カスミはレベッカを目で探した。レベッカは、キャプテンと一緒に数人の男子部員達に顔見せしているようだった。さらに数人の男子部員達が集まったりして動きがなかったので、カスミは自分の練習を始めた。
しばらくしてふと気付くと、他の女子部員達の視線が一転に集まっていた。その先では、ショートパンツ姿のレベッカがウォームアップを始めていた。
「あの人走るみたいよ」
「百か。見に行こうか」
数人の部員達が移動を始めた。
「カスミ、わたし達も見に行こ!」
「う、うん」
清美がせかすように誘ってきたので、カスミも近くに行くことにした。既に二、三人のギャラリーがいるところに近づくと、三年生の部員の一人が「このタイミングで入るなんて…よほど好きなのかね」と囁いていた。
レベッカと、二人の三年生部員がスタートラインで構える。ゴールでは、キャプテンがストップウォッチを構えていた。
「よーい!」
スタートラインに立つ別の部員がホイッスルと旗でスタートの合図をした。
直後から、皆は息を飲んだ。
するどい立ち上がりから、前傾姿勢を維持しぐんぐん加速していく。一緒に入っている三年生部員達は、三分の一も走らないうちに取り残されていった。
レベッカがカスミ達の前を通り過ぎる。先程はスマートで華奢ほどにも見えたが、引き締まった大腿筋が躍動していた。大きなストライドと指先まで華麗なフォーム。しなやかに揺れ動く髪。それは、さながら獲物を追うチーターのようにも見えた。
誰もついてこないことを確認すると、レベッカは後半を少し流した。
ゴールでキャプテンがストップウォッチを止めた。タイムは十一秒九七を刻んだ。
タイムを聞き、周囲から驚きと拍手が湧き起こった。
「すごい…後半流してよ! まともに走ったらコンマ五切るんじゃない?」
「すごい人が来たわね!」
そんな声が飛び交った。
..*
キャプテンとレベッカが何か話している。まもなく行われる記録会のことのようだった。
近くを通りがかったカスミは、キャプテンに呼び止められた。
改めて近くでみると、レベッカから神々しいオーラが感じられた。キャプテンの石山千尋は、レベッカにカスミを紹介した。
「この子は二年の吉池香澄。ハードルではうちのエース」
「は、はじめまして。…さっきの走り、凄かったです!」
カスミは少し緊張していた。それを見てレベッカはクスッと笑った。
「ハイ、吉池さん。ありがとう。よろしくね」
「し、失礼します」
カスミはレベッカと目が合わせず、一礼するとその場を足早に離れた。去り際、レベッカがキャプテンに
「She's so cute」
と話す声が聞こえた。名前を覚えてもらったかも、と、カスミはなんとなく嬉しかった。
(2)
翌日の午後練。カスミはハードルの基礎練習をしていた。ハードル班はカスミを含め女子三人、男子三人しかおらず、種目としてはやや不人気なので、普段の練習は校庭の端でこじんまりとやっていた。女子はカスミと清美、そして一年生だ。
二列のハードルを男子と女子がそれぞれで練習していると、男子の足が止まった。レベッカがハードルの方へ近づいてきていた。
「ハイ、カスミ。調子どう?」
「お疲れ様です。調子は…普通です」
カスミの答えに、レベッカはフフッと少し笑った。
「ハードルか…久しぶりだな。わたしもやっていいかな?」
「え? は、はい、どうぞ!」
普段の練習用に、ハーフスプリントとしておよそ五十メートルの距離に五台のハードルが並べられている。ハードル班の一同が注目する中、レベッカは一本軽く流して感覚を確認した後、本格的にダッシュをかけた。
まったく淀みのない、流れるような走りにカスミは衝撃を受けた。上体はまったくぶれず、十分な跳躍と素早い引き足。ハードルを越える毎に速さを増していく。サバンナを駆けるインパラのような軽やかな走りだった。
ハードル班の面々は思わず歓声をあげ、拍手をしていた。
(すごい! …あたしなんて比べものにならない)
カスミは記録に伸び悩む自分との差を見せつけられ、落胆した。
「やっぱり彼女はすごいな」
いつのまにか、キャプテンも見に来ていた。
走り終えたレベッカがカスミ達に近付いてきた。
「やあ、チヒロも来てたのか。…カスミ、どうだった?」
「びっくりしました…」
「わたしも以前、百パーをやってたんだ」
「そうだったんですか、どうりで…。今は何やってるんですか?」
「ハイジャン。走るのとは全然違うけど、クリアした時の解放感がたまらないんだ」
レベッカは目を輝かせていた。
「……」
カスミは自分との格の違いに落ち込んだ。できる人はなんでもできてしまうんだろうか。自分はハードルだけでも十分にできていないのに…。
レベッカは、カスミの暗い表情に気づいた。レベッカはカスミの肩に手を置いた。
「でも、羽高のハードルのエースはカスミだよ。わたしは諦めたけど、きみはまだまだ伸びる。絶対!」
「先輩…」
「わたしが知っていることを、きみに教えたい。さっき見てたけど、少し直せばすぐに良くなるポイントがいくつかあったよ」
そういうと、レベッカはキャプテンを見た。
「いいかな、チヒロ」
「それは願ってもないことだけど…いいのか?」
「これがわたしの使命だと思う」
「カスミはどう?」
カスミは認められているということが素直に嬉しかった。レベッカの真剣な想いに、自分も応えなければと思った。
「は、はい! よろしくお願いします」
「Great! I'm so glad」
レベッカは嬉しそうに笑った。
「相思相愛ってとこね。記録会、ハイジャンは他の三年から選ぶよ」
「オーケー」
..*
カスミ達は早速練習を始めた。レベッカは、カスミだけでなく他の部員の改善箇所も指摘した。清美を始め、その場にいた部員達は、目からウロコが落ちたようだった。
いくつかの的確な指導を受けただけで、カスミのタイムは明らかに上がった。特に着地の改善は、今まで前半の勢いを後半に繋げられずタイムが伸びなかった主要因を改善した。風のように走り抜けられることに、カスミは喜びを感じていた。
「カスミ、You're perfect!」
「ありがとうございます! 自分でも信じられません」
「フーム…あとはもう少し、体を絞って筋肉を付けたほうがいいね」
レベッカはカスミの体を眺めながら、さらりと言った。
(そ、それは遠まわしに太っているということですかー?!)
カスミはくわーと口を開けた。
「ノー、ノー。カスミは女の子としては全然太ってないよ。でもアスリートとしてはお腹の辺りがちょっと太い」
「あ、あはは…まいったな」
すいません、練習で疲れてると時々ガマンできなくて、甘いものや炭水化物を夜食に食べてしまいます! とカスミは心の中で誰かに謝った。確かに、レベッカは細身だが付くべき所に筋肉はついており、モデルのような体型をしていた。
「それと胸も少し大きいね。うらやましいけど、練習の時はもっとしっかりホールドするブラにしたほうがいいと思う」
「は、はい…」
そんなとこまで見られていたのか、とカスミは頬を赤らめた。確かに、カスミは着心地が気に入って、シンプルで価格の安いスポーツブラばかりしていて、多少値の張る機能性重視のブラには手を出していなかった。
キャプテンの笛が鳴った。
「はーい、じゃ今日はここまでー」
「それじゃカスミ、しっかり体休めて」
「はい、ありがとうございました!」
カスミはフレッシュな一年生のように深くお辞儀した。
「ありがとうございました!」
他の部員達も声を揃えてあいさつし、レベッカを見送った。
カスミはレベッカの背中が小さくなるまでずっと見送っていた。
「せんぱーい、もうハードル片付けますよー」
「あ、うん、今いくー」
ハードル班は人数が少ないので、二年のカスミも後輩を手伝っていた。
..*
自宅に戻ったカスミは、入浴しながら今日の午後錬のことを思い出していた。練習が、走るのが楽しいと思えたのは久しぶりだった。浴槽で疲れた筋肉を揉みほぐしながら、明日も頑張ろう、と誓った。
自室に戻ると、バスタオル姿でドレッサーの前に立った。レベッカの言葉が気になり、プロポーションを気にしてポーズを取ったりしてみた。
バスタオルをはずし、全裸になった。自分では、スタイルはいいほうだと思っていた。実際、男子からみた女の子としては、健康的でちょうどいい肉付きだった。引き締まったヒップラインは扇情的ですらある。扇情的、というのはこの場合、若々しく刺激に敏感に反応し、その筋肉が包み込む中央部の機能性すらも想起させることを指している。
ウェストは正直腹直筋が割れて見えるほどではなく、つまんでみると薄らと指に残るものがあった。
「あちゃー…」
カスミは自分の体を見ながら、レベッカの細身の体を思い出し、各部を比較する。鏡の中に、全裸のレベッカが浮かび上がった。そこに重なる自分の体…。なんとなく妙な気分になった。
「あ、あたしったら…何考えてんの!」
カスミは顔を赤くして、煩悩を振り払った。
(3)
翌朝は木曜日だった。朝練がないため、カスミはいつものように優司の家に立ち寄った。カスミは昨日の出来事を誰かに話したくてしかたがなく、学校への道中、優司の横で口早にベラベラと喋り出した。
内容はレベッカのことになった。背が高くてスタイルも良く、モデルみたいな整った美しい顔立ちのこと。走りはびっくりするくらい速く、なおかつフォームが美しいこと。走るだけでなく跳ぶほうもすごいこと。レベッカの人を見る目のすごいこと。
うっとりと話すカスミを見ていた優司が、ふと口を挟んだ。
「カスミ…」
「え、なにー?」
「おまえ、その先輩に恋してんのか?」
するどい指摘にカスミは目を見開いて動揺した。そして顔が真っ赤になった。
「な…な何いってんの?!」
「だって…そのしゃべり、完全にのろけだぜ」
「違っがうよ、全然そんなんじゃない! もーアホ優司!」
カスミはケリを出した。優司は器用に腰を曲げ、華麗に避けた。
「はっはー。図星かー。カスミちゃんはユリだったのかー」
「こらー避けるなー!」
追いかけまわすカスミ。
「やべー、走りじゃカスミに勝てねー」
のらりくらりとかわす優司。カスミも当てようとしているわけではないようで、二人は互いの影を踏みあうように路地をフラフラと走り回った。
その光景を見ていたマリアが不思議そうに呟いた。
「なんか…へんな二人」