夏の田舎の思い出
日本の夏はもはや熱帯か亜熱帯
今年の夏も、息が詰まるほど暑い。 アスファルトから立ち上る陽炎を見つめていると、不意に、あの冷たい水の感触と、青い夏の匂いが蘇ってくる。
三十年前。長野県の山あいの村に、家族旅行で行った時のことだ。
小学四年生だった俺の頭の中は、虫捕りのことでいっぱいだった。東京のコンクリートジャングルにはいない、オオクワガタやカブトムシ。夜になれば樹液に群がるはずの木を、昼のうちに見つけ出そうと必死だった。女なんかにこれっぽっちも興味のない、ただの生意気なガキだった。
「変な服。どこから来たの」
川にかかる古い橋の真ん中で、白いワンピースを着た少女がそう声をかけてきた。 田舎者相手に東京と答えるのがなぜか気恥ずかしくて、「新宿」とぶっきらぼうに言った。
「ふーん。私、ここに住んでるの。一人で川遊びに来たんだ」
変なやつだと思った。けれど、虫がたくさんいる場所を知らないかと尋ねると、少女の瞳がぱっと輝いた。
「こっち。ついてきて」
彼女が案内してくれたのは、息を呑むほど深い森だった。太いクヌギの木が立ち並び、樹液の甘酸っぱい匂いが立ち込めている。
「夜になったら、うじゃうじゃ湧くよ」と少女は言った。
最高だった。俺たちは二人で、汗だくになりながら森を駆け回った。東京のこと、学校のこと、くだらない話をたくさんした。だけど俺は、明後日にはもう帰ってしまうことだけは言えなかった。
最初の橋に戻ってきたとき、強烈な西日のせいで体は火照りきっていた。 すると少女は、あっけらかんとした手つきで、着ていた白いワンピースをすっぽりと脱ぎ捨てた。
中には、何も着ていなかった。
今思えば息を呑むような光景だが、当時の俺はただ驚いただけだった。少女は「川遊びするのに邪魔だから」と、脱いだ服を俺に手渡すと、欄干に足をかけて橋から飛び込んだ。
ドボン、と澄んだ水しぶきが上がる。 水深は意外と深く、水面までは五メートルほど。躊躇なく飛び込んだ彼女を、俺は「すげえやつだな」と呆然と見下ろした。
「ホラ! キミも早く入りなよ! 冷たくて気持ちいいよ!」
川面から顔を出した少女が、水滴をキラキラと光らせながら笑った。
冗談じゃない。俺は虫捕り用の長袖長ズボンで完全武装だったし、何より女の子の前で裸になるなんて死んでも嫌だった。
「あのさ……服、風で飛ばされないように石置いとくから!」
俺はワンピースの上に大きめの石を重しにして置き、逃げるように背を向けた。 振り返ると、少女は少しだけ寂しそうな顔をしていたけれど、すぐにまた元気に手を振った。
「またねー!」
その声が、遠ざかる川の音に溶けていった。
*
その夜、親父と向かった森は、少女の言った通りだった。
カブトムシもクワガタも、カゴに入りきらないほど捕れた。「いい木を見つけたな」と親父は笑っていたが、俺の頭の片隅には、あの白いワンピースの少女がいた。明日も、あの橋に行ってみようか。そう思っていた。
けれど翌朝は、山の変わりやすい天気のせいで、朝から土砂降りの雨だった。
宿の畳の上でゲームボーイをして時間を潰した。昼過ぎ、ようやく雨が上がると、湿気を含んだ強烈な熱気が立ち込めた。俺は「昨日の森を見てくる」と親父に言い残し、橋へと走った。
橋に少女はいなかった。 ジメジメとした暑さの中、少し肩を落としながら昨日の森へ向かうと——彼女はいた。大きなクヌギの木の前に、傘も差さずに立っていた。
「あ。見て、あのちょうちょ」
彼女が指差した先には、息を呑むほど美しい紫色の大きな蝶が止まっていた。
「オオムラサキっていうんだよ。この辺にしかいないんだって。すっごく綺麗でしょ。でもね、幼虫のときは角が生えてて、すごくキモいんだよ」
「へえ……。あ、昨日はありがとな。虫、死ぬほど捕れたわ」
気のない返事をしながらも、俺は照れくさくて仕方がなかった。
「いいよ。ね、これから川遊びしない?」
「タオル持ってねえし……」
「あるよ、タオル!」
少女は得意げに笑って、首に巻いた一枚のタオルを見せた。 もう断る理由はなかった。
俺たちは川へ走った。彼女が迷わずワンピースを脱ぎ捨てて飛び込んだのを見て、俺の意地にも火がついた。服を脱ぎ散らかし、虫取り網を重しにして、そのまま川へダイブした。
突き刺さるような冷たさと、突き抜けるような爽快感。 何が沈んでいるかもわからない田舎の川だったが、当時の俺たちにはどんなプールよりも輝いて見えた。
河原に上がり、一枚のタオルを二人で分け合って体を拭いた。濡れた髪から滴る水が、肌を伝う。
「キミ、明日も来るの?」
不意に聞かれ、胸がちくりと痛んだ。
「……明日、東京に帰るんだ。二泊三日だから」
少女は一瞬だけ瞳を伏せ、濡れたワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。
「……そっか。ありがと。ね、アイス食べに行かない?」
「金、持ってきてねえよ」
「タダで食べられるとこ、知ってるから」
連れて行かれたのは、時が止まったような古い駄菓子屋だった。
土間に座っていた腰の曲がったおばあちゃんが、少女の顔を見るなり、何も言わずにミルク味のアイスを二本手渡してくれた。
「これ、当たり付きなんだよ。結構よく出るの」
かじりついたアイスの棒には『ヒット』の文字があった。
「当たった!」と喜ぶ俺に、彼女は笑った。
「ヒットはね、四本集めないとダメなんだよ。私、既に一本持ってるから、あと一本だね。そしたら半分こして食べようよ」
「なんだよそれ、ケチだな」
「タダなんだから文句言わないの」
俺たちは顔を見合わせて笑った。冷たいミルクの味が、喉を通り抜けていった。
「私、詩織。入山瀬詩織。キミ、名前は?」
「桐谷ユウジ」
「ねえユウジくん、神社に行こう。ちょっと有名なとこがあるの。お参りしよ? ちょうど五円玉が二枚あるんだ」
長い、長い苔むした石段を登った先に、古い神社があった。 並んで賽銭箱に五円玉を投げ、鈴を鳴らす。
俺は『オオクワガタが捕まりますように』と、ガキらしいしょうもない願い事をした。
「何てお願いしたの?」
「教えねえよ。詩織は?」
「ここのお願い事はね、他人に教えると叶わないんだって。だから、内緒」
詩織は悪戯っぽく微笑んだ。 橋まで戻り、夕暮れの茜色が空を染める頃、俺たちは別れた。
「また、会えるといいね」
「……ああ」
その夜捕まえたカブトムシは見たこともないほど大きくて赤く、昨夜よりも立派だったけれど、なぜかちっとも胸が躍らなかった。
「オオクワガタがいなかったからだ」と自分に言い聞かせた。
翌朝、親父の運転する車の後部座席に乗って、村を離れるとき。 あの橋の上に、白いワンピースを着た詩織が立っているのが見えた。
「あ——!」
窓を全開にして身を乗り出そうとした俺を、「危ないでしょ!」と母親が強く引き戻した。 それでも俺は、開いた窓から腕だけを必死に伸ばして、ちぎれるほど手を振った。
バックミラーの向こう、橋の上の小さな白い影が、何かを叫びながらずっと手を振り返していた。
何を叫んでいたのかは、遠ざかるエンジンの音にかき消されて、聞こえなかった。
*
あれから、三十年の月日が流れた。
毎年、夏が来るたびに、俺は詩織のことを思い出していた。 いつかまた、あの村に行けば会えるんじゃないか。
そう思いながらも、日々の忙しさに流され、行くことはなかった。「もう一度あの村に行きたい」と親にねだることもできなかった。ただの民宿に泊まった、たった三日間の家族旅行。大人になるにつれて、あれは子供の頃の美化された幻だったのではないかという気さえしていた。
何人かの女性と付き合い、別れた。 誰も愛せなかったわけじゃない。ただ、誰といても、心のどこかにぽっかりと穴が空いていた気がした。
あの冷たい川の水。アイスの甘さ。そして、あの白いワンピースの背中。
夏が来る度に、俺の心の真ん中には、ずっと彼女がいた。
四十歳を迎えた今年の夏、俺はふと思い立って、一人で車を走らせた。 ずっと捨てられなかったあの時のヒットの棒を持って、日帰りで、あの長野の村へ。
当然会えるなんて思っていなかった。ただ、確かめたかった。
あの日、彼女が神社で何を願ったのか。最後に橋の上で、何を叫んでいたのか。三十年経った今更、それを知ったところで何になるわけでもないのに。
村は、驚くほど変わっていた。 容赦ない猛暑の中、外で遊ぶ子供の姿は一人もない。
あの思い出の川は、護岸工事で無機質なコンクリートに覆われ、飛び込めるような深みは跡形もなく消えていた。
詩織と走ったあの森のクヌギの大木は、スズメバチが増えすぎて危険だからと、数年前に切り倒されたと後で知った。
昔は確かにオオクワガタがいると言われていた。だから来たんだ。だが変わらないのは、山々の稜線と、照りつける太陽だけだった。
村の温泉で汗を流した後、あの駄菓子屋の跡地に寄った時、見知らぬ初老の男がいた。おばちゃんはとうに亡くなったと聞き、胸が痛んだ。駄目元で「入山瀬詩織さん」という名前を出してみた。
すると男は、酷く驚いた顔で俺を見た。
「おめえさん……詩織ちゃんの知り合いかい? 新宿の、ユウジくんか?」
「え……?」
「あの子な、高校に上がる頃に重い病気が見つかったとかでな。大きな病院がある遠くの街へ引っ越していったんだ。だが……引っ越す直前にな、あの子、昔神社の絵馬に何か書いてたみてぇなんだ。『いつかあの子が来たら教えてあげて』ってお袋に頼んでたんだが、まさか本当におめえさんが来るとはな……」
心臓が早鐘を打った。 俺は礼もそこそこに、駆け出した。 崩れかけた石段を、息を切らしながら一段ずつ登る。
蝉の声が遠のき、突然、三十年前のあの日と同じ通り雨が降り注いできた。
全身ずぶ濡れになりながら、神社の古びた絵馬掛けの奥、風雨に晒されて黒ずんだ木札の束を狂ったようにめくった。
あった。 端が少し朽ちかけた、三十年前の小さな絵馬。 消え入りそうな幼い筆跡で、こう書かれていた。
『もういちど ユウジくんにあえますように 詩織
その裏には、さらに小さな文字で、震えるような追記があった。 『大人になっても、忘れないでね。四本目のあたり棒、ずっと持ってるから』
三十年分の風雪に耐え、黒ずんだ木肌に、幼い、けれど一生懸命に書かれた筆跡。
日付は、三十年前の、あの夏の日だった。
「詩織……」
息を切らしながら拝殿の前に立ち、俺はポケットから百三十円を取り出した。
二枚の五円玉と、あの日ご馳走になった二本のアイス代の百二十円。 それを賽銭箱に投げ入れ、深く頭を下げた。
「……っ」
何をやっているんだと思った。今更何にもならないのに。喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。 絵馬を両手で握りしめ、俺はその場に膝をついてうずくまった。
他人に教えると叶わないからと、悪戯っぽく笑っていた彼女の顔が鮮明に蘇る。
オオクワガタが欲しいなんて願っていた俺の隣で、彼女は、たった二日しか遊んでいない俺との再会を、神様に祈っていたのだ。
引っ越してしまうその時まで、この場所で、ずっと。
三十年間、俺は何をしていたんだろう。 なぜもっと早く来なかったのか。なぜ、子供の思い出だと片付けて、逃げていたのか。
彼女がどんな思いでこの村を去り、どんな人生を歩んできたのかも知らない。
可愛い子だった。もう彼女はどこかで誰かと結婚して、子供がいて、俺のことなんてとっくに忘れて幸せに暮らしているはずだ。お互い、もういい歳なのだから。
「……ありがとう、詩織」
俺は絵馬にそっと触れ、立ち上がった。せめて彼女なりに元気で、幸せになっていてほしい。これでいい。確かめたかったことは、全部わかった。俺一人だけが未練たらしくこんな歳まで引きずって、情けない男だ。この切なさを抱えて、俺は俺の人生を生きていこう。
雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から強い西日が差し込んでいた。
山あいの空に、鮮やかな虹がかかっていた。それはまるで、あの橋の袂から空へ向かって架かっているように見えた。
運転するのがかったるく、泊まりにすればよかったと思った。見栄を貼ったスポーツカーに乗り込み、帰路につく。 あの橋に差し掛かったときだった。
バックミラーではなく、フロントガラスの向こう。 西日と虹の光に包まれた橋の真ん中に、白い服を着た大人の女性が、一人で佇んでいるのが見えた。
まさか。 心臓が激しく跳ね上がった。 俺は道路の真ん中であることも構わず、ブレーキを踏み抜いた。 タイヤが軋む音を立てて車が止まる。
ドアを開け、転げるように外へ出た。
アスファルトの熱気の中、その女性がゆっくりとこちらを振り返った。 風が吹き抜け、彼女の着ている白いリネンのワンピースがふわりと揺れる。
面影があった。三十年の歳月を重ね、美しく大人になった彼女の瞳には、あの夏と同じ、澄んだ光が宿っていた。
彼女の手には、少し古びた二本のアイスの棒が握られていた。 そこには、掠れた文字で『ヒット』と書かれていた。
彼女は俺の顔をじっと見つめ、信じられないものを見るように目を見張ったあと、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、あの日と同じように、優しく微笑んだ。
「……おかえり、ユウジくん」
震える声が、三十年の空白を埋めるように響いた。
「持ってる……ああ……持ってるよ、俺も、これ」
「私、引っ越してからも毎年来てたんだよ。ヒットの棒、あと一本集めるの、手伝ってくれるよね」
一瞬、俺たちの周りだけ、時が遡ったような気がした。
幼い詩織と、俺。これから川に飛び込んで遊ぶんだ。
橋の下を流れる川のせせらぎが聞こえた。 止まっていた俺たちの夏が、今、静かに動き出した。
(完)
野生のオオクワガタは捕まえたことあるけど、本当に野生の個体だったかどうかは不明
ホームランバーっておいしいよね




