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処刑された悪役令嬢ですが、王太子にだけ見える幽霊になったので毎日ホラーをお届けします

作者: 有賀羊
掲載日:2026/07/27

 王都の中央広場は、大勢の人々で埋め尽くされていた。

 歓声とも罵声ともつかないざわめきが、石畳の広場に響く。

 その中心に立たされているのは、一人の令嬢。

 王太子アルベルトの婚約者であり、この国でも有数の公爵令嬢だった。

 ……ほんの数日前までは。


「被告、エレノア・フォン・ローゼン!」


 厳かな声が広場に響く。


「聖女リリアへの毒殺未遂、王家への反逆、そのほか数々の罪により──」


 罪状が読み上げられていく。


 どれも身に覚えがなかった。

 嫌がらせなどしていない。

 毒など盛っていない。

 反逆など考えたこともない。

 何度訴えても、誰一人として耳を貸さなかった。


「以上の罪により、被告エレノア・フォン・ローゼンを死刑に処す!」


 判決が告げられる。

 けれど、その声はどこか遠く聞こえた。

 誰が読み上げているのかも、もうよく分からない。

 エレノアの目に映るのは、ただ一人だけだった。


 王太子アルベルト。


 陽光を浴びて煌めく金髪に、澄みきった碧眼。

 幼い頃、王城の庭園で「アルベルト様の目って、とても綺麗ですね」と微笑めば、少し照れくさそうに笑ってくれた少年。

 剣の稽古で泥だらけになりながらも、「君の前では格好よくありたいんだ」と照れ隠しにそっぽを向いた青年。


 エレノアが恋をした人は、確かにそこにいた。

 けれど今、その碧い瞳が彼女を映すことはなかった。

 固く結ばれた唇は一言も発さず、微動だにしない姿は、まるで石像のようだった。


「……アルベルト様」


 最後に一度だけ、その名を呼ぶ。

 返事はない。

 静寂だけが、二人の間に横たわる。

 それだけで十分だった。


(ああ)

(終わったんだ)


 婚約を破棄されたあの日から、心のどこかでは分かっていた。

 もう彼は、自分の味方ではないのだと。

 それでも。


「一つくらい、私の言葉を信じてほしかったな」


 その小さな呟きは、歓声にかき消され、誰にも届くことはなかった。


 処刑人が剣を掲げる。

 冷たい刃が首筋へ近づく。


 その瞬間だった。


(……あ)


 頭の中で、何かが弾けた。


 見たこともない景色。

 鉄の馬のいない車。

 制服姿の学生。

 手のひらほどの四角い機械。

 ゲーム画面。

 そして、見覚えのあるタイトル。


『運命の聖女~七人の王子に愛されて~』


(え)

(これ……乙女ゲーム?)


 前世の記憶が、雪崩のように流れ込んでくる。

 日本で暮らしていたこと。

 友人に勧められて遊んだ恋愛ゲーム。

 そして、攻略サイトで見かけた一文。


『悪役令嬢エレノアは、断罪の末に処刑される。』


(思い出すの、遅っっっ!!)


 心の中で全力で叫んだ。


 あと五分。

 いや、一分。

 せめて三十秒早ければ、何か変えられたかもしれないのに。


「執行」


 短い号令が響く。


(あーーーーーーっ!!)


 エレノアの叫びは、最後まで言葉にならなかった。


 世界が、暗転した。


◇◇◇


「…………あれ?」


 意識が浮かび上がる。

 首を斬られたはずなのに、不思議と痛みはない。

 そっと目を開けると、視界には青空が広がっていた。


「……生きてる?」


 恐る恐る身体を起こそうとして──違和感に気づく。


「え」


 足が地面についていない。

 ふわり、と身体が宙に浮いていた。


「……」

「…………」

「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」


 思わず大声を上げる。

 けれど、広場にいる誰一人として気にする様子はない。


「……聞こえてない?」


 近くにいた兵士の前へひらひらと手を振る。


「すみませーん」


 反応なし。


「えいっ」


 肩を叩こうと手を伸ばした。

 ──すっ。


「…………」


 腕が兵士の身体を通り抜けた。


「うそ」


 もう一度。

 すっ。


「…………」


 三度目。

 すっ。


「やだぁぁぁぁぁ!!」


 腕をぶんぶん振り回してみる。

 全部すり抜ける。


「なんで!?なんでぇ!?え、何これ!?」


 慌てて自分の身体を見下ろす。

 白い指先は向こう側が透けて見え、ドレスの裾は風もないのにゆらゆらと揺れていた。


「…………」


 嫌な予感がした。

 ゆっくりと視線を下ろす。


 処刑台の上。


 そこには、自分が横たわっていた。

 純白だったはずのドレスは血に染まり、美しかった金髪は無造作に石畳へ広がっている。


 その姿は、つい数秒前までの自分だった。


「……死んでる」


 ぽつりと呟く。


「私……死んでる」


 実感した瞬間、膝から力が抜けた。

 ……抜けたはずなのに、膝は地面につかなかった。


「あ」


 浮いている。


「もう足つかないんだ」


 変なところで納得してしまう。


「……」

「…………」

「いや、納得してる場合じゃない!!」


 頭を抱えてその場をぐるぐる飛び回る。


「えっ!?天使は!?女神は!?迎えとかないの!?」


 誰も来ない。


「転生は!?」


 起きない。


「説明役は!?」


 現れない。


「こういうのは!転生して、冤罪を晴らして、超絶イケメンに溺愛されるのが今どきのお約束でしょ~~~!?」


 もちろん返事はない。


「流行りに乗らせてよぉぉぉ!!」


 あるのは、処刑を見届けた群衆のざわめきだけだった。


「嘘でしょ……」


 エレノアは力なく宙へ座り込む。

 座ったつもりなのに、ふわふわと浮いているだけだった。


「これから……どうしよう」


 行く当てもない。


「……帰れないか」


 ぽつりと呟いて、小さく笑う。


「死んでるもんね」


 もう、自分には行く場所なんてない。


◇◇◇


 処刑場を後にしたエレノアは、気づけば姿が見えなくなっていたアルベルトを探し、王城まで来た。


「最後くらい、あいつに文句の一つでも言ってやる」


 どうせ誰にも見えない。

 どうせ誰にも聞こえない。

 それでも、言わずにはいられなかった。


 王城の壁をすり抜け、見慣れた廊下を進む。

 すれ違う兵士も侍女も、誰一人としてエレノアに気付かない。


「やっぱり見えないか」


 小さく肩をすくめ、そのまま歩みを進める。

 辿り着いたのは、王太子アルベルトの私室。


 扉をすり抜けると、部屋には重苦しい静寂が漂っていた。

 アルベルトはソファに腰掛けたまま、俯いている。

 マントだけは外しているものの、正装のまま。

 両肘を膝に乗せ、組んだ手をじっと見つめており、微動だにしない。


「……」


 エレノアは思わず首を傾げる。


(ずいぶん暗い顔をしてる)


 もっと、肩の荷が下りたような顔をしていると思っていた。

 元婚約者を処刑したのだ。

 これで罪人はいなくなった、と。

 そんな笑顔すら想像していた。


 けれど目の前にいるアルベルトは、そのどれとも違う。


(……まあ、いいか)


 文句を言いに来ただけだ。

 深く考える必要はない。

 エレノアはアルベルトの目の前までふわりと移動すると、いつも通り声をかけた。


「こんばんは」


 その瞬間。

 アルベルトの瞼が、ゆっくりと開いた。

 碧い瞳と、ばっちり目が合う。


「…………」


「…………」


 数秒の沈黙。

 アルベルトの顔から、さぁっと血の気が引いていく。


 そして。


「ぎゃああああああああああああああ!!」


 王城に絶叫が響き渡る。


「えっ!?」


 エレノアも思わず目を丸くした。


「み、見えてるの!?どうせ見えないと思ってたのに!」


 アルベルトはソファから転げ落ち、そのまま壁際まで後ずさる。

 顔は真っ青。

 震える指で、エレノアを指差した。


「エ、エレ……ノア……?」


「うん」


「な、なんで……死んだ人がここにいるんだ!!」


 エレノアはにこりと笑う。


「うん、死んだよ。だから今のは私は幽霊!」

「それで!アルベルト様に、ちょ〜っと恨み言を言いにきました!」


「幽霊……。恨み言……」


アルベルトは震える手をぎゅっと握り締める。


「……そうか」

「わかった。聞こう」


 アルベルトは震えを押し殺すように、深く息を吸った。

 あっさりと受け入れたアルベルトに、エレノアは一瞬きょとんと目を瞬かせてから、一つ咳払いをする。

 そして、アルベルトをまっすぐに見つめる。


「なんで、私の処刑を認めたの」

「あんなに『違う』って言ったのに」

「私の話を……、信じてほしかった」


 アルベルトは苦しそうに目を伏せた。


「……信じたかった」

「だが、陛下も宰相も……皆が証拠を認めた」


(証拠?私が違うって言ってるのに?)


「長年この国を支えてきた者たちが、皆同じ結論を出した」


(他の人が認めたから?だから何?)


「私一人が、『違う』と言える状況ではなかった」


(一人だと、なんで言い出せないの?)


 アルベルトの言い分に、ふつふつと怒りが込み上げてくる。


「だからって!」


 エレノアは思わず声を荒げる。


「婚約者だったんだから、一回くらい『エレノアはそんなことしない』って言ってくれてもよかったじゃん!」


「……言えなかった」


「どうして!?」


「私は王太子だ。感情だけで裁きを覆せば、それこそ国は私を信用しなくなる」


「だったら、もっと調べればよかったじゃん!」


「調べた」

「何度も調べさせた」

「それでも結果は変わらなかった」


「……っ」


「証人も、証拠も、すべて君を指していた」

「だから私は……」


アルベルトは拳を強く握り締める。


「私は、王太子として判を押した」


「……」


「だから今さら、言い訳をする資格はない」


「……すまない」


 重苦しい沈黙が、部屋を満たした。

 エレノアは居心地悪そうに頭をかいた。


「あー、もう!むしゃくしゃする!!」


 エレノアは衝動のままに自分の首を掴むと、そのままアルベルトへ放り投げた。


「えいやっ!」


「ぎゃあああああああああ!!」


 首はアルベルトの手をすり抜け、そのまま向こうへ飛んでいく。


「あぁ!ちゃんとキャッチしてよ!」


「できるかぁぁぁ!!」


 エレノアは飛んでいった首を拾い上げ、ぽすっと元の位置に戻した。


「……ふぅ。取れるんだね」


 自身で不思議に思いながら首元を撫でる。

 先ほどから真っ青なアルベルトの顔を見つめる。


「アルベルト様」


「……いや。もう死んだし、婚約者でもないし、敬称とかいらないよね」


「……」


「アルベルトの怖がってる顔見たら、ちょっとスッキリした」


「……」


「恨み言も言えたし、満足」


(もう、死んだのはどうしようもないしね)


 アルベルトは恐る恐る口を開く。


「……成仏、するのか?」


「ううん」


「え?」


(成仏できるかなんてわからない。だから──)


 エレノアは満面の笑みを浮かべた。


「これからも、そのリアクションを生きがいに……」


「いや。死んでるから、死にがい?」


「……」


「毎日遊びに来るね!」


(ずぅ〜っと腹いせしてやらないとね)


「やめてくれぇぇぇぇ!!」


「あっはは!処刑した責任は取ってもらうよ!死んでも離さないから〜〜!!」


◇◇◇


 エレノアは宣言通り、毎日アルベルトのもとへ遊びに来ていた。


 一日目は、ベッドの横で起きしなに「おはよう」と微笑んでみて。

 二日目は、天井から逆さまにぶら下がり。

 三日目は、クローゼットを開けた時に、中で体育座りをしたまま真顔でじっと見つめ。

 四日目は、寝起きのアルベルトの足首をベッド下から急につかみ。

 五日目は、廊下をブリッジしながら全力で追いかけた。


 結果。


「ぎゃああああああああああ!!」


(ふふっ、今日もいい悲鳴だなぁ)


 王城中に響く絶叫を聞きながら、エレノアは満足そうに頷いた。


(最初は毎回気絶してたけど、最近は気絶しなくなったもんね)


(成長、成長)


 ……悲鳴は相変わらずだけど。


◇◇◇


 さて、今日もそろそろ遊びに行こう。

 エレノアは鼻歌交じりに廊下を進み、そのまま壁をすり抜ける。

 目的地はもちろん、アルベルトの私室だ。


「今日は何で驚かせようかなぁ」


 そう呟きながら部屋へ入ると、


「あれ?」


 アルベルトは、こちらに気付く様子もなく机へ向かっていた。

 机いっぱいに書類を広げ、難しい顔で何かを読んでいる。

 いつもなら部屋へ入った瞬間に悲鳴が聞こえるのに。


(珍しい)


 こんなに集中している姿は初めて見た。

 少し近づいてみる。

 それでも気付かない。


(これは……)


 絶好のチャンスだった。

 机の下へ潜り込み、タイミングを見計らう。

 アルベルトが書類を一枚めくる。


 その瞬間。


「ジャーン」


 机の下から勢いよく顔を出した。


「ぎゃあああああああああああああ!!」


 期待を裏切らない絶叫だった。

 アルベルトは椅子ごと後ろへひっくり返り、机の上の書類がふわりと宙へ舞う。


「あっ」


 白い紙が部屋中へ散らばっていく。


「もう六日目だよ?」


 エレノアは呆れたように肩をすくめる。


「そろそろ慣れようよ」


「慣れるか!!」


「えー」


「毎日違う方法で現れるんだぞ!」


「あ、ちゃんと違いは分かってたんだ」


「当たり前だ!!」


 アルベルトは荒い息を整えながら、床へ散らばった書類を拾い始める。


「しょうがないなぁ」


 エレノアも紙へ手を伸ばした。

 ──すっ。


「あっ」


 紙は指先をすり抜ける。


「拾えない」


「拾えるわけないだろう」


「あ、そっか」


 エレノアは何事もなかったように手を引っ込めた。


「頑張って」


「お前のせいで散らかったのに!!」


 アルベルトのツッコミが部屋いっぱいに響く。

 その声を聞きながら、エレノアはけらけらと笑った。


 ──そのときだった。


 一枚の紙が、ひらりとエレノアの目の前へ落ちてくる。


『事件関係者一覧』


『エレノア・フォン・ローゼン』


(……ん?)


 聞き慣れた文字に、自然と視線が止まった。

 事件関係者。

 私の名前。

 そんな紙、何のために読んでいるのだろう。


「……何、それ?」


 エレノアが首を傾げると、アルベルトははっとしたように紙を抱え込んだ。


「な、なんでもない!」


「いやいや、絶対なんでもなくないでしょ」


「なんでもないと言った!」


「怪しい」


「怪しくない!」


「怪しい」


「怪しくない!」


「怪しい」


「…………」


 アルベルトは諦めたように深くため息をついた。


「君は、なぜそういうところだけ勘が鋭いんだ……」


「褒めてる?」


「褒めてない」


「えー」


 エレノアはふわりと机の上へ腰掛ける。

 もちろん座れないので、お尻は少し浮いている。


「ねぇねぇ」


「……」


「見せて」


「断る」


「けち」


「けちで結構だ」


 アルベルトは書類を素早くまとめ始める。


「えー、いいじゃん」


 エレノアは横から覗き込もうとする。

 だが。


「近い!」


「わっ」


 アルベルトが勢いよく身を引いたせいで、椅子が大きく軋んだ。


「そんな逃げなくても」


「逃げる!」


「ひどい」


「幽霊に顔を寄せられて逃げない人間がいるか!」


「確かに」


 妙に納得してしまった。

 アルベルトは隙を逃さず、書いてある内容が見えないよう書類を裏返しに置く。


「あっ」


「もう遅い」


 エレノアは頬を膨らませた。


「秘密主義」


「そうだ」


「意地悪」


「そうだ」


「むぅ……」


 反論してこない。

 いつもなら「違う!」と返してくるのに。


(変なの。)


 少しだけ気になった。

 アルベルトは、この数日ずっとこんな書類を読んでいるのだろうか。


 何のために?


 もう事件は終わった。

 私も死んだ。

 なのに。


(……いや)


 エレノアは頭をぶんぶん振る。


(考えるのやめやめ!)


 どうせ今さら知ったところで何も変わらない。

 それより。


「アルベルト〜」


「なんだ」


「次は何で驚かせようか考えてるんだけど」


「考えるな」


「候補が三つあるの」


「聞きたくない」


「一つ目、アルベルトが外を歩く時に噴水の水面に浮かぶ」


「やめろ」


「二つ目、料理のお皿の上に顔を乗せる」


「やめろ!」


「三つ目──」


「頼むから全部やめてくれ!」


 アルベルトは本気で頭を抱えた。

 その姿を見て、エレノアはくすくすと笑う。


(やっぱり、この反応好きだな)


 婚約していた頃のアルベルトは、いつも王太子らしく振る舞っていた。

 私の前でも格好つけて、澄ました顔ばかりしていたっけ。

 もちろん、それはそれで嫌いじゃなかった。

 でも。


(今の方が、ずっと人間らしい)


 情けないくらい悲鳴を上げて、必死に叫んで、全力で驚いてくれる。

 そんな素直な反応を見ていると、なんだか放っておけなくなる。


 ……いや、放っておかないんだけど。


 今日も楽しい一日だった。


◇◇◇


 鍛錬を終えたアルベルトは、大きく息を吐いた。

 額から流れる汗を手の甲で拭い、井戸へと歩み寄る。


「今日は暑いな……」


 桶を井戸へ下ろし、冷たい水を汲み上げる。

 両手で水をすくい、顔へばしゃりとかけた。


「ふぅ……」


 火照った身体が少しだけ落ち着く。

 空になった桶を再び井戸へ戻そうとした、そのとき。

 何気なく井戸の中へ視線を落とす。


 ゆらり。


「……?」


 太陽の光で反射する水面の奥で、何かが揺れた気がした。

 アルベルトが確かめるように身を乗り出す。

 その影が水面を覆った瞬間、反射が消え、透き通る井戸の底。


 そこには──。


 体育座りをしたエレノアが、にこにことこちらを見上げていた。


「ぎゃああああああああああっ!!」


 アルベルトは桶を放り出し、後ろへ飛び退く。


 ばしゃんっ!


 桶は大きな音を立てて井戸へ落ちていった。


「アルベルトって鈍感だよね」


 井戸の中から、エレノアがひょっこり顔を出す。


「何が鈍感だ!」


「だって、水を汲む前からず〜っと待機してたのに」


 エレノアは頬を膨らませる。


「顔まで洗って、やっと気づくんだもん」


「知るか!」


「昼間は光が反射して、水の中なんてよく見えないんだよ!夜ならまだしも!」


「あっ!」


 エレノアは両手を打った。


「なるほど、夜ね!アドバイスありがとう!!」


「しまったーーーーっ!!」


 アルベルトは頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

 しばらく肩で息をしながら呼吸を整え、大きく深呼吸を一つ。

 ようやく息を整えると、恨めしそうにエレノアを見上げる。


「……お前って、元々そんな性格だったか?」


「え?」


「もっと、その……」


 言葉を探すように視線を泳がせる。


「清楚で、おしとやかだったような気がするんだが」


 エレノアは数回まばたきをすると、


「あー」


 納得したように頷いた。


 前世の記憶を思い出したせいだろうか。

 ……いや、多分違う。

 昔からこんな性格だった。ただ、公爵令嬢として、そしてアルベルトの婚約者として、少し背伸びをしていただけだ。

 前世の記憶が、その背伸びをやめるきっかけになったのかもしれない。


(う〜ん。でもわざわざ前世とか言う必要もないし。……面倒だし)


「猫かぶってた!」


 エレノアはあっけらかんと笑った。


「……そうか」


 アルベルトはどこか納得したように頷く。


「……ったく。私はこれから着替えるから、そっちには来るなよ」


「あははっ。大丈夫だよ!プライベートは守るからさっ」

「今までだって着替えとかお風呂の最中とか寝てるところには邪魔しなかったでしょ〜?」


「はいはい、それくらいの良識は持ってくれてありがとうっ!!」


 そう力強く吐き捨てながら頭を抱えながら去っていくアルベルトの背中を見送り、エレノアは満足そうに頷いた。


(さて、明日はどうしよう)


 井戸は、しばらく警戒されるだろう。

 同じ手は通用しない。

 でも、それでいい。

 驚かせるなら、その方がやりがいがある。


(あ!窓の外からじっと見つめるのはやってなかったかも!)

(雨が降ってたらさらにムードあるよね)

(できるんだったら、絵とか鏡の中にも入ってみたいんだよな〜)


 次々と悪戯の案が頭に浮かび、自然と頬が緩む。


(ふふ、アルベルトの次の反応が楽しみだな〜)


 幽霊になって、こんなふうに毎日を楽しみに思う日が来るなんて、生きていた頃の私なら想像もしなかった。

 くすり、と小さく笑う。

 明日は、どんな悲鳴が聞けるだろう。

 

◇◇◇


「はぁ~~~~」


 エレノアは執務室のソファへ勢いよく倒れ込んだ。


「つまんな〜い」


 足をぶらぶらと揺らしながら天井を見上げる。

 アルベルトは書類から目を離さない。


「最近、全然驚いてくれないじゃん」


「さすがに、慣れた」


「えぇ~」


「少し前まであんなに『ぎゃあああ!』って叫んでたのに」


「人間、経験すると慣れるものだ」


「はぁ、つまんない男〜」


 エレノアはごろんと寝返りを打つ。


「今日だって、会議中に背後にずっと立ってたのに全然気づかないんだもん」


「気づいていた」


「えっ?」


「気づいていたが、無視した」


「ひどっ!」


 ぷくっと頬を膨らませる


「反応してくれないとさぁ、悪戯のしがいがないじゃん」


「悪戯はしなくていい」


「それは無理〜」


 アルベルトは小さくため息をつき、再び書類へ視線を落とす。

 静かな時間が流れる。


「そういえばさ」


ソファに寝転がったまま、エレノアがぽつりと言った。


「財務官さんの執務室。床板の下に裏帳簿が隠してあったよ」


 アルベルトの手が止まる。


「……裏帳簿?」


「うん。昨日、暇だったから壁抜けして遊んでたら、隠しているところを見つけちゃった〜」

「あとね」


 指を一本立てる。


「近衛騎士さんが勤務中に侍女さんをナンパしてた」

「西棟の中庭で、『今度お茶でもどうですか』って」

「侍女さん、すごく困ってたよ」


「……それは職務怠慢だな」


 さらにもう一本指を立てる。


「あと、大臣さん!」

「あの人カツラだったよ」


「……人の恥部を晒すのはやめとけ」


「えー?おもしろいのになぁ」


 エレノアは文句を言いながらも、楽しそうに笑う。

 アルベルトは額を押さえ、小さく息をついた。


「君は城の秘密をどれだけ知っているんだ」


「だって幽霊だもん。私に隠し事なんて無理だよ〜」


 壁も床も天井も関係ない。

 暇だから散歩しているだけで、勝手に色んなものが見えてしまう。


「他にもいっぱいあるよ?」


 エレノアは悪そうな顔をして口元に手を当てくすくすと笑う。

 アルベルトは静かに考え込み、立ち上がる


「分かった。とりあえず裏帳簿の件は、これから確認に向かう」


「ふ〜ん。私の言葉、聞くんだ?嘘かもしれないよ?」


「……お前は、嘘はつかないだろう」


 その返事に、今度はエレノアがきょとんとする。


「え?私を信じなかったから処刑したのに?」


 その一言に、執務室の空気が静まり返る。

 アルベルトは何も言えなかった。

 胸の奥に沈め続けてきた後悔を、たった一言で突きつけられたような気がした。


「あ……」


 エレノアもすぐに自分の失言に気づく。


「ご、ごめん!違う違う!」


 慌てて両手をぶんぶん振る。


「責めるつもりじゃなかったの!」

「ちょっと思ったことが口から出ちゃっただけ!ごめんね!」


 アルベルトはゆっくりと首を横に振った。


「いや。……事実だ」


 短くそう答えると、静かに部屋を出ていく。

 扉が閉まる音だけが執務室に響いた。


「……やっちゃったなぁ」


(本当に無意識だった)

(だって、今更のことなのに)

(考えないように、してたのに)


 エレノアはソファへ倒れ込み、顔をクッションへ埋めるそぶりをする。

 先ほどの、ショックを受けたようなアルベルトの表情が頭に残る。


「悪気なんてなかったんだよ……」


 ぽつりと漏らした声は、誰にも届かなかった。


◆◆◆


 執務室を出る。

 静かに扉を閉めると、アルベルトは廊下で足を止めた。


 ──私を信じなかったから処刑したのに?


 その一言が、胸の奥へ深く突き刺さる。


「……違う」


 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


 違う。

 信じたくなかったわけではない。


 何度も調べた。

 何度も証言を集めた。

 何度も「何かの間違いではないか」と願った。


 それでも、あの日の私は、すべての証拠を前に処刑を認めた。


「……結局、同じことか」


 どれだけ理由を並べても、結果は変わらない。


 彼女は死んだ。

 私の判断で。

 私の目の前で。


 あの日から今日まで、一日たりとも忘れたことはない。


 首元へ刃が落ちる音も。

 最後まで私を見つめていた彼女の瞳も。

 すべて、鮮明に覚えている。


 それなのに。


 なぜ私は、今になって。


『お前は、嘘はつかないだろう』


 あんなにも自然に、そう口にできたのだろう。


 証拠があったからではない。

 裏帳簿の話も、近衛騎士の話も、ただ後押しになっただけだ。

 気づけば私は、彼女の言葉を疑わなくなっていた。


 幽霊となった彼女は、実に騒がしかった。

 退屈だと言ってはソファへ転がり。

 悪戯を思いついては笑い。

 暇さえあれば城中を歩き回り、面白い話を拾ってくる。


 思ったことは、そのまま口にする。

 笑いたい時は笑い、拗ねたい時は拗ねる。

 失言をすれば、子どものように慌てて謝る。


 そこに計算はない。

 取り繕う姿もない。


 ……嘘をつくには、不器用すぎる人だった。


 いや。

 違う。


 私は今まで、本当のエレノアを知らなかったのだ。

 公爵令嬢として振る舞う彼女しか、見ようとしてこなかった。


 そして、それは私も同じだった。


 彼女の前では、王太子として振る舞わなくてはならないと思っていた。

 威厳を保ち、感情を押し殺し、弱さを見せない。


 だが今は違う。


 呆れ、文句を言い、ときには悪態すらつく。

 そんな自分を、彼女は笑って受け流す。


 王太子ではない、一人のアルベルトとして接してくれる。


 だからだろうか。

 飾る必要が無くなった者同士。

 肩書きも立場も関係のないこの状況で、ようやく互いを知ることができた。


 ……遅すぎた。


 あまりにも。


 だからこそ。


「今度こそ、間違えない」


 その小さな誓いだけが、静かな廊下に溶けていった。


◇◇◇


 数日後。


 執務室の扉が静かに開く。


「お、帰ってきた」


 ソファに寝転がっていたエレノアが、ひょこりと顔を上げた。


「おかえり〜」


「ああ」


 アルベルトは上着を脱ぎながら短く返事をする。


「今日は何してたの?」


「執務」


「私はね〜」


 エレノアは得意げに笑う。


「中庭で鳩が喧嘩してるの見てた」


「……そうか」


「最初は一羽だったのに、途中から仲間呼び始めてね!」

「最後は十羽くらいになって大乱闘!周りの花がもうめっちゃくちゃでね!」


「庭師が気の毒だな」


「ほんとそれ!」


 楽しそうに笑うエレノアを見つめながら、アルベルトは小さく息を吐く。


「……エレノア」


「ん?」


「この前の件だが」


 エレノアはきょとんと首を傾げた。


「この前?」


「……裏帳簿の件だ」


「あーー!」


 ぽんっと手を叩く。


「そうだった!すっかり忘れてた!」


 アルベルトは呆れたように眉を上げる。


「忘れていたのか」


「だって、見つけたこと言ったら終わりだと思ってたし」


 悪びれる様子もなく笑うエレノアに、アルベルトは小さくため息をつく。


「裏帳簿は見つかった。……だが、それだけでは済まなかった」


「え?」


「それをもとに調査を進めた結果、不正経理だけではなく、帳簿の改ざんや虚偽報告も発覚した」

「さらに協力者も判明し、関係者七名を拘束した」


「えぇっ!?」


 エレノアは勢いよく身を起こした。


「そんな大事になったの!?」

「私は隠してるところを見つけただけなのに……」


「十分だ」


 アルベルトは静かに言う。


「君がいなければ、この不正を見つけることはなかった」


 エレノアは目をぱちぱちと瞬かせる。


「だから──」


 一拍置いて、アルベルトは真っ直ぐ彼女を見た。


「ありがとう」


 その一言に、エレノアはきょとんと目を丸くする。

 やがて、照れ隠しをするように頬を掻いた。


「なんか、改めて言われると照れるなぁ」

「えへへ……、どういたしまして!」

「もっと褒めてもいいんだよ?」


「調子に乗るな」


「乗る〜」


 満面の笑みを浮かべるエレノアを見て、アルベルトもわずかに口元を緩めた。

 しかし、その表情はすぐに引き締まる。


「……エレノア」


「ん?」


「一つ、頼みたいことがある」


 エレノアは笑みを引っ込め、アルベルトを見上げた。


「へぇ、珍しいね」


「ああ」


 アルベルトは机の引き出しから一枚の書類を取り出した。

 エレノアは隣へふわりと移動し、書類を覗き込む。


「この男を知っているか」


 指先が示した名を見て、エレノアは目を細める。


「うーん?」

「あっ。この人、お父様の書斎から出てくるところを見たことある!」

「処刑の前日だったかな?」


「ローゼン公爵の書斎か」


「うん。でも、お客さんなんて珍しくなかったから、全然気にしてなかった」


 アルベルトは静かに頷く。


「この男は、今回拘束した者の一人だ」


「取り調べの中で、お前の事件に繋がる証言が出た」


 エレノアの表情から笑みが消える。


「……私の?」


「ああ」


 アルベルトは書類を閉じた。


「実は、処刑の日以降もこの件は調べ続けている」

「証拠は揃っていた。証言にも不自然な点はなかった」

「それでも、何かが噛み合わない。そんな違和感だけが、ずっと残っていた」


 静かな声だった。

 自分に言い聞かせるようでもあった。


「今回の件で、その違和感が一つの線として繋がり始めた」


 アルベルトは真っ直ぐエレノアを見る。


「力を貸してほしい」

「城の中で見聞きしたこと。どんな些細なことでも構わない」

「私が必ず調べる」


 エレノアは少しだけ目を丸くした。

 それから、小さく笑う。


「いいよ。どうせ暇だし」


 その一言に、思わずアルベルトの口元が緩む。


「それに」


 エレノアは笑顔のまま続けた。


「私も知りたい。どうして私は、処刑されなきゃいけなかったのか」


 アルベルトは力強く頷く。


「ああ。必ず真実を見つけ出そう」


◇◇◇


 ──それからの日々は、慌ただしかった。


 エレノアは城内を自由に歩き回り、気になったことをアルベルトへ伝えた。


 貴族たちの何気ない会話。

 普段は立ち入らない場所へ出入りする者。

 以前は気にも留めなかった些細な出来事。


 アルベルトは、その一つひとつを地道に調べ上げていく。

 小さな証言が積み重なり、散らばっていた点は少しずつ線となっていった。

 裏帳簿をきっかけに逮捕者は増え、その取り調べから新たな証言が引き出される。


 そして、その調査の果てに辿り着いた真実は──。


◇◇◇


 アルベルトは、全ての報告書を机へ並べる。

 静かな執務室に、紙をめくる音だけが響いた。


「……なるほど」


 低く漏れた声に、エレノアが首を傾げる。


「何か分かったの?」


「ああ」


 アルベルトはゆっくりと頷いた。


「ようやく、大筋が見えてきた」


 彼は一枚の報告書を手に取る。


「お前は利用されたに過ぎなかったようだ」


「……え?」


 エレノアは目を瞬かせる。

 アルベルトは真っ直ぐ彼女を見つめた。


「奴らの狙いは、最初から──王家だった」


「王家……?」

「どういうこと?」


 アルベルトは机に並ぶ書類へ視線を落とした。


「裏帳簿から資金の流れを追った結果、一部の貴族と神殿上層部の一派が繋がっていた」

「どうやら彼らは長い年月をかけて、王家への影響力を強めようとしていたらしい」

「そのために必要だったのが──」


 アルベルトは静かに息を吐く。


「王家が民の信頼を失うことだった」


「……」


「貴族同士の対立を煽り、王家の失政を誇張し、神託を利用して、不安を広める」

「そうして少しずつ王家への信頼を削り続けていた」


 アルベルトは静かに息を吐く。


「お前の事件も、その一つだ」

「罪のない令嬢を王太子が処刑する。それは奴らにとって、王家の信用を揺るがすことに繋がる」

「民は王家に疑念を抱き、貴族は王家の求心力が落ちたと騒ぎ立てる」

「そこへ神殿が『正しい導き』を示せば、人々の心は王家から離れていく」


 エレノアは青ざめた顔で呟く。


「じゃあ……。私は、そのためだけに?」


「ああ」


 アルベルトは苦しげに頷いた。


「お前は、公爵家の令嬢であり、王太子妃候補だった。立場も知名度も申し分ない」

「だから選ばれた」


 執務室に沈黙が落ちる。

 エレノアはゆっくりと俯いた。


「……そんな理由で」

「そんな……、理不尽な理由で私は、処刑されたの……?」


(ゲームでは、悪役令嬢だったから)

(今の私にその時の記憶がないだけで)

(もしかしたらって、本当に悪いことしてたかもって)

(……ずっと、思ってた)


「悪いことしたからじゃなくて」

「誰かを傷つけたからでもなくて」

「ただ、利用しやすかったから」


 エレノアのかすれた声が執務室に落ちる。

 怒りとも、悲しみとも違う。

 胸の奥がぽっかりと空いたような感覚だけが残る。


 アルベルトは拳を強く握る。


「だが、まだ不可解な点が一つある」


「不可解な点?」


「ああ」


 アルベルトは新たに一枚の報告書を取り出した。


「こちらも、今回押収した資料だ」


 エレノアは身を乗り出し、報告書を覗き込む。


『購入記録』

『納品先 中央神殿』

『浄化液 二十樽』

『儀式用触媒液 十五本』

『購入元 王都南区・闇市』


「……神殿?」


 エレノアは首を傾げる。


「闇市なんて利用するの?」


 アルベルトは静かに首を横へ振った。


「本来ならあり得ない」

「神殿で用いる聖水は、神殿内で清めた水から作られる」

「外部、それも闇市から薬液を購入する理由がない」


 アルベルトは報告書の一行を指でなぞる。

 エレノアは報告書へ視線を落としたまま、小さく呟く。


「でも、それが事件とどう繋がるの?」


 アルベルトはもう一枚の調書を手に取る。


「拘束した者たちは皆、口を揃えてこう証言している」


 アルベルトは淡々と読み上げた。


「『聖女の祈りによって、神意は示された』と」


 エレノアは眉をひそめる。


「聖女って……リリア様?でも、リリア様はそんな人じゃなかったはず」


 エレノアは思わず顔を上げた。


 聖女リリア。

 『運命の聖女~七人の王子に愛されて~』の主人公。

 前世でプレイしたゲームでも、そしてこの世界での記憶の中の彼女も、誰にでも優しく、困っている人を放っておけない少女だった。


 そんな彼女が、誰かを陥れるために手を貸すとは、とても思えない。


「私もそう思う。だからこそ、この薬液が気になっている」


 彼は購入記録を指先で軽く叩いた。


「押収した資料には、薬液の効能まで記されていた」

「効果は強くない。だが、長期間にわたり微量を吸い込み続ければ、思考力や判断力を鈍らせ、暗示を受け入れやすくなる性質がある」


 エレノアは思わず息を呑む。


「そんな……」


「そして神殿では、祈りの儀式のたびに香が焚かれる」


 アルベルトの声は低く、重い。


「私は王太子として、聖女の祈りには何度も立ち会ってきた」


 その声には、深い悔恨が滲んでいた。

 彼は自嘲するように笑う。


「まさか、その場で私自身も薬液を吸わされていたとは思いもしなかった」


 エレノアは言葉を失う。


「だから私は……エレノアは罪人なのだと、提出された証拠を、一度も疑わなかった」


 アルベルトは拳を握り締めた。


「いや……違う」

「疑えなかったのだ」

「それが、私が犯した最大の過ちだった」


 その言葉は、自分自身を責めるようだった。


 その先は言葉にしなかった。

 だが、エレノアにも理解できた。

 祈りに集まる人々は知らぬ間に薬液を吸い込み、『嘘』を疑うことなく受け入れてしまう。

 神殿は、その状態で都合の良い状況を作り上げたのだ。

 エレノアの指先が小さく震える。


「だから……誰も疑わなかったの?」

「ああ」


 アルベルトは苦しげに頷く。


「もちろん、薬だけで人の意思を操れるわけではない。だが、正常な判断を少しずつ曇らせるには十分だったのだろう」

「人は一度『これが正しい』と思い込めば、自ら疑おうとはしない」


 執務室に重い沈黙が落ちる。


「だから奴らは『聖女の祈り』を利用した」


 アルベルトは再び調書へ視線を落とした。


「だが、リリア本人が関与していたとは、まだ断定できない」


「理由は三つある」

「第一に、動機がない」

「聖女リリアは聖女となって以来、王家ともローゼン公爵家とも良好な関係を築いていた。お前を陥れて得られるものが何もない」


「第二に、証拠だ」


 アルベルトは一枚の報告書を取り出す。


「処刑前後の足取り、人の出入り、手紙のやり取り。調べられる限り調べたが、不審な点は一つも見つからなかった」

「そして第三に──」


 一拍置いて続ける。


「拘束した者たちの証言だ」

「奴らは皆、『聖女の祈り』とは言う」

「だが、『聖女が命じた』とは、誰一人証言していない」

「つまり……」


 エレノアは息を呑む。


「リリア様は利用された?」

「ああ。少なくとも、私はそう考えている」


 アルベルトはゆっくりと頷く。


「なら、どうして『聖女の祈り』なんて話が出てくるの?」


 アルベルトは一枚の調書を手に取った。


「そこだけが、まだ分からない」

「祈りそのものに何かがあったのか。それとも、祈りを口実に誰かが人々を誘導したのか」

「……どちらにせよ」


 静かな声で言う。


「詳細は、聖女リリア本人から聞くべきだ」


 エレノアも小さく頷いた。


「うん。そうだね」


 二人は顔を見合わせ、静かに席を立った。

 真実は、もうすぐそこまで迫っていた。


◇◇◇


 神殿の礼拝堂。

 高い天井から差し込む陽光が、静かな空間を照らしていた。


 祭壇の前では、一人の少女が目を閉じ、祈りを捧げている。

 眩い銀色の髪。

 純白の法衣。

 その姿は、まさに聖女と呼ぶにふさわしかった。


 やがて祈りを終えた少女は、ゆっくりと振り返る。


「あら、アルベルト殿下」


 穏やかな笑みを浮かべ、一礼する。


「本日はどのようなご用件でしょうか」


 アルベルトも軽く会釈を返す。


「少し、お話を伺いたく参りました」


「私でお力になれることでしたら、何なりと」


 リリアは静かに頷く。

 その穏やかな微笑みは、エレノアの記憶にある彼女と何一つ変わっていなかった。

 だからこそ、この少女が、誰かを陥れるために手を貸したなど信じられなかった。


(うん。やっぱりリリア様は悪い人じゃないよ)

 

 アルベルトは真っ直ぐリリアを見つめる。


「では、一つ、お聞かせください」

「あなたは聖女となってから、毎日この国の平穏を祈っていますね」


「はい。それが私に与えられた使命ですから」


 リリアは迷いなく答えた。


「その祈りの作法が変わったことはありますか」


 突然の問いに、リリアは少し考え込む。


「……ございます」

「半年前から、神官長より『より多くの人々へ神の加護を届けるため、新たな祈りの儀式を取り入れる』と勧められました」

「私は、それが皆様のためになるのであればと、その教えに従いました」


「どのような儀式だったのですか?」


「祈りの言葉が少し変わったことと、祭壇へ捧げる聖水が新しいものになったことくらいです。それ以外は、以前と変わりありません」


 アルベルトは静かに目を伏せた。


 帳簿に残されていた、不自然な資金の流れ。

 神殿へ運び込まれた闇市の液体。

 拘束した者たちが口を揃えて証言した「聖女の祈り」。

 そして今、神官長が儀式の発案者だったという証言。


 散らばっていた欠片が、一つに繋がった。


「……ありがとうございました」


 アルベルトは深く一礼する。


「お聞きしたかったことは以上です」


「殿下……?」


「詳しいことはいずれ、お話しします。ですが、一つだけお願いがあります」


 アルベルトは静かに告げた。


「あなたは、これまで通り祈りを続けてください」


 リリアは戸惑いながらも、それが正しいことだと頷いた。


「はい」


 礼拝堂を後にする。

 扉が閉まると同時に、エレノアが口を開いた。


「アルベルト。もう分かったの?」


 アルベルトは短く頷く。


「ああ。これですべて、終わりだ」


 二人は足を止めることなく、そのまま城へと向かった。


◇◇◇


 そこから先は、早かった。

 神官長を含む神殿上層部の一派を拘束し、一部の貴族へも捜査の手を広げる。

 押収された帳簿や書簡は、これまで集められた証言と次々に一致した。

 やがて誰一人として、言い逃れはできなくなる。

 こうして、長年水面下で進められていた陰謀は、ついに白日の下へ晒された。


 そして──。


 エレノア・フォン・ローゼンの処刑が執り行われた、あの広場。

 再び、多くの民衆が集められた。


 王家による重大な発表。

 その知らせは瞬く間に国中へ広がり、人々は固唾を呑んで壇上を見つめている。


 やがて、一人の青年が静かに姿を現した。


 王太子、アルベルト。


 広場を見渡した彼は、ゆっくりと口を開く。


「本日は、皆に伝えなければならないことがある」


 静まり返った広場に、その声だけが響く。


「先日、公表した一連の事件について、すでに知っている者も多いだろう」

「神殿上層部の一派と、一部の貴族が結託し、長年にわたり王家を失脚させるため暗躍していた」

「そして、その陰謀の中で、一人の令嬢が罪を着せられた」


 アルベルトは、一度言葉を切る。


「エレノア・フォン・ローゼン」

「彼女にかけられた罪は、すべて虚偽だった」


 広場がどよめく。

 誰もが信じられないという表情で顔を見合わせた。


「彼女は、無実だった」


 その一言が、広場を重い沈黙で包む。

 アルベルトは真っ直ぐ前を見据えたまま、静かに続ける。


「判決を下したのは、他の誰でもない」

「この、私だ」


 誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。


「私は偽りを見抜けなかった」

「真実へ辿り着くこともできず、一人の命を奪った」

「その責任は、決して誰かへ押し付けられるものではない」

「すべて、私が負うべき罪だ」


 アルベルトは深く頭を下げた。


「王太子として」

「そして、一人の人間として」

「心より謝罪する」


 深く頭を下げたまま、アルベルトはしばらく動かなかった。


 誰一人として言葉を発する者はいない。

 重い静寂だけが広場を包んでいた。


 やがて、アルベルトは静かに顔を上げる。


「以上だ」

「これより先は、非公開とする」

「全員、下がれ」


 近衛騎士たちは黙って頷き、民衆を広場の外へ誘導し始める。

 誰もが戸惑いながらも、その場を後にしていった。


 やがて。

 広場に残されたのは、一人の王太子と。

 誰にも見えない、一人の幽霊だけだった。


◇◇◇


 事件は終わった。

 エレノアの冤罪は晴れた。


 アルベルトはゆっくりと処刑台へ歩み寄る。


 あの日。

 エレノアが命を落とした場所。


 その中央で足を止めると、処刑台を見つめる。


「待たせたな」


 エレノアはアルベルトの横に立ち、悪戯げに笑う。


「うん。すごく、待ったよ」


「ああ。すまなかった」


 アルベルトは苦笑しながらエレノアに向き合い、真っ直ぐと見詰める。


「ここまで来るまでに思っていた」

「もし、もう一度やり直せるなら、と」

「だが、時間は戻らない」

「だから私は、前へ進むしかない」


 エレノアは何も言わず、その顔を見つめ返す。


「随分と遅くなってしまったが、君に言いたいことがあるんだ」


 その言葉に、エレノアは首を傾げる。


「ん?なに?」


 アルベルトは静かに片膝をついて、懐から小さな箱を取り出す。

 箱を開けば、一つの指輪が陽の光を受けて静かに輝いた。


 エレノアは目を見開く。


「エレノア」

「私は君を愛している」


 まっすぐに。

 もう何一つ迷いのない目で。

 エレノアへの想いの言葉を告げる。


「どうか、私と結婚してほしい」


 静寂が落ちる。


 エレノアはしばらく呆然とアルベルトを見つめていた。

 やがて、小さく笑う。


「あはは……」


 笑っている。

 けれど、その声は震えていた。


「本当に遅いね」


 ぽろり、と涙が零れる。


「しかも、こんな場所で」


 処刑台を見上げて、苦笑する。


「私、幽霊なんだけど?」

「式も挙げられないし、ご飯も食べられないし、手も繋げないよ?」


 アルベルトは小さく笑う。


「ああ。全部分かっている」

「それでも、お前がいいんだ」


 エレノアは困ったように笑いながら、視線を逸らした。


「まったく……アルベルトってば、ひどいなぁ」


 アルベルトは少しだけ目を伏せる。


「そうだな。本当に、すまない」


 また静かな沈黙が流れる。

 風だけが二人の間を通り抜けた。


 やがてエレノアは顔を上げる。

 涙で濡れたまま、それでもいつものように笑った。


「うん」

「それでも、いいよ」


 一歩、また一歩とアルベルトへ近づく。


「アルベルトは鈍感で」

「カッコ悪くて」

「ひどい男で……」


 少しだけ不満げに。


「でも」

「私の好きな人だから」

「許してあげる」


 そして、満面の笑みを浮かべた。


「ねえ、プロポーズの言葉、もう一回言って」


 その言葉にアルベルトは驚き、ゆっくりと嬉しそうな笑みへと変わる。


「ははっ」

「ああ、何度でも言ってやる」


 噛み締めるように。

 心から大事そうに。

 アルベルトは想いを告げる。


「愛している」

「私と、結婚してほしい」


(あはは!もしかして、イケメンからの溺愛、叶っちゃったのかな)

(死んでるけど!幽霊だけど!)

(ほんと、どっちも正気じゃない!)


(でも……)

(うん、それはとっても)

(嬉しいねっ!)


「はい!喜んで!」


 アルベルトはそっと指輪を持ち上げる。

 エレノアも左手を差し出した。


 触れることはできない。

 だから。


 指輪の輪に、エレノアは薬指をそっと重ねる。


 本当は何も触れていない。

 それでも二人には、確かに指輪がはめられたように見えた。

 二人はしばらく、そのまま動かなかった。


◇◇◇


 その後の人生は色々あった。


 アルベルトの精神がおかしいという噂が流れたり。

 それが原因で皇位継承が少し揉めたり。

 暇すぎて私がちょっと悪霊になりかけたり。

 幽霊仲間ができたり。

 次期皇帝となる養子の子だけは、なぜか私の姿が見えたり。


 ……まあ、とにかく色々あったの。


 でも。

 振り返ってみれば、案外平凡で。

 とても楽しい幽霊生活だったと思う。

 幽霊なのにね?


 そして、時は流れた。


 アルベルトはすっかり年を重ねた。

 白くなった髪に、深く刻まれた皺。

 もう、いつ天に召されてもおかしくない歳だ。


 私は昔と何も変わらない姿のまま、ベッドの隣に座る。

 窓の外では夕日がゆっくりと沈み始めていた。

 アルベルトは静かに目を開き、私を見る。


「ああ……今日もいたのか」


「失礼だなぁ。毎日いるよ?」


「そうだったな」


 ふふっと笑う。


「ねえ」


「ん?」


「長かったね」


 アルベルトは少しだけ目を細めた。


「ああ。君を待たせすぎてしまった」


「本当だよ」


 私は頬を膨らませる。


「もう、おじいちゃんになっちゃったね」


「……すまない」


「ふふっ」


「でも、おじいちゃんになってもカッコいいよ」


 アルベルトは照れくさそうに苦笑した。

 少しだけ沈黙が流れる。

 長年連れ添った二人には、その沈黙すら心地よかった。


 やがてアルベルトはゆっくりと私へ手を伸ばす。

 もちろん、その手は触れられない。

 それでも昔からの癖のように、私の頬へ手を添えようとする。


 私はその手に、自分の手を重ねる。

 触れてはいない。

 それでも、ずっとそうしてきた。


 アルベルトは穏やかに微笑む。


「今度は私が君を、死んでも離さないよ」


 私は少し照れたように笑った。


「ふふ〜ん。望むところだね!」


【追記2026.08.03】

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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少しでも二人の物語を楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
つまり原作だと7か国が神殿により失墜したと?地獄だなあ
原作である『運命の聖女~七人の王子に愛されて~』において、 神殿の企みは出てこなかったんでしょうか? それと、タイトル的に王子と悪役令嬢があと6人ずつ存在するのでは?
なぁ作者よ。残りの6人の王子どこいった?
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