声を置く場所 ― 外伝:身代わり―
声を置く場所 ―外伝:身代わり―
雨の日は、嫌いだ。
校舎の湿ったコンクリートの匂いも、傘の花がぶつかり合う音も、すべてが「あの日」の続きのように思えて。
僕は、校門から少し離れた生垣の陰で、傘を深く差して立っていた。
手紙を出したのは、僕だ。
あの日、僕をいじめから救うために、僕の代わりに拳を振るった「彼」に、どうしても言わなきゃいけないことがあった。
(ごめん。ごめん。僕のせいで、あんなことになって)
(でも、助けて。また、助けて。僕はまだ、ここから逃げ出せていないんだ)
そんな、吐き気がするほど身勝手な「祈り」を抱えていた。
そこに、一人の影が立っていた。
街灯の影、雨に打たれながら、弱々しく立ち尽くしている少年。
一目でわかった。
あの、配信画面の隅っこで、鎖骨だけを映して震えていた彼だ。
僕は一歩、踏み出そうとして……止まった。
遠目からでもわかる。彼の肩は、小刻みに震えている。
傘を握る手は白く強張り、何かに怯えるように、何度も何度も背後を振り返っていた。
その姿は、かつての僕そのものだった。
「……あ」
喉まで声が出かかって、飲み込む。
怖い。
彼が「本物」であることが、怖かった。
もし、今ここで彼に声をかけて。
彼が、あの動画のように「暴力」でしか僕を救えないほど、ボロボロに壊れていたら?
あるいは、僕を救ったことを激しく後悔しているような顔をされたら?
『君のせいで、僕の人生はめちゃくちゃだ』と、その濁った瞳で責められたら?
僕は、それを背負う勇気なんて、一ミリも持っていなかった。
画面越しに彼を見るのは、甘美な救いだった。
自分と同じ傷を持つ人間が、自分より無様に、自分より泥を啜りながら声を絞り出している。その姿を安全な場所から眺めることで、僕はかろうじて「自分の方がまだマシだ」と呼吸できていた。
そんな彼を、現実に引きずり出してはいけない。
いや、彼に「現実の僕」を見られてはいけない。
チャット欄に『特定完了』なんて文字が並ぶのを想像する。
もし、僕がここで彼に接触して、それを誰かに撮られたら。
今度は僕が「暴力配信者の共犯者」として、また標的にされる。
(無理だ。僕には、できない)
僕は、彼に向けていた視線を、無理やり地面に落とした。
泥にまみれた自分の靴。重たく吸い付く、雨に濡れた制服。
僕は、彼に一言もかけないまま、背を向けて逃げ出した。
「……ごめん。ごめん、圭くん」
言葉は雨音に消えた。
僕は、彼を救うためじゃなく、「彼に絶望されたくない」という自分の保身のために、彼を一人で雨の中に置き去りにした。
振り返らずに、駅の雑踏へと駆け込む。
背後には、まだあの街灯の下で、誰が来るかもわからない約束を信じて、震え続けている「身代わり」が残されている。
僕は、彼を見捨てた。
あの日の加害者たちと同じように、自分の安全のために、彼という存在を「消費」して逃げたのだ。
駅のホーム。濡れた制服が、じりじりと体温を奪っていく。
僕はスマホを取り出し、彼のチャンネルを開く。
そこには、昨夜の『おやすみなさい』も言えずに終わった配信の、重たい沈黙だけが残っていた。




