声を置く場所 ―境界―
声を置く場所 ―境界―
安物のWebカメラが回る。
画角は、いつもより少しだけ遠い。
圭は古びた椅子の背もたれに、無理やり体重を預けていた。
そうでもしないと、膝の震えが止まらないからだ。
机の上には、厚手の封筒が一通だけ置かれていた。
「……こんばんは」
短く息を整えるが、吸い込んだ空気が肺の入り口で止まる。
「今日は……相談、というより。手紙です。住所も、僕がいる学校の名前も……全部、書いてありました」
⸻
相談「」
圭は震える指で封を切り、紙を取り出す。
そこには、『助けてもらったお礼を言いたい』『明日の放課後、学校で待っている』と、歪なほど丁寧な文字で綴られていた。
「学校……」
呟いた瞬間、喉の奥に錆びた味が広がった。
脳裏に、廊下の蛍光灯のちらつき、靴箱の嫌な匂い、自分を指差して笑う顔が、フラッシュバックする。
「……っ、げほっ……」
圭は反射的に口元を抑え、椅子の上で身をよじった。
カメラが激しく揺れる。
マイクが、彼の必死で嘔吐感を堪える、生々しい喘ぎ声を拾い続けた。
チャット欄が、その「醜態」に狂喜乱舞する。
『お、パニック障害か?w』
『特定チャンスきたああああ』
『学校名教えろよ、俺が代わりに行ってやるから』
『これ罠じゃね? 呼び出されてボコられるパターンだろw』
「……わ、罠……」
圭の瞳に、激しい猜疑心が宿る。
この手紙は、本当にあの子からのものなのか。
それとも、僕を引きずり出して笑いものにしたい誰かが仕組んだ、残酷な悪ふざけ(コンテンツ)なのか。
レンズの向こうにいる数百人のリスナーの目が、すべて自分を突き落とそうとする刺客に見えた。
『明日、誰か現場から凸(突撃)してよ』
『投げ銭するから、学校行くまで生中継しろよ』
『猫動画貼ってくれ』
圭は画面を見ない。
見たくない。
けれど、指は無意識にマウスを握り、『同接数 210』という数字を凝視していた。
怯えながらも、自分のパニックが数字を押し上げている事実に、吐き気がするほどの興奮と自己嫌悪が混ざり合う。
「……正直に、……言い……ます」
声は、地を這うように低く、掠れていた。
「……信じたい……のかな……でも……信じたら……また、壊される……って……
……なんか……その……線、みたいなところで……止まっちゃう……」
一息。
「……怖い……です……行くのも……行かないのも……どっちも……
……これ……誰が……書いたのか……も……わかんない」
コメント欄は止まらない。
『行かなかったらチキン確定』
『88888がんばれーwww』
『明日雨だし、どうせサボるだろ』
『推しの曲まじ感動した』
圭は、もはや言葉を繋ぐことができなかった。
何か綺麗なセリフで締めようとしたが、喉が熱い塊で塞がっている。
「……今日は……終わり、です」
「おやすみ」と言おうとした。
けれど、震える唇は熱を持ったまま、まともな形を結ばない。
画面の端で
『明日現場で待ってるわw』
『逃げんなよ』
という文字が、呪いのように躍っている。
今夜、眠れるはずなんてなかった。
圭は挨拶を飲み込み、逃げるように、マウスを連打した。
逃げるように、マウスを連打した。
カチッ、カチカチッ。
配信終了。
一瞬で静まり返る部屋。
モニターに映ったのは、青ざめた顔で、自分の腕をかきむしっている中学生の姿だった。
『おやすみなさい』なんて言葉は、口が裂けても言えなかった。
圭は封筒を、ゴミを扱うように机の端へ追いやった。
けれど、視線はそこから離れない。
暗い部屋の中。
パソコンの冷却ファンの唸りだけが、
一定のリズムで鳴り続けていた。




