声を置く場所 ―祈り―
声を置く場所―祈り―
安物のWebカメラが回る。
画角はいつもと同じ。少し低くて、少し近い。
床に座り込んだ中学生くらいの少年。
圭の鎖骨から上だけが画面に収まっている。
いつもなら、机の上には数枚の紙が並んでいる。
けれど今日は、一枚だけだった。
読み始める前にやるはずのことを、何一つできずにいた。
「……こんばんは。今日は、一通だけです」
声は最初から、砂を噛んだように掠れていた。
⸻
相談「」
件名は、空欄だった。
そこに書かれていたのは、自分と同じ十五歳の少年が、親の手で居場所を奪われ、逃げ場のない夜を何度も越えてきた、という事実だった。
圭は紙から目を逸らす。
レンズの少し下、何も映らない虚空を見つめた。
「……全部は、読めません。僕の口から……配信で、軽々しく言っていいことじゃないから」
喉が、ひくりと鳴る。
画面の隅で、視聴者数が増えていく。
『不幸の匂い』を嗅ぎつけた野次馬たちが、獲物を見つけたように集まってくる。
圭は、紙の最後の数行だけを、拾うように読んだ。
『誰かに、知ってほしかった』
『助けてほしいわけじゃない。もう、遅いから』
『僕の分まで、あなたが幸せでありますように』
指先に、力が入り、紙の端が歪に折れた。
声が出ない。
いつもなら、言葉を探す。
「逃げていい」とか、「あなたは悪くない」とか。
けれど、そんな言葉はすべて、画面越しに安全を貪っている者の傲慢に思えた。
沈黙に耐えきれなくなったチャット欄が、急速に荒れ始める。
『証拠あんの?』
『どうせ嘘松(作り話)だろ』
『重いのいらねーよ、もっと面白い相談読めよ』
『不幸自慢で同接稼ぎ乙』
『誰か猫の動画貼ってくれ』
圭は画面を見ないまま、ゆっくりと息を吸った。
「……今、この文字を読んでいる時間だけ。その痛みが……少しだけ。ほんの少しでも、離れていたらいい」
声は、床に落ちるようだった。
「あなたの明日が……今日より、少しだけ。静かでありますように」
それ以上、続きはなかった。
答えでも、解決でもない。
ただ、自分自身の無力感に耐えきれずに放流した、無責任な祈りだった。
画面を文字が流れていく。
『重すぎる』
『嘘っぽくない?』
『幸せを願ってたってw』
その時、一通の投げ銭の通知が、間の抜けた音を立てて響いた。
誰かが、この「悲劇」に代金を支払った。
「……今日は、ここまでです」
震える手で、マウスに触れる。
「……おやすみなさい」
カチッ、という音。
配信終了。
一瞬で静まり返る部屋。
消えたモニターに映ったのは、何も言えなくなった、ただの子供の顔だった。
だが、静寂は訪れない。
暗転した画面の向こうで、DMの受信音が執拗に鳴り続ける。
『さっきのお便り、どこの誰?』
『助けたいから住所教えて』
『あの内容、俺の知り合いに似てる』
好奇心と、無遠慮な詮索。
圭は顔を両手で覆い、しばらく動かなかった。
自分が放った「幸せでありますように」という祈りが、呪文のように頭の中で反響する。
祈ることで、自分だけが「良いことをした」という側へ逃げたのではないか。
救えない人間をコンテンツとして消費し、その余韻で数字を稼いだだけではないのか。
「……っ、う……」
胃の奥から、酸っぱいものが込み上げる。
投げ銭の残響と、止まらない通知音。
誰かの消えない痛みは、祈りなんていう安っぽい言葉では、一ミリも動かせない。
暗い部屋の中、
パソコンの冷却ファンの唸りだけが、罪悪感を煽るように鳴り続けていた。




