正しさの温度
タイヤにパリッとヒビが入っている。このくらいなら大丈夫か。少し黒くなった指先をズボンに拭い、僕らは海岸線に足を運んだ。
空に広がる雲を照らす街あかりも吸収してしまった漆黒の海を前に、歩みを止めた。時折砂浜に打ち付ける波の音や、遠くの港にある赤や緑の灯台の光が、辛うじて目の前に広がるのは「海」だということを認識させてくれたが、瞼を閉じても開いても、ずっと閉じている状態にいると錯覚してしまうほど、そこは深くどこまでも広がる漆黒の空間であった。
「夜の海ってぜんぶ吸い込んでしまいそうね」
海岸を囲む背の低いコンクリートの塀に、彼女は一向に近づこうとはしなかった。ただ、「怖い」と呟き、どこか落ち着かない様子だ。このまま僕を全て吸い込んで欲しい。だって、海はみんなの生みの親なんだから。でも、それって死にたいということではない。隣にいる彼女が猫になって、僕らの後ろにいる人たちは道端に生えている草花になって、「あいつ」はヤギになって高山で一生を終え、そして僕はサボテンにでもなって一生水のない暮らしを絶えぬき、世界がなくなる頃——核戦争?隕石?それは今の僕には関心がないことだった——、誰もいない荒野で、少しずつ、時間をかけてしわくちゃになり、やがて枯れたい。それはつまり、死ぬということなのかもしれないが。
僕は車の扉を開け、アスファルトにタバコを押し付けて残火を消した。真っ赤に燃えた灰は、線香花火のように八方へ広がり、海風に吹かれて静かに黒い灰へと姿を変えていった。
灰入れを持ち合わせていなかった僕は、手に持った吸い殻を中指と人差し指でつまんだまま、暫く吸い殻をどう処分しようか考えた。アスファルトに投げ捨ててしまっても、どうせ雨風に吹かれてやがては完全にチリジリになるんだから、その辺に捨ててもいい。消えなくたって、この広い駐車場のほんの一部に捨てられた吸い殻に、誰が気を留めるだろう。でもそれって紙屑が限りなく小さくなっただけで、本質的にはポイ捨てと変わんないじゃん?
「すててもいいじゃない。」
僕が黙ってつまんでいる吸い殻を横目に、助手席に座る彼女はそう静かに呟いた。そうしようと一度は決心がついたものの、実際そうすると僕の心が落ち着かないらしい。僕は彼女の言葉にただ相槌だけをうち、ドリンクホルダスッと落ち着く数日前にコンビニで購入した微糖コーヒーの空き缶に目をうつす。その空き缶を手に取り、中へ吸い殻を入れて再びアルミのキャップを閉めた。
彼女は先週、「あいつ」と交際を始めた。その事実はさっきここに来るまでの道中で、彼女に伝えられた。車のエンジンをかけ、全開した車窓から、しばらく夜空を見上げてみた。空高くに薄く細長い雲がばらつき、星をさらっと隠している。
星座はわからない。小学校の頃、理科の授業で確かに習ったが、なんでテキトーに並んでる星に名前なんかつけたんだろう、しかも誰がつけたかわからない名前なら、自分でつけたっていいじゃん、まともに勉強しないまま父親よりも背が高くなった。いつの日からか、夜空は僕には規則性を失った現代美術的な何かにしか見えなかった。見上げると勝手に光ってるし、鬱陶しいとまで思っていた。少なくとも、僕がいる地上から見る宇宙は。それでも、どうやら宇宙は〈コスモス〉らしい。
*
先週末、友人と飲むために繁華街に出かけた。数軒のみ歩いた後、僕らは木の傍に設置された円形のベンチに腰掛け、酔いを覚まそうとした。友人が、「人を見てるとさ、意外と面白いもんって転がってるもんだぜ」というので、その面白いものを早速拾ってみようと、僕らは煙草に火をつけ街ゆく人を眺めることにした。すると、二人の若い男女が僕らの前を通り過ぎ、目の前の階段を降りていこところだった。女は男の方に身を寄せながら、歩いていく。
「てかあたしたち、なんで手を繋いでんの?私彼氏いるよ?」
「え、知らないよ、お前が指絡めてんじゃん。もう彼氏と別れちゃいなよ」
友人と僕は互いに目を合わせ、同時に「ほら、きたっ」と目を見開いた。少しだけ煙草が甘かった。
*
あの男は、その後あの女と寝たのだろうか。はたまた彼女が酔いを覚まして正気に戻ったのだろうか。いや、彼女が悪いわけではなく、彼女の彼氏は本当は暴力気質で困っていたから、女は男に逃げ込んだのだろうか。今助手席に座る彼女は恋人がいるらしい。僕はあの時の彼のような言葉は出てこない。だからと言って、彼氏いるなら弁えろよとも言えない。このままいてくれてもいいよとまで思っている。でも、じゃあ付き合ってよと言われると、それも違う。
あの時のことを思い出し、それからしばらく自分の頭が虫に食われたように、言葉が次々とつぶされていった。あてもなく、海沿いの県道をひたすらに進む。気づかれないように彼女の様子を伺うと、彼女はドアのヘリに肘をつき、外を静かに見つめている。「コンビニ寄ろっか」目の前に出てきたコンビニは、僕らのお父さんかお母さんかであるかのように、やけに暖かく迎えてくれていた。
店内には頭の薄いメガネをかけた店員が商品棚に物を詰めるわけでもなく、庭に植えられた草の手入れでもするかのように、商品ひとつひとつをいじっていた。僕は500mlの水を一本を手に取り、レジへ向かった。店員が僕の存在に気づき、気だるそうにこちらに小走りしてくる時、「なんかいる?」と彼女の方を見た僕は、おそらく普段彼女に向ける顔と何かが違っていたのだろうと思う。少なくともその違和感は、彼女の反応からは伺うことはできなかったのだが。「いらーん」とレジ横の割引された水羊羹を手に取りながら、彼女はそう言った。
ありがとうざいました〜
僕らは車に乗るわけでもなく、コンビニと駐車場の間に並ぶ銀色の金属に横並びになって腰掛けた。別に喉が渇いているわけではないが、ペットボトルのキャップをチチチっと鳴らして、水を一気に二度、三度飲み込んだ。
「ゆーくん、タバコなんてやめなよ、水飲んだってなんも変わんないんだからね」
水を飲むとぜんぶリセットできるような気がする。そんなことを前に彼女に話したと思う。あれはいつだった?一緒に飲み歩いた帰り?校門で一服していた時にばったり出会したあの日?
「いや、ミヤノだって酒とか飲むじゃん?あんな感じ。アルコール摂取もケンコウヒガイが伊達じゃないんだぜ」
「でもさ、ゆーくんはタバコだけじゃなくてお酒それなりに飲むくない? あたしのことなんか気にしてるよゆーあんの?」
ゆーくん、ユークン、yuーkun。今までミヤノにそう呼ばれてたけど、よく考えたらそんな呼び方、恋人にする呼び方みたい。でも、僕はミヤノを異性としてみてるからこのことがちょっと何処かに引っかかってる?そっか、友達だもんな。親友ではないけど、友達。僕が彼女を苗字で呼ぶ事実も、これなら辻褄が合う。しかし、一体彼女が誰かと結婚したら、彼女のことをなんと呼ぶんだろう。そのままミヤノ?いや、そもそも僕らはその時まで関係はある?学生である今だから、いま一緒に過ごしてるわけで。関係ないじゃん、卒業したらお互い別々。僕がタバコを吸い続けて肺がタバコでいっぱいになって呼吸が全部タバコの煙になったタバコ人間に進化しようが、その前に普通にガンになろうが、僕の目の前に伸びる一直線上に、彼女が並走し続けるわけではない。それなら、いまこの瞬間だって離れているはずだし、離れはじめていなければならないはずなんだから。それは口に出さないことにした。ここで、「カレシ、大丈夫なの?」と聞くことが道徳的には正しいことなのかもしれない。でも、小学校の時にそんなことは習わなかった。正しいって、何?ここがもっとそれらしい場所なら百歩譲って正しいとは思う。
少しだけ、道路の先に広がる海を見た。でもやっぱり、ちょっと明るい場所で海を見たって、海と空の境目はわからない。余計にわからない。隣から、甘いフローラルの香りがふわっと漂ってきた。
「水、おいし?」彼女は小声で訊いた。波の音に消されない程度に。
「うん、美味しいよ。」僕はそれ以上、何も言わなかった。
これは「あいつ」にとったら気を悪くすることかもしれないし、自分がいま正しい選択をしたかと脇の草むらで鳴き続ける名前も知らない虫に聞かれても、「えぇ、このペットボトルに誓って」としか返答できない。夜空はさっきよりもはっきり僕に地上を照らし、薄く細長い雲は次の場所へ、次の場所へと、今では遠くで山と語り合おうとしている。それに比べて僕らはずっと同じ場所に居座っている。あの雲と僕らを取り巻く時間は等速であるはずだが、どうも違うらしいと車のエンジンが訴えている。
「どうして海に来たいと思った?しかも夜に。」
「んー、なんでだろ。でもそれはユウカとかメグとかじゃダメだった。」
じゃあ、彼氏とくればよかったじゃん? ウチのカレシ車持ってないんだよ。じゃあレンタカーとか借りたらよかったじゃん? (……) 恋人のためならなんでもするんだよ、ましてや付き合いたてなんだから。
「…でも、それは違う。」
「——」
「あなたがちょうどいいんだ。今夜は。」
彼女は銀色の金属に寄りかかり、添えた手を見つめている。コンビニの明かりのせいなのか、夜が黒いせいなのか、細いその手はいつもより白く光っていた。僕は何も言い出せず、ペットボトルを膝にトン、トンと叩きつけた。
そっか
彼女に聞こえたかどうかわからない声で、僕はそう言った。詰まっていた口の中からかろうじて言葉を取り出し、誰にもわからないくらい、小さく一呼吸おいた。
「車、乗ろう」
数々の形のない言葉が湧き出る中で、一番奥で煩くうねる言葉を選び取った。それは正しいことだったのかもしれない。正しいことをしても、宇宙は混沌としたままだし、海と空の境目は、やっぱり夜に溶け込んだままだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




