悪夢の始まり
2年生という時間もあっという間に過ぎていき、季節は夏になっていた。
「暑い……」
ちょうどお盆の季節だった。そして、俺は暇であった。思縁と穂乃果は、家族ぐるみで海外旅行、というよりは修行の一環に海外でボランティアに出かけているらしい。歩もとっくの昔に本格的に受験勉強を始めたらしくて、塾の主催する勉強会に缶詰めだそうだ。
俺はどうするかなあ。クーラーの利いた部屋に寝転んで、ふと今日までの日々を思い返す。
俺は、家族を事故で亡くしてからは、ずっと妙な注目を浴びていて、それがすごく嫌で、周りの人とは近しい距離には入らないようにしていた。そんな俺を変えたのは、思縁だった。
彼女は世話焼きで、本気で神様とやらになろうと信じている。実際に努力もしているし、生来の明るさから人望も厚い。いまでも彼女はなんというか、俺には凄すぎて、眩しいと思う。
俺は彼女ほど信心深くもないし、努力家でもないし、カリスマもない。でも、彼女は俺を彼氏に選んでくれた。それは、とても嬉しい。ここ半年ほど彼女や、穂乃果や歩と一緒に居て、考えていたことがある。俺も努力家になった方がいいのかもしれんとか、思縁に見合う男になることを目指すか、とかだ。
だが俺は、あえてあまり変わらないことを選ぼうと思う。
俺の周りには凄い人が多い。クラスの連中もみんなすごいが、医者を目指す歩、心臓の手術や余命を乗り越えた穂乃果、そして思縁。みんな、頑張っている。
俺からすれば、頑張りすぎているように思う。穂乃果は自分の命がかかっているのだから仕方がないとしても、なぜそこまで他人のために頑張れるのかまでは、俺には理解が及ばなかった。きっと、相当きついはずだ。俺はそんなとき、三人に肩の力を抜けよと言ったり、気分転換に誘ったりする、普通の人の基準、としての役割をできる人でありたいと思う。
歩にゲームに誘ったり、穂乃果に志望校の相談を聞いたり、思縁に笑いかける。そんななにげない日常を積み重ねれる人になりたいと、俺は思う。
だが俺の、日常を積み重ねたいという気持ちがかなわない夢となることは、この時の俺には知る由もなかった。
「……」
「ん、なんだ」
電話がなっていた。時刻は昼の12時半ほどで、昼飯を買いに行くかなどと考えていた。思縁の行った国では17時くらいだろうか。
着信元は穂乃果だった。
「もしもし、穂乃果かどうしたんだ」
「大変なことになりました。思縁さんが、思縁さんが」
いつにもなく慌てている穂乃果に、並々ならぬ事態が起きていることを察した俺は、じっとりと嫌な汗が額ににじんだのを確認した。
……。
嘘だろ、と思った。
思縁は旅行先で誘拐されたと、穂乃果から電話を受けた俺は、ただ呆然とするほかに無く、不安と恐怖、そして思縁への心配が混ざった気持ちの悪い感情が、夏の青空に吸い込まれていった。
10時間ほどたった後、日本では午後十時ほどであった。気が気ではなかった俺に、また電話が来た。
「穂乃果か。思縁は大丈夫なのか」
食い入るように、電話の向こうの穂乃果に話しかける。受話器からは泣いているのか、嗚咽交じりのうろたえたような、声が聞こえてくる。
「思縁さんは生きているみたいです。犯人は自殺をしました。ただ……」
「思縁と話がしたい。声を聞かせてくれないか」
「……」
「? どうしたんだ、穂乃果。命に別状は無いって、さっき言ったよな。思縁はそこに居るんだろ。声を、聴かせてくれ」
「それが、ダメなんです。思縁さんは、意識不明の状態なんです」
「一体、思縁の身に何があったんだ。いや、どうしてそうなったんだ」
「詳しい話はまた後でします。私と思縁さんのお母さんも立て込んでいて、まずは事件の解決と、帰国してからまた、お話しします。」
「そうか。分かった。俺、自分の都合で聞いてばっかりでごめん。穂乃果もつらいだろうし、怖かったよな。ごめん。また帰ってきて、気持ちや状況の整理ついたら、何があったのかを教えてくれ」
「はい、ありがとう。夏之夢さん」
穂乃果はそう言って、電話を切った。今にも泣きそうな声だった。サイレンの音や、聞きなれない異国の言葉が勢いよく飛び交っているのが聞こえた。
俺は、無力だ――。
そんな、気持ちで、いてもたってもいられないまま数週間が過ぎた。