徒花、手折られ
◆
朝露が庭の紫陽花を濡らしていた。
茜は縁側で煎茶を啜る。
六十二歳。
昨年定年退職した夫との二人暮らしは、穏やかだが物足りない。
隣の部屋でテレビの音がする。
株価と政治のニュース。
退職後も世間を追い続ける夫を横目に、茜は庭を眺めた。
白いサツキが満開だ。
去年植えた山茶花も根付いた。
手入れの行き届いた庭が、茜の性格を映し出す。
玄関のチャイムが鳴った。
九時前。
宅配便には早い。
「はい」
インターホンに聞き慣れた声が返ってきた。
「おばあちゃん、俺」
孫の翔太だった。
高校二年生。
娘の亜希子の一人息子だ。
最近、訪問が増えている。
「翔ちゃん、今日は学校は?」
「午後から。ちょっと寄っただけ」
玄関を開けると、紺色の制服姿の翔太が立っていた。
身長は百七十五センチを超える。
顔は亜希子に似て整っているが、陰がある。
「上がって」
「お邪魔します」
翔太は疲れた笑みを浮かべた。
制服は乱れ、ネクタイが緩んでいる。
髪も跳ねていた。
茜は何も言わず台所へ向かった。
「何か食べる?」
「いい」
「遠慮しないで。トーストくらいなら」
「じゃあ……お願いします」
食パンをトースターに入れる。
バターとイチゴジャムを用意した。
コーヒーではなく、牛乳を温める。
翔太はまだ子供だ。
リビングに戻ると、翔太はソファに沈み込んでいた。
目を閉じて小さく息をついている。
「疲れてるの?」
「ちょっと」
短い返答に何かが滲む。
トーストが焼けた。
茜は盆に載せて運んだ。
翔太は小さく礼を言った。
「お母さんとまた何かあったの?」
翔太の手が止まった。
トーストを口に運ぶ動作が中断される。
「……別に」
図星だった。
亜希子は厳格な教育ママだ。
成績も習い事も交友関係も、すべてを管理する。
愛情は確かだが、息苦しい。
茜は娘の教育方針に眉をひそめてきた。
「無理しなくていいのよ」
「してない」
「そう?」
茜は追及しなかった。
翔太が話したくなれば話すだろう。
翔太は黙々と食べ終えた。
牛乳を飲み干す。
「ここは落ち着く」
その言葉に茜は複雑な感情を覚えた。
嬉しさと不安。
十七歳の少年が祖母の家を避難所にしている。
それは健全なのか。
「いつでも来ていいわよ」
結局、茜はそう言った。
孫の寂しげな表情を見ると、他に言葉が見つからなかったのだ。
◆
夕方、亜希子から電話があった。
「お母さん、翔太がそちらにお邪魔してません?」
「今朝来たわよ。もう帰ったけど」
「また? 本当に迷惑かけてすみません」
亜希子の声に苛立ちが滲む。
「迷惑なんかじゃないわ。でも、あの子大丈夫?」
「大丈夫じゃないです。今日も塾サボったみたいで」
茜は眉をひそめた。
午後から学校は嘘だったのか。
「最近反抗的で。成績も下がってきて。来年は受験なのに」
亜希子の愚痴が続く。
茜は黙って聞いた。
娘の焦りは理解できる。
しかし、その焦りが翔太を追い詰めている。
「あまり追い詰めない方が……」
「お母さんは甘いのよ。だから私がしっかりしないと」
「でも」
「翔太には期待してるんです。いい大学に入って、いい会社に就職して。それが幸せへの道でしょう?」
亜希子の価値観は昭和のままだ。
茜は溜息をついた。
「幸せの形は人それぞれよ」
「綺麗事です。学歴がなければ選択肢が狭まる。それは事実でしょう」
会話は平行線で終わった。
茜は窓の外を見つめる。
夕焼けが西空を赤く染めていた。
美しいが、不穏な色だ。
夜、夫と夕食を取りながら翔太の話をした。
「そうか、翔太も大変だな」
夫の口調はあっさりしている。
「もう少し心配してあげたら?」
「心配してるさ。でも、親子の問題に口出しはできんだろう」
「そうだけど」
夫は新聞を読みながら味噌汁を啜る。
いつもこうだ。
家族の問題にも距離を置く。
食後、茜は一人で皿を洗った。
翔太は明日も来るだろうか。
来週も、来月も。
この関係はいつまで続くのか。
流しの水音が静かに響いた。
◆
梅雨が明けた。
今年は短い梅雨だった。
七月に入ってすぐ、真夏の暑さがやってきた。
蝉の声が耳を劈く。
翔太の訪問は増えていた。
週に三回、四回。
時には毎日。
「おばあちゃん、今日も来ちゃった」
挨拶は形式的になっていた。
翔太は当然のように入ってくる。
「暑いでしょう。エアコンつけるから」
茜は違和感を押し殺した。
内心では戸惑いが広がる。
これは普通なのか。
祖母と孫の適切な距離なのか。
翔太は茜の家で宿題を始めた。
リビングのテーブルに問題集を広げる。
「おばあちゃん、ここの公式が分からない」
「どれどれ」
茜は元教師だった。
高校で国語を教えていたが、基本的な数学なら分かる。
教員時代の血が騒ぐ。
二次関数の問題。
放物線のグラフを描きながら説明した。
「頂点の座標はこうやって求めるのよ。平方完成を使って……」
「ああ、なるほど」
肩が触れ合う距離だ。
翔太の体温が伝わる。
若い男性の匂い。
シャンプーの香りに汗が混じる。
茜は無意識に身を引いた。
「どうしたの?」
「いえ、何でもない」
翔太の瞳が傷ついた色を見せた。
大きな瞳。
亜希子譲りの二重瞼と長い睫毛。
顎のラインがしっかりしてきて、青年の顔になりつつある。
茜は気づかないふりをした。
気づいてはいけない。
これは孫だ。
血の繋がった娘の息子だ。
「続き、やりましょう」
「うん」
勉強は順調に進んだ。
翔太は理解が早い。
本来なら成績優秀なはずだ。
「集中できないんだ」
休憩時間、翔太が呟いた。
「何か悩み事?」
「……いろいろ」
それ以上は聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
夕方、翔太は帰り支度を始める。
最近は亜希子が迎えに来ることもあった。
「翔太、いるんでしょう。早く出てきなさい」
玄関先での母子のやり取りは険悪だ。
「分かってるよ」
「宿題は? 塾の予習は?」
「やってる」
「嘘ばっかり。家で全然勉強してないじゃない」
亜希子の小言が続く。
翔太は無表情で聞いている。
諦めたような顔だ。
二人が帰った後、茜は玄関に立ち尽くした。
あの母子の関係は修復できるのか。
自分は何をすべきか。
答えは見つからない。
◆
八月に入った。
翔太は夏期講習を理由にほぼ毎日来るようになった。
夏期講習など受けていない。
茜も薄々気づいていたが、指摘できなかった。
ある日の午後、翔太がいつもと違う様子で現れた。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
「大丈夫。ちょっと寝不足で」
翔太はソファに倒れ込んだ。
目の下にクマがある。
「ちゃんと寝てる?」
「……最近、眠れなくて」
茜は心配になった。
思春期の不眠は珍しくないが、翔太の様子は尋常ではない。
「何か心配事があるなら、話してみて」
「おばあちゃんには関係ない」
「関係なくないわ。あなたは私の孫よ」
翔太が顔を上げた。
その瞳に見慣れない感情が宿っている。
それが何か、理解できない。
理解したくない。
「おばあちゃん」
「なあに?」
「……なんでもない」
翔太は首を振って勉強を始めた。
明らかに集中できていない。
ペンを持つ手が震えている。
「体調が悪いなら、今日は帰った方が」
「帰りたくない」
即答だった。
強い口調に茜は驚いた。
「でも」
「ここにいたい。ダメ?」
子供のような問いかけ。
しかし、目は子供のそれではない。
茜は動揺を隠すように台所へ逃げた。
「お茶、淹れ直すわね」
台所で一人になると深呼吸した。
何かがおかしい。
翔太の様子も、自分の反応も。
でも、それが何なのか考えたくない。
お茶を淹れて戻ると、翔太は問題集を閉じていた。
「やっぱり集中できない」
「そう」
二人で黙ってお茶を飲んだ。
エアコンの音だけが響く。
外では蝉が鳴いている。
真夏の午後の重い空気。
「おばあちゃん、髪切った?」
突然の質問に戸惑った。
「え? ああ、少しね。先週美容院に行って」
「似合ってる。若く見える」
褒め言葉に複雑な気持ちになる。
孫が祖母の外見を褒める。
不自然ではないはずだ。
しかし、翔太の眼差しには何か別のものが宿っていた。
「ありがとう」
それだけで精一杯だった。
翔太は満足そうに微笑む。
その笑顔が茜の胸を締め付けた。
◆
八月半ば、お盆の時期。
親戚の集まりは今年もない。
コロナ以降、大人数で集まる機会は減った。
翔太は相変わらず毎日来ていた。
亜希子も諦めたようだ。
ある午後、翔太は茜の隣に座り、古いアルバムを見ていた。
「これ、見てもいい?」
「どうぞ」
若い頃の写真。
結婚式の写真。
亜希子が生まれた頃の写真。
セピア色になりかけた思い出たち。
「おばあちゃん、昔から綺麗だったんだね」
翔太は写真を見つめる。
二十代の茜。
確かに若く美しかった。
今とは別人だ。
「そんなことないわ。普通よ」
「普通じゃない。本当に綺麗」
翔太のページをめくる手が止まった。
三十代の茜の写真。
亜希子の七五三。
和服姿の茜が幼い亜希子の手を引いている。
「これ、母さん?」
「そうよ。可愛かったでしょう」
「おばあちゃんの方が綺麗」
おかしな比較だった。
母と祖母を比べて、祖母が綺麗だと言う。
茜は苦笑した。
「親子を比べるものじゃないわ」
「でも、本当のことだから」
翔太はさらにページをめくった。
四十代、五十代と時間が進む。
写真の中の茜が少しずつ年を重ねていく。
「今も綺麗だよ」
翔太の手が茜の手に重なった。
一瞬のこと。
すぐに離れたが、温もりは残る。
動悸が早くなった。
これはいけない。
「翔ちゃん」
「ん?」
「私はあなたのおばあちゃんよ」
意味深長な言葉が口をついて出た。
なぜそんなことを言ったのか分からない。
翔太は首を傾げて微笑んだ。
「知ってる」
その笑顔が茜を不安にさせた。
言葉の裏に別の意味が隠されているような気がする。
アルバムを閉じて、翔太は立ち上がった。
「今日はもう帰る」
「そう」
いつもより早い帰宅。
茜はほっとすると同時に寂しさも感じた。
矛盾した感情に自分で驚く。
玄関で靴を履きながら、翔太が振り返った。
「明日も来ていい?」
「……ええ」
断れなかった。
断る理由もない。
翔太は嬉しそうに笑って帰っていった。
夜、夫が寝た後、茜は一人で考えた。
孫の行動をどう解釈すべきか。
思春期の不安定さか。
母親への反発か。
それとも──
考えたくない可能性が頭をよぎる。
鏡に映る自分の顔を見つめた。
六十二歳。
同年代と比べれば若々しいかもしれない。
肌も髪も手入れを怠らなかった。
しかし、孫にとっては祖母でしかないはずだ。
違う、と首を振った。
考えすぎだ。
翔太はただ居心地のいい場所を求めているだけ。
それ以上の意味などない。
しかし、手に残った温もりがその考えを否定していた。
◆
九月に入った。
新学期が始まったが、翔太の訪問は続く。
学校帰りに寄るようになり、制服姿で現れることが多くなった。
九月の第二週、久しぶりの雨が降った。
残暑を和らげる恵みの雨だ。
その日、翔太はずぶ濡れで現れた。
「傘は?」
「忘れた」
明らかに嘘だった。
翔太の鞄には折りたたみ傘が入っているのを知っている。
しかし指摘しなかった。
「とにかく中に入って」
茜はタオルを取りに行った。
戻ると、翔太は玄関に立ったままだった。
水滴が床に落ちている。
制服が肌に張り付いて、体のラインが露わになっていた。
「とりあえず、お風呂に入りなさい」
「いいの?」
「風邪ひくわよ」
翔太は素直に従った。
脱衣所に向かう後ろ姿を見送りながら、茜は複雑な気持ちになる。
翔太が風呂に入っている間、制服を洗濯機に入れた。
鞄を確認すると、やはり折りたたみ傘があった。
わざと濡れてきたのだ。
なぜ?
亜希子に連絡すべきか迷った。
結局しなかった。
何と説明すればいいのか分からない。
亡き舅の部屋着を用意して、脱衣所の前に置いた。
「着替え、ここに置いておくわね」
「ありがとう」
風呂場から若い声が返ってきた。
まだ変声期を完全に終えていない声。
少年と青年の間の声だ。
リビングでお茶の準備をしていると、翔太が現れた。
借りた部屋着は少し大きいが、違和感はない。
もう立派な青年の体格だ。
髪がまだ濡れていて、雫が垂れている。
「ドライヤー使う?」
「大丈夫」
翔太は茜の向かいに座った。
いつもは隣に座るのに、今日は違う。
距離を置いているように見えた。
二人で黙ってお茶を飲む。
雨音が窓を叩いている。
時折、遠くで雷が鳴った。
「おばあちゃん」
翔太が口を開いた。
真剣な表情だ。
茜は嫌な予感がした。
「なあに?」
「俺、おばあちゃんのこと好きだよ」
一瞬、安堵した。
普通の孫から祖母への愛情表現。
茜も微笑んで答えた。
「私も翔ちゃんのこと大好きよ」
「違う」
翔太の声が急に大人びて聞こえた。
「そういう意味じゃない」
茜の手が震えた。
湯呑みを置く。
カタンと音がした。
雨音が急に大きく聞こえる。
「翔ちゃん、それは……」
「分かってる。おかしいって。変だって。でも、どうしようもないんだ」
翔太の目に涙が浮かんでいた。
必死に堪えている。
茜は言葉を失った。
否定すべきだ。
叱るべきだ。
しかし、できなかった。
孫の苦しみが痛いほど伝わってきたから。
「いつから?」
聞いてはいけない質問だった。
しかし、聞いてしまった。
「分からない。気づいたら……夏休みくらいから、かな。おばあちゃんのことばかり考えてる」
翔太は続けた。
堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「母さんは俺を型にはめようとする。成績、進路、全部決められてる。父さんは仕事ばかりで、俺のことなんて見てない。学校も息苦しい。友達にも本音を言えない」
茜は黙って聞いていた。
「でも、ここは違う。おばあちゃんといると、俺は俺でいられる。素の自分でいられる。認めてもらえる」
「それと、その……気持ちは別でしょう」
茜がやっと口を開いた。
「別じゃない。全部繋がってる」
翔太は立ち上がった。
テーブルを回って茜に近づく。
茜は動けなかった。
金縛りにあったように椅子に座ったまま。
「おばあちゃん」
翔太の手が茜の頬に触れた。
若い手。
震えている手。
温かくて、少し湿っている。
「やめなさい」
やっとの思いで言葉を絞り出した。
声に力がない。
翔太は手を引いた。
しかし、その瞳は諦めていなかった。
むしろ決意を新たにしたような光を宿している。
「ごめん。でも、この気持ちは変わらない」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
二人とも飛び上がるように振り返った。
「翔太? いるんでしょう?」
亜希子の声だった。
◆
翔太は慌てて立ち上がった。
借りた部屋着のままだ。
「着替えが……」
「洗濯機の中よ。でも、まだ濡れてる」
茜も立ち上がり、玄関へ向かった。
亜希子を待たせるわけにはいかない。
「亜希子、ちょっと待って」
ドアを開けると、亜希子が傘を差して立っていた。
スーツ姿。
仕事帰りらしい。
「お母さん、翔太いるでしょう? 学校から連絡があって。また早退したって」
亜希子の目が鋭い。
母親の直感か、何かを察しているようだった。
「雨に濡れて来たから、今着替えてるの」
「着替え?」
亜希子は訝しげな顔をした。
その時、翔太が奥から出てきた。
祖父の部屋着姿。
髪はまだ少し濡れている。
「何してるの!」
亜希子の声が跳ね上がった。
「濡れただけだよ」
「学校は? なんで早退したの?」
「体調が……」
「嘘ばっかり!」
母子の言い争いが始まった。
茜は二人の間に立った。
「亜希子、落ち着いて。濡れて風邪でもひいたら大変でしょう」
「お母さんは甘すぎます!」
亜希子の矛先が茜に向いた。
「だから翔太が甘えるんです。もう高校生なのに」
「高校生だって、息抜きは必要よ」
「息抜き? 毎日入り浸って、それが息抜きですか?」
亜希子の言葉は正論だった。
茜は反論できなかった。
結局、翔太は濡れた制服を持って、亜希子の車で帰っていった。
去り際、翔太が振り返った。
その目が何かを訴えていた。
二人が去った後、茜はリビングに戻った。
テーブルの上には飲みかけのお茶が残っている。
翔太が座っていた椅子にはまだ温もりが残っているような気がした。
翔太の告白が頭の中でリフレインする。
『俺、おばあちゃんのこと好きだよ』
『そういう意味じゃない』
茜は頭を抱えた。
どうすればいいのか。
誰に相談すればいいのか。
夫?
亜希子?
誰にも言えない。
言えるはずがない。
窓の外では雨が強くなっていた。
────第八話 距離
翔太の告白以来、茜は意識的に距離を取ろうとした。
翔太が来ても二人きりにならないよう気をつけた。
夫がいる時間を見計らって用事を作った。
しかし、翔太はそれを察してか、より頻繁に、より長く滞在するようになった。
失われる時間を惜しむかのように。
「今日は早く帰りなさい」
「まだいいでしょ」
「お母さんが心配するわ」
「してないよ。どうせ塾だと思ってる」
翔太の言葉には投げやりな響きがあった。
その中に潜む寂しさを、茜は見逃せなかった。
十月に入り、秋が深まってきた。
庭の金木犀が香り始めた。
甘い香りが感傷を誘う。
ある午後、翔太は縁側で本を読んでいた。
最近買ったという文庫本。
表紙を見ると恋愛小説だった。
茜は少し離れた場所で編み物をしていた。
翔太の冬用のマフラー。
去年も編んだ。
孫への普通のプレゼント。
それ以上の意味はない、と自分に言い聞かせながら。
平和な時間。
このままなら何も起こらないかもしれない。
告白も、あの雨の日の出来事も、すべて夢だったかのように。
「おばあちゃん」
「何?」
編み針を動かしながら答えた。
顔は上げない。
「俺のこと、気持ち悪いと思う?」
編み針が止まった。
「そんなこと思わないわ」
「じゃあ、なんで避けるの?」
「避けてなんか……」
「嘘」
翔太は本を閉じ、茜の方を向いた。
秋の日差しが横顔を照らしている。
「俺、おばあちゃんに嫌われたくない。でも、この気持ちも消せない」
茜は編み物を膝に置いた。
翔太をまっすぐ見る。
「翔ちゃん、私はもう六十二よ。あなたは十七。この差が何を意味するか、分かるでしょう?」
「数字なんて関係ない」
「関係あるのよ。私はあなたのおばあちゃん。それ以上でも以下でもない」
嘘だった。
心の奥底で茜は気づいていた。
孫の感情に自分も影響されていることに。
それは恋愛感情ではない。
しかし、必要とされる喜び、若い命に求められる陶酔感は確かに存在した。
老いを実感し始めた自分にとって、若者からの純粋な想いは麻薬のような甘さを持っていた。
「でも、俺は」
翔太が何か言いかけた時、夫が庭に出てきた。
「おう、翔太も来てたか」
「こんにちは、おじいちゃん」
翔太は慌てて立ち上がり、挨拶した。
夫は庭いじりの道具を持っている。
「天気がいいから、少し草むしりでもしようと思ってな」
「手伝います」
翔太は積極的に申し出た。
夫は嬉しそうに笑った。
二人が庭に出て行くのを見送りながら、茜は安堵のため息をついた。
同時に物足りなさも感じた。
夕方、翔太が帰る時、小声で言った。
「また明日」
それは宣言のようだった。
茜は頷くしかなかった。
◆
十一月になり、紅葉が始まった。
楓も少しずつ色づき始めている。
ある朝、郵便受けに見慣れない封筒が入っていた。
差出人の名前はない。
しかし、筆跡で翔太からだと分かった。
茜は震える手で封を開けた。
便箋が三枚。
びっしりと文字が書かれている。
『おばあちゃんへ
直接言えないことを、手紙で伝えさせてください。
僕は、おばあちゃんのことが好きです。孫として、ではありません。一人の男として、一人の女性を愛しています。
おかしいことは分かっています。世間から見れば異常でしょう。年齢差も、血縁関係も、すべてが僕たちの間に立ちはだかっています。
でも、気持ちは本物です。
おばあちゃんの優しさ、温かさ、すべてが愛おしい。声も、仕草も、笑顔も。朝起きた時から夜眠るまで、おばあちゃんのことばかり考えています。
これは一時的な感情ではありません。夏から今まで、気持ちは強くなる一方です。
お願いです。一度でいいから、僕の気持ちを受け止めてください。祖母と孫としてではなく、一人の人間として向き合ってください。
愛しています。
翔太』
茜は手紙を読み終えると、静かに折りたたんだ。
涙が溢れそうになった。
この子は本気だ。
その本気さが恐ろしかった。
手紙を仏壇の引き出しに仕舞った。
処分すべきだと分かっている。
しかし、できなかった。
翔太の想いが詰まった手紙を捨てることなどできなかった。
その日、翔太が来た時、茜は何も言わなかった。
手紙のことには触れなかった。
翔太も、いつも通りに振る舞った。
しかし、二人の間の空気は確実に変わっていた。
◆
十一月の終わり、茜は決意した。
このままではいけない。
翔太のためにも、自分のためにも、関係を断ち切らなければ。
翔太が来た時、茜は切り出した。
「翔ちゃん、話があるの」
「何?」
翔太は不安そうな顔をした。
予感していたのかもしれない。
「もう、ここに来るのは控えて」
「なんで?」
「あなたのためよ」
茜は毅然とした態度を保とうとした。
しかし、声が震えていた。
「俺のため? 違うでしょう。おばあちゃんが俺を避けたいだけでしょう」
翔太の声が荒くなった。
「手紙、読んでくれた?」
「……読んだわ」
「それで、答えは?」
茜は目を伏せた。
「答えなんてないわ。あなたは私の孫。それだけよ」
「それだけじゃない!」
翔太が立ち上がった。
テーブルが揺れて、お茶がこぼれた。
「俺の気持ちは本物だ。なんで分かってくれないの?」
「分かってる。だからこそ、距離を置くべきなの」
「距離なんていらない」
翔太は茜に近づいた。
茜は後ずさりした。
壁に背中がついた。
「翔ちゃん、お願い」
「おばあちゃん」
翔太の手が茜の肩に触れた。
震えている。
茜も震えていた。
その時、玄関の鍵が開く音がした。
夫が帰ってきたのだ。
翔太は素早く手を引いて、元の場所に戻った。
何事もなかったかのように。
「ただいま」
「お帰りなさい」
茜は平静を装って夫を迎えた。
しかし、心臓は激しく鼓動していた。
翔太はすぐに帰っていった。
夫には挨拶だけして。
その夜、茜は眠れなかった。
翔太の手の感触が肩に残っていた。
そして、自分の中にある感情。
拒絶しなければならないのに、できない。
孫の想いを完全に断ち切れない自分がいた。
六十二年生きてきて、初めて味わう感情だった。
背徳感と、甘美な陶酔感。
それは、静かに茜を蝕んでいった。
◆
正月三が日が過ぎた。
日常が戻ってきたが、翔太の訪問は正月休み中も続いていた。
元日も二日も、親戚が帰った後に現れた。
「おばあちゃん、今年もよろしく」
翔太の年賀の挨拶には意味深長な響きがあった。
手渡された年賀状。
表面は普通の挨拶だ。
しかし、裏面を見て茜は息を呑んだ。
小さな文字でびっしりと想いが綴られている。
『今年こそ、おばあちゃんに振り向いてもらえますように』
『毎日会えますように』
『ずっと一緒にいられますように』
まるで恋文のような内容だった。
茜は年賀状を仏壇の引き出しに隠した。
処分すべきだと分かっている。
しかし、できない。
一月半ば、翔太の学校から電話があった。
欠席が続いているという。
茜は青ざめた。
「今日も来てるの?」
夫が新聞を読みながら聞いた。
「いいえ……」
その日、翔太は来ていなかった。
不安になった茜は、翔太の携帯に電話した。
「もしもし、おばあちゃん?」
翔太の声は明るかった。
「翔ちゃん、学校は?」
「……行ってない」
「どこにいるの?」
「駅前」
茜は息を呑んだ。
「すぐに学校に行きなさい」
「おばあちゃんに会いたい」
「ダメよ。学校に行って」
「じゃあ、放課後に行く」
電話は切れた。
茜は受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。
事態は深刻になっている。
翔太の執着は日に日に強くなっていた。
夕方、約束通り翔太が現れた。
制服は着ているが、鞄を持っていない。
「学校、行ったの?」
「……」
翔太は答えなかった。
代わりに茜をじっと見つめる。
その視線に茜は恐怖を感じた。
「翔ちゃん、このままじゃ留年よ」
「構わない」
「何を言ってるの」
「おばあちゃんがいれば、他は何もいらない」
狂気じみた言葉だった。
しかし、翔太の表情は真剣そのものだ。
「私のせいで、あなたの人生を狂わせるわけにはいかない」
「狂ってない。初めて本当の自分になれた」
翔太は茜に近づいた。
茜は後ずさりする。
「お願い、正気に戻って」
「これが正気だよ」
翔太の手が茜の手を掴んだ。
強い力で握られる。
「離して」
「嫌だ」
その時、玄関が開く音がした。
翔太は舌打ちして手を離した。
◆
二月に入った。
受験シーズンの真っ只中だが、翔太は完全に勉強を放棄していた。
学校からの連絡は亜希子に行っているはずだ。
しかし、亜希子からは何も言ってこない。
ある日、翔太が来た時、顔に青あざがあった。
「どうしたの、それ」
「……転んだ」
嘘だと分かった。
亜希子と何かあったのだろう。
「本当のことを言いなさい」
「母さんと喧嘩した」
翔太はあっさりと認めた。
「学校のことで?」
「それもある。でも……」
翔太は言いよどんだ。
「でも?」
「おばあちゃんのことを言われた」
茜の心臓が跳ねた。
「何て?」
「異常だって。気持ち悪いって」
亜希子は何かに気づいたのか。
母親の直感は鋭い。
「それで手が出たの?」
「向こうが先に叩いてきた」
翔太の目に怒りが宿っていた。
「おばあちゃんのことを悪く言うなんて許せない」
茜は複雑な気持ちになった。
自分のために母親と争う孫。
これは健全な家族関係ではない。
「もう来ちゃダメよ」
「なんで」
「家族がバラバラになる」
「もうとっくにバラバラだよ」
翔太の言葉は冷めていた。
十七歳とは思えない諦観が滲んでいる。
「このままじゃ、進級も危ないって言われた」
翔太はソファに深く沈み込んだ。
「それでいいの?」
「おばあちゃんがいない将来なんて意味ない」
また同じ言葉だ。
茜は頭を抱えた。
この子はどこまで本気なのか。
そして、自分はどこまで責任があるのか。
「私のせいで、あなたの人生を台無しにしないで」
「台無しじゃない。初めて生きてる実感がある」
翔太の目は輝いていた。
狂気的な輝きだ。
茜は恐怖を感じると同時に、どこか惹かれている自分もいた。
ここまで愛されること。
執着されること。
それは老いた身には毒のような甘さだった。
◆
数日後、亜希子が血相を変えてやって来た。
「お母さん、翔太に何かしました?」
単刀直入な質問だった。
「何もしてないわ」
「嘘! あの子、お母さんの名前ばかり呼んでる。寝言でも」
茜の背筋が凍った。
寝言でまで呼ばれているのか。
「それに、お母さんの写真を部屋に飾ってる。異常よ」
「写真?」
「家族写真じゃない。お母さんだけが写ってるやつ」
いつ撮られたのか。
茜は恐怖を感じた。
知らないうちに写真を撮られていたのか。
「亜希子、翔太くんは今、不安定なの。優しく見守って」
「見守る? このままじゃ留年よ!」
亜希子は泣き出した。
「もう遅いかも……退学するって言い出してる」
強気な娘が泣いている。
それを見て、茜も涙が出た。
「ごめんなさい」
「何で謝るの?」
「私が……私が甘やかしたから」
半分本当で、半分嘘。
真実は言えない。
言えるはずがない。
亜希子は泣きながら続けた。
「最近、あの子おかしいんです。部屋に籠もって、独り言ばかり。食事もろくに取らない」
「独り言?」
「お母さんの名前を呼んで、まるで会話してるみたいに」
異常だった。
完全に常軌を逸している。
「私、どうしたらいいか分からない」
亜希子の肩が震えていた。
茜は娘を抱きしめたかった。
しかし、できなかった。
自分にその資格があるのか。
「専門家に相談した方が……」
「もう行きました。でも、本人が来ないと」
翔太は病院にも行かないのか。
事態は想像以上に深刻だった。
亜希子が帰った後、茜は一人で泣いた。
どうしてこんなことになったのか。
最初はただの避難所だったはずだ。
それがいつの間にか、歪んだ愛情に変わっていた。
そして、自分もそれを完全に拒絶できなかった。
◆
三月になった。
桜の蕾が膨らみ始めている。
翔太の行動はさらにエスカレートしていた。
朝起きると、庭に翔太がいることがあった。
じっと家を見つめている。
「翔ちゃん!」
窓を開けて叫ぶと、翔太は微笑んだ。
「おはよう、おばあちゃん」
「何してるの?」
「会いたくて」
異常だった。
完全に常軌を逸している。
茜は着替えて外に出た。
「家に帰りなさい」
「もう少し」
「翔ちゃん!」
茜が強く言うと、翔太は悲しそうな顔をした。
「おばあちゃんは、俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃない。でも、これは異常よ」
「愛することが異常?」
翔太の目に狂気が宿っていた。
いや、狂気ではない。
純粋すぎる愛情が、狂気に見えるのだ。
「朝ごはん、食べた?」
話題を変えた。
「食べてない」
「じゃあ、少し食べてから帰りなさい」
結局、甘やかしてしまう。
突き放せない自分が嫌になる。
家に入れて、簡単な朝食を用意した。
翔太は美味しそうに食べる。
まるで、これが最後の食事かのように。
「学校は?」
「もう行ってない」
「翔ちゃん……」
「いいんだ。どうせ留年だし」
投げやりな口調。
「母さんに退学させてくれって頼んでる」
「亜希子さんが許すはずない」
「だから毎日喧嘩してる」
茜は胸が痛んだ。
しかし、後悔は感じられない。
「後悔しない?」
「しない。おばあちゃんに会えるなら」
食後、翔太はなかなか帰ろうとしなかった。
「もう帰りなさい」
「まだいい」
「ダメよ」
押し問答が続く。
結局、昼過ぎまでいた。
翔太が帰った後、茜は疲労感に襲われた。
これがいつまで続くのか。
そして、自分の心の中にある感情。
孫に執着されることへの、暗い悦び。
それは日に日に大きくなっていた。
◆
ある夜、茜の夫がこんな事を言う。
「最近、翔太がよく来るな」
「ええ……」
「あいつ、大丈夫か?」
夫も何かを感じ取っているようだった。
「学校にも行ってないらしいじゃないか」
「……そうみたい」
「お前、何か知ってるか?」
鋭い質問だった。
茜は動揺を隠そうとした。
「知らないわ」
「本当か?」
夫の目が探るように茜を見る。
長年連れ添った夫だ。
嘘は見抜かれているかもしれない。
「翔太の様子がおかしいのは確かよ」
「それだけか?」
茜は答えられなかった。
夫は深いため息をついた。
「亜希子も心配してた。翔太がお前の話ばかりすると」
「……」
「まさかとは思うが」
夫は言いかけて、首を振った。
「いや、なんでもない」
しかし、疑念を抱いているのは明らかだった。
その夜、茜は夫の寝顔を見つめた。
この人に真実を話したらどうなるか。
理解してくれるはずがない。
誰も理解などしてくれない。
孫が祖母に恋をする。
祖母がそれを完全に拒絶できない。
異常な関係だ。
しかし、翔太の想いは本物だった。
そして、自分の中にも確かに何かがあった。
それが何なのか、認めたくなかった。
◆
四月に入った。
新学期が始まったが、翔太は留年が決定していた。
学校には一切行かなくなった。
「もうすぐ誕生日だ」
翔太が呟いた。
「十八か……」
「そうしたら、全部自分で決められる」
茜は不安を感じた。
翔太の目に宿る決意が怖かった。
「まさか退学するつもり?」
「するよ」
即答だった。
ある日、茜が買い物から帰ると、翔太が家の中にいた。
リビングのソファに座っている。
「どうやって入ったの?」
「窓が開いてた」
嘘だ。
茜は戸締りを確認していた。
「不法侵入よ」
「家族なのに?」
翔太の理論は破綻していた。
しかし、本人は本気だった。
「合鍵を作った」
翔太がポケットから鍵を出した。
茜は愕然とした。
いつの間に。
「返しなさい」
「嫌だ」
「翔ちゃん!」
「おばあちゃんの家は俺の家でもある」
狂っている。
完全に狂っている。
「これ以上続けたら、本当に警察を呼ぶわよ」
「呼べばいい」
投げやりな態度。
もう失うものはないという顔。
「そうしたら、全部話す。俺がおばあちゃんを愛してることも」
脅迫だった。
茜は言葉を失った。
その時、玄関が開いた。
夫が帰ってきたのだ。
「翔太? 何してる」
「おじいちゃん……」
翔太は一瞬たじろいだが、すぐに平静を装った。
「遊びに来ただけ」
「そうか。でも、もう遅いぞ」
夫は何も気づいていない様子だった。
しかし、茜と翔太の間の異様な空気を、感じ取っていないはずがない。
翔太はすぐに帰っていった。
しかし、合鍵は返さなかった。
茜は恐怖に震えた。
いつ侵入されるか分からない。
鍵を変えるべきか。
しかし、それをしたら翔太はどうなるか。
より過激な行動に出るかもしれない。
◆
五月、翔太の誕生日が過ぎた。
そして言葉通り、高校を退学していた。
「勝手に辞めちゃったのよ、もう本当どうしたらいいか……」
亜希子が怒りを露わにしていた。
ゴールデンウィーク中、亜希子が夫を連れて来た。
翔太の父親だ。
普段は仕事で忙しく、ほとんど家にいない。
「お義父さんも一緒に聞いてください」
深刻な顔だった。
茜は何が来るか察した。
「翔太のことです。あの子、明らかにおかしい。そして……」
亜希子は茜を見た。
「お母さんに異常な執着を見せています」
夫が驚いたように茜を見た。
「どういうことだ?」
「分かりません。でも、ただの祖母と孫の関係じゃない」
亜希子は続けた。
翔太の部屋から見つかったもの。
茜の写真の数々。
日記に書かれた異常な内容。
すべてを曝け出した。
「信じられん」
夫が呟いた。
翔太の父親は黙って聞いていた。
そして、初めて口を開いた。
「茜さん、何か心当たりは?」
全員の視線が茜に集まった。
「……翔太くんの気持ちには気づいていました」
告白した。
一部だけだが。
「なぜ言わなかった」
夫の声が厳しくなった。
「言えなかった。信じてもらえないと思って」
「それで放置したの?」
亜希子が責めるように言った。
「放置したわけじゃ……」
「じゃあ何か対策したんですか?」
答えられなかった。
確かに、有効な対策は取れなかった。
いや、取りたくなかったのかもしれない。
「とにかく、翔太を専門家に診せる」
翔太の父親が決断した。
「強制的にでも」
亜希子も頷いた。
しかし、茜は不安だった。
翔太がそれを受け入れるとは思えない。
◆
家族会議の翌日、翔太が現れた。
顔が青白い。
「聞いたよ」
何を聞いたのか。
「病院に入れるって」
亜希子が話したのか。
「俺は病気じゃない」
翔太の声は震えていた。
「愛することが病気なのか」
「翔ちゃん、これは普通じゃないの」
「普通って何? 世間の決めた枠組み?」
翔太は茜に迫った。
「俺の気持ちは本物だ。それだけじゃダメなのか」
茜は後ずさりした。
「ダメよ。私たちは祖母と孫」
「関係ない!」
翔太が叫んだ。
「年齢も血縁も関係ない。愛してる」
その時、玄関が開いた。
夫と亜希子、翔太の父親が入ってきた。
計画的だった。
翔太を捕まえるつもりだ。
「翔太、一緒に来い」
父親が翔太の腕を掴んだ。
「離せ!」
翔太は抵抗した。
「大人しくしろ」
「嫌だ! おばあちゃん!」
翔太が茜に向かって手を伸ばした。
必死の形相。
茜は一歩前に出そうになった。
しかし、夫に止められた。
「茜、手を出すな」
結局、翔太は連れて行かれた。
抵抗しながら、茜の名前を呼び続けていた。
皆が去った後、茜は崩れ落ちた。
涙が止まらなかった。
これで良かったのか。
翔太のためになるのか。
分からない。
ただ、心にぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
◆
翔太が連れて行かれてから一週間が経った。
亜希子からの連絡では、翔太は入院したという。
精神科の閉鎖病棟。
面会は禁止されている。
ある日、茜に手紙が届いた。
差出人は翔太だった。
震える手で封を開ける。
『おばあちゃんへ
今、病院にいます。
でも、俺は正常です。
愛しているだけなのに、なぜ閉じ込められなければならないのか。
でも、諦めません。
いつか必ず、迎えに行きます。
それまで、元気でいてください。
おばあちゃんのことを思わない日はありません。
朝起きた時、最初に浮かぶのはおばあちゃんの顔です。
夜眠る時、最後に思うのもおばあちゃんのことです。
この気持ちは変わりません。
永遠に。
愛しています。
翔太』
茜は手紙を読み終えると、胸に抱きしめた。
涙が溢れた。
この子の想いは本物だ。
狂気かもしれない。
異常かもしれない。
でも、本物だ。
そして、自分は……
茜は認めざるを得なかった。
この異常な愛情を、完全には拒絶できない自分がいることを。
必要とされる喜び。
求められる陶酔感。
それは確かに存在した。
手紙を仏壇に仕舞いながら、茜は思った。
これは罪なのか。
孫に愛されることが。
そして、それを心のどこかで喜んでいることが。
◆
夏が来た。
蝉の声が響く中、茜は一人で過ごしていた。
翔太からの手紙は途絶えた。
亜希子からの連絡もない。
まるで、すべてが夢だったかのように。
しかし、仏壇の引き出しに仕舞われた手紙たちが、それが現実だったことを物語っている。
ある日、亜希子から電話があった。
「お母さん、翔太が……」
声が震えている。
「どうしたの?」
「退院したんです。症状が改善したって」
茜の心臓が跳ねた。
「でも、行方不明なんです」
「え?」
「昨日から。置き手紙があって」
亜希子は泣いていた。
「何て書いてあったの?」
「『心配しないで。自分の道を行く』って」
茜は直感した。
翔太は来る。
必ずここに来る。
案の定、その夜、翔太から電話があった。
「おばあちゃん」
「翔ちゃん、どこにいるの?」
「遠くない場所」
「家に帰りなさい」
「もう帰らない」
翔太の声は落ち着いていた。
以前のような狂気じみた響きはない。
「これから、どうするの?」
「もう退学した」
翔太があっさりと言った。
「えっ?」
「十八になったから、自分で手続きした」
茜は驚いた。
今は十八で成人なのか。
「親は知ってるの?」
「事後報告」
翔太の声に寂しさが滲む。
「働きながら、高卒認定試験を受ける」
「おばあちゃん、俺、まだ諦めてない」
茜は息を呑んだ。
「でも、今すぐじゃない。俺はまだ子供だから」
翔太は続けた。
「でも、いつか必ず、大人になって迎えに行く」
「翔ちゃん……」
「それまで、元気でいて。ずっと綺麗でいて」
電話は切れた。
茜は受話器を握ったまま、立ち尽くした。
窓の外を見ると、夏の夕焼けが空を染めていた。
美しく、切ない色。
翔太がどこにいるのか、何をしているのか。
それは分からない。
ただ、彼の執着が、愛が、茜の中に深い爪痕を残したことは確かだった。
恐怖と、罪悪感と、そして──
認めたくない、ほの暗い悦び。
必要とされ、求められ、愛されることへの陶酔。
それは毒のように、茜の心を蝕んでいく。
手紙を読み返しながら、茜は小さく呟いた。
「翔ちゃん……」
その声は、誰にも聞こえなかった。
夏の夜は、ただ静かに更けていった。
茜は六十三歳。
翔太は五月に十八歳になった。
成人としての第一歩が、高校中退だった。
いつか、という言葉が、呪いのように茜の胸に残った。
恐ろしくも、甘美な呪い。
それを完全に拒絶できない自分がいることを、茜は知っていた。
庭では蛍が舞っていた。
儚く、美しい光。
まるで、この異常な関係を象徴するかのように。
茜は縁側に座り、蛍を見つめた。
涙が頬を伝う。
それが悲しみの涙なのか、別の感情の涙なのか。
自分でも分からなかった。
ただ確かなのは、この記憶が生涯消えることはないということ。
翔太の愛が、狂気が、執着が。
すべてが茜の中で生き続ける。
罪深くも、逃れられない記憶として。
(了)