溺愛彼氏のキスマーク
休日の昼、ピザを片手にワインを飲みながら窓からの景色を眺めていると成人式に行くのだろうか、振袖を身にまとう若者を見つけ、百合は20歳になる直前で初めて付き合った彼の昌大のことを思い出した。
初めての彼氏、昌大は31歳で11歳年上でハウスメーカーの営業職だった。SNSで共通の趣味を通じて知り合い、11月終わりに初めて会うことになった。夜に近くのイタリアンを食べに行く約束をしていたが、百合がバイト終わりに向かうことを知ると店先まで車で迎えに来てくれた。
「好みが分からなかったから…どっちがいいかな?」と温かいミルクティーとほうじ茶の2本を用意してくれていた。
店でもきれいにサラダを取り分けて、百合がトイレに立った際にお会計も済ませるなどスマートな対応に大人の余裕を感じて惹かれていた。
その後も毎日連絡するようになり、メールだけでなく夜に長電話をする日も増えていった。こうしてクリスマスの1週間前に交際に至った。
今まで、彼氏がいたことがなく片思いばかりだった。告白せずに終わり眺めてきただけ。そのため、初めての「彼氏」という存在に舞い上がっていた。
1週間後には彼氏と過ごす初めてのクリスマス、初めての年越し…。きっとどちらかで一夜を共にするだろう。当時の百合は、二人で熱く絡み合う場面を想像したが、いつも恥ずかしさで顔を赤らめて背中に手を回し抱き合う場面で止まってしまい、その先は未知の世界だった。想像は出来なかったが、きっと何かはあると思いバイト代で新しい下着を買った。
昌大に初めての彼氏だと伝えると、とても喜んでいた。
「百合の初めて彼氏と過ごす想い出が楽しくなるように」と張り切って、好きな食べ物やどんな風に過ごしたいか聞いてくれた。
当日は平日だったため、昌大の部屋で過ごすことにした。
部屋に入るとクリスマスツリーやカーテンにはキラキラと光る長いフープなど飾り付けがほどこされていた。
そして、手作りのシチューとローストチキン、ケーキも昌大自身が作りもてないしてくれた。ケーキはパティシエ顔負けの腕前で何枚も写真を撮った。
プレゼントには当時、学生だった私には高嶺の花だったティファニーのピアス。自分はピアスの1/10ほどの値段のマフラーだったので申し訳なさを感じていると「百合が喜んだ顔を見れるだけで幸せ」と抱きしめてくれた。
「絵にかいたような幸せとは、こういうことを言うのか。」と百合はとても幸せな気分に浸っていた。
その夜、二人は同じ布団に入った。百合が緊張しているのを察し、最初は腕枕で密着していた。そのうち軽いキスをして少しずつ舌を絡めていった。
いつもはここで想像が終わってしまう。
ここから先は、想像でも現実でも未知の世界だ。
布団中で密着しながら、背中に手を回し慣れた手つきでホックを外し、下の服も脱がされていく。新しく買った下着は、布団の中だったので見れられることなく床に落とされていった。
そのあとは衝撃の連続だった。触れたことのないものを手にし、また触れられたことのない場所に指や昌大が入ってくることに戸惑った。
ゾクゾク、もぞもぞ、言葉にはうまく表現できない初めての感情に終始戸惑い、思考回路停止寸前だった。昌大は百合を気遣いながら優しくゆっくりと進めてくれたが、百合は良さが分からないまま初めての夜を終えた。
一体、どうなれば男女が幸せそうに名前を呼び合ったり、微笑みながら「好き」と伝える状態になるのだろう…。
年越しは年末のバラエティ番組を一緒に観ながら日付が変わる30分前に年越し蕎麦を食べながら過ごした。ソファに隣に座りカウントダウンをしていると0になった瞬間、昌大がキスをしてきた。20歳になる年は、あまいあまい年明けとなった。
年があけると成人式があり、振袖姿の私を一目見ようと車で迎えに来てくれた。友人たちの彼氏は学生が多かったため、車で迎えに来た昌大を見て「色気漂う大人の男でかっこいい」と絶賛してくれた。
昌大のことを褒めてもらい百合も嬉しく自慢げだった。
慣れない下駄で一生懸命歩く新成人たちを横目に私は車で会場を後にした。
そして、昌大の部屋で着付けが乱れない程度に袖をまくり一つになった。
まだ慣れないけれど、昌大が最中に名前や「好きだよ」と言ってくれるのは嬉しくてその甘い声と言葉に身体が反応していた。
30代前半と言えば結婚を考える時期だったと思うが、私は恋愛初心者で初めての彼氏との日常を楽しんでいた。自分が好きな相手が自分のことを好きでいてくれる、それは奇跡だと思った。
昌大は、友人たちにも百合を紹介した。昌大の友人たちは昨年結婚したばかりの新婚さんや子どもが産まれ子育て真っ只中の夫婦だった。そんな友人夫婦をみて、百合も昌大と過ごす未来を想像していた。
短大卒業後は地元の中小企業に入社した。
毎朝同じ電車に乗り、改札を抜けたタイミングを見計らって電話を掛けてきてくれた。
私の通勤時間は、電車に乗っている間以外はいつも側に昌大の声があった。
そして社内でも有名になり、話をしたことがない人からも”通勤時に彼氏と電話をしている子”と覚えられていた。
私は入社してすぐに名前より先に「彼氏持ちのあの娘」という看板を背負った。これ以上、浮足立っているイメージがつくことへの回避と、電話の声が漏れて周りに彼との会話が聞こえていたら嫌だったので迂回して通勤するようになった。
しかし、学生時代に彼氏と長電話をすること自体なかったので恥ずかしいと思いつつも昌大とのやり取りを楽しんでいた。彼氏がいることも公言していたし年の差も気にしていなかった。
それでも昌大は年の差を気にしていたようで、日頃から『百合は俺以外と恋愛をしたことがないから、いつか俺よりも歳の近い男性に移ってしまうのでは』と心配していた。しかし、周りの男性を異性として見たことは一度もなかったし、普段は頼りがいのある昌大が心配している姿が可愛くて嬉しかった。
昌大はハウスメーカーの営業で一般家庭の注文住宅を担当している。顧客との打ち合わせが主で、平日の夜8時以降や休日などに仕事が入ることがほとんどだった。そのため昼間~夕方は空いていることが多く、雨の日は駅まで迎えに来て家まで送ってくれたり残業で遅くなると連絡すると打ち合わせ後に会社近くまで来てサンドイッチなどすぐに食べられるものを用意して労ってくれた。
常に私のことを想い、気遣い、心配してくれることに、百合は自分はとても愛されていると幸せに浸っていた。友人にも彼の話をすると溺愛されていると羨ましがられるのも内心、気持ちが良かった。
付き合いが長くなると飽きたり、マメじゃなくなると友人たちは話をしていたが昌大は違った。毎日のように連絡をくれ返信も早い。
やり取りが多いので2日前の会話は何回かスクロールをしないと出てこなかった。高校生のような密にやり取りをする関係が続いていた。
もっとも百合は、恋の無い高校生活を過ごしたので甘酸っぱい青春を今謳歌している気分だった。
変化が訪れたのは付き合って3年目の春、新入社員の越智が入ってきてからだった。越智は百合の最寄り駅の一つ隣の駅から乗っていた。
いつも乗っている電車は百合の駅が始発だったので、朝でも混雑していない。
都会ほどではないが、地方でも朝は学生やサラリーマンで立って出入り口付近だとぶつかることもあるが始発駅だと座っていられる。
隣の越智が乗る駅についてもまだ座席がまばらに空いていることもあるほど乗車率は低く快適だった。百合は降りる駅の改札から近く座れる車両に乗っていた。それは百合だけでなく、ほかの乗客も「改札から近い」・「ドアが開かない」などおのおのが気に入った「いつもの場所」を持っていた。そして新入社員の越智も、百合と同じ車両と場所を好んでいた。
電車は10分に1本なので、大体顔馴染みになる。名前も年齢も知らないけれど同じ場所に同じ顔が集まる。そんな不思議な親近感が生まれる場所でもあった。
GWが終わり新緑の爽やかな季節に、お互いの存在を認識するようになった。
最初は、同じ会社の◯◯さん。「おはようございます」の挨拶の意味合いを込めて会釈する程度だった。
しかし、改札を抜けて向かう先は同じ。混雑しない列車では同じ場所から降りれば改札を抜けるのも同じタイミングになる。こうして、特に意識することもなく一緒に通勤することが増えていった。
会社の人と会って話をしているから、と電話に出られない日が続くようになったことで昌大は、『新入社員は気があるから場所を変えてほしい』といい気はしていなかったが、越智に何かされたわけでも、嫌な理由もない。
百合も越智も同じ電車と場所を好む理由は、空いていて改札口に一番近いから
でお互いに恋愛感情があるわけではなかった。始発のあの電車は、ある意味切符のない指定席のようなもので特に理由もないので変える気はしなかった。
昌大にも、一緒に通勤する時もあるが連絡先も知らないし交換する気もない。
プライベートの話は一切していないので思い過ごしだと伝えていたが私が鈍感で気づいていないだけだと珍しく譲らなかった。
その後の昌大は人が変わったように百合の行動を細かく知りたがるようなった。
スマホのやり取りや着信履歴を見たい、GPSで場所の共有したいと言うようになった。アプリだけでなくフリーアドレスの受信箱やごみ箱まで見ているのを知った時はゾッとした。またSNSも頻繁にチェックをしているようで投稿して5分もたたないうちに電話が来て「SNSの投稿見たよ」と言われ、徐々に恐怖を感じるようになった。
やましいことをしていない、する気もないのに毎週のメールチェックや異性の名前が出ると不機嫌になることに虚しさを覚えるようになっていった。
スマホを見ている時の昌大は没頭するかのように一言も発さず、画面を鬼のような形相で漁っていた。『せっかくの二人の時間なのに、この時間もったいないし楽しくないな』、百合は週末に昌大に会うのが徐々に憂鬱になっていった。
「今日は誰と会うの?」「どこに行くの?」と相手の名前を聞くようになったり、友人と会っている最中でも「何食べている?」「写真送って」「何時に帰る?店の前まで迎えに行くよ」と気にせず頻繁に送ってくる。
以前は、「楽しんできてね」の一言でその後は控えてくれていたのに、昌大の心配性には困ったもんだ…。とため息をついた。
また、百合が友人でも異性と連絡を取ることを嫌がった。
同窓会をするために地元に残っている人たちで幹事をやろうと男友達から連絡が来た「久しぶり!元気?」だけ個別に来てそのあとはグループでのやり取りになったのだが、1通だけ来たメールに反応し不審がった。
グループのやり取りを見て安心したようだが、その後は異性の友人からの連絡は返信するとすぐに削除するようになった。やましいやり取りはしていないのに、偽装工作をしているようで虚しい気持ちになりながら削除ボタンを次々と押していく。
出会ったころのような大人の余裕のある昌大は姿を消していた。
しかし、百合の友人たちの前では出会った頃の昌大になっていた。
ある日、友人とご飯を食べて帰ろうとすると、店の前で昌大が待っていた。
「この後、雨が降る予報に変わっていたから迎えに来たよ。濡れるといけないし家まで送るよ」と言い、友人も送ってくれる。車の中では聞き役に徹し相手が話したいことや欲しい反応を見事に返す。
そして、百合との関係を聞かれると「百合といると楽しくて幸せなんだ。選んでもらえて良かった。」笑顔で答える。
そんな反応に友人もうっとりしながら、結婚も考えているのかと聞くので「俺は考えていないこともないけれど、その時はまず最初に百合に伝えたいからうまくいったら話すね。」といい感じに匂わせる。
百合は少し冷めた様子でそのやり取りを聞いていたが、帰宅後、友人から「昌大さんみたいな人に愛されて百合は幸せだね」と連絡がきて返事をする気力もなくそっとスマホを閉じた。
最初のうちは朝に電話に出れなくなる日が増え、新入社員の越智くんとの関係を心配しての一時的な行動だと思っていた。心配性や溺愛も妄想が過ぎると困ったものだ、くらいに考えていた。
『昌大は私のことが好きで私も昌大が好き。昌大は、人よりもちょっと心配性なだけでお互い想いあっているならいいのではないか。』
と言い聞かせていたが、期間が長くなるにつれ尋問されている気分になっていた。私は信用されていなのにではないか?
昌大は、私の胸や首すじにキスマークをつけるようになっていった。
胸は普段下着をしているので見えないにしても、首は場所によっては目立つ。百合は毎朝着替えの際に、角度によって見えないかチェックしてから家を出るようになった。
彼氏がいることは、周知の事実になっていたがそれでもキスマークを見られるのは違うと思ったし嫌だった。
その後も、胸や首、内ももなど至る所にキスマークをつけていく昌大。
「百合…好きだよ…百合…」と呼びながら何か所もつけていく。この頃にはエッチ自体の楽しみや気持ちよさも分かるようになってきたが、キスマークは別に気持ちよくもないしその後の服選びに困るので悩みの種だった。
いちゃつきも終わり服を着る時に「温泉が好きなのにこんなキスマークがあったら行けない。」と嘆くと「もし何かあった時に、このキスマークが合ったら百合は俺の物だって相手が諦めるかもしれないだろ。温泉に行きたかったら俺と貸し切りにいけばいいじゃないか」と何事もないかのように言った。
この時、百合の中で何かが崩れた。お互い想いあっているからいいという言葉では片付けられなかった。
昌大は、私と誰かが服を脱いでいるシーンを想像して、マーキングのためにキスマークをつけていたのだった。
これは愛情表現ではない、ただの自分勝手な妄想で私を縛り付けているだけだ。今までのスマホのチェックも電車をかえるのも愛情ではない。
お互いを信じられなくなったら、自分のことを信じてもらえなくなったら関係は終わりだと思い4年目を迎える前に別れを告げた。
昌大には、「俺はこんなに百合のことが好きなのに、嫌だ別れたくない」と言われた。
キスマークのことも、もし私が酔いつぶれたり自分を制御できない時に守るためだと主張し引かなかった。
「俺は百合の事を愛しているし、俺以上に百合のことを考えている男はほかにいないから結婚しよう」とも言われた。
初めて付き合った彼氏、そして初めてのプロポーズはドラマのような感動的なシーンではなかった。
こうして別れ話は3か月以上続いた。毎日やり取りをしていたので、帰宅時間も電車が何分についているかも知っている。駅の前や会社に車が止まっていることもあった。あんなに溺愛されて尽くしてくれていると思っていた彼氏は、こじれると一気にストーカーのような恐怖の存在へと変わっていった。
私は仕事帰りにあえて寄り道をしたり、改札をかえて遠回りをしながら帰るようになった。SNSでは傷心モードの昌大の投稿が痛々しくて非表示にした。
その投稿を見た友人たちが心配してヨリを戻すように連絡をくれたが、百合の気持ちは冷めきっていた。また、キスマークや性がらみのことは友人といえど言えなくて誰にも打ち明けずに心の奥底にしまっていた。
共通の友人の提案で、離れたらお互いの大切さに気付くかもしれない、と1か月の冷却期間を設けようと昌大にも提案してくれた。
昌大は、1か月も我慢できないし冷却期間がなくても俺は百合が大切と頑なに拒んでいたが友人の説得もあり連絡を取らないことにした。
百合の気持ちは変わらなかった。それどころか連絡を取らないことで監視の恐怖から解放されて穏やかな時間を過ごすことが出来た。
1か月が終わり、百合は昌大には連絡せずに部屋へと向かった。
昌大に連絡すると待ち伏せしたり、顔を見たいというと思ったからだ。
部屋に入り、置きっぱなしの私物の回収をする。恐怖を感じた時期もあったが昌大と過ごした約4年は楽しい時間の方が圧倒的に多い。
初めて一緒に過ごしたクリスマス、年越し、そして誕生日、色々な思い出が蘇り涙する。
どうしてこんなことになったのだろう。
あの時、もっと昌大に「私が好きなのはあなただけ、あなたしか見ていない」と安心出来るまで伝えていたら関係は変わっていたのだろうか。
今も幸せに昌大と暮らして、結婚の話を進めていたのだろうか。
クローゼットから自分の部屋着を袋に詰めていく。
そして、洗面所の棚を開いたとき百合のものではないクレンジングが目に入った。メイクの薄い百合はミルククレンジングだ。しかし置いてあるのは、大容量サイズのオイルクレンジング。しかも2割ほど使ってある。
百合は言葉が出なかった。
私への今までの言動はなんだったのだろうか。心変わりや友人関係を疑われ、SNSのチェック、無数につけられたキスマーク。
それでも、百合はやましいことは一切していなかったし、する気もなかった。
浮気をしている人は相手の浮気も執拗に疑う。
昌大の行動は、嫉妬ではない。自分が自由に動きやすくするための監視・束縛だったのだ。
冷却期間と言われる間に、ほかの女性を連れ込んだのだろう。
どうやらオイルクレンジングまで常駐させるほどの仲になったようだ。
彼は私のことを好きだった時もあるが、今はそうではない。自分の事だけを見て自分に都合のいい人が欲しかっただけなんだ。
百合はそう悟り、ポストに鍵をいれてその場を後にした。
クレンジングは棚ではなく洗面所の鏡の前においてその場を去った。
昌大はすべてを悟りその後連絡してこなくなった。
新入社員の越智くんは私が昌大と別れたことを同僚づてに聞いたそうで、暫くしてから告白された。彼は正しかった。直感は合っていた。
しかし、恋愛をする気になれず断った。
昌大の言う通り、後にも先にも雨や残業が理由で毎回迎えに来てくれる彼も、記念日にはご飯を作って祝ってくれる彼も現れていない。
私はあの時、愛されていた時期もあった。ふと思い返すこともあったが、「信頼関係が崩れたら終わり」という気持ちは歳をいくつ重ねても、そしてこれからも変わらないと思った。
今日は飲もう。百合はグラスに残っていた赤ワインを一気に飲み干しお代わりをするため高々と手を挙げた。
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相手が嫌がることをして「愛しているから」は自己都合だと思っています。
明日からは彼氏目線の作品「愛の縄張りと薔薇」を公開します。
溺愛と執着は紙一重?お楽しみいただけたら幸いです。