流転の國 〜闇堕ちない編〜
(ここは…どこかしら?)
気付けば、そこは街の大通り。
シャドーレは辺りを見回す。見知らぬ街。
その時、前から女性が歩いてきた。
美しく長い黒髪が目を引く。腰に届く長さだというのに、傷みはなく毛先まで美しい。光を受けて艶々と輝く真っ直ぐなロングヘア。
(綺麗な髪ですわね…)
サラサラと風に靡く長い髪。その様子は息を呑むほど美しい。
シャドーレは思わず見とれる。
「あの…何か?」
シャドーレの視線が気になったのか、すれ違いざまに声をかけられる。
(うっかりガン見してしまいましたわ…)
シャドーレは反省しつつも素直に、
「申し訳ありません。その…貴女の御髪があまりに綺麗で…見とれてしまいました」
と言いながら女性の顔を見ると…。
(マ、マヤリィ様!?)
目の前に立っているのは紛れもなくマヤリィだった。気高くお美しいご主人様。シャドーレがその顔を見間違えるはずはない。
しかし、
「ありがとうございます。…では」
彼女は会釈すると、そのまま行ってしまった。
(確かに、マヤリィ様でしたわ…。髪型が違うだけで、あの方は確かにマヤリィ様…)
だとするなら、なぜシャドーレに対して見知らぬ他人のような態度を取ったのだろう…。
(まさか、私は流転の國とは全く異なる世界に来てしまったの…?)
見知らぬ街。見知らぬ道。見知らぬ通行人。
そして、美しく長い髪をしているご主人様。
(マヤリィ様はこれから一体どこへ…?)
怪しまれないよう距離を保ちながら、シャドーレはマヤリィの後ろ姿を追っていく。
(それにしても、マヤリィ様のロングヘア姿を見ることになろうとは…)
ため息が出るほど美しいロングヘアを目の当たりにして、シャドーレはこの不思議な世界にやって来た原因を考えることを忘れる。
(長い髪のマヤリィ様もお美しいですわ…)
そのまま後ろを歩いていくと、マヤリィは建物の中に入ってしまった。
(これ以上ついていくのはさすがに失礼よね。それにしても、ここは…?)
建物の入口の看板を見る。見知らぬ文字なのに、なぜか読むことが出来る。
「メニュー。…カット5000円、カラー…」
(こ、ここはまさか…!ヘアメイク部屋…?)
そこは、美容院だった。そっと中を見ると、確かにヘアメイク部屋に似ているが、広さは倍以上もあり、幾つもの椅子が並んでいる。
その時、ドアが開く。
「シャドーレさん、遅かったじゃないですか」
(えっ…?)
「受付業務は12時からですよー」
(受付?私が…?)
「お客様ももういらしてるんですから早くー」
(お客様って…マヤリィ様のことかしら…?)
間延びした口調で話す小柄なスタイリストがシャドーレを受付の椅子に座らせる。
「あら、貴女…」
待合席に座っていたマヤリィがシャドーレに気付く。
「ここの人だったのね」
「会ったことあるんですかー?」
「さっき、道ですれ違ったの。ああ、成程。だから…そうだったのね…」
マヤリィはいきなり髪を褒められたことを都合良く解釈したらしい。
「申し訳ございません。…あの、まだお名前を伺っておりませんでしたわ…」
「マヤリィ様ですよー。今日はカットのご予約を承っておりますー」
マヤリィの代わりにスタイリストが答える。
「今日はヘアドネーションとのことですね。…こんなに綺麗な髪の毛なら、すごく喜ばれると思いますよ」
奥から、別のスタイリストが現れる。
(へあどね…?って何かしら…?)
「そうだ、シャドーレさんは初めて見るんじゃないですかー?ヘアドネーション」
「は、はい。それは、どのような…」
とりあえず話を合わせる。ここに引き込まれてしまった以上、そうするしかないとシャドーレは思った。
「つまりは髪の毛の寄付ですー。ほら、病気とかで髪が抜けてしまった子供達のウィッグを作る為の髪の毛をウィッグ製作団体に送るんですよー。人毛はとても貴重なんですー」
「こちらのお客様の髪はとても綺麗ですし、長さも十分です」
「本当にマヤリィ様の髪は美しいですー。これだけ長さがあれば、切った後もそれなりの長さを残せると思いますよー」
(…成程。マヤリィ様は髪の毛を寄付される為にここに来た、となると…)
「規定では31cm。余裕を持って32cmあればOKですからねー。どうしますー?」
「そうですね、かなりの長さがありますから、セミロング…といったところでしょうか」
「あの…」
スタイリスト達の話にマヤリィが口を挟む。
「…私、出来る限り長く髪の毛を寄付したいのですが…」
それを聞いてスタイリストは驚きながら、
「出来る限り…と仰いますと、ショートになってもよろしいのですかー?」
「ええ、今日はおもいきり短く切って頂こうと思って…ベリーショートにするつもりで来ました。女の子のウィッグを作るには、長い髪の毛の方が良いと聞きましたので」
(甘く柔らかく澄んだ声。優しく美しい微笑み。やはり、この御方はマヤリィ様…)
シャドーレは確信する。
「ベリーショート…ですか。そんなにバッサリ切っちゃっていいんですか?」
「はい。短くして下さい」
(まさか…マヤリィ様の美しいロングヘアを見た後で断髪の様子を見ることになるとは、思いもよりませんでしたわ…)
美しい髪に何の未練もない様子で、マヤリィは微笑んでいる。
長い髪を幾つかの束に分けて、ゴムで結ぶ。その髪をゴムのすぐ上で切り、バラけないように一つにまとめて、ウィッグ製作団体に送るのだという。
「本当に、よろしいのですか?」
「ええ、バッサリ切っちゃって下さい」
マヤリィは笑顔で応じる。
「承知しました。…では」
スタイリストはそう言うと、耳の下あたりで結んだゴムの上に鋏を入れる。
一束、また一束と、マヤリィから長い髪が切り離されていく。あっという間に全ての束を切り落としてしまうと、不揃いなおかっぱ頭のマヤリィが鏡に映っていた。
「ふふっ。頭が軽くなった」
早くも彼女は喜んでいるが、ここからが本番。どんな注文をしたのか、横も後ろもみるみるうちに短くなってゆく。
(気持ちよさそうですわね…)
そこで初めて自らの容姿を確認する。
プラチナブロンドのロングヘア。
(私の髪も、切る前…ですか…)
自覚すると、途端に鬱陶しくなる。
「ところで、マヤリィ様はどんな髪型に…?」
「ベリーショートにしたいと仰ってましたー。今までしたことのないような短い髪に」
先程のスタイリストが答える。
「びっくりしますよねー。私もまさかベリショになさるなんて思ってませんでしたよー」
シャドーレはベリーショート以外のマヤリィを知らないが、
(だんだん私の知っているマヤリィ様に近付いてきましたわね…!)
断髪の様子をドキドキしながら見ている。
マヤリィの髪がバリカンで刈られている。
(美しいですわ、マヤリィ様…!)
シャドーレはその光景から目が離せない。
(ああ、マヤリィ様の断髪をこの目で見られるなんて…!)
シャドーレは恍惚としながら見つめる。
(あんなにもお美しいロングヘアを惜しげもなく切ってしまわれて…。やはりマヤリィ様は私と同じ願いを持っていらしたのね)
流転の國で聞いた話を思い出すシャドーレだったが、スタイリストの声で我に返った。
「こんな感じで、いかがでしょうか?」
マヤリィに後ろ姿を見せている。
「わぁ、短い!頭が軽くなったし、首元が涼しい…!すごく気に入ったわ。ありがとう」
マヤリィは嬉しそうに頭を触っている。
そこにいたのは先程の美しいロングヘアの女性ではなく、短髪の美少年…。
後ろ髪は短く刈り上げられ、真ん中で分けた髪は耳の上で切られている。少し前まで長い髪だったのが信じられないくらいだ。
「さっぱりしたわ。私、刈り上げたの初めて」
「すごくお似合いです」
(いつものマヤリィ様ですわ…!)
「本気でベリショにするおつもりで来られたんですねー。ツーブロも似合ってますよー」
「ふふっ、ずっとやってみたかったの」
「すごいカッコイイですー!」
断髪を終えたマヤリィは嬉しそうにスタイリストと話している。
しばらく経って、
「シャドーレさん、お会計ー」
「か、畏まりました!」
目の前に立っているマヤリィは喜びを隠しきれず、いつもの微笑みとは少し違う表情で、会計を待っている。
(嬉しそうなマヤリィ様…なんてお美しく、なんて可愛らしい御方なのでしょう…!)
そう思いつつ、シャドーレの手は勝手に仕事を始める。
お金を受け取り、お釣りを渡す。
「ありがとう」
マヤリィはお釣りを受け取ると、小さな声で言う。
「…あのね、シャドーレさん」
「はっ、何でございましょうか?」
思わずいつもの調子で跪きそうになったが、シャドーレの身体は動かない。
「貴女が私の髪を褒めてくれたのは嬉しかったけれど…私、もう伸ばさないかもしれない。長い髪は、もう嫌なの」
シャドーレにしか聞こえない声で言う。
「畏れながら、マヤリィ様。貴女様には短い髪の方がお似合いだと思いますわ」
息を呑むほど美しいマヤリィのロングヘアを目の当たりにしてもなお、シャドーレは短髪のマヤリィこそが彼女の本当の姿だと思う。
「本当?…嬉しいわ、ありがとう」
シャドーレの言葉を聞いたマヤリィは嬉しさのあまり頬を染め、お礼を言うと、お辞儀をして店を出ていった。
「いやー、ものすごいイメチェンでしたねー」
「ええ。ベリショにされるとは想定外でした」
二人のスタイリストが話している。
シャドーレはそれを聞きながら、受付にある予約表を見る。しばらく客は来ない。
意を決してシャドーレは訊ねる。
「あの…先程の髪の毛の寄付は…黒髪でなくても出来るのでしょうか?」
「出来ますよー。長さがあれば、すごく傷んでるとかじゃなければ誰でも出来ますー」
小柄なスタイリストが答える。
「あ、もしかして…シャドーレさんもやってみたくなっちゃいました?」
マヤリィのヘアカットを担当したスタイリストがシャドーレに訊ねる。
「ええ、私もやってみたいですわ」
そう言って自らの長い髪を触る。
「先程のお客様と同じくらい短くしたいのですが…お願い出来ますか?」
腰まで届くプラチナブロンドのロングヘアを見て、二人は顔を見合わせる。
「そんなに短くしちゃうんですかー?」
「勿体ない気もしますが、長い髪の寄付は喜ばれますし…いいんじゃないですか?」
そういえば、女の子のウィッグを作るには長い髪の毛の方が良いと聞いた。
「ぜひ、お願いします。ちょうど短くしたいと思っていましたの」
「分かりました。今の時間帯は予約も入っていませんし、すぐに切りましょうか」
「はいっ!お願い致します!」
まもなくシャドーレのロングヘアは先程のマヤリィと同じように幾つかに分けられ、一束ずつ切り落とされていった。そして、マヤリィの髪束と同じ台に、少し間を空けて並べられた。
(マヤリィ様の御髪の隣に私の髪が…!)
隣合ったマヤリィの黒髪とシャドーレの金髪。
二人の髪はほとんど同じ長さだった。
(ああ、光栄ですわ、マヤリィ様…!)
その後、シャドーレの髪はみるみるうちに短くなり、バリカンで刈られた。
「シャドーレさん、ベリショ似合いますねー」
「本当に、カッコイイです」
先程のマヤリィの姿を思い返していたシャドーレは、スタイリストの言葉で我に返り、鏡に映る自分の姿を見た。注文通り、マヤリィと同じ刈り上げベリーショートになっている。
「頭が軽くなりましたわ…!」
鬱陶しい髪から解放されて、シャドーレは心も晴れ晴れとするようだった。
(ああ、マヤリィ様。この姿の私なら、貴女様は思い出して下さるでしょうか)
短く刈り上げられた髪を触り、シャドーレはマヤリィのことを考えた。
しかし、そこで意識は途切れた。
気が付くと、ここは流転の國。
シャドーレの傍らには美しい女性の姿。
(ここは……だ、第2会議室……!?)
驚いて飛び起きると、シャドーレを包み込むように優しい声が聞こえてくる。
「シャドーレ、目が覚めたみたいね。とても幸せそうな顔で眠っていたけれど、良い夢でも見ていたのかしら?」
第2会議室にはマヤリィとシャドーレだけ。
シャドーレは一糸纏わぬ姿でシーツをかけられている。
それはつまり…そういうことなのだろう。
「はい…!畏れながら、マヤリィ様の夢を見ておりましたわ」
シャドーレはそう言って頬を染める。
マヤリィはいつも通りの姿でそこにいる。
後頭部を刈り上げ、耳を丸出しにした、少年のように短い髪のマヤリィ様。
「昨夜はずっと一緒にいたものね。…彼女にはなんて言い訳するの?」
記憶は曖昧だが、どうやら昨夜は第2会議室でマヤリィとのセックスを愉しんだ後、そのまま眠ってしまったらしい。
「ふふ、私に襲われて第2会議室に連れて行かれたって、素直に話してくれてもいいのよ?そうしたら、私はミノリに殺されるかもしれないけれど」
そう言いながら微笑むマヤリィ。
誰よりも気高く美しく優しいご主人様…なのだが、時々ビッチ。
「二人を祝福すると言いながら、貴女に抱かれたいと思ってしまった私を許して頂戴」
そう言って、マヤリィは裸のシャドーレを抱きしめた。
「シャドーレ、大好きよ」
「マヤリィ様、私もマヤリィ様のことを心から愛しておりますわ…!」
シャドーレは自分を認識してくれるマヤリィのいる流転の國に戻ってくることが出来て、本当によかったと思った。
「もう少しここでゆっくりしていきたいわね。コーヒーでも飲みましょうか」
不倫しちゃったマヤリィとシャドーレ。
禁断の時間はまだしばらく続きそうだ。
「流転の國 vol.2 〜闇堕ち編〜」第1話の夢を見たのがシャドーレだったら、きっとマヤリィは闇堕ちしなかったに違いない。
バリカン好き女子の同志は知らない世界に飛ばされても決して揺らぐことはない。
因みに、ご存知かとは思いますが、第2会議室とは名ばかりのラブホテルの一室です。