カレーの話をする生贄VSカレーのお口になって生贄を食えない魔族
国の外れの森、その奥深くに建つ館には、ひとりの魔族が住んでいる。
見た目は人間とそう変わらない。ぱっと見、ただの青年である。
否、ぱっと見でも目に入る角が頭に二本生えているので、人々は一目で彼が魔族と知ることができた。それに褐色の肌も銀色の髪も、この地方では珍しかったので、その点も人々には神秘的に映った。
魔族のもとには、たまに人間が力を借りにやってきた。
それは雪がちな小国を襲う災害からの救いを求めるものであり、魔族は「人間は雪崩も止められないのか」と呆れながらも、まあそんなに手間でもないし、人々に「魔王様!」と崇められるのは気分が良かったし、ちゃんと願いを聞き届け、国を襲う大雪崩を適当に蹴散らしていた。
大雪崩の頻度は、だいたい十年に一度である。
仕事を終えた魔族のもとには、慣例通り生贄が届けられた。
人間の血肉が美味しいことは知っている。
崇められている手前、積極的に人間を襲うことはしないが、こうして捧げられる分には、その味を楽しむにやぶさかではない。十年ぶりに食べる人間が楽しみで、今日のお昼は抜いておいたくらいである。
魔族は上機嫌に、目の前で平伏する生贄――綺麗に飾り立てられた小柄な少女――に、声をかけた。
「顔を上げろ。立て。発言を許す」
「はい」
従順に立ち上がった少女は、緊張した面持ちだった。これから食われるのだからそれは緊張もするだろう、と魔族は思う。泣かないだけ立派である。
「魔王様。このたびも国を救っていただき、ありがとうございました」
「ああ。俺は偉大な魔族なので、あの程度の些事はわけもない」
「さすがです魔王様。素敵です魔王様」
生贄の少女、熱い拍手。拍手してくるタイプの生贄を初めて見た魔族だが、まあいい気分だったので大人しく拍手を浴びておいた。
「では今日の夕食としてお前を食うが、覚悟はいいな」
「もちろんでございます。覚悟ばち決めで参りました」
「覚悟ばち決め」
「魔王様に身を捧げられるのなら本望です。どうぞ、一思いに頭からガブっといってくださいませ。笑顔で死んで見せます」
なかなか見上げた心意気である、と感心しながら、魔族は椅子から立ち上がった。
そして生贄の少女の肩に手をかけようとし――「魔王様」と、制された。
「なんだ」
「魔王様。人生の最期に、祈りの言葉を口にしてもよろしいでしょうか」
「ああ。好きにしろ」
魔族は鷹揚に頷いた。死にゆく人間に、最期の言葉の時間をくれてやるくらいの慈悲はある。それが天国行きを願う祈りの言葉であれば、なおのこと邪魔などしない。
たとえお昼を抜いたので猛烈に空腹な状態であってもだ。偉大でさすがで素敵な魔王の懐深さを見せつけた思いである。
生贄の少女は「ありがとうございます」と微笑み、なるほど祈りに相応しく両手を胸の前で組み、静かに目を閉じた。
「……そして私は土鍋の蓋を取った」
土鍋。
魔族は「んっ?」と首を傾げたが、少女は目を閉じたまま語り続ける。
「ぶわりと湯気が溢れだす。噛み締めたときの甘さを思い描けるほどの香り」
「待て。なんだ。何の話だ」
「つやつやした米の一粒一粒が立っている」
「炊き立てか。炊き立てご飯の描写なのか」
「熱々のご飯を、皿のやや左に寄せて盛る」
「なぜ寄せるのだ」
「寸胴鍋いっぱいに作った特製カレーは、ぐつぐつと煮えている」
「カレーだからか!」
「お玉で底を掬うようにかき混ぜれば、ほろほろに煮込んだ牛肉と、角が取れて丸くなった人参が見え隠れだ」
「それ玉ねぎは完全に溶け込んでるやつ」
「皿の空白をカレーで満たす。熱々ご飯に、熱々カレー。湯気が重なる」
「お皿の上がミストサウナ」
「いきなり混ぜてしまうようなことはしない。まずは境界線を、銀のスプーンで一口分……」
ようやく一口食べられそうなところで、少女は唐突に口を噤んでしまった。
架空のカレーに思いを馳せていた魔族は、思わず「えっ」と困惑を口に出した。
「ど……どうしたのだ。続きは」
「いえ。これにて祈りの言葉は終わりです」
「あれが!?」
「私は本を読むことが好きでした……。私にとって、お気に入りの一節を暗唱することは、心に安寧をもたらす祈りなのです。これで死も怖くありません。完全にゾーンに入りました。笑顔で魔王様に身を捧げられます」
「いいのか。最期の言葉が土鍋ご飯とカレーの描写で本当にいいのか。あとゾーンに入るってなんだ」
「ちなみに先程の祈りの言葉は、私の愛読書だった恋愛小説、『華麗なる魔族~君に捧げるガラムマサラ~』の一節でございます。あれは神本だった……」
思っていた祈りの言葉とだいぶ違う内容に愕然とする魔族に対し、少女は清々しい表情である。「さあ、どうぞ一思いに食べてください!」とでも言いたげな微笑で魔族を見上げている。
だが、魔族はもう、少女を食す気持ちが失せていた。
否、カレー以外のものを口にする気はなかった。
すでにカレーのお口である。人間の血肉が美味しいことは知っている。でもカレーのお口である。カレー以外の味でこの気持ちが収まるとは思えなかった。
無防備に立つ生贄に手を出すでもなく、腕を組んで悶々とする魔族に、少女の顔が曇り出す。
「……魔王様? いかがなさいましたか? はっ、やはり、魔王様への捧げものが小娘一人では足りないとお怒りで……!?」
「いや小娘一人ではっていうか、一杯のカレーを求めてるっていうか」
「カレー……」
少女は目を伏せて数秒考え、ぱっと顔を輝かせた。
「実はここに来る途中、街の皆さんから色々と持たされたのです。ぜひ救世主たる魔王様に、うちの自慢の一品をと……。その中には、人参、玉ねぎ、牛肉、各種スパイス、秘伝のカレー粉などもございまして……」
空想の世界でカレーを作り始めていた魔族は、はっと我に返った。
これだけは聞かねばならない。
「米は……?」
魔族の問いに、少女は力強く頷いた。
「新米をご用意しております」
***
そういうわけで、その日の魔族の夕食は、「可哀そうな生贄の少女の血肉」ではなく、「可哀そうな生贄の少女が持参した食材で作った特製カレー」になった。
すっかりお腹がいっぱいになった魔族は、ちゃっかり自分の分も皿によそって食べている少女に顔を向け、うっかり自分が生贄を食べ損ねたことに気が付いた。
でももうお腹がいっぱいなので、これ以上は無理である。アイスか蜜柑しか入らない。
「……おい」
魔族はカレーで満たされて幸せな気持ちが出ないよう、怖めの声と表情を作って少女に呼び掛けた。カレーが大好きらしく至高の笑顔で頬張っていた少女は、従順に「なんでしょうか、魔王様」と返事をした。
「今日はたまたまカレーの気分だったからカレーにしただけで、明日こそはお前を食うからな。そこのところ勘違いしないように」
「はい。この身はいつでも魔王様に捧げる覚悟です」
「よし。朝食だ。明日の朝食をお前にしよう」
「心得ました。……ちなみに魔王様。持参した捧げ物の中に紅茶もあったので、食後用にチャイをお作りしたのですが……」
「えっ。飲む飲む」
少女が用意した甘いチャイを美味しくいただいた魔族は、幸せな気持ちで歯を磨いて風呂に入って眠りについた。
***
翌朝。
目覚めた魔族は、よし今日こそ生贄を食べるぞという気分になっていた。
もうカレー話になど惑わされない。生贄の少女が再び土鍋ご飯から始まる祈りの言葉を口にしたとて、朝からカレーを食べるほどに極まったカレー好きではない魔族は、きっと心を動かされない自信があった。
人間の血肉が美味しいことは知っている。あの少女ならば、爽やかな目覚めに相応しい朝食となるだろう。
「おはようございます」
ベッドの上で腕を組んでうんうんと頷いていた魔族は、いつのまにか入室していた少女の挨拶にビクッと肩を上げた。一人暮らし歴200年の魔族なので、朝のご挨拶に耐性がない。
「あ……ああ。もう起きていたのか」
寝起きで寝ぐせで寝間着な魔族と違い、少女はきちんとした身なりで馳せ参じていた。ちなみに昨夜は、少女には「好きなところで寝ろ」と言い、毛布を一枚与えておいた。きっとその辺の床で寝たのだろう。
「はい。昨日はぐっすりと眠れましたので、自然に日の出とともに目が覚めた次第です。客間のベッド、非常に寝心地がよいですね! 修道院のベッドと大違いです」
「勝手に客間のベッドで寝るタイプの生贄初めて見た」
いや好きなところで寝ろとは言ったけども、と少女のたくましさに魔族は慄いたが、当の少女は魔族の戦慄など意に介さず、いそいそとベッドに寄り、両手を胸の前で組んだ。
「では、魔王様。私を朝食にするということでしたので、さっそく最期の言葉に入らさせていただきます」
「ふ、ふん。もう惑わされんからな」
寝起きドッキリの早さで少女の「お祈り」が始まることは想定外だったが、魔族は悠然と構えてみせた。
誰が朝からカレーの気持ちになるものか。今日の朝食は予定通り、可哀そうな生贄の少女の血肉である。
「……白磁のティーカップに、琥珀色の液体が注がれる。質の良い茶葉を使っているのだろう、カップの縁に黄金の輪が見えた」
「紅茶だと」
「うっすらと黄味を帯びた、搾りたての牛乳を少し加える。たちまち、透き通る琥珀色が、柔らかな薄茶色に変わる。寝起きの身体に流し込む、熱々の紅茶。空腹の胃に染みわたるようだった」
「染みわたりたい」
「一杯目の紅茶が終わる頃、スコーンが焼き上がった。バターの塊のような黄色に、表面にはうっすらと焼き目の付いた、ごつごつと少し武骨なスコーン。手で上下に割れば、湯気とともに立ち上る小麦の香りが鼻孔をくすぐる」
「くすぐられたい」
「まずはクリームもジャムもつけず、ありのままのスコーンを一口……」
ようやく一口食べられそうなところで、少女は唐突に口を噤んでしまった。
架空のモーニングティータイムに思いを馳せていた魔族は、思わず「えっ」と困惑を口に出した。
「以上、私の愛読書『こわもて騎士様との秘密のお茶会~甘い恋に砂糖はいらない~』の一節でした。完全にゾーンに入りました。これで頸動脈を食い千切られようと笑顔で心安らかに天国へ行けます」
少女はお祈り状態を解除し、「さあどうぞ私を召し上がれ」とでも言いたげな、天使の微笑みで魔族を見つめた。
もちろん魔族は、すでに熱々紅茶と焼きたてスコーンのお口である。
「……お前、スコーンは作れるのか」
「はい、作れますが……?」
「チャイは美味かったが、紅茶の腕に自信は?」
「ございます。修道院で開かれた、一番美味しい紅茶を淹れられるのは誰だ選手権で優勝し、『茶ンピオン』の称号をいただきました」
「よし。今日の朝食はスコーンと紅茶だ。すぐ用意に取り掛かれ」
「……私を食べるのでは……?」
「お前は昼食だ!」
***
「それでだな。サンドイッチという料理をなぜサンドイッチと呼ぶかと言うと、かつて西を支配していた魔王サンドイッチが『勇者と戦いながら片手で食べられる料理が欲しい』と、部下に命じて考案させたものだからなのだ」
「えっ、そうだったんですか……!」
「こんなことも知らなかったのか、馬鹿め。魔族界隈での常識だぞ」
「魔王様は強い上に知識もおありなんですね……!」
「ま、まあ、自分でも偉大過ぎるかなって自覚は前々からしてたっていうか」
さくさくスコーンと至高の紅茶で最上の朝を楽しんだ魔族は、はっと我に返った。
今日も生贄を食せなかったばかりか、なんだかんだで朝食の席に同席している少女と、ティーカップ片手に談笑までしてしまったではないか。
昼だ。昼食こそ生贄だ。
きっ! と魔族は少女を睨みつけた。少女はスコーンを手に、ほくほくと幸せそうに笑っていた。一人暮らし歴200年の魔族は、そういえば誰かと仲良く朝食を囲むのは初めてではないかと思い至る。
「あっ、魔王様。紅茶のおかわりはいかがですか?」
「……うん。いる」
魔族は素直に頷いた。
***
で、昼である。
「白く滑らかな柔肌はうっすらと濡れて艶めき、男の欲望をひどく掻き立てた。吐く息が熱い。堪らず先端を食い込ませれば、とろりと音が聞こえそうなほどの」
「それは昼間から音読していいものなのか。それは昼間から音読していいものなのか」
非常に心配になって二度同じことを聞く魔族に、少女はこてんと小首を傾げた。
「カレーに載せた温玉をスプーンで崩す描写ですが何か……?」
「よかった全年齢向けだった」
背後に誰もいないことを確認したうえで夜中に読む系の内容ではないのかと懸念した魔族は、少女の回答に安堵した。
「これは『華麗なる魔族シーズン2~君に輝くクミンシード~』の一節です。前作の敵が味方につくという心憎い展開が胸熱」
「シリーズある系なんだ……。まあいい。心安らかになれたか。ゾーンには入れたか」
「はい、魔王様。どうぞ私を本日の昼食にしてください。あ、昨日作ったカレーはまだまだありますので、温め直して食べてくださいね。一晩寝かせた二日目カレーには、当日カレーを超える謎の滋味深さがありますのでぜひ」
二日目カレーの妙味。そんなことは言われずとも、「おんたま」の響きを耳にした時点で、魔族の心は決まっていた。だって温玉。
「今日の昼食は、お前ではない。カレーだ。温玉付きだ」
「……私を食べるのでは……?」
「お前は夕食だ!」
少女と仲良く肩を並べて、温玉カレーを食べながら、魔族はすでに予感していた。
たぶん、夕食もまた、生贄を食べることはできなさそうだと。
***
で、夜である。
「お前、本当に俺に食べられる気があるのか」
きっ! と睨みを利かせて訊ねる魔族に、少女は真剣な面持ちで頷いた。
「はい。ありまくりです。十年前に、国を襲う雪崩を蹴散らす神々しいお姿を見た時からずっと、私は魔王様にぞっこん一途です」
「ぞっこん一途」
「十年に一度の生贄は、身寄りのない修道女の中から選ぶ。そう知った時の幸福は忘れられません。修道院に拾われて育った私には、魔王様に会える可能性がある。なんて幸運なんだろうと。来る日に備え、死を前にしても笑顔で身を捧げられるよう、修行を積みました。今や私は、祈りの言葉を唱えることでゾーンに入れます」
少女はひたむきな眼差しで魔族を見る。
「ついに生贄を選ぶ日が来た時、私は秒で手を上げて立候補しました。願い通り、魔王様にお目に掛かることができて幸せです。死因が魔王様で本望です」
最後までゾーンが何かは分からなかったが、少女が惚れた男に会うためだけに、時間を掛けて命も賭けたことは分かり、魔族は今まで感じたことのない気持ちになった。
「……ふ、ふーん……」
「それでもやっぱり具体的に頸動脈を噛み切られる様を想像すると足がガクブルなので、毎度で申し訳ありませんが、お祈りに入らせていただきます」
「ま……待て。その必要はない」
「え?」
「今日の夕食はお前ではない。明日もだ。俺がお前のお口になることは、たぶん直近しばらく来ない。気分じゃないときに食べても美味しくない」
「……魔王様。私は美味しくなさそうでしょうか……?」
「そんなわけがあるか。見れば分かる。ものすごく美味しいだろうよ。だから今じゃない。楽しみは後の方に取っておくものだからな。俺がお前を食べたくなるのは、たぶん、あれだ、ほら、お前の寿命が尽きたときだ」
「寿命が尽きたとき」
「だからその時まで、お前はここで俺に仕えるがいい。お前は俺に身を捧げに来たんだ、文句はあるまい」
ふん! とふんぞり返る魔族に、少女はぽかんとして、それから顔を赤らめた。
「私を食べない……でも身を捧げる……。その、魔王様。生贄を食べるって、その、食事的な意味ではなく、せ、せ、せ、性的な意味で食べちゃう的な……?」
「違います、落ち着きなさい、なんでそうなった」
「分かりました。私、魔王様の妻になります! ありがとうございます幸せです!」
「だから落ち着……って、えっ妻!? ちょ、おま、そんっ、べべべべ別にお前を伴侶にとか俺はそんなつもりじゃ別に」
「では、そういう気分を盛り上げるための、お祈りの言葉を披露いたしましょう。タイトルがそれっぽくなかったために幸運にも弾かれずに修道院に寄付された、めくるめく官能小説の一節を暗唱します」
「いやしなくていい!」
「俺は彼女を寝台に押し倒し」
「だからしなくていいと言っただろうが!」
「がふっ、さすが魔王様、的確なヘッドロック。苦しいですでも幸せ」
ヘッドロックを掛けられて幸せそうに呻く少女に、魔族はつい表情を緩ませる。ついでに腕も緩めた。
「今日の夕食は何にする?」
「まだカレーがあるので、カレーうどんはいかがでしょうか」
「同じカレーといえど趣が異なるから新鮮な気持ちで食べられるやつ」
魔族と少女は手を取り合って、台所に向かった。
***
やけに元気良く生贄に立候補した少女が捧げられてから、九年後。
人々のもとに、魔族から手紙が届いた。
『俺は妻にぞっこん一途なので、他の人間を送ってこられても困る。生贄がなくとも、今後も妻の故郷を守護するにやぶさかではないので、安心されたし』
魔王様が住むとされる森からは、時折カレーのいい匂いが漂うそうである。
~登場人物紹介~
魔族
魔王と名乗った覚えはないが、人々が「魔王様」と呼んでくるのでそれでいいかと思っている。他者に固有名詞があるという概念が希薄なため、ついぞ生贄に名を聞くことはなかったが、「おい妻」「なあ妻」「これは何だ妻」「これがナンか妻!」と、ことあるごとに妻呼びしている。
生贄
カレー作ったりスコーン焼いたりゾーンに入ったり茶ンピオンだったり大変アクティブな生贄。庭に窯を作ってナンを焼いたら夫に好評だった。もはや語尾のように「妻」と呼ばれて毎日幸せ。
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明後日11/22は「いい夫婦の日」ということで、フライングいい夫婦話でした。
いい夫婦の日の本番には、いい偽装結婚夫婦(いい偽装結婚夫婦……?)のお話を投稿する予定です。