修羅場の真実
お久しぶりであります。
そして相変わらず、これ、R15で大丈夫か? と思いつつ、お送りいたします。
できるだけマイルド描写に努めておりますが、残虐行為あり、であります。
それでよろしければ、お楽しみください。
混乱しているうちに、本題を吐かせるかと、水月は目を細めた。
「程よい酔いが、口を軽くし始めたようだな。いい傾向だ」
「……いや。別に、酔ったから黙ってるんじゃ、ねえんだけど?」
優しく微笑みながらの言葉に、蓮は睨みながら答えるが、心なしか力がない。
「そろそろ、話を聞かせてもらっても、いいか?」
「日はまだ、傾き始めたばかりだろうが」
「いやいや。先に我慢をやめたのは、お前の方だろう?」
頭を抱え込んだ蓮の返しに、丁寧に返事しながら、水月は笑顔のままだ。
「なあ、蓮」
優しく諭すように、ゆっくりと心境を告げた。
「オレは、あの二人に名乗れない分、陰で見守ろうと思ってはいる。だが、体を弄ばれて捨てられる様は、どうしても許しがたいんだ」
「だ、れが、弄んだとっ?」
あんまりな言いように、蓮は勢いよく睨んでしまった。
「勝手に人の体をいじくった上に、勝手に満足して果てただけじゃねえかっ。こっちが弄ばれたと訴える方だっ。間違えんじゃねえっ」
「ほう」
勢いで告白してしまった若者は、短い返しで我に返った。
優しい微笑みのまま、水月は天井を仰いでいる。
「蘇芳の言い分は、嘘ではなかった、ということか」
正しくは、律が蘇芳から聞いた話、なのだが、老齢な狐の話だ、大袈裟に言っている可能性もあると、少しだけ疑っていたのだった。
「つまり、お前は嫌だった、と?」
「嫌とか、そういう感情は……」
きっぱりと言い切ればいいものを、蓮は苦しそうに答えた。
「嫌じゃなかったのか? ならば、あのままでいいか」
「? あのまま?」
「お前さん、あの二人に目をつけられているだろう? 蘇芳の目からは、逃れたというのに?」
「あ。いや。あれは……そういう意味ではないと、思う」
先程から、珍しく歯切れが悪くなっている。
水月の目が、最小限に細くなった。
「オレが律のところに引き取られる前に、お前と蘇芳の邂逅があって、その延長線上でセイを雇うことになったと、聞いてはいたんだが……」
「……」
凌を動かすことで、自分は留飲を下げた。
中身はどうであれ、見た目十代の少年に、あの狐は非道な行いをしたのだ、本当はそれだけで済ませるのも、良しとはしていなかった。
だが、律が言うには、蓮たちの知り合いに釘を刺されたため、今は大人しいということだったし、水月も遅ればせながらに凌を煽り、後がないことを知らしめておくだけにとどめたのだ。
後は、本人が気楽に話せる程度の過去ならば、もう気にする必要もないと思っていた。
しかし、いつもはっきりとした物言いの若者が口ごもるところを見て、もしやと思い当たった。
「お前さん、まさか、覚えていないのか?」
「……さすがに、全く、ではないですが」
神妙に敬語で答えた蓮は、肩を落とした。
こちらは仕事前の、顔合わせのつもりだった。
「政治家の重鎮と言われている奴だったんで、せいぜい真面目に接したつもりだったんですが、途中から雲行きが怪しくなって……」
これはまずいと思った時には、珍しく遅かった。
「完全に油断していました。国の中枢に、まさかそんな狐が巣くっているとも思っていなかったもので、驚いている隙を突かれました」
一気に術中にはまった蓮は、そこで幻影を見た。
「……昔、情を交わした女が、有り得ねえ態度で、こちらを誘ってきたんです。絶っっっ対に有り得ねえって、頭では分かっていたんですが、ついつい、伸びてきた手を、取っちまったんです」
これは、願望の賜物だ。
そう察したのだが、どうしても術中から抜け出せなかった。
相手は、いまだに健在で、こちらから迫る勇気もなく、できれば、向こうが誘ってくれねえかな、などという日和った願いを、狐のその術は明確に、蓮自身にも自覚させてしまったのだ。
絶対、という言葉に、妙に力が入る蓮に、水月は首をかしげる。
昔の蓮ならば分からないが、今の成長した若者ならば、一目で惚れてしまう女もいるだろうし、勲章のごとく手を付けたいと願う女もいるだろう。
そういう類の女ではなく、身持ちの堅い女が、蓮の思い人か。
意外とも、そうでないとも言える。
世の世知辛いところを見続けていれば、身持ちの堅い、清廉な娘に憧れてしまうことは、あるものだ。
「……そうこうしているうちに、何故か視界が開けて、頭にそれまでなかったはずの記憶が、怒涛のように流れ込んできたんです」
一人納得していた男の耳に、そんな続きが聞こえた。
目を見開いてこちらを見る水月に、若者は苦い顔で言った。
「どうやら、大昔かけられたままの呪いが、狐の呪いに負けて解けたらしくて、頭の処理が追い付かず、途中から抗うのを、やめてしまったんです」
自分が信じ切っていた事実が、実は偽りの記憶であったと分かり混乱し、蘇芳との情事はおろか、途中割り込んできた水月の子供たちの所業も、全て流されるままになってしまっていた。
「気づいた時は丁度、蘇芳が気絶した二人を部屋に送り返して、戻ってきたころだったようです」
再会した時に蘇芳と話した時、実は半分以上意味が分からなかった。
だが、事後の体のだるさはあったため、なるようになったのだろうと、話を合わせた挙句、完全に強がりの域で意気って見せたのだった。
「……セイが、巻き込まれてしまったと聞いた時、自分の頭を吹っ飛ばせない自分自身が、本当にもどかしかったです」
「何故、蘇芳があの子に行き着いたのかは? 分かっているのか?」
素朴な疑問に、蓮は頭を抑えるというより、顔を両手で隠しながら、声を震わせて答えた。
心なしか、その隙間から見える顔は赤い。
「……オレが、うわの空で、名を呼んじまったらしいです」
「その、女の名を、か?」
「はい」
つまり、似た名前の女、ということか?
天井を仰ぎながら相槌を打ち、天井のシミを数えながら湯呑を再び傾け、知り合いに該当する女がいないか、頭に思い浮かべる。
名前自体は、そう珍しくないから、思いつく限りで手の指十本は使いそうだ。
「……ぶっ」
「!? 水月さん?」
不意に、とんでもないことが頭に浮かんで水月は空気を喉に詰まらせてしまい、湯呑の中に噴出してしまった。
慌てて湯呑を床に置き、顔にかかった焼酎を袖口でふくと、慌てて手拭いを差し出す若者の名を呼んだ。
「蓮」
「はい」
「まさか、浅黄と萌葱が言っていた、あの人、というのは……」
その答えに行き着いたのを、察したのだろう。
蓮は、珍しく溜息を吐きつつ、頷いた。
「お前、そいつと、ねんごろになったのか? いつ?」
「……ランが最期にこの国に来た頃、です。うちの祖父さんが、ここに連れてきて、三日ほど置いて行ったんです」
計算が合う。
水月は、盛大な溜息を吐いた。
浅黄と萌葱の思い人の件は、あっさりと解決し、納得した。
相手が二人を受け入れるとしても拒絶するとしても、水月が気にする話ではない。
だが、こちらは……。
「蓮」
「はい」
水月が無言で湯呑を傾け、残っていた焼酎を飲み切り、床に軽く音を立てておくまで、緊張して見守っていた蓮は、不意に笑顔でこちらを見返して優しく言われた時、覚悟を決めた。
「表に出ろ」
何度か、生死不明確になる覚悟を。
水月の母が女帝のように治めていた里は、女族だった。
「優ちゃんたちの母上に言わせると、もうかなり廃れていたみたいなんだけど、気弱な男として敵と会い、油断したところを女に戻って完全に殲滅して、確実に領地を広めてきた一族だったそうよ」
褐色の美男は、その体格には似つかわしくない口調で言いながら、首を傾げた。
「優ちゃんを見たらわかると思うけど、元々は、拳一つで里一つ潰すと恐れられるほどの怪力の女性が、はびこっていたの。でも、それはやりすぎの元だと、何代か前の長が、武器を持つことでその力の調整をするようにし始めたの。やりすぎることはなくなったけど、本来の力を出せなくなって結局廃れて、政略的に里を維持するしかなくなった。それを嘆いた葉月ちゃんの師匠が、幼い弟子に昔ながらの修行を敢行して、それを吸収した葉月ちゃんが、弟子だった水月ちゃんを同じように仕込んだんですって。一族の中では弱い男を、自分以上に育てることで、性別関係なく戦闘要員になれるように」
「……」
呆れ顔で男ロンの言葉を聞き流しながら、白髪の小柄な男が、同じように呆れ顔の中肉中背の和服の男の方へと目を向けていた。
和服の男は、自分よりも一回り大きな男の背を足蹴にし、地面に押さえつけていた。
ロンほどの大きさの、恐ろしい眼力の男だ。
眼力はすごいが、目には涙が浮かんでいる。
「水月ちゃんは、うちの叔父様が怒りで暴走した時に、適度に相手をして、敵地を更地にする程度で済ますように、便宜を図ってくれる役を、買って出てくれていたのよ。意外にすごいでしょ。だから、武器なしだからって油断して、飛び掛かっちゃ駄目よ。変なポカで死にかかるとはあっても、殺意には敏感だから」
「最後は、余計だろう」
水月が優しく反論した。
そして、新たな客たちに歩み寄る時に引きづっていた塊を、地面にへばりつく大男の前に放り投げる。
「れ、蓮っっ。何てことだっっ。こんなに小さくなっちまってっっ」
「ああ、そうか。足を持ってきていなかったな。探してくる」
「大丈夫です」
男にしては細い声が、丁寧に返した。
振り返ると、水月の戸籍上の父親が、先の四人の後ろに立っていた。
「足なら両方とも、そこに落ちていました。市原さんが、それを見て飛び出そうとしたのを、その人が抑えてくれたんです」
「そうか」
「一体、何事ですか?」
静かに尋ねる森口律に、その戸籍上の息子は答えた。
「こいつが、合意なく未成年の女子に暴行した疑いがあったため、尋問していた」
「拷問の、間違いじゃない?」
呆れている刑事の訂正に、男は悪びれなく言い訳する。
「吐いた事実があまりにもひどくてな、ついつい刑罰も行ってしまった次第だ」
「これ以上は、やめて頂戴ね。公務員だって、そういうことは出来なくなってるんだから。それこそ暴行罪で、しょっ引かなくちゃいけなくなるわ」
ロンと水月が、呑気にそんな会話を交わす間に、蓮は形を取り戻し、完全にびりびりになった衣服を、体から剝がす作業をしていた。
「……流石に、旦那ほど早くはないか」
「あれは、異常だ。大体、少し間を空けて復活するのは、襲撃者が誤認して喜んだあと驚き落胆するさまを見るためで、実際は瞬きする間に復活してしまうはずだ」
眉を寄せたロンと、考えるように空を仰いだ律の前で、水月は白い兎の男の言葉に頷いて見せた。
「成程。普通ならばそこで驚きから恐怖が芽生え、かかわらなくなるところを、そこの脳筋は落胆だけで済ませて、挑み続けたわけだな? だから、執着に似た慕われ方をしてしまったのか。ご愁傷さまだな」
地面から解放された市原葵が、大きな体の割に細やかに動き、小さな小屋の中から古着を手に戻ってきて、心配そうに蓮に手渡す。
「大丈夫か? 背、縮んでねえか?」
「……どこまで引っ張る気だ、お前は。変わってねえよ」
「てか、ちゃんと正直に話したのか? 確かに、初日はとんでもねえ過ちだったけども、次の日は、いい雰囲気だったじゃねえか」
「もう、黙れ。本当に」
真剣な言い分の大男に、蓮は羞恥以外の何物でもない感情で短く返す。
この話をさらすことで、何が一番嫌かというと、葵の出羽ガメに気付かなかったことを、思い出すことだった。
苦し気な若者を見下ろし、水月は冷ややかに言い放った。
「女の扱いは、最初が肝心だと知らんのか? 暴行の後に優しくしても、意味がないだろうが。カスミの旦那や、セキレイたちとは違う種類のクズがこんなところにいたとは、恐れ入ったぞ」
それをただ黙ったまま聞く蓮の傍で、兎が複雑な顔で空を仰ぐ。
こいつ、自分のことは棚の遥か先の、地球を飛び出す勢いで放り上げていないか?
その心の内を察し、水月は眉を寄せた。
「こら、自分のことを棚より遥か上の、銀河系を通り過ぎる勢いで放り投げて、何を偉そうに宣うと、思っていないだろうな?」
「そこまで上とは、考えていない」
「オレは、女本人の同意なしで遊んだことは、一度もないだろう?」
自信満々で、きっぱりと言い切る男を見上げ、蓮はついつい目を細めてしまった。
そろそろ夕日が、まぶしい時間なのだ。
「子を作るところまで行った女も、寿しかいなかったがな」
「……」
どういうことかと戸惑う若い大小の男たちに、兎が説明した。
「一線は越えないが、それ以外のことは他の男女より激しくやらかした挙句、飽きたら捨てる類のクズ、だ」
「そんな希少な種類のクズ、存在してたんですか」
「うむ。よく観察しておけ。めったに見ない希少動物だ」
力なくつぶやく蓮を、重までそう諭し、まだ戸惑っている葵を見た。
蓮の傍に立つ大男は、躊躇いがちに尋ねる。
「つまり……水月さんは、蓮とその娘が添うのは、反対ですか?」
「……できる状況か?」
ゆっくり、言葉を選んだ葵の問いに対する水月の返しは短く、しかし的確だった。
「……」
素直に顔を歪ませる大男を面白そうに見て、希少なクズは首をかしげて見せた。
「まあ、今まで通り、本人たち次第ということで、黙認しておくしかないだろう?」
黙り込んだ若い二人を見下ろしつつ、ロンはただ見守っていたが、珍しく話の先が見えずに、内心困っていた。
だが、その説明をする気のない水月は、そんなもう一人の大男を見やり、声をかけた。
「あんたは、どうしてここに? 蓮に用か、それとも、オレの方か?」
いつもの優しい笑顔を浮かべた問いかけに、ロンもいつものように笑顔になった。
「水月ちゃんに決まってるじゃないの。聞いたわよ。律ちゃん、ようやくおめでたですってね」
「へっ?」
どうやら知らなかったらしい葵が我に返り、素っ頓狂な声を上げて律を見た。
「だ、駄目じゃないですかっ。こんなところまで山登りしちゃあっ」
「大丈夫だ。もう、安定期に入った」
乱暴ながらも優しい気づかいに笑顔になりながら、律が答えると、ロンはうれしそうに頷きながら言った。
「そうなんですってね。琥珀ちゃんと、同じくらいの出産予定日なのよ」
へ?
声には出なかったが、そんな顔になったのは、隣で座り込んだままの蓮もだ。
「まさかの同級生よ。同じ学校に通う? 幼馴染にしちゃう?」
大きな体ではしゃいで見せるロンを、水月は暑苦しそうに見やりながら、溜息を吐いた。
「いや。律は、実家で産ませる」
優しいながらも、きっぱりとした返した。
「……本年度の卒園児を見送ったら、オレは実家近くに転勤予定だ」
それは最近決まった、社長直々の辞令だった。
初耳の二人が言葉なく黙っている間に、ロンが悲痛の声を上げた。
「何ですって? あたし、てっきり律ちゃんは、こっちに住み替えて、子供を育てるとばかり……」
「何で、住み慣れている上に、生活基盤が整っている土地を離れて、子を育てることを決めると、本気で思っているんだ? 律が万が一そう決めても、オレが反対する」
「エンちゃんは反対するわよ。それに、ミヤちゃんには? どう話すのよ?」
そんな大きな壁を話に出す大男に、水月は首をすくめてから答えた。
「正直に話すだけだ。どうせいずれは、そうする予定だったんだ。それが少し早まっただけだ」
「叔父様の時みたいに、怒り狂っちゃうかもしれないわよ?」
「それでいい」
何でもないように答える男に、ロンは盛大に嘆いて見せた。
「あなたがいれば、子育てで琥珀ちゃんを疲れさせることはないって、安心してたのにっっ」
「それこそ、エンや雅を、頼ればいいだろう」
「まだ、ミヤちゃんと会わせたこと、ないんだけどっ」
そう嘆かれても、困る。
ロンは、叔父の子であるセイにも、過剰な保護者っぷりを発揮しているが、女房にはそれに輪をかけた過保護の上、溺愛もしている。
体が根本的に弱いカスミの姉を、人に会わせるために外に出すのも、嫌がっていた模様だ。
「野田医師も言っていましたが、外に出て日光を当てないのも、体に悪いですよ」
陸路で移動してきたが、念のためと知り合いの医師に診てもらった後、ロンと鉢合わせした律が窘めの言葉を口にするついでに、あっさりと言った。
「雅には、もう話は通しました。水月は、エンの方にだけ、説明してください」
珍しく鋭く振り向いた戸籍上の息子を見返し、父親は微笑んだ。
「私の方の事情を話してくれれば、雅に話した事情と、つじつまが合います」
舌打ちして黙り込んだ水月を見ながら、兎が静かに問う。
「お前たち……何を、考えている?」
思えば数年前から森口親子はそれぞれ、曖昧で不可思議な動きが、目立っていた。
「……言っておくが、お前の頼みを聞き入れたのは、ただの正義感だぞ」
疑いのまなざしの小さな男に、水月は真面目に念押ししたが、この男に語ってほしくないと、正義感からすると泣きたくなるだろう。
「だが、その頃に一つだけ、下準備していたものがある。それを、見とがめたんだろう?」
「……その頃だけじゃあ、ないでしょう? あなたは、社会人になってすぐから、少しずつ準備していましたよね? カスミの旦那のお父上と」
ああ、とロンがつい、声を上げた。
「終活のことね? 邪魔するために、オキちゃんを誘惑したの?」
「違います」
人の悪い笑顔を浮かべた刑事に、律はきっぱりと否定を返した。
「誘惑はしましたが、ちゃんと計算して、子供ができやすい時期を見計らってしました」
「本当に、計画的じゃない。子供を出汁にするなんて、ひどいわよ」
「だから、そうではなくっ」
目を険しくするロンに、白狐も目を細めて否定を返す。
続く言葉は、優しい男の声が継いだ。
「……もともと、後継ぎ問題は浮上していたんだ。律の子供をオレが育てる計画は、学生の頃から出ていた」
「え? どうして?」
「あれ以上、子孫を残す理由が、オレにはないからだ。体の方も本能的に、そう判断してしまったらしい」
遠回しな説明を受け、ロンが青ざめた。
「何ですってっ。あなた、種無しになっちゃってたのっっ」
「声を大にして言わなくとも、よくないか?」
兎が昔馴染みを気遣ってそう窘めるが、大男は驚きのあまり配慮を忘れてしまったらしい。
「そうだったの。だから、律ちゃんが、オキちゃんを誘惑……」
「旦那、先程から、喧嘩を売ってます? 一括で、きっちり買わせていただきますが?」
丁寧な言葉のまま、空気を固くする律に、刑事はやんわりと笑う。
「ちゃんと、元気に出産してから買ってちょうだい。後払いよ、後払い」
「その必要が、あるか? オレが肩代わりしようじゃないか」
「まあ、怖い」
「そうは見えないな」
詰まる戸籍上の父親に代わり、息子が優しく返すも、ロンは揶揄い交じりだ。
仕方ないなと溜息を吐き、水月は大男を見据えた。
「丁度、表に出ていてよかった。さっさと買ってやろう」
「って、まだ暴れられるんですか、あんた」
凌より、体力が少ないと聞いていたから、甘く見てしまっていた蓮は、これはあくまでも、あの化け物級の大男と比べればの話だと察し、げっそりとしてしまった。
その傍で、葵が慌てて二人を宥める。
「駄目ですよっ。子ができるんなら、命は大切にしねえと。水月さんも、落ち着いて」
「って、どうしてあたしが負ける前提?」
「え。勝てる気でいるんですか? この人に?」
「情に訴えれば、負けないわよ」
昨今、こういう奴が多くなって、とても困っている水月だ。
それに乗って、躊躇ってしまう自分も、相当だが。
「そういうことだから、子育ての件は手伝えない」
溜息を押し隠しながら、そう話を切り上げ、さっさと追い払ったが、半分ほどこの場に残ってしまった。
妊婦となった律を、妊婦が待つ家に戻るロンが、途中まで送る形で山を下りて行ったが、他は小屋の中に入り、今夜は急遽、酒盛り大会となったのだ。
「……話が、半分ほど見えなかったんですが、葵と話していたのは、何のことですか?」
買い出しのため一度山を下り、近くの食品店に入った蓮は、荷物持ちで同行した水月に、気になったことをようやく訊けた。
水月が、実家に戻るという点は、別に驚きはない。
寧ろ、子供に対する過干渉が過ぎることが、不思議だったくらいだから、こんな終わりもありだろうと思うくらいだ。
だが、その前に交わされた会話は、どうも自分がらみのように感じたが、どうも違うようにも聞こえた。
嫌な予感はしない。
だが、妙な緊張が走る会話だったため、引っかかっていた。
そんな心境は察しているだろうに、カートを押し時々その中に商品を入れながら、水月は優しく答える。
「それは、今は内緒だ。近い将来、きっとお前にも分かる時が来る」
「何かの、キャッチフレーズですか」
笑って話を収めた後は、一言二言会話を短く交わしつつ、買い出しを終えた。
帰りの道のりの中、蓮が不意に言った。
「……もう、エンの奴は大丈夫なんですか?」
「それが、ここを去るうえでの、一番の心配事だ。まだまだ、雅一筋じゃあないだろう?」
聞き返され、若者は盛大に唸った。
「保護者として、セイのことは大事にしているはずです。あんたの娘に対しては、また別な感情だと……」
言葉を探して答えてくれる若者に、水月は溜息を吐いた。
「余計な手出しは、するもんじゃなかったな。何であの時、放置を選ばなかったんだか」
盛大に悔やむのは、エンを引き取るに至るまでの経緯だ。
あの時まで、例え雅が怪我をしても、放置するつもりだった。
オキを初めとした、セイの側近を名乗る面々は、最悪誰かが操られて、誰かが傷つくこともあり得るという事態を、覚悟していただろうし、その対処も考えていただろうから、自分は見守るだけでいいと、言い聞かせていた。
邪魔な敵を排除し、あの修羅場を見物するつもりで振り返るまでは、確かにそのつもりだった。
「……そうでしたかね?」
考え考えそう話す水月に、蓮は懐疑的な返答をした。
「オキたちと相対しているときから、相当冷静さを欠いてたように見えたけどな」
当時の、抑え切っていたつもりだった動揺を指摘され、男は空を仰ぐ。
「お前も、相当だったはずなのに、どうしてそう目ざといんだ?」
「あんたが気付いたのと、同じような理由でしょう、きっと」
動揺している中で、どうしてか冷静な部分があり、その部分が敏感に、自分と同様の感情を持つ者を感じ取っていた。
成程なと、思うと同時に、水月は小さく笑った。
「本当に、あれは、お前の話だったのか」
「あれ、とは?」
「随分昔、カスミの旦那が手掛けた、脚本の話だ」
当時、狼の店で行われた読み合わせで、秘かにおかしくなった者は、鏡月だけではなかった。
何故か、その場に妻と訪れていた市原葵が、生きた銅像化していた。
後にその理由を、律がこっそりと教えてくれた。
どうやら、カスミの孫の、ラブロマンスの一説だったらしいと。
相手が誰かも察している様子の弟子は、その時はその辺りを曖昧に濁していた。
だが水月もいい加減、その相手を確信していた。
二人の仲が進展しても後退しても、厄介この上ない修羅場が立ちふさがることも、察せられていた。
だが、その前に、今の蓮を止めた方がいいだろうか。
「脚本? って、まさかっ」
「ああ、心配するな。律がオキから手に入れたものは、その読み合わせの後処分した。あくまでも、その分だけ、だが」
まあ、それは心配していなかっただろうと思う。
気にするべきは、脚本を手掛けたのが、カスミだった、ということだ。
それを、失念していたことに気付いた孫は、遅ればせながら焦った。
本当に、遅い。
鋭いと聞いていた割に、随分と遅い。
マイバックを二つ両手に提げたまま走り出した蓮の背中を、水月はしみじみと見送ることを選んだ。
後を追わずにゆっくりと山に戻るのは、先程の律との会話を反芻して整理するためだ。
水月も、周囲を誤魔化す画策を、成人してからこっちは怠らなかったのだが、それは律もだった。
獣と人間。
人の姿をしていても、人間と獣が姿どった形とでは随分と性質が違った。
雅は、どちらかというと、心身ともに自分に似てしまったために、狐が伴侶を定める行為を、勘違いしていた。
身も心もささげた伴侶に、命すら惜しまないのは本当だが、度を過ぎるのが狐だった。
伴侶が愛する者全てに嫉妬し、消してしまうこともあるほどで、それはその間に生まれた子供も例外ではなく、これが寿の伴侶になることを拒否した理由でもあった。
後を追われるのも御免だが、死んだあと責任転嫁して、子供たちと無理心中されるのも、勘弁だった。
律は、オキへの感情を、いつもは最大限に抑えている。
伴侶であるオキが、それに最大限の愛情で返しているからだとは思うが、子供に嫉妬して云々は、周囲の目もあって心配は殆どない、はずだ。
だが、つかず離れずではあれど、長く連れ添った二人だからこそ、絶対にないとは言い切れなかったため、これまでは子孫を作る事を躊躇っていた。
二人はそれぞれに身近な連中に、暗にその辺りを指摘されたとき、決まって律の病弱な体を言い訳にしていたから、大部分の連中が、それを信じて心配しているのだろうと思う。
だからそれに乗って、自分は実家に戻ろうと思っていたのだが……。
律は、雅に自分の不安を、分けた。
それが、雅の両親の間の、葛藤の真実に行き着くことを承知で。
己の子供のことより、弟子を優先する父親を嫌わせようという計画は、完全に潰された。
だが、実家に戻る水月に、近づかせない計画は、成功しそうだった。
後ろめたさで近づかなくなるのは、勘弁なんだがな……。
山を登りながら嘆き、小屋にたどり着いた男を、兎と大男が中で迎えた。
「ご苦労さん」
「お手数かけました」
「……」
先に戻ったはずの蓮と、待っていたはずの常識外れの幽霊が、見当たらない。
いや、登山している最中、怒号と笑い声が響いていたから、何処にいるのかは分かっているのだが、どういう経緯であの二人が暴れることになったのかが、今一分からない。
「ああ、お前といた頃では、想像できないか。重の奴、遊び心を覚えてしまったんだ。主君の影響で」
一足先に戻ってきた蓮は、兎を問い詰めた。
カスミから貰った暇つぶしの読み物の話かと思い当たった兎に、血相を変えた若者は処分を求めた。
すると、重がそれを聞きとがめ、目を輝かせたのだ。
「見せるか見せないかを、この勝負で決めるらしい」
「……回復も、恐ろしく早いな、旦那の孫。息子の方は、そう目立たないのに」
呆れつつも土間に向かい、買いだししてきた物を出す。
「あ、座っててください。摘まめるものを何個か作りますから」
葵が立ち上がるのを、水月は止めた。
「火であぶる程度でいいんだろう? それくらい、オレもできる」
「駄目です。律さんにも、絶っっ対に、あなたに料理はさせるな、地獄を見たくなければと言われています」
あの白狐 大袈裟が過ぎる。
大昔の大惨事と、中学生に入ってからの台所の大爆発を、いつまでも引っ張ってくる弟子に、水月は心の中で毒づいた。
が、よそ様の家の竈も炊事場も、全く勝手がわからないから、すぐにいらだちを沈め、土間から囲炉裏の傍へと上がっていく。
入れ替わりに、葵が土間の方に下り、手際よく動き始めた。
……最後のお話で暴露するはずの話を、本人があっさりと暴露してくれました。
まあ、肝心のネタは、口をつぐんでくれたので、そのまま進めております。