245話 アイナスとパン屋
アイナスは一人、人生で初めてオルタコアスへと足を踏み入れる。
しかしそれは記憶上の話である。
記憶を改ざんされる以前は何度か訪れたこともあるが、記憶を改ざんされて以降、一度たりとも訪れることはなかった。
オルタコアスの国民は竜王信者であるという噂が広まっていたため、無意識に避ける習慣が出来上がっていたのだ。
そして人生初のオルタコアスを眼にしたアイナスは驚愕すると同時に、心奪われてしまった。
街並みは、和風を中心とした雰囲気でありながらも、所々西洋風の建物や入り組んだ地形が見られる。
その技術力はまだまだ未熟なところが目立ち、まだまだ発展の可能性を秘めていることが伺える。何と言っても、オルタコアスは誕生してまだ十数年と月日が相当に浅いのだ。
そのことはアイナス自身重々承知してはいるものの、その割に土地の規模があまりにも大きすぎる。
ポーメル国の都市カーディナルと様相はかなり似ているものの、やはり誕生して間もないこともあり、目立つ建物は、王族貴族たちが暮らす王宮やその他周辺の建物しか存在しない。
これほどまでに土地が緑豊かな自然に囲まれ、これほど大きな規模を要する理由を、アイナスは知っている。
とある時期を境に無くなってしまったが、数年前まで、ここオルタコアスには世界樹と呼ばれる竜王の魔力樹が植えられていたらしい。
詳しくは知らないが、この国は竜王の恩恵を直に受けていたことになる。
つい最近まで竜王に対する嫌悪が尽きなかったアイナスも、今では竜王の偉大さを身を持って実感している。
「これが・・・・・竜王の力」
広がる景色の素晴らしさにしばらく見惚れるアイナス。
しかしオルタコアス国は、都市などの明確な地域区分もなされておらず、これから更に規模が増して行くにつれ、徐々に様々な地域の特徴が生まれ、それぞれ固有の個性を根付かせた多様な都市やその他地域が誕生していくことだろう。
アイナスは、今後のオルタコアスへの期待を胸に高揚する気分を自制しつつ、本来のオルタコアスへやって来た目的のため、早速行動を開始する。
その目的とは、竜王を見つけてお礼を言うこと。
竜王はアイナス個人のために戦っていたわけではない。
しかし、アイナスからしてみれば、敬愛するエルナスや魔法協会の人たちの仇を取ってくれたことに変わりはない。
先ほどのフェイコスの話から、戦いはまだまだ始まったばかりだということは分かっているが、どうしても感謝の気持ちを直接伝えたいのだ。
けれど、いや、やはりというべきか、探せど探せど勇者一行は見つからない上、その行方を知る者も一人もいない。
やがて空腹に耐えきれなくなったアイナスは、どこからともなく漂って来た食欲を大層刺激する甘くフルーティな小麦粉の香りに誘われる。
辿り着いたのは一軒のパン屋。
とっくに昼時を過ぎていたおかげで、その店に並んでいる客の数はそれほどでもない。
しかし、パッと見十人以上は並んでいる。
アイナスはお腹を鳴らしながら、待ち遠しそうに列へ並び、順番を待つ。
「いらっしゃいませ〜」
ようやく自分の番となり店の中へ入ると、自身のおへそあたりの身長をした可愛らしい女の子が迎えてくれる。
「好きなの選ぶの!」
アイナスは女の子からおぼんとトングを渡される。
そうして何をどうすればいいのか分からずにその場でぼーっと突っ立っていると、女の子が再び声をかけて来た。
「こうするんだよ」
そう言うと、アイナスの手からトングを取り、おぼんの上へと店のあちこちに並べられているパンの一つを置く。
「ありがとう」
「お姉さん、パン食べたことないの?」
「食べたことはあるかな。でも、こうやって自分で取るお店は初めて」
「それなら、ヒュメがおしゅしゅめを選んであげるよ」
連続した「す」が上手く発音できないのか、可愛らしい様子にアイナスは思わず笑みを浮かべる。
「お願いできる?」
「うん!」
どうやらアイナスがこの時間は最後の客だったらしく、気がつけば店の中の客はアイナスただ一人。
女の子は時間をかけて丁寧にアイナスの持つおぼんの上へとパンを並べていく。
そうして計五つのパンを選んでもらい、お会計へ。
厨房から姿を見せたその女性は、女の子によく似ており、すぐに親子であることが分かった。
「うちは他とは味も店の雰囲気も大分違うでしょ?」
「はい」
「お客さんは、この国に来るのは何回目?」
「初めてです」
次の瞬間、女性の手が少し止まるが、すぐに作業を始める。
「それはさ、ひょっとしてユー——————竜王の噂が原因だったりするのかな?」
「以前まではそうでした。でも、私はもうあの人のことを悪だなんて思ってないです。それに、土地の素晴らしさもそうですけど、何よりも人と他種族とが分け隔てなく暮らしているこの国の様子に感動させられました。ましてや魔物の中には、冒険者たちの稼ぎの対象になっている存在も多いのに、ここオルタコアスでは、魔物も国民の一員として扱われている・・・・・ここは私の理想そのものです」
魔物が敵であると認識している人類は未だ多く、倒した際に手に入る肉や毛皮、角や爪、牙などを衣服や武器の素材として使用している。
多くの者たちにとって、魔物とは狩の対象であり、それ以上でも以下でもない。
「外の国にも、お客さんみたいな人がいるんだね」
「え?」
「私とこの子はね。夫を亡くしてからパン屋を始めたんだけどさ、行く場所行く場所嫌悪されてね。オルタコアスは、私たちにとってかけがえのない素晴らしい国だよ。だから、そう言ってもらえてすごく嬉しいよ」
「ヒュメも! お兄さんもきっと喜ぶと思うなぁ〜。そうだ! 次来てくれた時、ヒュメの作ったパンをプレゼントしてあげよっと」
「もしかして、竜王もこの店に?」
「竜王・・・・・? あっお兄さんのことか! お姉さんと一緒にさっきも来てくれたんだぁ〜」
「さっき・・・・・」
「あの二人、とっくにお互いの気持ちに気がついてるはずなのに、青いね〜あおあおだね」
「・・・・・彼らがどこに行ったとか分かりますか?」
「いやー・・・・・だけど、やらなきゃいけないことがあるみたいでさ、多分帰って来るのは大分先なんじゃないかな」
「そうですか」
「何〜? ひょっとして貴方も彼のこと狙ってるの?」
「え——————えっ⁉︎」
突拍子もないことを言わられたせいで、アイナスは表情筋をほとんど動かさないものの、頬を真っ赤に染め上げる。
「ちょ、ちょっとごめんね。冗談のつもりだったんだけど・・・・・」
「ダメ! お兄さんはヒュメと結婚するの!」
これ以上ここにいてはいけないと判断したアイナスは即時撤退することに。
「そ、それじゃあ、また来ます」
「うん。いつでもいらっしゃい」
そうしてパン屋を後にしたアイナスは、しばらくの間、頭上にある虚構の空間を見つめ続ける。
すると遠くの方から何やら大勢の人の声が聞こえ始める。
その場へ足を運んでみると、そこはおそらくは世界樹が立っていた場所だと思われる巨大な空き地であった。
しかし人だかりの先の地面へと何やら模様らしきモノが描かれている。
人だかりを抜けて先頭へと出てみると、その模様が巨大な魔法陣であることが分かった。
そしてその魔法陣の中央には、市民とは思えないほど高級で立派な身なりをした二名の者が佇み、宙へと刻まれたメッセージらしきモノに目を向けている様子。
そしてその直後、魔法陣の上に立つ者の一人が魔力を注ぎ込んだ瞬間、両者の姿が跡形もなく消えてしまったのだった。




