149話 柊 雪
ユキ・ヒイラギ——————柊 雪は、地球という惑星にある日本で暮らす少女であった。
雪の家庭は、どこにでもある小さな幸せを育める家庭などでは決してなかった。
物心ついた頃から両親による虐待を受けていたのだ。
殴られる度撒き散らす血反吐により、錆臭さがシミついた家の中。
ユキにとって家族とは、恐怖そのもの。
けれど唯一、雪の心の支えとなっていた存在が兄だった。
兄は暴力を容赦なく振るう両親にも怯むことなく、寧ろ威嚇する勢いで反抗しては瞼が開かなくなるほどボコボコにされていた。
毎日の日常が戦争だった。
兄は勇敢で、髪の毛が逆だったツンツン頭が特徴のヤンチャな少年。雪とは五つ歳が離れており、当時雪は五歳。兄は十歳だった。
そしてある日、雪は兄に連れられ両親から逃げることに成功する。
しかし路頭に迷う幼い子供二人を自ら進んで保護しようとする者は誰一人としていない。
無慈悲な世界。
それが二人が抱いた世間に対する感想だった。
それでも手を差し伸べてくれる人は必ずいるということも同時に学ばされることになる。
雪と兄は、運良く児童養護施設に引き取られた。
施設には雪たちと同じくらいの年頃の子供たちが大勢おり、楽しく幸せな空間が作られる一方で、子供同士のいじめも行われていた。当然、体に複数のアザを持ち、明らかに周りと異なる雪と兄はいじめの対象になるのだが、両親からの虐待に比べれば、天国とさえ感じてしまうほどレベルの低いもの。
そんなこんなで二人が二年ほど施設での生活を送る頃には、既にいじめもなくなり、皆が雪と兄の家族と呼べる存在となっていく。
施設では職員のことを先生と呼び、先生は常に子供達の体調に気を配り、自らの幸せ=子供の幸せである者たちだった。血の繋がりなどなくとも、本当の家族のような関係を築き上げていた。
兄は施設で暮らしている時にこんなことを口にしていた。
「親が子のため、子が親のため。これが普通、なんだよな・・・・・」
もしも普通の家に生まれていれば、自分たちも親を愛し、愛される関係を築き上げて行けていたのだろうか? そんな意味を込めての言葉だった。
人生とは、世界とは実に残酷であり無慈悲。
幸せは突如として絶望へと変化する。
原因は不明だが、ある日施設内で火事が発生し、従業員含め孤児が大勢この世を去るという悲惨な事件が起きてしまう。
そして犠牲者の一人には雪の兄も含まれていた。
兄は直接火事に巻き込まれたというよりは、外へと避難した直後に頭上から降って来た瓦礫の下敷きとなり、即死だった。
雪は目の前で最愛の兄を失ってしまった。
帰る家もない。家族もいない。生きている意味もない。
今度こそ誰も手を差し伸べてくれる存在はいない。いたとしてもすぐにまたいなくなってしまう。
そんな自暴自棄に陥っていた雪に手を差し伸べて来た者たちの名は、新庄 政宗と石上 日向。
雪は兄を、施設の家族を失ってしまった悲しみ、苦しみから抜け出すのにかなりの時間を要したが、次第に雪の内に秘める闇を政宗と日向が溶かしていく。
徐々に増えていく大切な思い出。
込み上げてくる愛情。
雪を心の底から大切に育て、雪も二人のことを世界で一番大切に想うようになっていった。
しかしまたしても絶望は雪を襲う。
政宗と日向は恋人同士であり、二十代半ばだということもあり、結婚の約束をする。
一先ず政宗のプロポーズを日向が了承しただけであり、まだ実際に式を挙げたわけではないが、これで三人が本当の家族になれる。
そう思っていた。
そんな三人の前へと、雪の産みの親である両親が現れたのだ。
決して両親が雪を探していたわけではない。
そもそも両親にとって雪はいらない邪魔な存在。いなくなってくれて済々していたくらいだ。
つまり遭遇したのは単なる偶然。そして、その時の両親は闇金の借金の駆り立てに追われていたため、雪を売ることで借金の足しにしようと画策。
捕まれば殺されてしまう。けれど、両親を必死に止めてくれている大切な二人を置き去りにしては行けない。
心が狂いそうになるほどの葛藤に苛まれながらも雪は二人を信じて一人逃げる手段を選択する。
逃げて逃げて逃げて逃げて——————
涙で目の前が見えなくなっても必死に逃げ続けた。
その後に視界へと飛び込んで来た光り輝く白い光を最後に雪の記憶は途切れている。
目を覚ました雪は、以前の記憶を全てなくし、最高神の下で神人『アクエリアス』の名を与えられたユキ・ヒイラギとなったのだ。
そして、様々な苦難を経験したユキには、涙を象徴する『聖水』が最高神から授けられた。
世界は残酷だ。けれど、救いの手は必ず差し伸べられる。
雪は兄に助けられ、施設のみんなに助けられ、政宗と日向に助けられ、そして最高神に助けられた。
だからこそ、記憶はなくとも心が拒絶する殺しを強要される状況に耐え切れない苦痛を感じ、今度は自らミラエラへと救いの手を差し伸べてもらえるよう助けを求めたが、その手は取られることはなかった。
ユキの心の悲鳴を悟るどころか、見下し、愛しのコキュートスをユキから奪った。コキュートスはユキにとって、無意識的な兄の代わりでもあったのだ。あのツンツンとした見た目は、かつて大好きだった兄の特徴であった。
これはユキは知りえぬ事実だが、実は政宗と日向よりも先に転移という形でこの世界へと最高神に連れて来られたユキは、最初の勇者候補であった。
最高神は人魔戦争が始まる以前から魔王となる者の存在を危険視しており、その処置としてユキをこの世界に転移させて来た。
しかし記憶はなくとも、生まれ育った環境は物理的にも精神的にも心身ともに刻み込まれているものであり、ユキは人々の先頭に立って皆をまとめ、引っ張ってゆけるほどの素質はなかった。そのため、政宗と日向を転生させ、勇者としてこの世界に生まれ変わらせたのだ。