第一話 鵺の鎌倉
蜩の合唱に混じって、どこか遠くで鳥が鳴いた。夏と秋とをこき混ぜた陽光も十分に届かない仏堂に座していると、その声は奇妙に寒々しさをかき立てる。
無意識にこめかみに手をやった私は瞼を開けた。目前に掛けられた鏡に、童にしては可愛げのない、と陰日向に囁かれる無愛想な顔が映っている。それが己の顔であると、すぐには結び付かなかった。蓄えられていた頭髪は、今や一筋も残さず剃り落とされている。
薙髪役を務めた鶴岡八幡宮の別当が剃刀を置き、私に一礼した。全て終わったようだった。
「頼暁どの。御仏に合掌を」
私は言われた通り座を立って、我ら源氏の守り神・八幡大菩薩の像を安置した内陣の前に跪いて手を合わせた。新しい水晶の数珠は、まるで氷の玉を連ねたかのような冷たさで手に絡みつく。
それを見届けた別当は、ざっと今後の指示を出すや早々に退出していった。同席した供僧たちが三々五々と帰りはじめたとき、にわかに甲高い哀哭の声が耳を打った。
驚いた私がそちらを振り返ると、女がひとり、板の間に突っ伏して泣き濡れている。
私より十ばかり上に見える女だった。着ている質素な麻の小袖にはいっそ不釣り合いな、長く美しい黒髪をしていた。
凍りついたように、私は動けなくなった。見苦しく泣き腫らしていると思ったその顔は、はっとするほど清婉であった。まるで、雨に打たれた芍薬の花だ。
「若君、何とおいたわしや。将軍家と御台様のお子としてお生まれになった尊い御身が、かくもいとけないうちにご出家とは。挙母は、口惜しゅうございます。お父上様もお母上様も、草の陰でさぞやご無念を噛みしめておられましょう」
この女の名は、挙母というのか。そうだ、うっすら思い出した。御台所とは名ばかりの扱いの母の近くに、そう呼ばれていた女房がいた。
私は黙って目を逸らした。この女人は、いったい私にどんな反応を求めているのだろう。こたびの出家落飾は源家家長たる尼御台のご意向と聞いている。そんな悲痛な顔で嘆かれても困るのだ。
何も感じていないわけではないが、己の心の内は口惜しいと言えるほど滾っても濁ってもいなかった。出家を望んではいないが、別に望まなかったわけでもない。解っている感情は、ただ自ら受け入れる前に他人の手で進む道を用意された虚しさだけなのに。
苦い思索を破って、荒々しい喧騒がなだれ込んだ。室内に踏み込んできたのは、太刀を帯びた数名の武者。総勢五人。甲冑こそ身につけていないが、皆、険しい顔をしている。
心の臓が早鐘のように脈打つ。私はとっさに法衣の袖に隠した剃刀の柄を強く握りしめた。
悲鳴が上がった。呼吸を忘れた私の目の前で、彼らは挙母を取り押さえ、髪を掴んで乱暴に外へ引きずり出した。彼らの長と思われる男は私に目を留めると、恭しく一礼して出ていった。
…どうやら、狙いは私ではなかったようだな。
誰もいなくなった部屋で、ようやく私は大きく息をついた。思考に余裕が生まれたところで、ふと眼裏に遠ざかっていく悲しく美しい顔が鮮烈に蘇った。
私には手を出さず、挙母だけが連行された。ここを以てこれを見るに、私の落飾、いや、私に仏門に入るよう強いた者に対して、彼女が非難がましいことを口にしてしまったからに違いない。尼御台や今の鎌倉殿の決定に不満を唱える者が私の傍に存在しては不都合なのだ。そのぐらいは赤子でも解る。
しかし早すぎる。どこの手の者だろう。私の行動を逐一監視している乳母夫の三浦か、あるいは亡父と確執のあった北条か。それとも、もっと他の誰か…。
まるですすり泣くように、名も知らぬ鳥が再び鳴いた。
◆ ◆ ◆
我が祖父・源頼朝公が鎌倉殿の居所と定めた大倉御所には、小御所と呼ばれる一区画が付されている。そこはかつて父の頼家が暮らした所で、現在はその母(すなわち私の祖母)に当たる尼御台の館であった。
「尼御前にご挨拶いたします」
緩やかに、沈香の薫りが流れる。通された室で待っていた私が頭を上げると、高麗縁の畳に清浄な白の法衣を着た尼御台が着座したところだった。その脇には、侍女にしては華やいだ袿を重ねた年嵩の女人が寄り添っている。
「久しぶりですね。八幡宮では別当どのに事えてよく励んでいると聞いています」
尼御台は北条氏の人だ。貴種ではないのに、自ずとその挙措には品格が滲みでている。初代鎌倉殿の正室であり我が子を後見する後家としての威厳、こうと決めたら決して揺らがぬ強い意志。それが、祖母と孫という関係でありながら容易に近づきがたい所以でもあった。
「そなたも十二になりました。武家の子ならば元服する年頃。この鎌倉に閉じこもらず、都でしかるべき高僧に師事して仏道に専心しなさい。それがそなたのためです」
私はおぼつかない視線を板敷の床の上で彷徨わせた。
「…尼御前の仰せに背かぬよう、今後も精進します」
鎌倉を動かしているのは、この人だ。良くも、悪くも。
「頭を丸められたのですねぇ。その法体もなかなか様になっていますよ」
いきなり、鈴を転がすような女人の声が言葉を挟んだ。化粧映えする華やかな容姿は艶やかだが、どこか隠しきれない険があった。尼御台はそちらを一瞥しただけで何も言わない。
誰だろう。以前一度くらいは逢った気もするが、顔と名が結びつかない。それよりも。
「本日は、父上はお見えにならないのですか」
この場合の父上は亡き父頼家ではなく、私を猶子に迎えた叔父の実朝のことである。
私は明日には近江国の園城寺に向かって出立する。この先少なくとも十数年は顔を見ることもできないだろうに、仮にも親代わりとして餞の一言も無いのだろうか。
「無礼な、鎌倉殿とお言い!」
ぴしゃりと頬を叩かれたような横からの一喝に、私は驚き、続いて戸惑った。用心深く尼御台の御気色を伺うと、尼御台は慍然とした表情で傍の女を諭した。
「由良。私の近くでいきなり大きな声を出すでない。昔からそなたはかしましいこと」
「でも、姉上…」
口を尖らせ、女は何やらぶつぶつ不平を漏らしている。私が不審に思ったのを察したのか、尼御台が場を取りなすように言った。
「実朝はまだ未熟者。政務と勉学で多忙なのです。代わりに、こうして乳母である由良を遣わしたのですよ」
「阿波局と申しますわ。以後、お見知り置きを」
二度と忘れるなよ、と言わんばかりの気取った声音を浴びながら、私は黙って一礼した。この女は鎌倉殿の名代として来ているのだ。そればかりではない。実朝叔父上の乳母といえば、尼御台と北条義時の妹だ。姉は源家の家長、兄弟は幕府の要職を占め、養い君は鎌倉殿の座についている。伝え聞く御堂関白の望月の栄華もかくや、という立場は、自ずと人を驕慢にさせるらしい。
「そうだわ、辻殿はお元気?御所にいらした頃はいつも窮屈そうでしたけど、今は存外のびのびと暮らしておられるのかしら」
何気なさを装った問いかけに、私は思わず頬がこわばるのが解った。
辻殿とは、私の母の通称だ。三河国の御家人・賀茂重長の娘で、先の将軍源頼家に嫁して御台所に立てられた。そして、我が父が将軍の座を追われたために御所を退去し、鶴岡に預けられた私とも引き離されて、鎌倉の片隅で息を潜めるように暮らしていた。
そう、暮らしていたのだ。
「母は…」
声が震え、続きが出てこない。尼御台がたまりかねたように言った。
「何を申しているのです。先日、一周忌の法要があったばかりでしょう」
「あら、まぁ」
まるで本心から驚いたような顔をして、鎌倉殿の乳母は華美な袖で口元を覆った。
「私、そんな話ちっとも聞いておりませんわ」
「そなたにも告げました。忘れたのでしょう」
「姉上が仰るならそうかもしれませんね。私、大切な実朝どののことで頭がいっぱいですから」
どうでもいいことは憶えていないのだ、と言わんばかりにころころと笑う女は、私をことさらに無視するように供された唐菓子をかじった。
「用は済みましたね。由良、そなたはもうおさがり」
「言われずとも。では姉上、ごきげんよう」
婦人にしては荒い裾捌きで、阿波局は御簾の向こうに姿を消した。視線だけでそれを見送ると、尼御台は気遣わしげな表情で私に向き直った。
「由良の夫は阿野全成でした。幼かったそなたは知る由もないことですが、察してやりなさい」
全成法師の名は私も知っている。阿野氏を名乗っているが源氏の一門で、頼朝公の異母弟に当たる。祖父は若い父の家督を守るため、野心を持つ弟たちを次々粛清したが、舅の北条時政の娘婿になっていた全成だけは最期まで殺さなかった。
あえて阿野氏を称したことも、僧侶の身で北条家から妻を娶ったことも、何と巧妙な立ち回りではないか。様々な形を持つ怪物・鵺のように、頼朝公の慧眼をもすり抜けた処世。果たして頼朝公が薨じられると、潜めていた野心が表に出たのか、全成は夫婦で養育した千幡君(つまり実朝)を擁立しようと謀り、父とその側近の比企能員によって誅殺された。
…そういうことか。私はようやく、阿波局の冷ややかな態度に理解が追いついた。
「そなたは賢い子です。よく耐えましたね」
「特に気にしておりませんから」
嘘ではない。あんな嫌味にいちいち反応していては身が持たない。
答えは無かった。尼御台は静かにじっとこちらを見ている。その眼差しを浴びていると、全身が石になった気がした。まるで私が尼御台を欺いているような錯覚さえ覚える。
早くもうさがってよいと言ってくれないだろうか。そう思ったとき、尼御台は私の前に置かれた茶碗を見てわずかに表情を曇らせた。
「白湯も菓子も手をつけていないようですね。これは嫌いですか」
私が毒を盛られるのを恐れていると誤解されたのだろうか。そういうつもりではなかった。阿波局の皮肉を聞かされながらでは、とても喉を通らなかっただけである。
「好きですが、尊い方の前では遠慮するように、と師から教えられました」
誰も傷つかないことを言ったはずなのに、尼御台は何故か悲しそうに目を逸らした。
「これは、私の気遣いが足りませんでした。私も口をつけていないから、そなたも食べにくかったのですね。まだまだ幼子だと思っていたけれど、別当どのは正しく礼儀を教えてくれたようで安堵しました」
何かを取り繕うように早口でそう言うと、母よりも皺の目立つ繊手が巾着の形をした唐菓子を一つ取り上げた。
「遠慮することはありません。別当どのの教えは主従の間の礼。私とそなたとは、家族ではないですか。さ、食べましょう」
「はい」
…私は何故、尼御台と二人で菓子を食べているのか。
「鞠子はどうしていますか」
尼御台に育てられている鞠子は私の妹である。腹違いなので今まで一度も会ったことはない。正直そこまで興味はなかったが、一応兄として消息を訊ねておくべきだろう。
「安心なさい。健やかにしています」
解りきった返答だったが、改めて聞くと胸のつかえがすっと降りた気がした。
「あの子の母親は比企の娘でしたが、女子は戦に関わりないもの。鞠子に危害を加えることは私が許しません。…誰であっても」
喉奥から絞り出すような最後の一言に、私は思わず身震いした。
鞠子と母親を同じくする一幡兄上は、比企氏が謀反の嫌疑を掛けられたときに容赦なく殺されている。北条は、全成を粛清した父の片腕に連なる者を決して見逃さなかった。
「はや九月ですか…比企を誅殺してから、八年が経ちました。そなたも、もう私を赦してもよい頃合いではないですか」
夜の森のように深遠な眼差しがひたと私を捕らえた。
「赦す…?」
私は比企一族とは直接関わりは無い。尼御台が真に言わんとしているのは、比企滅亡を契機として起きた父の追放と横死のことだろう。
「言い訳めいていますが、私はあの子を…頼家を憎んでも疎んじてもいません。望んでようやく授かった男児で、頼朝さまがお決めになられた跡取りです。親子の情が無いはずがありましょうか」
ついに、尼御台の口から父の名が出た。だが、予想していたほど心は揺れなかった。
「あなたには解らないかもしれない。けれど、どうか解ってほしい。務めとしてあのようにせざるを得なかったけれど、私は頼家のこともずっと我が子だと思っています」
それは私でも解っている。実朝叔父に未だ子が無いせいで、頼家の息子たる私の存在を危険視する声も大きい。そうした中、この方はいつも陰日向に庇い続け、限られたとはいえ生きるすべを与えてくれた。
「尼御前から頂いたご恩は忘れておりません」
ようやくそれだけ言うと、尼御台は一瞬絶句した。失望、哀切、苦渋。数えきれない感情が次々と閃き、やがて諦めへと収斂していく。
「そなたは根雪のようですね。私のどんな想いも、そなたの心にかかっては冷たく凍ってしまうようです」
肌にひりつくような尼御台の落胆が痛かったが、私にはこれしか返せる言葉を持っていない。そう仰ってくだされば亡父も浮かばれます、とぬけぬけと言えるほど、私は我が父の気質を知らないのだ。
それはあなたのことだ。私はそう言おうとして、思い直した。
「…昔、尼御前が柑子の実を二つくださったことがありました」
まだ鶴岡に入る前のことだ。一つ食べてたいそう美味だったので、もう一つは母上に差し上げようと思って持ち帰った。ところが母はその日熱を出して伏せっており、それどころではなかった。仕方なく私はそれを庭の雪の中に埋め、そのまま忘れていた。母の風疾が回復した頃、ようやく思い出して積もった雪を掘り返すと、凍った柑子はまだ新鮮で風味を失うこともなかった。
あの時の母の嬉しそうな顔は、本当は尼御台の喜ぶ顔でもあったのか。
「氷雪の中にあるものは、腐ることはありません。決して変わることなく、頂いたときのままの形で、ずっと…この胸の中に保たれ続けます」
混じり気のない六花のように、偽らない。与えられた恩情は忘れない。それが私なりの報い方なのだ。
「…よく、解りました」
乾いた白い頬に、一筋の雪解水が流れ落ちていった。
「どのような生き方を選んでも、そなたは頼朝さまの孫。貴い源氏の血を受け継ぐ者として、己に課せられた責任を果たしなさい。良く生きるとは、己の為すべきを成していくことを言うのです」
尼御台の情の深さを、私はこの日初めて垣間見た気がした。しかし、決して依ることはできない。温もりから逃れるように、私は深く頭を下げた。
「仰せ、承りました」
◆ ◆ ◆
小御所を辞去しようとした私は、門を前にして足を止めた。私と入れ替わりのように入ってきた三人は、将軍家政所別当の中原広元、尼御台の弟で執権の北条義時、そして乳母夫として私の後見をしている三浦義村であった。
こちらが道を譲るべきだろうか。将軍の猶子は御家人より身分が上だが、私は年少で出家の身である。特に義時は大叔父に当たるから、疎かにはできない。
逡巡しているうちに、目ざとく私に気づいた義村が捉えどころのない笑みを湛えて近づいてきた。
「善哉君。尼御台所の御気色はいかがでした」
もう使わなくなった幼名で呼ばれ、私はいささかむっとして訂正した。
「頼暁、です」
「ああ、そうでしたね。頼暁どのの頼の字は頼朝さまの頼」
こういうとき、決して父・頼家の名は挙がらない。口に出すのを忌まれる存在。その息子たる私は、幕府の御家人からすればまさしく厄介者だ。
「暁の字も良い。その名の通り、この坂東の地に新たな朝をもたらすことでしょう」
「何を大仰な…」
字義から選んで付けられたのではない。先代の鶴岡の別当、尊暁阿闍梨から一字を与えられたのだ。
気配を感じて視線を向けると、義時がいつもの人を見下すような目でこちらを見ていた。
「久方ぶりです、北条の四郎どの。中原の朝臣もご一緒でしたか」
「そなたが来ていると聞いてな」
義時は感情の読み取れない声で言った。官名の相州(相模守)ではなく私的な通称で呼んでみせたことに気を悪くしたのかしていないのか、それすら解らない。その後ろで、広元が都人らしい洗練された仕草で黙って目礼した。
そのとき。寒々しい鳥の声が響いた。この前よりも近くで。
「あれは…何の鳥でしょうか」
「あれは鵺の声ですよ」
呟いた私に訳知り顔で説いたのは広元だった。
「鵺?」
それは伝説に聞く化け物ではないか。頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎だという。
「又の名を虎鶫とも申す鳥でございます。本来は夜中に啼くのですが、このような時刻に奇妙ですな」
そういう鳥がいるのか。改めて聞くとぞっとする。吹き渡る木枯らしのような、悲しげな、後を引く啼き声。まるで誰かがむせび泣いているかのようだ。
ふと思いつき、私は知っている歌の下句を誦した。
「我が衣手は、露に濡れつつ…昨日、私の知る侍女が一人姿を消しました。どこへ行ったのか気がかりです」
衣と侍女の名の挙母を掛けている。また衣手つまり袖が夜露に濡れるとは、袖を濡らして涙に暮れることの暗示。剃髪した私に哭泣したせいで連れて行かれた侍女を表している。季節も合っているし、我ながら上出来の引用ではないか。
私は三人の表情を注意深く探った。この中に、昨日挙母を拐かした者がいるかもしれない。しかし。
「血は争えぬというか…」
「やはり女子が気になりますか」
義時が呆れたように首を横に振ると、広元も小さく嘆息した。義村だけは興を惹かれた様子でにやりと口の端を吊り上げた。
「その女、美しいですか」
「美しいかどうかはこの際どうでもいい。頼暁どの。そなたは修行の身。情操を理知で制することが難しい若い者の恋情は大いに差し障りが…」
間髪入れずに遮った義時が眉間に皺を寄せ、「軽々しき情動」の害についてくどくど語り出した。
心外だ。何故、侍女の安否を気遣っただけで。
「汚らわしい邪推は止めていただけますか。母に長らく仕えてくれた女です。郷里に帰し、安らかな余生を送らせてやりたいのです」
「さようで。それはこの平六にお任せを。必ずや件の侍女を探し出し、しかるべく計らいましょう」
言い募る私を宥めるように引き受けた義村は、全くもって「しかるべく」計らってくれそうに見えない。…かえって挙母の身に危険が迫るのではないか。
広元は我関せずとばかりに口を挟まず、義時は冷厳な眼差しで突き放した。
「つまらぬことに心を煩わせず、帰って出立の支度をしなさい」
「…そのようにいたします。では」
突き刺さる三者三様の視線を身体から振り払って、私は足早に門の外へ出た。いや、出ていったように見せかけた。人目を盗んで柴垣の下に空いた隙間を潜り抜け、音を立てぬよう注意を払って中庭の紫陽花の茂みに身を隠す。
「平六。お前は解っているはずだ。暁闇は、夜の寒さが最も濃くなる刻…」
義時の声だ。わずかな葉蔭から目を凝らすと、渡殿の柱に凭れている義村の姿が見えた。
「呑み込まれるなよ。このくわせ者が」
「俺の策謀なんて可愛いものだって?ならば四郎、お前はいったい何だ。神か?仏か?」
絡む義村を軽くあしらうように、妻戸に手を掛けた義時は小さく鼻で笑った。
「おい、否定しないのかよ」
「お前の言うことはあまりに馬鹿げていて、否定する気にもならん」
この両名は幼い頃から気の置けない間柄なのだと聞いている。挙母の消息に関わる手がかりをわずかでも口にしてくれないものか。
「ところでご両人」
じゃれ合いともいえる会話を断つように、黙っていた広元が問いかける。
「秋の田の仮廬の庵の苫を粗みわが衣手は露に濡れつつ…。この歌をお詠みになったお方がどなたか、ご存じですかな」
義時と義村が、一瞬互いに視線を交わしたように見えた。私も意図を測りかねて首を捻った。そういえば思い出せない。誰が詠んだ歌だったか。
「詠み人知らず、じゃなかったか」
「さすが三浦どの、お詳しい。しかしそれは、秋田刈る仮廬を作りわが居れば衣手寒く露ぞ置きける、のことですね」
違う歌と混同していたらしい。和歌に通じた義村にしては珍しい失敗ではないか。すると背を向けたまま、義時が低い声で質した。
「つまり、誰の歌なのか」
勿体をつけるな。さっさと言え。おそらく私と義時と義村の三人ともがそう思った頃、広元は天井を見ながらおもむろに答えた。
「この歌の詠み手は…天智の帝」
野分の前のような沈黙が続いた。続けば続くほど、鼓動が早まっていく。義村はどんな反応を選ぶべきか決めかねている態で、義時の表情はこちらからは伺えない。
「天智の帝、か」
抑揚の無い声が、それだけを呟いた。
天智の帝には大友皇子という嫡子がいたが、その崩御後、壬申の乱に勝利した弟の大海人皇子(天武帝)に皇統が遷った。しかのみならず、天武の帝の嫡流は称徳女帝で断絶し、再び天智の裔に当たる桓武の帝が玉座を取り戻している…。
「他意が無ければよいのですがな」
広元が義時の心中を測るかのように言った。遅まきながら、私は虎の尾を踏んだことに気づいた。あの一言が、「叛意の証拠」になるかもしれない。
指先が瘧に罹ったように震えだした。悟られるな。あれは、父を喰った鵺だ。目が合い、捕まったら、死ぬ。
そのとき。北条の陰謀家はゆっくりと振り返った。
怪物に鷲掴みにされたような恐怖が、身体の芯から突き上がった。身動きしないでいられたのが不思議でならない。
「平六。襟元が乱れている。…見苦しいぞ」
「はあ?どこがだ」
義村の直垂の襟に手を伸べた義時の視線が、その肩越しに確かに茂みの中の私を捉えた。
見つかった。
「……」
永劫のような一瞬。義時は何事もなかった顔で小御所の奥へと入っていった。悪夢の中を泳ぐように鶴岡の僧房に帰り着いた私は、その夜、にわかに高熱を発して寝ついた。