第九話
室内にはネイアは居なかった。白い息を吐きながら、僕は辺りを見回す。
「外に出てるんじゃないかな」
カナデの言葉に僕は同意した。暖炉に焼べる薪が足りていない。恐らく、薪を割っているのだろう。裏庭へ回ると、切り株に木を立てているネイアが見つかった。彼女は斧を片手に、こちらを見る。
「おう、おかえり」
「ただいま。……ねえ、あのさ、バレちゃった」カナデは悪戯っ子のように小さく舌を出した。
「バレちゃったって?」
「レベルのこと」
「まさか──」ネイアは息を漏らし、顔に靄がかかる。「あそう。まあ、いつかは話そうと思ってたんだ。それにしても、案外早いな? やはり人目に付きやすいのか……」
「保育所の人たちは知らないと思う」
「どうかな。時間の問題だろう」
僕はふたりを交互に見つめながら、彼女らが同年代であることに驚きを隠せなかった。どう見ても母娘ほど歳が離れて見える。しかし、生きた年数は同じなのだ。ただ老化に侵されているか否か、というだけのこと……。
目の前の現実があまりにも不思議なものだから、何も言葉が出なかった。出たとしても、それはきっと気の利いた台詞ではなかっただろう。
「それで、何を話すべきかな」ネイアは斧を切り株にかけると、思案した。
「それよりも、まずは場所を移さない? ここ、寒いよ」
「そうだな。そうしよう……」
僕は薪を幾つか持つと、中へ入り、暖炉へと焼べた。着火させると、ぱちぱちと弾ける音がして、たちまち熱気が立ち込める。
温かなスープと一切れのパンを、ネイアとカナデが運んでは、テーブルの上に並べていった。それからふたりがそれぞれ席に着くと、僕に向けて座るよう促す。
言われた通り、彼女らの対面に座ると、僕は何も言わず、ふたりが話し出すのを待った。ネイアは何か言おうとして、カナデの様子を窺う。姉は小さく頷いた。ネイアは決心したように、
「私がカナデと出会ったのは、九年前。私が生まれて五年目、彼女が五歳のとき──今日みたいに雪の降り積もった日だった」ネイアはカップに口をつけた。緊張しているのか、唇を舐めると、「カナデは迷い子だった。私が母とここで暮らしていると、突然、扉がノックされた。そこに立っていたのは幼い子どもで、僅かに熱を帯びていた。寒気にあてられて風邪をひいたんだよ」
「そうだったっけね」カナデは微笑む。「もう、覚えてないな」
「そうか、姉さんは忘れられるんだ」
「それが良いことなのか、はわからないけどね」と、姉は寂しそうな表情を浮かべた。
ネイアがわざとらしく咳払いする。
「まあ、その話は追々話そう。私と母はカナデを看病した。回復するには時間がかかったが、命に別状はなかったらしい。すやすやと眠っている彼女を見て、母は驚いていたよ……『この子、年輪がないわ』ってね。私も驚いたよ。まさか、そんなことがあるとは思いもしなかった。カナデが目覚めると、私たちは何度も質問したものさ。君はどこから来たのか、何故年輪がないのか、ってね。でもカナデの答えは──」
「忘れた?」
僕は訊ねた。ネイアは薄く微笑を浮かべると、
「半分当たり、半分間違いだ。彼女の答えは要領を得なかった。王城を抜けて、外へ出ようとしたら、ここへ来た、と。年輪については何も知らない、むしろ面白そうに見つめ返された。そして、私たちが一緒に暮らしていくなかで、君はもう──」ネイアは隣に座るカナデを見つめた。「故郷のことは何も覚えてないんだろう?」
「……そう」バツが悪そうに彼女は俯き加減に呟く。「もう何も思い出せない。私はどこから来たのか? 何者なのか……? まったく何も、わからないの」
カナデは言い終えると、こちらを見た。僕はスープに手をつけると、口へと運ぶ。しっかり飲み込むと、
「忘れられるんなら、仕方ないね。でも、寂しいでしょう。帰りたいんじゃない?」
「まさか! 寂しくないわよ。だってネイアもラウラ──彼女のお母さん──も居たから……。ラウラが亡くなったときは、どうしようもなく悲しかったけれど、ひとりじゃなかったし。それに、今はソウも居るからね」
でも、確かに気にはなるかな──と、付け足すように、彼女は誰にともなく囁いた。
僕は黙って頷く。僕だってきっと、同じことを思うかもしれない。ただ忘れるというのは、いったいどんな感覚なのだろう。まったく理解できないから、同情はできても、共感は難しい。
聞いてみると、彼女は、
「それについて考えられなくなる感じとでも言えば良いのかな……。自分が何を話したのか、見聞きしたのか、体験したのか──何もわからなくなる。そうね、ソウは昨日食べた物の味は思い出せる?」
「すぐにね」
「でも私にはそれが出来ない。そもそもいつ食べたものか思い出せたとして、ね。想像で幾らか補えるけど、でもそれは確かじゃないから」
「それは難儀だね」
「そうだね。でも、老化してしまうよりは──」
言い終える前に、口を噤む。
僕とネイアは顔を見合わせた。そうだった、老化速度は彼女と異なるのである。僕らは何かを得るたびに老いていくけれど、彼女は時間の経過によってのみ、老化するわけだ。つまるところ、寿命の定義が違っている。
僕らの命は記憶そのものだ。容量に制限があって、それが満たされていく度に老化する。しかしカナデは躰そのものに命を宿しているのだ。だから、時間をかけて肉体が酸化し、腐っていくことで死へと近づく。
そう言えば、と僕は呟いた。
「野生動物も姉さんと同じだったね。時間こそが寿命を決めている。彼らは何かを経験したりしても、すぐには老化したりしない」
「植物もそうだ」と、ネイアが補足する。「だから農家なんかはかなり困っているらしい。長年かけても実がならないってな。きっと、カナデは体感時間が別なんだろうが……」
「面白いね」
パンを齧りながら僕がそう言うと、ネイアは口元を綻ばせた。姉と呼んでいる彼女が、まったく違う規則で動いている異種族とわかって、何だか変な感じがする。今までとは何も変わらないのに、こちらの見方が変わったのだ。
でも、何も変わることはない。これからも、これまでと同じようにカナデと接しよう。心の中でそう決めた。
「だからと言って、猟銃が下手なままなのは駄目だからね。ちゃんと練習するよ」
「えー!」
カナデはぶつぶつと文句を垂らしながら、唇を尖らせた。