第四十九話
「お前が寝ている間に色々なことがあった。まず知らせるべきは、一年前にグリットが病死したことかな」
リハビリがてら僕はヴァンを伴って外を出歩いていた。長閑な湖畔を散策しながら、時折りすれ違う人々を観察する。秘密を知る一部の関係者たちだ、とヴァンは言った。
ふと、自分の年輪を確認してみる。六十八ほどにまで増えていて、苦笑が漏れ出た。予想していた以上に成長が早い。レルは目覚めただろうか、と気になった。リッケがまだ存命なら良いのだが。
「病死……」と僕は繰り返して、詳細を求めた。
「そう。秋頃に流行する病に罹患してな。それにしても流行病とは不思議なものじゃないか。俺たちの街じゃ、そんなこと聞いたことがない」
「経験してないだけで、ないわけではないんじゃないの」
「そうかな。流行のメカニズムを考えてみるとそうとも言えんよ。特にこの街の住人たちは俺たちのような体質じゃない。だから活動的というか、流動的なんだ。お陰で病気が広まりやすい」
「それはどうして?」
「動かないと覚えられないからさ。彼らの大半は知識を失ってしまいやすいからな。つまり忘却だよ。カナデもそうだったろう。知識よりも経験で覚える方が効率が良いらしい」
彼らにとっちゃ知識と経験は等価じゃないんだと。ヴァンが鼻を鳴らしてそう言ったので、僕は肩を竦めて応じる。彼の言うようにカナデも物覚えが良いとは言えなかった。ただそれは僕らと比較して見つかった特異性のひとつである。
もしこれが彼女のみならず、他にも沢山居たとしたら。ヴァン曰く、
「彼らにとって過去は──というより記憶は信頼性がないようでな。いちいち他の媒体に記録せにゃならん。かなり難儀な体質だよな。だから昔何があったのかを巡って喧嘩が起こる」
「何それ?」僕は笑ったが彼は大きく息を吐いて、
「これがまた面倒なんだ。記録するとは言っても、万事書き残していくわけにもいかない。そうなると些細な解釈違いが生じるんだな……あの日誰それがあそこに居た、いいや彼ではなく彼女だった、場所が違うあそこだった、なんてふうに。その度に俺が呼び出されて、記録簿代わりにされるんだ」
疎ましそうに言いながらも、その顔つきからはどこか楽しげに見えた。
「何でそんな言い合いが起きるんだろう。補完しあってるのかな。それとも妥協案が出るのを待ってるのか……」
「そんな理性的な話じゃないよ、こりゃあ。誰もが自分こそは正しいと思ってる。うんざりだね。解釈に正しさなんてあるものか」
「でも記憶は嘘つかないでしょう」僕は指摘する。
「彼らの記憶は曖昧なんだよ。……記録もね」
まったく変な世界だ。これが人間の本当の姿であると言うのだから複雑な気分になる。僕らの方が優等だなんて思わないけれど、まるで別の生物を見ているような感じがした。
話し込んでしまっていたが、そう言えばと僕はヴァンに顔を向ける。
「これはどこに向かってるの?」
ヴァンの顔がにわかに曇った。
「アリアのところだよ」ヴァンは口を曲げて、「あいつ、このところ寝込んでるんだ」
「病気?」
彼は首を振った。「老衰だよ。二週間前から体調を崩したんだ」
水辺にぽつんと建てられた掘立小屋を彼は指差した。あそこに居る、と。風が吹き、水面に波を立てる。自分の目を疑った。彼女はあんなに粗末な部屋で眠っているのかと。老いぼれにはあれが相応しいとでも言いたいのか、と切なくなったけれど、どうやらそうではないらしい。
ヴァンが言うには、「アリアがそう望んだんだ」という。どうしてと聞いても、彼にはわからないようだった。
扉をノックして、僕は部屋に入る。彼女は果たしてふたつ並んだベッドのうちひとつに横たわっていた。こちらに気づくなり上体を起こし、にこやかな表情を浮かべる。
「起きたのね」声がほんの少しだけ低くなっていた。「今度はあたしが眠る番かしら」
「変わりばんこに寝る意味があるか」ヴァンは口を綻ばせた。「調子はどうだ」聞きながら、後ろ手に扉を閉める。
「問題ないわ」アリアは澄まし顔で言った。
僕たちはベッドの隣まで来ると、用意されてあった椅子に座る。腰に痛みを感じ、びっくりしていると、ふたりは揃ってくすくすと笑い出した。
「老いると躰が痛み出すんだよな。特に節々が慢性的に。そうか……ソウも遂に俺たちの仲間入りか」
「これもひとつの成長よ」おどけたように目尻に皺を寄せる。「それにしても遅かったわね。同じものを聞いたはずなのに、どうして差があるのかしら」
アリアは訝しげな顔で首を傾げた。
例えば──と僕は考える。自分の人生に意味を付けることもまた、ひとつの情報だとしたら。つまりこの独白も……自らの行いを再定義したことも、経験として数えられていたのだとすればどうだろう。
あり得る話だろうか。
「わからない」僕は頭を振る。「でも、きっとこれにもルールはあるんだろうね」
曖昧な頷きで彼女は応じ、それから他愛もない会話に終始した。訪問はそれからも続き、日課になりかけていたある日のこと。
お願いがあるのだけど、とアリアがおもむろに言い出した。
「あたしもヴァンも、もう長くないと思う。死ぬ前に、貴方の話が聞きたい」
「僕の話って?」
「貴方の人生の物語よ」
そう言われて三秒ほど理解に苦しんだ。それは情報爆弾にも等しいだろうに、何故そんなことを求めるのだろう?
遅れて、僕は察した。彼女は真剣な眼差しで僕を見つめている。戸惑いに揺れてヴァンを見たが、彼も同じ意思を持っているらしい。頼むと頭を下げ、
「これが一番綺麗な終わり方なんだ」と独りごちるように言った。
「ぼ──僕を置いていくのか。殺せと言うのか……」
「そうじゃない。子守唄みたいなもの。そして祈りにも似ている」アリアは唄うように、「あたしたちの中に貴方という記憶を入れたいの」
死ぬのは寂しいから、と。
「俺たちはもう長くないんだよ。それがわかるんだ」ヴァンは他人事のように苦笑する。「ああ、それに。グリットみたいに凄まじい死に方はしたくないしな」
彼は闘病の末に苦しんで逝ったらしい。そうなんだと相槌をして、胸の内に悲しみが沈殿する。
彼女は優しい面持ちで、「安らかに逝きたいの。お願い……」
永遠にも似た逡巡の後に、僕は項垂れた。それを肯定と受け取ったのだろう。アリアはありがとうと囁くように言った。
それは僕の台詞だ、とはついぞ言えなかった。
凪のような時間が流れていく。ヴァンは彼女の横に倒れ込み、目を瞑った。酷く穏やかな日だな、と思う。指先の震えは如何し難く、押さえ込むように両手を握った。何と話し出すべきか迷いあぐね、口の中が渇き切ってしまう。
腹を括ると唇を舐め、僕は目を伏せた。
「思い出せる最初の記憶は──」
それが最初の言葉だった。