第四十八話
あれから眠り続けていたらしい。
目が醒めたのは真夜中のことで、窓から月明かりが差していた。カーテンを捲ろうとして、腕に痛みが走り、筋肉痛なのだと気づくのに遅延があった。寝起きだからなのか、気怠さがある。手の甲を何となく見てみたところ、輪っかは四十四個にまで増えていた。
嘆息する。
グリットは年輪を、環境に適応するための進化装置だったと表現していた。あらゆる経験を糧とする短命種は、超人なのだとも。果たしてそうだろうか。僕たちはこれのために苦しめられてきたというのに。すべての体験を記憶し、忘れられず、喜びも恐怖も平等に並び置かれ感覚させられるこの躰を。
本当に超人と呼べるだろうか。
それとも継ぎ接ぎだらけの場当たり的な変化に、僕らの方が適応できていなかったというのだろうか。
ジョウもまた、年輪にうんざりしていたと言っている。恨んでいる、とも。だがこの躰は必要性から生まれたのだとすれば、子孫として生まれた僕らは彼らを恨む権利を持ち合わせていないのではないか。
彼らが居なければ僕らは居なかった。
それとも?
彼らが居たから僕らも居てしまった。
……。
現実離れした思案に明け暮れていると、空が白んでいく。夜明けの美しさを目の当たりにして、頭が重く感じられた。鈴虫の鳴く声にも似た、きいん、という耳鳴りがする。
もう一度眠ろうと思い、目を瞑ったけれど寝つきが悪いため、潔く諦めた。時間潰しのために過去を回想しながら、何が正しかったものか自問する。結論が出ないままに、やがてふたりが起き出し、挨拶を交わした。
彼らも僕と同様、老化している。
彼らは喉の渇きを潤そうとカップに口をつけた。ふとアリアが僕を見て、
「眠れなかったの?」
「寝返り打とうと思ったら筋肉痛で」
「ああわかる。俺も何度か目覚めたからなあ」ヴァンが生欠伸で肯定する。
昼前になると、カナデが病室を訪れた。彼女はこちらを見るにつけ、あからさまに驚いたような顔を見せる。
「また一段と成長したね……」唖然とした口ぶりだった。「びっくりした」
「子どもは成長が早いんだってね」
僕はいつかの言葉を呟いた。
「もう子どもって年齢じゃ──」笑いかけて、カナデは戦慄したように目を開く。「そうね。確かに……」
「あたしたちは子どもじゃないっての」
アリアが吹き出し、姉は何とか笑おうとしていた。
グリットが戸を開けたのは昼食を終えてからのことだった。満腹で少しばかり眠くなっていたけれど、彼に聞きたいことは沢山あったから、意識を切り替える。
「具合はどうかな」と彼は挨拶代わりに訊ねた。
「昨日今日でそんな変わりませんよ」ぶっきらぼうにヴァンが答える。「ああでも──筋肉痛なのかはわからないけど、肩が上がらない……」
「そうか」自ら聞いておきながら、さほど興味なさそうな相槌だった。「年輪を見せなさい」僕らが手を出すと、彼は目を通す。「やはり老化が著しいな。今日も説明するつもりだが、聞きたくなければすぐに言いなさい」
心配するグリットを他所に、ヴァンは疎ましそうに、
「大丈夫ですよ。俺たちは知りたくてここに居るんだから」
グリットは尚も考えていたが、それも意味がないと悟ったようにため息を吐くと、わかったとだけ口にした。
「今日は何を聞かせてくれるんです」アリアが冗談っぽく問う。
「老化についてだ」彼は表情も変えずに言った。「正直に言おう。私は後悔している。説明をすると約束してしまったことを──まさか君たちがこんなにも早く成長しているとは思わなかったのだ」
グリットは歯噛みして呟く。僕らは互いに見合うと、どういうことだと訊ねた。
「最近になって判明したことだが、短命種の成長速度は世代を経るごとに大きく早まっているらしい」
親の代では平均寿命が約六十年だった。だが彼らの子どもたちは約五十八年、孫の代では約五十五年、更に次の代には……と徐々に縮んでいく。
「後になって見つかった資料には、これは当初の設計通りなのだという。元から寿命が縮むよう、仕組まれていたわけだ。古代人が目指していたのは、超人となること。昨日私はそう言ったな。だが──」グリットは言い淀み、わざとらしい咳をすると、「それは人間の半数を間引きし、緩やかな絶滅に追い込むためのスローガンに過ぎなかった」
また年輪が痛み出す。
僕は不毛な真実へと近づきつつあるらしい。
間引き。つまりそれは増え過ぎた人口を減らすための。
「本当の目的は、人間を減らすこと……」
グリットは辛そうに首肯した。
「長命種が存在するのは、全員が短命化しなかったことを意味している。恐らく循環するなどとは心の底から信用できていなかったのだろうな。酷な話だが、君たちは間引かれた者たちの子孫というわけだ」
ならば祖先を恨む筋合いはなさそうだ。そうわかり、少しだけ安堵する。けれども彼らも同じ、見捨てられた存在なのだと思うと、やりきれない思いになった。脳裏に過るのは、母の言葉。
「ごめんね」
きっとそう言われながら、注射を打たれたのに違いない。歴史は繰り返されている。何故なら人は、自分の経験しか次の世代に持ち越せないのだから。
「だから寿命が縮むように設計したのだろう。今の技術ではこれを治す術が見つかっていない」
「皆に教えなくて良いの?」カナデが睨み付けるように、「ずっと側で見てたんでしょう?」
「そうとも。長い間、見守っていた」
「じゃあ何で協力し合わないの」
それは当然の疑問だった。グリットは大いに頷いて、
「確かにそうだ。そして実際に、過去には何度か協力したこともあったらしい」
「なら何故──」
「何故、未だ解決しないのか」不満そうに眉を顰めるカナデをグリットは遮る。「これは簡単な話ではないからだ。協力しようにも、最初は混乱が起き、戦争に発展した。二度目の協力では、大勢の人々を乖離病に追いやった。三度目も、四度目も、似たような失敗を繰り返したらしい」彼は捲し立てるように言い、「そのうち、彼ら短命種を管理下に置くのはどうか、といった話も持ち上がったようだ。ただこれもやはりと言うべきか──」
「失敗した」アリアが冷ややかな声で後を継ぐ。
彼はその通り、と疲れたように認めた。
「私たちは過去何度も接触を試みて、その都度間違えてきた」
「でも、次は成功するかもしれない……!」
カナデは諦めきれない様子で訴えたが、グリットは自嘲するように笑い、
「もう手遅れなんだよ。時間を掛けすぎた。世代を跨ぎ過ぎたんだ」そう言って、頭を抱えた。「このままいけば、短命種はいつか絶滅する」
絶滅と聞いて、やっぱりなと思う自分が居た。経験から得られる成長速度が早ければ、子を生み、育てることなどままならないはずだ。ひとりの子どもを大人にするのにどれだけの人員が必要だろう。
と思えば、受け入れられず狼狽えている自分も居る。カナデを調べて年輪から解放されたいと望んでいたジョウが、ここへ来て立ちはだかったような気がした。お前がこれを望んのだ、と。
お前がカナデを助けたから、短命種を絶滅に追い込んだのだ──そう言われているような気がして、ぞっとした。
「俺も間違ってなかった」
カナデひとりの命でどうにもならないと知っている。これはあり得ないことだとわかっている。何よりカナデと世界は釣り合わない。
理性はしっかりとこの考えが現実的でないことを理解している。それなのに僕は、自分の業を再定義してしまったかのように感じられて──自らの手で短命種の運命を定めてしまったように思われて──辛くなった。
耳鳴りがして、僕は頭を押さえる。
そこへ眩暈が加わった。目の前が真っ暗になり、ベッドに倒れ込む。何も聞こえなくなった。
悍しいほどの静寂。
全身から力が抜けて、動けないまま、再度朝を迎える。
目を開けてみれば同じ部屋。だが窓際には見知らぬ白髪の老人。彼はどこか見覚えがあった。手の甲には七十三個の輪っか。心臓が強く脈打って、年輪に釘付けになった。男はこちらに気がつくと、振り返り、
「ようやく起きたか……」と噛み締めるように呟いた。「どうだ、三年ぶりの目覚めは」
「さ、んねん」
上手く声が出せない。喉が渇き切っている。男にカップを取ってもらい、久方ぶりの水を得た。やっと頭が働いてきて、僕はずっと眠り続けていたのだと理解する。
「僕は──乖離病を患ったのか」
「皆そうだった」男はにやりとして、「起きたのはお前が一番遅かったがな」
そう言って、ヴァンは笑った。