第四十七話
「結論から言うならば、君たちの祖先にとって、年輪は希望だったらしい」
グリットは笑いもせずそう言った。まさか、と思い僕は皆の顔を見やったが、誰ひとりとしてにこりともしない。それはあまりにも語り口が真面目なものだったから、冗談だと思わなかったためだろう。
彼はこの前提のまま続けた。
「当時、今とは比べ物にならないほど先進的な技術が開発されていたという。お陰で社会は発展し、人々は暮らすのに困らなくなったのだ、と。繁栄し、安定し、生存が保証されている世界を想像してみたまえ──これは何と理想的な場所だろう」
彼らは皆一様に健康で、長寿であり、食事にも困らない。
彼の説明からは古代という言葉の持つ未発達な技術というイメージが瓦解されていく。そこは素晴らしい理想郷で、誰もが幸福を感じているのだろう、と思わせるには充分な表現だ。
なのだけれど、グリットはしかし、と言葉を紡ぐ。
「それだけ人間にとって都合の良い世界であるとするならば、別の問題が生じてきてしまう。つまり人口過多だ。その頃の言葉にこんなものがある。地球規模──だ。わかるかね、それだけの視点を彼らが持っていたことに。同時に、そう視ざるを得ない程までに人口が膨れ上がっていたことに?」
あまりにも壮大な話に、頭がくらくらした。地球と同等の人間が存在し、視点を共有している。そんなことがあり得るのだろうか?
僕はずっと生まれた場所から近いところで右往左往していたというのに。この国はおろか、街から出て行くことさえ考えが及ばなかったのだ。そんな自分に地球規模で物事を視るだなんて──理解が届かない。
年輪がじわじわと痛みだした。脂汗が僅かに滲む。
「どうしてこんな巨大な視点からなる考えが浮かんだかと言えば、とても切実な問題が起きていたからだ。わかりやすくするため、規模を簡略化しよう。地球をこの部屋と捉えるんだ」彼は立ち上がり、後ろを見る。「この部屋には木が何本か生えていて、様々な実がなっている。これを食する草食動物も存在すれば、肉食動物も居るだろう。また、海へと繋がる川が流れており、それぞれ海水魚に淡水魚が泳いでいる」
彼が想定しているのは箱庭のようだ。つまるところの小さな地球。僕は目を瞑り、彼の表現に合わせ、室内を模様替えしていく。自然に溢れ、人工物は何もない。
低い声が更に聞こえる。
「そこは、君たちにとって生きていくのに必要な資源に満ちた環境だ。そして世界はその範囲に限られている。それ以上先はなく、何もない。この中で生きていかなければならない。最初、ここに男女四人居たとする。彼らは恋人となり子どもを三人ずつ産んだ。その子どももまた、恋人を作り、子どもを三人産む。これが繰り返されていき、いつしかこの部屋は人間で満たされていく」
森を見ても、海を見ても、視界には必ず人間の姿が映る。室内の酸素は大量に消費され、二酸化炭素へと移り変わった。
「資源は循環する。例えば人間ならば新陳代謝によって、細胞を入れ替えていく。食べたものが自分の身になるわけだ。またそこへ出産という形で自己を増殖させ、そこに居た鳥や魚が人間へと置き換えられていく」
すると自然の成り行きで、食べ物が減っていった。何故ならそれらは人間に成り果てたから。綺麗さっぱりなくなってしまったわけではない。姿を変え、形を変えて、残存している。
人間が多くなると、今度は道具や居住空間のために木を伐採するようになった。食事のために幾らか可能性という名の種を撒く。だがそれらは成長するとともに消費されてしまい、やがて全員には行き届かなくなった。
「これこそ、地球規模で考えなくてはならなくなった人間の正体だ。繁栄し、安定し、生存が保証されてしまえば、自ずと地球を埋め尽くしてしまう。だからこそ逆説的に人間は不幸を招いた。そしてそれは、新たな希望を作り上げたわけでもある」
「それが年輪……」アリアが答えた。
「そう」と、グリットが頷く。「このまま都合良く問題を解決する策として、彼らは成長を循環に組み込むための仕組みと捉えたわけだ」
これを彼らの言葉では、効率化された生涯と呼ぶらしい。健康的で長寿であった古代人。それが故に生存が困難となり、生き方というものを再定義した。それがこの早死にシステムであり、経験したことは忘れないという、成長を遂げ続ける超人を作り上げる進化装置だったのだ、とグリットは言う。
なんて馬鹿馬鹿しい論理。酷く妄想じみた話を聞かされているというのに、僕は笑い飛ばすことすらできずにいた。彼ら古代人──僕らの祖先はこれを正気で思いつき、そしてその通りにやってのけたのだという事実が、どうしようもない現実が、僕から笑みを奪ったのだろう。
進化するために、彼らは遺伝子というやつを操作したらしい。
「遺伝子は人間の根底を規定するものだ。つまり何ができて何ができないか、どんな存在で他の何者でもないかを決定づけるもの。これを彼らは弄った──それだけの技術があった」
それがこれだ、と彼は注射器を取り出す。
瓶の中には青色の液体が揺れていた。
「これを突き刺すだけで躰の構造が作り変えられ、短命種へと成り果てる。変容するのにどれくらいの期間が必要だと思う?」グリットは僕らを見渡して訊ねた。「たった三日だ。その間は高熱を出し、身動きが取れなくなる。私も経験したよ──あの苦痛は二度と体験したくないものだ……」
彼が俯くに従って、瞳が暗くなった。
新たな細胞を形成し、古びた躰を無理やりに交換していく。徐々に全身が熱を帯び、変化は一種にして燃え広がっていくのだ。
「治療法はないのか……」ヴァンがおずおずと聞いて、そんなものは存在しない、とグリットは首を横に振る。
「そもそもこの年輪自体が環境に適応するための、人類にとっての治療薬──だからな」
年輪が強く痛み、いつの間にか僕は呻いていた。彼は顔を顰め、
「今日はここまでが限界か。説明はまた後にしよう。続きは明日の昼に行うとして、今回はこれでお開きだ」
と言って、彼は病室を去っていく。後に残された僕たちは、苦しみだけを刻まれて、ただ耐え抜くしかなかった。
僕たちは昔の人が思い描いた未来に閉じ込められたのだから。