第四十一話
馬を引いて、別の馬車に繋ぎ直していると、小雨が降りだした。見上げてみれば、不安になるような厚ぼったい雲に覆われ、辺りが暗くなり始めている。
「カナデちゃん大丈夫?」ミルドレッドが心配そうに声を掛けた。
「うん……大丈夫」
無理やりに笑顔を見せてそう言ったものの、声は沈んでいる。それにふとした瞬間、表情に影が差した。ミルドレッドはカナデを荷台へ乗せると、
「王城へ着くまで我慢してくださいね」彼女は後方を確認し、「もう追手はこないと思いますが、可能性はゼロではありませんから──」と言って、短く短足した。「そう遠くないはずなのに、どうして一向に辿り着けないんでしょうねえ……」
ミルドレッドは御者席に着くと、手綱を握る。やがて馬車は動き出し、僕らは無言のまま先を目指した。雨脚が次第に強まり、周囲の音を掻き消すように地面へ滴を叩きつける。びしょ濡れになって、ヴァンがくしゃみした。鼻を擦り、ふと前に顔を向けると、目を細める。
彼に釣られて、僕もそちらを見た。見たこともない制服を着込んだ男たちが、道を塞ぐように並んでいる。手には銃を、頭には目深に帽子を被っていた。彼らを前に、ミルドレッドは仕方なくゆっくり止まると、所属もわからぬ兵隊たちがこちらへと近づいてくるなり、こちらをじろじろと見つめた。視線はカナデのところで止まる。
男はミルドレッドへ向くと、だしぬけに、
「お前たち、所属は?」
「私と彼は警備課」と、彼女は自分とヴァンを指差し、「それからこちらと彼女は護衛課です」僕とアリアのことも説明した。
「どこへ向かうつもりだ」鋭い目つきで訊ねる。
「王城まで」
「その子が──」男は姉に指を差し、「カナデだな?」ミルドレッドが頷くのを見て取ると、「後は我々が身柄を預かる。お前たちは戻ると良い」
彼はカナデの横へ移動した。ミルドレッドは困った表情をさせ、
「すみませんが、貴方達は何者なんでしょう? 身分証明をお願いできませんか」
「その必要はない」男ははねつけるように言う。
「そうもいきませんよ。何せ、私たちは散々な目に遭いましたからね……。もしかしたら、貴方が山賊でないとも限らないわけで」
男は眉を顰めた。
「良いから渡せ。さもなくば──」
彼は長銃を構える。横並びに待機する兵士たちも、目の前の男に合わせて銃を上げた。動作音が同時に鳴り、威圧感となって僕らを襲う。
ミルドレッドの後ろ姿からは、彼女の表情が何ひとつとして伝わってこない。ただ小刻みに肩を震わせ、頭を下げたかと思うと、
「そうですか……それが、狙いだったんですねえ──グリット」と、寂しそうに呟いた。
それも雨音に遮られ、僕しか聞こえなかっただろう。彼女はおもむろにこちらへ首を回すと、
「カナデを連れて逃げてください」
囁きにも似た調子でそう告げるのだった。それからカナデを見つめ、薄く微笑する。目を伏せがちに男へと顔を戻すと、彼女は緩やかに首を横に振って、要求を拒んだ。
「そうか……お前はたった今、選択を誤った」
男の目から光が失われて──
閃光。
次いで爆ぜるような音がして、
ミルドレッドの左胸から血が、花弁のように舞っていった。背後に倒れ込みながら、顔を逆さに、
「ご武運を……」声に出さず、唇だけでそう話す。
半ば反射的に立ち上がっていた。カナデの手を引いて、僕は荷台から飛び降りる。狼狽えた様子の姉を鑑みず、路地裏へと走り抜けた。遅れて銃声。この時になって、銃を置いてきてしまったことを思い出す。記憶力があるからと言って、意識が分散されてしまえば、意味はないのだ。
後悔しても何も変わらない。僕らは走り続けた。背後から続く足音はヴァンたちのものだろうか。息切れしたような呼吸音が、鼓膜を直接撫で付けるように感じ、不快な心持ちになる。
風切り音がどこからともなく聞こえ、その度にカナデは嗚咽を漏らした。一度彼女を確認したが、もう全身とも雨で濡れている。誰が泣いているのかどうか、わからない。
土地勘があるのだろう、時折り、名も知らぬ兵士たちが先回りしては銃を向けてくる。間一髪のところで躱し、また別の道を探ってみせたが、追い込まれているような気がしないでもない。自然と手に力が入った。
「離して──」カナデが腕を振り解いて、「私ならもう、ひとりで走れるから」
「ああ、ごめん……」
ぱん、と手拍子するような、人殺しには似合わぬ軽い音がした。ヴァンが首を引っ込めて、
「早く行こう」と僕らを急かした。
ぬかるむ道を踏みしめながら、転んでしまわないよう気をつける。混乱する頭で僕は考える。彼らは何者で、どうして僕らの命を狙い、カナデとミルドレッドのことを知っていたのか。疑問符ばかり浮かんでは、消えることなく沈殿していく。
アリアが銃を構えると、追跡者をひとり打ち負かした。彼は足を滑らせて転ぶと、頭を打ち付けたらしい。動かなくなる。弾を装填し直すと、
「忘れ物よ」と僕に手渡し、「焦るなんて、らしくないじゃない」
「焦ってなんか……」否定しかけて、頷いた。
「あ、やべっ、俺も銃置いてきちまった……!」両の手を見つめ直し、愕然とするヴァンに、
「いつものことじゃない」アリアは口だけで笑った。空が光り、三秒遅れて雷が鳴り響く。「こんな時に煩いのは大歓迎ね──都合が良いわ」
「ミルドレッド……」
カナデが俯いて、地面に言葉を漏らしていた。相当堪えているらしい。ジョウに襲われ、目の前でデミアンが、フォルドが、ミルドレッドが殺されていったのだ。それも仕方ないことだろう。僕もまた、お陰で悪夢じみた記憶を蓄積したわけで──最悪な気分だった。
「今はまだ、振り返るときじゃないわ」アリアが姉の肩に優しく触れる。「ゆっくり休んでから、気分に浸りましょう……」
「あ、アリアは……辛くないの……?」カナデは怯える目付きで、「目の前で皆が──死んでいったのよ。それは私が特別だから? 私はどうして……どうして私だけ年輪がないの──」堰を切ったように言葉が止まらない。彼女は拳を握り、膝からくずおれて、「もうこれ以上、私のために犠牲になって欲しくない!」
悲痛な叫びだった。カナデは地面を叩き、状況も忘れ言葉にならない言葉を叫んでいる。このままでは誰かに見つかるかもしれないという不安もあったが、今や誰も気にしない。それよりも彼女の精神が決壊したように感じられて、僕は自分の無力さを呪わずにはいられなかった。
アリアは側に寄り添うと、悲しげに微笑む。「そうね。確かに、現実は辛い。けど、辛いだけで終わらせたくない。私は負けたくない。その先に希望を見つけたい」
カナデは目を瞑り、口を真一文字に閉じた。噛み締めるように眉間に皺を寄せると、首を何度も縦に、そうだねとか細く返事する。
軋んだ音がして、そちらを見てみれば、ヴァンが民家の扉を開けたところだった。灯りはなく、外よりも暗い。彼は顔だけ中へ入れると、
「誰も居なさそうだ。ここに身を潜めよう」ヴァンは姉を見やった。「風邪引いちまうからな」
「そうね」アリアは先に入っていった。「行こう、カナデ」
後にヴァンが続き、ふたりは暗がりに姿を消す。僕は脱力した姉を助け起こすと、
「もう少し僕たちを信じてよ。誰も死なないからさ」
話しかけると、彼女は小さくうんと頷き、顔を上げる。カナデはもう泣いていなかった。瞳には力強い意思を宿していて──またひとつ乗り越えたのだとわかり、僕は下唇を噛み締める。
姉さんはやはり、この場所に居るべきではないのかもしれない。王城の中でなら、きっと。彼女にとっての安息があるのに違いなかった。