第三十六話
承認が得られたと報されたのは明朝のこと。王城へと直々に向かったグリットから書簡が届き、すぐ出発するようにと書かれていた。程なくして僕らの元へ命令が下り、装備を整えると、何台も用意された馬車まで赴く。
一台の乗合馬車の前では、久方ぶりの姉の姿があり、元気にしていたかと訊ねようと思った。が、彼女は憂鬱そうに俯いて、どこか一点を見つめ続けている。
「姉さん」と声を掛けると、カナデはぴくりと肩を震わせて、ゆっくりと振り向いた。心細そうな表情から一転し、少しばかり安堵したような顔つきへと変わっていく。
「ソウ……」彼女は呟き、それから僕の隣を見た。「それにアリアも」
「ここはもう危ないみたいよ」アリアが腕を組み、首を僅かに傾けてみせる。
「知ってる。……私の噂が広まってるんだよね?」
「そうね。だけどこれから向かう先なら安全だから、貴方は安心してなさい」
「そうとも」いつから居たのだろうか、背後からフォルドの賛同する声がして、「君はもう、何も心配する必要がない。それはそうと、君たちは知り合いなのかね?」
「妹です」
「何言ってんの。お姉さんでしょ」アリアが脇腹を小突く。
課長は不思議そうな顔で頷くと、「それで……デミアン君は?」
「私ならここです!」
彼女は大きな躰を揺らしながら、駆け込んできた。間に合いましたか、と聞いて膝に手を置く。宿舎から走ってきたのだろうか。フォルドが彼女に頷いてみせると、
「よし皆集まったな。さあ君たち、乗り込むんだ」
そう言って御者席へと向かっていく。
馬車の荷台部分には箱型の客室が設けられており、扉を開けて中を覗いてみれば、三人掛けのベンチシートが向かい合うように取り付けられていた。扉には小さな小窓があり、内からでも外の様子が窺える。
僕はカナデたちを乗せてから、自分も乗り込み、扉を閉めた。前に座るフォルドに向かって準備できたことを告げると、おもむろに馬車が進み始める。釣られるようにして、他の馬車たちも動き始めた。
軽快な馬の足音が振動となって伝わり、小窓から見える風景も移り変わっていく。馬車は縦に三台、横に二列、計六台が走っていたが、やがて別々の道を歩み始めた。お陰で街に静寂が戻る。酷く不気味だ。
「課長、王城まではどれくらいでしたっけ?」デミアンが小窓から、御者席へ聞いた。
「このペースなら、馬車で六時間くらい」
「まあなかなか遠い……暇ですね。どうする?」デミアンは僕らの方に向き直る。「何して遊ぶ?」
「遊ぶって、今仕事中ですよ」アリアが嗜めるように言った。
「そんなこと言ったって、経験から言わせてもらうと、集中力は持たないよ。適度に息抜きするくらいなら何も問題はないって」
にこやかに言いながら、彼女はちらりと横に座るカナデを盗み見た。姉は緊張しているのか、少々顔が強張っている。口数も少なかった。成る程、彼女をリラックスさせようという目論見らしい。と気が付いて僕は、
「まあ暇ですし、少しだけなら」
デミアンに乗ることに決める。
アリアは尚も渋っていたが、理由を耳打ちするとすんなり承諾した。それで何をするのかと言えば、デミアンは懐から一枚のコインを取り出して、
「表が出るか、裏が出るか、当てっこゲームをしよう」
フォルドがくすっと笑って、「またそれか……」
「何ですか、またって」アリアが興味が惹かれたように訊ねた。
「まあまあ、やればわかるよ」デミアンはどこか意地の悪そうな笑みで、「コインはこっちが表」と、一と数字が記された方を見せ、「それでこっちが裏ね」指を返し、年輪を思わせる図形を向けた。
「わかりました」
僕らはコインを確認して、理解したと示す。デミアンは首を縦に振って、よろしいと一言。
「君たちは私がどちらを投げたかを当ててね。ただ今回は奇数だから、予想を多数決で決めようか。つまり──例えばふたりが表を、ひとりが裏と予想したなら、君たちは表を選んだと見做す」
「成る程。協力しなければいけないんですね」
「その通り。じゃあいくよ」
デミアンはコインを爪で弾いた。金属の打ち鳴らされる音と共に高く上り、やがて空中で止まると、彼女の掌中に収まる。直前まで表がこちら側に向けられていた。恐らく表が下になった。上面は裏である。
「さあ、どーっちだ」デミアンは悪戯っぽく笑った。
「裏」だ、と僕とアリアは同時に決める。カナデは一秒ほど遅れてから、「表」と言った。
デミアンが掌を開ける。コインは表を向いていた。僕はびっくりして、自分の記憶を見つめ直す。やはり当たっているはずだ。それだと言うのに、コインは裏を向いていなかった。
「おかしいわ」と、アリアが訝しむ。
「それではもう一回」デミアンがコインを飛ばし、掌で受け止めた。「さあどっちでしょーか」
僕はしっかりと目にしている。コインは表を上にしていた。つまり答えは表である。これはアリアも同じ予想だった──が、またもカナデだけ別を答えた。デミアンが手の内を見せる。……コインは裏を向けていた。
「どうして!?」
アリアが驚きの声をあげるなか、カナデは何かわかっているのか、くすくすと笑っている。僕は困惑した……。姉は何かに気付いたのだろうか。
「そのコイン、もう一度見せて貰えませんか?」
「良いよ」
はい、と手渡されて、僕はコインをまじまじと見つめる。横からアリアも顔を出した。裏返したり、擦ったり、試しに自分で弾いてみたりしたが、何もわからない。どうにも仕掛けが施してあるわけではなさそうだった。
楽しそうにカナデが笑い声をあげている。
無性に悔しくなって、デミアンにコインを返し、もう一度投げてくれるようお願いした。彼女は了承して、同じ工程を繰り返す。予想はやはりカナデだけ異なった。デミアンが指を開く段階になって、姉は堪えきれなくなって、
「もう駄目。こんなの笑っちゃう」なんて、可笑しそうに言うのである。
何だか化かされているみたいだ。アリアもむっとした表情を浮かべている。
「やっぱり何か仕掛けがあるの?」僕はカナデに聞いた。彼女はううん、と否定する。「じゃあいったい……?」
「指をよく見て。その角度からだとわからないのかな──ねえデミアンさん、もう一回見せてあげて」
「良いですよお、ほらおふたりさん」
コインを内に握り拳を作った彼女は、腕を横に向きを変えてみせた。掌を開けると、指を縁に引っ掛けて裏返している。つまるところ、直前になって表面を入れ替えていたのだ。記憶を探ってみたが、角度の問題なのか、そのようには見えない。
……デミアンはこれを練習したのだろうか。
横からだとわかりやすかったよ、とカナデが笑いを噛み殺しながら言う。
「こ、こんなの……」
アリアは抗議しかけて、吹き出した。呆れて物も言えないらしい。僕も同感だった。その上、カナデも随分と緊張がほぐれている。デミアンの一人勝ちというわけだ。
「さあさあ、次は何をして遊ぼうか──」
ふと、明るい調子で宣う声に混じり、何か音が近づいてくる。馬車の走行音だろうか、と耳を澄ましていると、不意に扉がノックされた。カナデが驚いたように躰を硬直させる。何だ、と不審げにデミアンは小窓から外の様子を窺った。
臓物にまで響き渡る、低く重たい音。
デミアンの額が砕け、血飛沫が舞う。
ガラス片が飛び散り、中に散乱した。
銃口からは硝煙が立ち昇っている。
声にならない悲鳴をあげたのは誰だったか。
多分、カナデだろう。
突然のことに我を失いかけて、何とか気を取り直した。
「姉さん、伏せて!」僕は叫び、銃を手に取った──