第三十三話
リッケが居るだろう技術部の施設から、研究課を訪ね、僕は課長に彼を呼んでくれるよう頼んだ。客室にて座りながら待っていると、程なくリッケが現れる。立ち上がり、ひと目見てみて、僕はびっくりした。
幼く見えたはずの彼も、今や見る影もなく、すっかり老いぼれている。顔や手には皺が寄り、年輪は両手に及び、所狭しと刻まれていた。その数は六十八。四十を超えるともう片方の手にも刻まれるらしい。
どうやらアリアも面食らったらしく、絶句していた。リッケは苦笑して、
「やあ久しぶり。元気してた?」
「こちらこそ──」やっとのことでそう振り絞ってはみたものの、それ以上続かない。
「驚いただろう。どうもこの仕事は老化が早まるもので、困っちゃうよ」
しかし深刻そうな声色でもなく、リッケはどこか楽しげにそう話す。何だか不思議な気分だ。老化には個人差があるとは言うけれど、まさかここまで顕著に差ができるものとは思いもしなかった。
気を落ち着かせると、僕らは椅子に座り直す。アリアは座らず、壁に寄り掛かった。すぐに本題へと入る前に幾らか世間話がてら、
「仕事はどう?」と聞いてみる。
「楽しいよ」わかりきった返答だった。「楽しすぎて怖いくらいだ。やっぱり知識を持つのは良いもんだね」
「どんな仕事をしているの?」
彼は首を傾げ、「そうだなあ……僕の研究分野は乖離病についてだ。理由はわかるだろう?」
レルのことだ。僕は頷く。
「乖離病だなんて名前こそあるけどね、どんなメカニズムで発症してしまうのかまでは、まったくわかっていないんだよ。わかっているのは、過度な経験や知識の享受がオーバーヒートを起こして、一時的な脳死を引き起こしているらしい、ということ」
「脳死ですって?」初めてアリアが声をあげた。
「そう」リッケは彼女を一度見つめて、また僕に視線を戻す。「と言っても、本当に死ぬわけじゃない。言葉の綾という奴だね──実際には、仮死状態に陥るみたいだ。脳のすべての機能が止まり、肉体だけが成長していく」
眠りにつきながら、ゆっくりと、それでいて急激に成長を促すわけだ──
「脳と躰の成長バランスを調整しようとしているの……」そう訊ねてみれば、
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。不定だね。まだそこまでには至ってない。でも確かにそういう考えもあって、今のところ主流派だ。けれどもうひとつ仮説があってだね、これは魂が躰から、一瞬だけ抜け落ちているというものなんだけど……」
「幽体離脱するってこと?」
「端的に言えばそうなる」リッケは首肯した。「ただ僕としては躰こそ魂なんじゃないか、と思わなくもないけどね──」
「この話はいつまで続くのかしら?」
ふてぶてしくアリアが口を挟む。リッケは目を瞬かせてから、
「そう言えば用件を聞いてなかったね。いや、つい、話し込んじゃって」
「良いんだ、僕が最初に聞いたんだから」それから彼女の方を一度見た。口を曲げて見つめ返される。首を竦めてみせると、「それで何だけどね、リッケ。君は不老の少女について噂を聞いたことがあるかい」
「ああ、あるね。最近じゃもっぱら噂されてる」
「それはどんな内容なの?」アリアが聞いた。
「要約するなら、不老の少女が居るらしい。そんで、そいつには年輪がない。だから老いることがないのだと」
そう、とアリアが相槌を打つ。
「どう思う?」僕が聞いた。
「どう思うって?」リッケは聞き返して、薄く微笑すると、「そんなのあり得ないことだよ。都市伝説の類だろうね。或いは陰謀論か。基本的にこういうのは暇つぶしである以上に、どこかしら願望が含まれているものだよ。皆、年輪にうんざりしているんだろ。だから不老だなんて神話じみた話をするんだ。極端だね」
「そっか」
些か安堵して、吐息混じりに僕は頷いた。
「こんなことを聞きに来たの?」
「そうだよ。風紀が乱れるから調べてこいってさ。暇なもんでしょう、護衛課って」
リッケは顎をさすりながら、朗らかに、「暇な方が良いもんだよ。保安部が忙しくなんてしてたらぞっとする」
「確かに」僕は笑って応じる。「君の反応から察するに、技術部の皆はあまり本気にしていないのかな?」
「どうだろう。半信半疑──いや、半分も信じている奴は居ないだろう。面白半分と言うのが適当かな」
「そうなんだね」アリアが僕の肩を叩く。もう引き上げても良いと言いたいのだろう。「……そろそろ、聞きたいことは聞き終えたからこの辺で。お邪魔したね、ありがとう」
「いや、それほど。僕も僕で暇だからね」
「楽しいんだろ?」
「そう言う意味じゃない。時間ならあるってことさ。これも言葉の綾だね」
それじゃあと言ってこの場を去ろうとしたが、土壇場になって聞きたいことをひとつ思いつき、ふと踵を返した。僕の目に不思議そうな表情を浮かべるリッケが映って、少し笑ってしまいそうになる。
「ひとつだけ、変な質問をして良いかな」
「これ以上変なのかい?」
「そうかも」言いながら、まるで他人事だなと自覚した。「もし、本当にそんな人が居たとしたら、そいつはどうして不老なんだと思う?」
彼は真面目な顔つきになり、目蓋を閉じて深く考え込む様子で、ひとつ思い浮かぶのはと呟くと、
「彼か彼女かはわからないけど、その人は古代人なんじゃないかと思う。文献を漁ってみるとね、どうも昔には年輪なんてものはなかったらしい。年輪と言えば、木の年齢を知るためのものでね。丸太の切断面に見える、二重三重にもなる円というくらいの意味しかなかったんだ。その輪が多ければ高齢ということになる」
「それじゃ僕たちと同じだ」
僕らは元々木だったのかもしれない、と冗談を言うと、彼は口だけで笑ってみせる。
それからリッケは大きく息を吐くと、
「話を戻そう。古代人には年輪なんてものはないが、でもまったく老いないというわけでもない。時間の経過が原因で少しずつではあるけど、老化すると言うんだ。だからね、そいつも同じなんじゃないかと思う」
もしこの考えを当て嵌めるなら、カナデは古代人だった、と言うことになるわけだ。
彼の考えを咀嚼すると、成る程と僕は言って、更に先を促す。リッケは口を真一文字にしてみせてから、
「今の時代になってその──古代人が目覚めたとかなら、理屈は通るかもしれない。でも現実的に考えてみて、そんなことはあるかな……? 確かにそれらしい技術もあったらしいけど──人工的に冬眠させるんだとか何だとか、ってね」
しかしそれもオカルトに過ぎないよ、と彼は子どものように屈託のない笑顔でそう締めた。僕は満足して礼を告げた後、それじゃあまた、と言って扉を開ける。
「乖離病について何かわかると良いね。幸運を祈ってる」
「ありがとう、それじゃあ」
別れ際に聞こえた嗄れ声が、記憶に刻まれた彼への印象を上書きした。