第二十三話
「なあ、何か物音がしなかったか?」と、リッケに叩き起こされて、僕は薄く目を開けた。窓の外は真っ暗で、時間を確認するまでもなく真夜中だとわかる。眠たいのに、彼はそれを阻止しようとして止まらなかった。抗議の意思を込めて睨みつけたが、どこに彼の目があるのかわからない。
何度も揺すってくるリッケに、僕は駄々っ子のように抵抗する。
「起こさないでくれ、死ぬほど疲れてるんだ」
「そう言わないでくれ。頼むよ」
何だか様子がおかしいとわかり、渋々躰を起こすと、小さく欠伸した。ベッドから降り、リッケを見据える。
「で? ……何があったのさ」また欠伸しながら訊ねた。
「今の今まで読書していたんだ」机を見れば、乱雑な中に手紙やら鉛筆やら、僕の棚から勝手に借りたらしい本を開けたままにして伏せられているのがわかる。「そうしたら、女の子の悲鳴がして……」
「悲鳴? どこから」
「わからない。だからさ、それを確認したいんだけど……」
僕は腕組みすると目蓋を閉じて考えた。頭が重くなり、身を任せてみる。眠い。
「そんなの、誰かがふざけて声を出したんじゃないの? 大丈夫だよ。もう夜も遅いし、寝よう」
「眠いだけだろ」リッケが言う。
「そりゃ眠いよ……」
「良いから付いてきてくれ。探しに行こう、何かあったらどうするんだ」
「そうしたら僕ら以外の誰か……デミアンとか? がやってくれるでしょう。大丈夫、大丈夫──」
ふと、彼の机にあった手紙を思い返す。宛名には、レルの名前があった。僕の頭と目が冴える。もしかして恋文……
「レルに用事があるの?」
さりげなく聞いてみると、リッケははっとした顔で机を見た後、僕を睨みつけた。それからきまり悪そうに、
「勘の良い奴は嫌いだよ……」
「何だか楽しくなってきたぞ。あれ、どこから物音がしたのかな。ねえ、どこへ行く?」
「煩いな」彼は苦笑して、「これは別の話題だ。今は関係ない。物音がしたのは本当なんだよ」
「そうかあ。それで、レルのどこが好きになったの?」
「人の話を聞けって。……一目惚れだよ」
「へえ!」
「おい、静かにしろよ。真夜中だぞ」リッケは注意してきたが、僕には効かない。
「リッケが起こしたんじゃないか」
「起こさなけりゃ良かったよ……」
段々と心が軽くなってきて、躰の芯から元気が湧いてくる。おかしなテンションだ。これが深夜というものの力らしい。僕は浮き足立って部屋の扉を開けると、
「よし行こう。その手紙を扉に挟めば良いんだよね?」
「いや、だからさ──」
「あ、そうか。それだとカナデにも見られちゃうね。どうしようか……」
「そうじゃなくてだな?」
リッケが凄んでみせる。が、童顔の所為で癇癪を起こした子どもにしか見えない。僕は肩を竦めて、話を促した。彼は諦めたように嘆息する。
「わかったよ。手紙を挟むから、ついでに物音を確かめに来てくれないか」
首肯したみたけれど、リッケはどうしてそんなにも物音を気にしているのだろう。そんなに不審に感じられたのだろうか。聞いてみたが、彼は別にそこまで変なものとは言えなかった、と言う。ならば何故、と更に問うてみれば、
「何か気になるんだよ」一拍置いてから続けて、「レルのところから聞こえたから……」
「なあんだ、じゃあ理由は明白だね。どちらにせよレルの部屋まで行くんじゃない。良いよ。付いていこう」
乗り気になって部屋を飛び出すと、僕の心持ちとは裏腹に廊下は酷く静かだった。当たり前だ。だって真夜中なのだから。
リッケは恥ずかしそうに手紙を持ち出すと、レルの元へ先に向かう。僕は扉を閉めて、彼の後ろを付いていった。出歩いている者は誰も居ない。先生や先輩などに見つかったら厄介だが、お手洗いに行くつもりだったと言えば良いだろう──なんて、道中には言い訳を考えていた。
レルとカナデの居る部屋へ着いた。僕はリッケに向けてにやにやと笑いかけようとしたが、ふと違和感を感じて、躰を止める。部屋の中から男の声がしたのだ。それも、聞き覚えがある。彼の名前は、
ジョウ──だ。
全身から一気に血の気が引くのを感じる。焦って、扉に手をかけた。そして勢いよく開ける。狼狽たようにリッケがおい、と声を掛けた。しかし今回ばかりは気にしていられない。
中には果たして、ジョウが立っていた。
「やあ、レル……」とリッケが片手を上げてから、躰を硬直させる。
ジョウが二段ベッドの下からカナデを引っ張り上げ、肩に掛けているところだった。上からレルが男へ向けて驚いたように目を見張り、硬直している。恐怖のためか、口をぱくぱくと動かしていた。
ジョウはこちらに気付き、ゆっくりと振り返る。人差し指を唇に当て、しーっと言った。
「静かに……目覚めちまうだろう?」彼は小さく笑うと、堂々と窓まで向かい、「それでは失礼」
そう言って飛び出した。外には馬車が用意されていたらしい。馬の足音と共に影が遠ざかっていく。
僕は呆然として何も言えずにいたが、我に帰るとリッケに向けて、人を呼んでくるよう頼んだ。
「ソウはどうするんだ」
「追いかける!」僕は窓から足を出す。
「待って──」
だしぬけに、か細い声がして、僕は首を回した。レルが懇願するようにこちらを見つめていたが、何を訴えているのかわからない。やがて口を開けると、彼女は糸が切れたように倒れ込み、深く眠りについてしまった。
まさか気絶した……?
僕とリッケは戸惑って目を合わせる。彼は梯子を登り、彼女の様子を確認したが、次第に焦燥に駆られたふうになった。
「な、なんてこった……気絶じゃない──乖離病だ! ほら、年輪を見てくれ、沢山の輪が形成されている、急速に老化し始めているんだ……」
「そんな……」
リッケは真面目な顔つきになって、「僕は人を呼んでくる。君は追いかけるんだろ? 手遅れになるかもしれないぞ、早く行くんだ!」それに、と彼は言葉を紡ぐ。「今やらなきゃ、後で後悔することになる……」
指先が震えた。思い切り握ると、僕は決意して頷く。
「わかった。後は、頼む」
僕は窓枠に足をかけた。リッケはこの部屋から立ち去ろうとして、思い出したように、
「待ってくれ。あの男が何者かは知らないけど、レルとたった一瞬、会話しただけで乖離病を発症させたんだ。彼が何をしたのか──多分、知識を吹き込んだのかもしれない。とは言え本当のところは──わからないけど、もしかすると情報爆弾みたいなものを握っているかもしれない。だから、その、つまり……気をつけて」
「うん」窓から躰を出すと、「気をつける」
枠に足を掛けて思い切り飛び出した。地面には馬車が作った轍が残されている。僕は後先のことなど何も考えず、線を辿るように、がむしゃらに走った。