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第二話

 夏が過ぎ、まだ蒸し暑さの残る秋の夕暮れ。

 僕は彼らの声を真似しながら、次第に言葉を覚えていった。どうやら、物事にはそれぞれ名前が付けられているらしい──ソウという音が僕を意味している──と、気付いてからは早かった。音と意味とを形にして覚えていく。また、記憶を頼りにふたりの過去の発言を思い出しては、ひとり復唱して、理解を深めていった。

 どうやら知識はどれだけあっても、使い方をよく考えなければ無に等しいらしい。パズルのように組み合わせて、それが何らかの意味を持った総体を為さなければ、どのように扱うのも難しくなる。言葉なら、音と意味との組み合わせ。会話なら、言葉同士を繋げるパターン配合──文法というらしい──を寄り合わせる必要性があるわけだ。

 試行錯誤の途中には何度も発熱し、死にかけたが、その度に母娘の甲斐甲斐しい世話もあって、僕は何とか生き延びることができた。後になって覚えた、恩人という言葉を想起したけれど、これでは僕の感謝は伝えきれない。

 さて。やがて彼女らの言語を──拙いながらも──会話できる程度にまで習得すると、僕はずっと前から気になっていた、手の甲にある輪っかか何なのか、と訊ねてみた。

「それは年輪だ」ネイアが自分の甲を見せながら言った。「経験を積むと、それに応じて線ができていく。ひとつの円につき、一歳分だけ老化(レベルアップ)する。つまり、これは老化レベルの指標というやつだな」

 ネイアは全部で三十四の輪を刻んでいる。僕は自らの輪を数えてみた。全部で四つ。恐らく、言葉を覚えるのにそれだけ老化したのだろう。

「成長の呪いね」と、横からカナデが割って入った。

 彼女には十四の円が刻まれている。

「呪いって?」

「足枷のことよ」

「足枷って?」

 カナデは話にならない、といったふうに呆れた顔をしてみせた。僕はネイアを見つめる。

「そこに辞書がある。自分で調べてみると良い」

 指差す先には、本棚があった。様々な種類の図鑑に溢れていて、僕は目当ての本を一冊手に取った。辞書──これはいわば、言葉の図鑑である。呪いと足枷の意味を調べ、ぎょっとしてカナデを見た。

 カナデは肩を竦めてみせる。

「だってそうじゃない。成長って言えばもっと良いイメージでしょう?」

「良いイメージ?」ネイアは首を傾げた。「そんなもの、抱いたことなかったな」

「ほら、木の実を食べるのだって植物の成長あってこそでしょ。肉を食べるのも、大人まで成長した動物を──」

「殺すから、食べられるんだ。私たちは新鮮な死を食べている。腐ったものは食べられない。カナデ、成長はやはり呪いだよ。だから皆、眠り続けるんだ」

 ネイアの言葉にカナデは押し黙る。僕は何のことやらわからず、ただふたりを見つめるばかり。きっと、間抜けな顔をしていたことだろう。ネイアはそんな僕に気がついて、

「私たちは、何かを知るたび──または経験するたびに成長してしまう。成長の先には何があると思う?」

 僕は質問を受け止め、深く考え込んだ。

「巨大化?」

 カナデが吹き出す。ネイアは緩々と首を振って、

「無だ。腐り、朽ちた果てには何もない。死とはそういうものさ。だから成長しないために──何も経験せず済むよう、あらゆる物事を放棄する。だからきっと……お前も捨てられたんだろうな」

 ネイアは悲しそうに目を細めた。

 そうか、僕は捨てられたのか。記憶にこびりつく、母の謝罪。そして、別れの挨拶。刹那の──辛く、けれど美しい──思い出は未だ鮮明に思い出される。頭の中で何度も再生した。どれだけ繰り返したかわからない。

 捨てられたとは思ってもみなかった。たった一言の重みを、僕は今、痛感している。そうか、これが言葉か。物事に解釈が加わることで、感情が揺さぶられてしまう。事実を受け止めざるを得なくなるわけだ。ただひとつだけ気になることといえば、

「どうして……」という一点だった。

 ネイアは口を開きかけて、一度噤んだ。それから意を決したように、

「私たちは記憶を消すことができない。忘れることなど決してない。だからいつかは向き合うことになる。そう思って、心を鬼にして教えよう。とは言えだ……お前のお母さんは悪くない。やむを得なかったんだろうよ──」ネイアは苦しそうに一息つくと、「出産することだって、普通なら難しいことだ。特に、経験値としての評価はあまりに高い。彼女は若かったか?」

 僕は頷いてみせる。そうか、とネイアは目を瞑った。

「子を産むこと。そして、育てること。この苦労は並大抵じゃない。老化が進みやすい上に、早逝のリスクもある。では、お前を捨てて見殺しにすべきかといえば──それも、彼女はしなかった。お前は私たちに見つかりやすい場所へ置いていかれたんだよ。この家の付近……足の届く範囲内に残したのは、きっとそういう意味なんだろう。私は託されたんだ。でなけりゃあ──」

 ネイアはその場から離れ、部屋を後にした。それから揺り籠を手に戻ってくると、内側に記された文字を示す。そこには確かに、『ソウ』という名前が書かれていた。

「大切じゃなかったら、名前なんて残さないだろう……」

 僕は揺り籠を借りると、大事に抱きしめた。ネイアの話では、誰かに強く影響を与えるような、業の深い行いは老化レベルが高いのだという。例えば命に関することだ。産むのも殺すのも、同じだけの業が課されているらしい。

 人に何かを教えることも、教わることも、同じくらい危険なことだと彼女は言った。

「それに、急激な老化は乖離病になる可能性を高めてしまう」

「乖離病って?」

 聞きながら、手の甲に痛みを覚えた。確認してみると、輪がまたひとつ増えている。ネイアが心配そうにこちらを見やるので、問題ないよという意味を込めて、肩を竦めてみせた。

 ネイアはわざとらしく空咳すると、

「簡単に言うと、急激に成長した躰に精神が追いつかなくなってしまうことだね。ほら、私たちはすべての体験を漏れなく記憶するだろう。その所為か、頭が限界を超えてしまうと、正常に活動できなくなる……。そうなると、人格障がいを起こしたり、眠り病に罹ったりするわけだ」

 僕が発熱したのも、乖離病と同じ原因からであるらしい。新たに知識を得たためか、手の甲が痛み出した。

「怖いよね」カナデが口を曲げる。「症状は幾つかのバリエーションがあるんだって。でも、いずれにせよ時間が治してくれるみたい。脳が休まれば良いんだもんね」

 カナデが口を閉じると同時に、ネイアが後を引き継いだ。

「だから、勉強を急いではいけない。良いな?」

「わかった。無理しないようにする」僕は辞書を棚に戻すと、他の図鑑を手に取る。「症状が出ない程度に」

 ネイアは手を腰に当てながら、呆れたようにため息をつく。隣では、カナデが楽しそうにくすくすと笑っていた。

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