第十八話
与えられた鍵を持って、割り振られた部屋へと入る。中には既に先客が居り、彼が同居人のようだった。こんにちは、と声を掛けると、
「こんにちは」と、眠たそうな声が帰ってきた。
それもそのはず、彼はベッドで眠っていたらしい。起き上がると、寝起きな所為かぼさぼさと自由に伸びた髪の毛や、とろんとした瞳が目に入る。年輪は十五ほど。恐らく年齢も僕らとそう変わらないに違いない。
彼は寝ぼけ眼を擦りながら、
「君が新しく入ってきた人?」生欠伸をしながらそう言った。
「ソウです。宜しくお願いします」
「うん。宜しく。名前は?」
「え?」僕は目を瞬かせる。「だから、ソウです」
「ああごめん、それが名前か。成る程。僕はリッケって言います」
頷いて、僕は扉を潜り、後ろ手に閉めた。荷物を置くと、部屋を見渡す。簡素な部屋だ、というのが第一印象だった。二段ベッドを挟んで、机が二つ置いてある。机の脇には棚とクロゼットがあり、それぞれ中は空っぽだ。リッケの棚を見れば、様々な書物が置かれている。その殆どは僕の知らない題名だった。恐らく小説というものではないだろうか。
トイレと風呂は共同スペースにあるのを使うらしい。部屋には必要最低限のものしか置かれていなかった。ここにひとりでは、きっと暇を持て余すだろうな、と僕は何となくそんなことを考える。
「多分同い年だよね?」リッケは二段ベッドの上から顔を出して言った。童顔なのか、幼く見える。「まあ多少差はあるだろうけどさ。敬語はやめにしようよ」
「そうだね」答えながら、僕は椅子に座った。
「君はどこの部を志望しているの?」
「保安部。リッケは?」
「僕は翻訳部。もっと言うと、その中の要約課かな」リッケはもじゃもじゃ頭を片手で掻き回すと、ベッドからゆったりと降りる。「それにしても……へえ、保安部か。なかなか危険だろうに、凄いね」
「凄いって?」
聞き返すと、彼は隣の椅子に深く座り、背もたれに躰を預けながら、うんと相槌を打つ。目を瞑って数秒経った後に、
「だって命に関わることじゃないか。それに体力もいるだろうし、責任だって重大だし。とても運動音痴の僕には──」
「そうは言っても、どう動かせば良いか、躰が覚えるでしょう?」
言いながら、カナデのことが思い出された。彼女は極めて特異的な例外である。少なくともリッケは僕と同じような体質であるはずだった。
「そうかもね」とリッケは言い、「でもどれだけ運動できるかってのは、遺伝子によると思うな」
「遺伝子?」僕は首を捻る。
「遺伝子というのが、人間のみならず生物にはあるらしい。これは昔の本なんだけど……」
リッケは棚に人差し指を向けながら、目当てのものを掴み取る。彼の手には、見知らぬ言語で書かれた本があった。
「何と読むのかわからないだろう。古代の言葉だね。これには生物学概論と記されているんだけど、内容は、あらゆる生命体の特徴を解剖したもの、と言えばわかりやすいかな」
「いや、どうだろう。わかったような、わからないような……。それで、遺伝子がどうしたって?」
「どの生物にも遺伝子があるんだけど、どうやらこいつが能力の限界を決めているらしい。例えば鳥が空を飛ぶのも、魚が水中を泳ぐのも、遺伝子がそのように指定したからなんだって書いてある」
「ふうん……」
リッケは中身をぱらぱらと捲りながら、何を意味しているのか理解できない記号たちを僕は目にする。てっきり年輪に影響があるかもしれないと思ったけれど、特に変化はなかった。もしかすると、寿命というのは単なる記憶力のことを指すわけではないのかもしれない。
時折り挿入された図を見て、何となくこういった意味なのではないか、と解釈してみる。すると今度は年輪に影響が及ぶのだった。
「つまりね、記憶力があるからと言って、別に僕の運動能力が高くなるわけじゃない。計算速度だって、きっと人によりけりだし。……僕は、運動できないってわけでもないけれどね、好きじゃないからさ。遺伝子レベルで」
「何それ」僕は笑って言った。「リッケは、どうやってこれを読み解いたの?」
「翻訳部から辞書を借りたんだ。そこで内容をすべて覚えてね。お陰ですらすら読める」
「やっぱりと言うか──翻訳にはその文字を読み解くために、専用の辞書が必要だよね?」
「そうなるね」
「だとすると、年輪に影響があるじゃない。充分そっちも危険だと思うけど」
「そうかもしれない」リッケは同意して、「だから仕事として必要なんだろうね」
「まあ、それはそうなんだろうけど……」
「それにね、僕は要約課を希望しているんだ」
「要約課」リッケの言葉を繰り返した。
「そう。これは内容を一言に纏める仕事らしい。そうすることで、受け手は必要だと思うことだけを知ることができるし──」そこで、彼の目が爛々と煌めいた。「何より、年輪に影響はでない」
「影響がない? まさか……」
有り得ないと思いながらも、しかし先ほどの記号めいた文字列を見たところで何の影響もなかったことを思い出す。
「本当のことだよ。ここに一行に要約された言葉がある。読んでみるかい?」
彼はポケットから紙片を取り出すと、僕へ向けて差し出した。それを丁重に受け取ると中身を読む。ただ一言、『ここには言葉が記されている』とあった。反応に困り、リッケにこれを返す。
彼がポケットに仕舞い直してようやく、じわじわと笑いが込み上げてきた。
「僕も読んでみたけど、年輪は反応しなかった。不可思議なことだと思わない? 知識だというのに、どうして成長に繋がらないんだろう……」
「身にならないからじゃない?」
「ははっ、それは面白い……」リッケは静かに笑うと、「これが僕の志望理由だ。ソウのも聞かせてよ。君はどうして保安部を選んだの?」
僕は言い淀んだ。あまり簡単に言いふらすものでもないから、曖昧な返事でやり過ごそうとしたが、それも相手に不義理なことに思える。結果として、無言の時間が流れた。
リッケは不思議そうな顔を浮かべ、
「言いにくいことかい?」と聞く。
「うん……」
「訳ありってやつだね」
と、そこへ、扉がノックされた。中からはヴァンが現れ、そろそろ訓練の時間だと教えてくれる。僕はじゃあそろそろと言ってリッケと別れると、急いで訓練場へと向かった。これではまるで、逃げるみたいじゃないか、と思いながら。