第十五話
荷台に寝そべりながら、流れる雲を見ていた。
揺り籠に揺れる気分であったにも関わらず、僕は穏やかに空を眺めていられるのは、きっと、ネイアたちのお陰なのだろう。春が来て、辺りに暖かさが戻って来た時に、細波のように揺り戻された記憶が、突如として僕を飲み込んだ。
ありがとう、と最期に伝えれば良かった。僕を孤独というトラウマから解放したのは、カナデもだが……一番にネイアのお陰でもあったのだ。もしもあの時、伝えられたなら──そう思うと、目頭が熱くなる。
あれからグリットが遅れてやって来た。彼はネイアの亡骸を認めるなり、肩を震わせて涙していた。グリットもまた、後悔の念に囚われてしまったように思う。
ネイアを埋葬すると、彼は、
「ネイアから、自分の身に何かあったら、代わりに君たちを保護するよう頼まれている」
──と、そう言った。
「良ければ、訓練学校へ来ないか。そこでなら、寮を用意してやれる。仕事もある。それに──」躊躇うように言い淀むと、「カナデを公的に保護することもできる。護衛部隊に所属できれば、ソウ。君も彼女の側に居てやれる」
考えておいてくれと言って、グリットはその話題を止めた。僕は頷いて、悩むこと数ヶ月。返答するまでには冬の終わりまでかかってしまった。結局、僕とカナデは訓練学校へ入学することに決めたのである。
正直に言って、カナデは入学する必要がない。彼女は早々に秘匿され、保護されるべきだと思われた。けれどそれは、カナデの自由を奪うことでもある。また彼女は、今回の件で色々と思うところがあったらしい。
「私も成長したい。自立して、もう、守られてばかりの自分から卒業したい」
僕はぎょっとして、
「でも、だからって学校へ行く必要はないじゃないか、危険過ぎるよ……。協力なら何でもする。だから姉さん、考えを改めて欲しい」と訴えたけれど、
「それじゃあ何も学べない。私は経験を積みたいの……成長して、もう誰かにバレるんじゃないかと怯える暮らしと決別したい」それに、と彼女は付け加える。「家に居ても寂しくなるだけだよ──」
僕にはその決意を否定することができなかった。
そうして桜の花びらが舞い散る道──誰の姿も見えない閑散とした街中──を次なる目的地まで、馬車で移動していたのだった。
これからどうなるのだろう……未来を思うと、怖くなる。空っぽの家を置いて来て、僕らはこの先どこへ向かうのだろうか、わからない。疑問に思うのは、ジョウはどうしてカナデのことを──不老の少女に纏わる話を知っていたのか、ということだ。それも真実に近い内容で。
考えられるのは、カナデを知る何者かによる情報提供……つまりは裏切りだ。グリットかミルドレッドのどちらかが、姉を売ったのではないか。ならば、どちらにせよネイアの家に居続けるわけにはいかなかった。僕ひとりでは彼女を守ることができない。できるだけ人目のあるところへ紛れていれば、相手も簡単には手を出せないだろう。
どちらが裏切ったのか?
……僕にはわからない。
しかし、そうと決まったわけでもないのだ。別の方法でその存在を知ったのかもしれない。ジョウが何者なのかすら、僕は知らないのだから。
だからできるだけ姉の側に居て、周りに目を光らせなくてはならない。グリットとミルドレッドは、協力すると言った。
「もし正体がバレてしまったら、恐らくですが、カナデちゃんはA級の国家機密として、保護という名目で秘匿されるでしょう。ですから一先ずは、保安部の護衛課に入れるかどうかだけを考えてください」と、ミルドレッドは言う。
「どうして?」と聞いてみれば、彼女は厳かに、
「狭き門なんです。あそこはエリート中のエリートが集まっていますから……」
「護衛課ってどんな仕事をするの?」
「その名の通り、主に要人の護衛ですよ。ずっと側で守り続けるんです。護衛課なら、もしカナデちゃんが保護されてしまっても近づけるはずですから、お勧めします。もし入れたらグリット直属の部下ってことになりますけど」彼女は良策を思いついたのか、ぱっと顔を上げて、「あっ、ねえグリット。部長のコネで何とか入れてあげたりできないの?」
「正式な手順で認められなければ無理だ」グリットは一蹴する。
あそう、と残念そうな声で、ミルドレッドは僕に肩を竦めてみせた。
「まあ、カナデちゃんにもしものことが起きない限り、護衛課に入らなくても大丈夫ですけどね……」
回想を止めて、僕は起き上がると、来た道を見つめた。あの家はもう見えない。カナデは憂鬱だったろうに、強い意思を込めた瞳で向かう先を見つめている。
「本当に良かったの?」僕は聞いた。
「何が?」
「姉さんも入学して……またバレたりしたらえらいことになるよ」
カナデは口を上げてみせた。
「きっと大丈夫よ。何とかしてみせるわ」
「きっと、って……」呆れながらも、強い人だなと思う。諦めて、僕は腹を括ることにした。「そうだね。何とかしよう」
やがて馬車が止まると、どこからともなく声が聞こえてきた。声は僕らの方に近づいてきている。何気なくそちらを見れば、そこにはヴァンが立っていた。
そうだった、僕らはひとりではなかったのだ。保育所で育った彼らも同じ、訓練学校の入学生である。賑やかな未来が頭をよぎった。荷台の下から、ヴァンが口を開く。
「遅かったじゃないか」
かつて高かったはずの声も、声変わりによって低くなり始めていた。僕は微かに笑みを漏らすと、
「ああ、久しぶり」
カナデと連れ立って、馬車から降りる。優しい春風が、僕らの横を通り過ぎた。もしかしたら、と思って見上げる。そこには何もない。代わりに、澄んだ青空が広がっていた。
さようなら、ネイア。
僕を拾ってくれてありがとう。
貴方のお陰で僕は生きている。
貴方のお陰で夜が怖くなくなった。
今度は貴方の代わりに、姉さんを守ることを決意したよ……。それが僕からの恩返しのつもりだ。だからどうか、僕らを見守っていてほしい。
未来に希望を見出すため、これからも生きていくから──
「じゃあ行こうぜ」ヴァンが言った。
「うん」
これからのことを想い、僕は頷く。
そうして、訓練学校の門を跨いだ。