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第一話

 思い出せる最初の記憶は、母の顔だった。焦ったように汗を流し、揺り籠に揺れる僕をそっと一瞥する。はっとするような美しさで、赤ん坊だった僕は声をあげることもなくじっと見つめていた。後光に照らされていたからか、それともその時はまだ、視力が悪かったのか……次第に彼女の姿はぼやけて、離れて消える。


 穏やかな夏の日のことだ。


 涼しげな風が吹くたびに、母の前髪はそっと靡いて、行先を教えているかのように見えた。僕はと言えば、毛布に包まれていたから段々と暑くなって、短い手足で懸命に退けようとする。

 彼女はふと、僕の動きに気付くと、悲しさに溺れた様子で、ごめんね、と沈痛な面持ちをさせた。この頃はまだ、言葉も理解していなかったし、何故そんな表情なのかすら、わかっていなかった。

 ただ、彼女の苦しみが伝わってきて、意味もなく涙が出て止まらない。終いには泣きじゃくって、視界をぼんやりと薄く溶かし込む。思い出すたび、もっと辛抱強ければ、と後悔せずにはいられない。もう少しだけでも、母のことを記憶できていれば──孤独は癒えただろう。

 彼女は揺り籠を木の根元へとそっと置いた。唐突に揺れが止まったものだから、戸惑って母の顔を覗き込む。真っ黒な瞳の中に、目にいっぱいの涙を浮かべる僕の顔。やがて僕の顔は歪められ、彼女が流した涙とともに洗い出されてしまう。

「せめて私を恨んで」母は顔をくしゃっと歪めたかと思うと、両手で覆い、「さよなら……」

 素早く立ち上がるなり、走り去ってしまった。

 何が起きたのかはわからない。ただ、母が遠ざかってしまったことへの不安が込み上げてくる。目の前には揺れる枝葉が、カーテンのように日差しから守ってくれていた。時折り風に伴って、影を左右に頷かせる。

 母はどこへ行ったのか?

 それは未だ知らないし、知りようがない。

 もしかしたら、いつかまた帰ってくるのではないかと期待して──動けないこともあって──その場でじっと待っていた。蝶がすぐ側を羽ばたいて、掴もうとして手をあげる。手の甲にひとつ、痣のような漆黒の輪っかが見えた。指は少しも届かず、蝶はどこかへともなく飛び去っていく。

 唐突に涙が止まらなくなった。自分の身に起きたことを、何となく理解したためだろう。怖いという感情が生まれ、同時に僕という自意識は生まれた。

 それから──

 それから、僕は泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていたらしい。喉の渇きと、暑さで滲んだ不愉快な汗に目覚めた頃には、もう、辺りは真っ暗になっていた。夜になると、辺り一面は一転して寒くなる。

 大きな満月がまるで夜空の目のようにぎょろっと、僕を睨みつけて見え、恐ろしくなった。

 側には誰もいない。誰ひとりとして、姿はない。僕ひとりだけ。もう一度泣いてみる。けれど応答はない。僕は泣き止んだ。泣き止んで、静かに呼吸する。周囲を見回そうにも、揺り籠の縁が邪魔で、見える範囲は限定されていた。

 僕はどこにいて、これからどうなるのか?

 すべてが暗闇の中で見えなかった。かさかさと何かが擦れる音。どこか遠くで聞こえる咆哮。鳥の鳴き声に混じって、甲高い悲鳴みたいなものが響いた。僕はただじっと待ち侘びる。立ち去ってしまった母のことを想いながら。

 手を強く握りしめて、うずくまった。

 暑さで目眩する。ぐらりと頭が揺れた。躰が重い。喉が──お腹が、空いた。

 知らなかったはずの死というものが、たちまち頭の中に現れて、襲いかかる。手の甲に痛みが走って、僕は涙目でそれを見つめた。円の外側に、半円状に黒い線が刻まれている。

 これは、何だろう。

 そう思いながら、目を瞑った。

 すると、海の中を揺蕩うような気分が押し寄せる。また眠ってしまったのかもしれない。いま僕は、夢を見ているわけだ。

 母が戻ってきて、僕を抱き上げる。

 彼女が歩くたびに世界が上下した。

 全身に伝わる温もりにすっかり安堵して、僕はたちまち脱力してしまう。

 もう二度と離してしまわないように、腕を抱きしめる。

 柔らかく、そして滑らかだった。

 僕は毛布を胸に、朝を迎えた。うだるような暑さ。水分不足のために手足の先は痺れている。全身はもう、ぐったりとして力が入らない。汗がべたついて、気持ちが悪かった。

 目を開けてみれば、また同じ景色。何も変わらない現状。僕は瞬きを諦めて、視界に蓋をする。温い風が、耳を撫でつけた。飢餓に喘ぎながら、僕は息をする。微かに声がしたような気がして、ああ僕はまた、夢の中に居るのだろう──なんて、できるだけ失望してしまわないように心にプロテクトを張った。

 そんな、ふわふわと浮つくような夢で、誰かしらの声がする。ふたり居るらしい。一方は、透き通るような声だった。


 あそこになにかあるよ……

 ほんとうだ……

 ねえ、あれはなに……

 あれはゆりかごだ……

 どうしてここにあるの……

 だれかがおいていったんだ……

 みて、あかちゃんがいる……

 しにかけているじゃないか……

 たすけてあげなきゃ……


 僕は誰かに抱きしめられている夢を見る。温もりに包まれながら、緩やかに揺れて、心音がなだらかに落ち着いていく。なんて幸せな夢なのだろう。苦しみもなく消えていけるなら──


 僕はもう、何も怖くないと思った。


 ……けれど、僕は死ななかった。

 知らない天井の下、僕はベッドに寝かされている。目を開けると、母娘と思しきふたりがこちらを見下ろしているのがわかった。哺乳瓶が口元へあてがわれる。咥え、飲み干すと、飢えは綺麗さっぱりなくなった。

 娘の方が、くすくすと笑う。

「ねえ、小さいね。ネイア」

 ネイアと呼ばれたショートカットの女は、目元まで垂れた前髪を指で払いながら近寄ると、

「お前も昔はこんなだったんだ、きっとな」彼女の大きな手が頬へ触れた。「子どもってのは成長が早い……。この子も、明後日にはカナデと同じくらいになるかもしれない」

「まっさか!」

 カナデと呼ばれた少女は、長い黒髪を靡かせながら、疑わしげな眼差しを母に送る。ネイアは微笑むと、ベッドから離れていった。

「どうも私の話を信じないみたいだね。まあ、そのうちわかることか──」

「あっ、見て見て」カナデの中で別の話題が持ち上がったらしい。「この子にも年輪があるよ」

 彼女は手の甲を撫でながら、黒い円を凝視する。

「そりゃそうさ。ここらじゃない方が珍しい」

「……そうね。そうか。じゃあ、本当に成長も早いんだろうなあ」

「姉で居られる期間は短いだろうさ」

 可笑しそうに笑う、ネイアの声がした。

 僕はまた、安らかな眠りにつく。これが夢でないことを祈りながら。

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