【参の章 黒くてデカい招き猫】
ベタベタとした、気持ち悪い感触に目が覚めた。
が、身じろいだその直後、額や膝などから来る表面的な痛みと、頭の芯から響く猛烈な頭痛に悶絶する。
恐々見ると、特に痛む両掌は盛大に擦り剥けており、生乾きの血と体液でベトベトだった。
メガネを掛けたままだったらしく視界はクリアで、レンズと涙の向こうには、見慣れた豆電球が弱々しくオレンジ色に光っていた。
「……俺の、部屋?」
呟いた声はガラガラで、呼吸するだけでも喉が非常にヒリヒリする。
おぼろげに記憶しているのは、四件目の居酒屋に立ち寄った所まで。
何があってこんなに傷だらけになったのか、どうやって帰宅したのか、まるで思い出せない。
しかしココは紛れもなく自宅二階にある俺の部屋。
もっと言えば、買い取ったは良いが、買い手が付かずに私物化したアンティーク調の木製ベッドの上だ。
「うわぁ、我ながら、ひっでぇなコレは……」
最悪なことに吐瀉物やヨダレ、それと血と思われる赤茶色で掛け布団がひどく汚れていた。
これはカバーを剥ぐって洗い、中身はクリーニングに出すしかなさそうだ。
‥いや、いっそコレを機に処分してしまうという手もあるか?
しかし布団は粗大ゴミ扱い。捨てにしても有料だ。
原稿料の振込みまでは出来るだけ節約したい。
「悩むのは後にして、一先ず湯浴みされては如何ですか? お召し物もひどい状態ですよ」
「湯浴み? ‥あぁ、風呂か。それもそうだな」
頭の先からつま先まで、全身くまなく酒臭さとゲロ臭さに塗れている。
恐らく服も昨日のままだろう。
割りと気に入っていたベージュのチノパンも、両膝が破けて血が滲んでいた。
「脱衣のお手伝いは?」
「いや、大丈夫だ、痛ッ⁈ ‥ひぃ、やれやれ……」
痛みに耐えながら汚れた衣類を脱ぎ、団子状態にして抱える。
それと使い回して三日目のバスタオルを肩に担いで部屋を出た。
本当は風呂に入りたい所だが、お湯はりの手間や待ち時間を考えるとげんなりする。
ここはシャワーにしておこう。
衣類も一度シャワーで洗い流してから洗濯しないと、こびり付いた汚れが落ないだろう。
「……ん?」
階段を半分ほど降りた所で、俺は奇妙な事に気がついて思わず立ち止まる。
下着姿の髭面中年がボーッとしている様はいかにも滑稽だろうが、先程の出来事を思えば、そうなるのも無理はないという物だ。
「今、誰と話した?」
女性の、……いやどちらかと言えば、若い『女の子』といった印象の声だった気がする。
しかし姉のマナブは遠方に住んでいて滅多に帰ってこないし、仮に帰省するにしても必ず事前連絡してくる。
そもそも、俺は一人暮らしだ。
幻聴が聞こえるとは、まだアルコールが抜け切ってないのだろうか?
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「……うぅん?」
しばらく伸ばしっぱだった不精髭も剃って風呂場から出ると、またしても奇妙な物を発見する。
脱衣所の棚に、グチャグチャながらも洗濯済みの着替えが乗っていた。
確かに普段風呂に入る際は、着替えを用意してココに置いている。
だが、今持って降りて来たのは汚れた衣類だけだった筈。
昨日酔った状態で用意するだけして、そのまま力尽きて寝てしまったと?
お陰で湯冷めせず着替えられたが、しかしその割には服が綺麗過ぎる。
果たして手をコレだけ盛大に擦り剥いておきながら、血を付けず衣類を持ち運べるものだろうか?
昨晩の行動を思い出そうにも、頭痛で思考回路が上手く働かない。
一先ず、水でも飲んで一息つこう。
俺は怪我の治療の為にも、キッチンへの暖簾をくぐった。
ところが目の前に広がる驚愕の光景に、俺は一息つくどころではなくなった。
「な、なんだよ、コレ……」
キッチンの床が水浸しになっている事も然ることながら、シンクから大量の泡が溢れ返り、一部が周囲をふわふわ浮遊している。
足元には一昨日買ったばかりの食器用洗剤の空ボトル。
キッチン中央の食卓には、なぜか骨董品の――特に磁器製の置物を手入れする時に使う様々な種類の道具が雑然と並んでいた。
どれも使った形跡があり、蓋が開けっ放しの艶出し剤は中身がすっかり乾いてしまっている。
割と高い物なのに、これではもう使い物にならない。
「これは、俺がやった事なのか?」
思わず声に出して自問した所で、俺以外に誰が居るという?
恐らくコレも、酔っ払った俺による奇行なのだろう。
まったく、酔っ払い、特に泥酔した奴というのは、往々にして訳の解らない行動をとる。
早いこと洗濯や布団の処理を終らせて、店を開けなければならないってのに……。
キッチンの窓という窓を開放して泡を逃がしつつ、蛇口も全開にして泡の除去を試みる。
勢い良く流れ出る水流を眺めていると、今月分の水道代が幾らに成るのか気が気でならない。
「あぁー……、駄目だ、しんどい……」
なんだか立っているのも辛くなって来たので、食卓備え付けの椅子に座りうな垂れた。
二日酔いと吐き過ぎ&風呂上りで脱水症状が悪化しているか、頭が脈打つようにズキズキする。
これは、本格的にヤバいのでは?
とにかく、早く水分を取らなければ死んでしまいそうだ。
‥でも駄目だ、足腰に力が入らなくて立てない。
「御水、こちらに置きますね」
『コトンッ』という音と共に、再び部屋で聞いた謎の声が。
しかしまた幻聴かと顔を上げると、目の前には水がなみなみと注がれたマグカップが確かに置かれていた。
喉どころか全身がカラカラだった俺は、砂漠でオアシスを見つけた旅人よろしくそれに飛びつき、一気に流し込んだ。
食道から腹にかけて水が流れる感覚。言い様のない快感に身が震える。
「……ッ、グホッ⁈ ゲッホ、ゲホッ‼」
だが慌てて飲んだ所為で気道に入ってしまったらしく、盛大にむせ返ってしまった。
「だ、大丈夫ですか⁈ どうぞ此方を!」
差し出されたタオルを受け取り、口に押し当てる。
が、コレが妙にワックス臭が酷い上にとても汚い。
ますます気持ち悪くなりそうだ。
「おい、これ何に使った……」
冷静になるにつれて、如何に異様な事が起きているのか理解し始める。
何故か置かれているマグカップに差し出されたタオル、そしてこの声。
明らかにもう一人、家の中に誰か居る!
ずいぶんと好意的ではあるが、不法侵入とは看過できない。
俺は注意深く周囲を見回してみた。
だが相変わらず人の気配はなく、辺りの惨状も相変わらず。
強いて言えば、舞っている泡が少し減ったぐらいだ。
と思っていたのだが、一つだけ、大きな変化があった。
向き直った俺の目の前、食卓の上にいつの間にか、一体の大きな置物が鎮座している。
ひび割れ一つない、重厚感と高級感のある漆黒のボディに、花火か花をモチーフにした金色の模様。
片手を顔の横に掲げて『大願成就』と書かれた小判を古びた荒縄で首にぶら下げた、猫がモチーフの磁器。
それはそれは見事な『招き猫』が、艶々とした顔でまっすぐ俺を見つめていた。
はて、うちにこんな立派な物があっただろうか?
黒招きという点も珍しいが、このサイズは十五号(高さ約四三センチほど)と呼ばれる、市場価格でも四万前後はする高級品。
恐らく特注品だ。
とてもじゃないが、今の経済状況で気軽に買えるような代物ではないし、買い取った覚えもない。
そもそも最初キッチンに入ってきた時、こんな物はなかった筈だ。
つまり件の第三者が置いたものに違いない。
一体何の意図が……。
何か手がかりはないかと、俺は招き猫を観察する為に両手で持ち上げた。
ところが次の瞬間、俺は度肝を抜かれた。
「が、學サマ、くすぐったいです!」
突如、無機物である招き猫が例の声でしゃべりだし、俺の手の中で滑らかに身じろぎし始めた。
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