霧雨市怪奇譚 お祭りと幽霊
一年に一度、八月頭の三日間だけ、霧雨市は異様な賑わいを見せる。
きりさめ八木節祭り。
この日ばかりはシャッター通りと化した商店街にも露店が並び、辻々に設置された櫓では市内はもとより、周辺地域のこども会や育成会が出張ってきて夕方から宵の口にかけて練習の成果を披露する。
夜が更けてくれば今度は市内の保存会が櫓に上がって、その熱狂は深夜に及ぶ……。
そんな祭りの熱気の中、黒田孝美は人の波に流されるように駅前広場に急いだ。
霧雨駅は人々の玄関口であると同時に、ロータリーに最大の櫓が設置されていることもあって、絶えず人が行き交っている。
そのロータリーから通り一本を挟んだ先の、小さなコーヒーショップの前で、小学校からの付き合いである土岐日向と、高校の友達、荒木薫が待っていた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「いいよ、気にしなくて。っていうか、どうした?」
「あー、うん。ちょっと出がけに買い物頼まれちゃってさ」
孝美はやれやれ、と海外ドラマ風に肩をすくめて見せた。
「お母さんだって家にいるんだから、電池くらい自分で買ってくればいいと思わない?」
「あー、確かにね」
薫も似たような経験があるのだろう、うんうんとうなづいた。
「それにしても、毎年すごい熱気ですね。普段もこれくらい賑やかならいいのに」
日向が行き交う人々を見ながら言った。
「しかし、目立った産業もないような地方都市では、それも難しいのかもしれませんね」
「そうそう、難しいと思うよ。それより、そろそろ行こうか」
薫が歩き出そうとするのを、孝美は手で止めた。
「最初はさ、ここでコーヒー買ってこうよ。僕、少しのど乾いててさ」
「あー、チャリで来たんだもんね。そうしよう」
そうして、三人はコーヒーショップに入ることにした。
***
お祭りという非日常は人々を開放的にさせる。
財布も然り、心も然り。
そして、心が開放的になると、周囲への警戒心がおろそかになりがちなのだ。
駅前商店街の中核となるディスカウントストア『ランスロット』。
その中にあるゲームコーナーで、オレはクレーンゲームに興じる中学生らしい少女に狙いを定めた。
髪を肩にかかるくらいまで伸ばした、清楚な浴衣姿の彼女は、真剣な目つきで景品を狙っている。
目指す景品はファンシーなひよこのぬいぐるみか。
あの様子なら、取るには相当の運と投資が必要だろうな。
そんなことを考えながら、ゆっくりと獲物に近付いていく。
隣のクレーンゲームの前に立つと、袖口に小型カメラを仕込んだ左手の向きを調節しながら、景品をよく見るふりをした。
二、三十秒ほど、じっくりと撮影してから、機械に硬貨を入れ、実際にゲームを遊ぶ。
特に欲しい景品があるわけでもなかったが、怪しまれないためには必要な投資だ。
規定回数のプレイを終えたオレは、まだぬいぐるみに挑戦している獲物のそばを離れる。
このゲームコーナーには他にもたくさんの子供がいる。
別にオレ自身はロリコンというわけではないが、子供の盗撮動画は客からのウケがいい。
特に夏場の、丈の短い衣服は狙い目だ。
次の獲物を探してアーケード筐体の方に目を向けたときだった。
ぽん。
後ろから肩を叩かれた。
付き添いの大人に気付かれたか。
おそるおそる振り返ると、そこにいたのはさっきまでクレーンゲームで遊んでいた少女だった。
「おじさん、見えるの?」
「さ、さあ……。なんの話かな」
オレは答えをはぐらかすと、さり気ない風を装ってゲームコーナーを離れた。
***
孝美たちはアイスコーヒーを飲みながら、露店の間を歩いていた。
各所の櫓では子供八木節の未熟ながら楽しげなお囃子が続いている。
行き交う人々の中にも法被姿の小学生がかなり混じっている。おそらくは出番待ちなのだろう。
三人が『ランスロット』の前まで来た時、孝美はその人の中に妙な違和感を覚えて目を凝らした。
「どうしました、孝美?」
「ああ、うん。……いるね」
日向の問いに答えつつ、孝美は一人の少女に注目していた。
見た目は恐らく中学生くらい。髪型は肩にかかるくらいのショートヘア。
白地に青く朝顔の柄を染め抜いた浴衣に紫色の帯を締めている。
一見なんの変哲も無いが、よく見れば浴衣が左前になっている。
それに、なんとなく彼女の周囲が暗い感じがしたのだ。
「お祭りの賑わいに引かれてやってくるのでしょうか」
「え、そういうもんなの?」
「そういうもんなんだよ、荒木」
孝美は答えつつ彼女の様子をうかがう。
誰かの後を追っているように見えるが、人が多いこともあって誰を追っているのかはわからない。
「またそういう系か……。あたしの苦手なやつ」
「うーん、ただの幽霊じゃなさそうだけど……」
孝美は首を傾げた。
とはいえ、やたらに首を突っ込んで自分の対処できないような事態だと困る。
少女のことが気になりつつも、孝美は頭を切り替えたのだった。
***
オレは息が止まりそうになった。
『ランスロット』からしばらく歩いた後、露店と店の間の微妙なスペースに立ち止まり、カメラの記録媒体をスマートフォンに移してたった今撮影した映像を確認したのだ。
しかし、映像にはクレーンゲームに興じる少女を覆うように、不気味なノイズが走っていた。
ただノイズが入ったというなら、機械の故障かもしれない。だが、映像のノイズは被写体の少女だけをきれいに覆っている。
盗撮を始めてからの期間は長くないが、こんな映像を撮ったのは初めてだ。
一体どうすべきなのだろうか。
ひょっとすると、心霊動画というやつだろうか。
だとしたら、寺か神社に持ち込むべきか?
そんなことをしたらオレのしたことがバレてしまう。
だが、それでもし、祟りのようなことが起きたなら?
どうすべきか悩んでいた時、背後から声がかけられた。
「おじさん、見えるんでしょ?」
振り向かなくてもわかる。
あの少女だ。
「ねえ、おじさん?」
だとすれば、後ろにいるこの少女は、生きた人間ではない、ということだ。
それなら、手段は一つ。
オレは全力で駆けだした。
人々を書き分けながら、とにかく遠くへ。
あの少女は浴衣姿だから、走っても追いつけないはずだ。
ずいぶん走ったあと、オレはようやく立ち止まった。
歳のせいか、すっかり息が上がっている。
膝に手をついて弾んだ息を整えていると、目の前に草履を履いた足が立ち止まった。
***
「つまり、彼女の声には1/fゆらぎがある、と言われてるんです」
「うーん、樋口杏奈って声が特徴的だとは思ってたけど、そんな理由があったとはね」
日向と薫が声優談義をしている脇で、孝美はかき氷をつついていた。
「ねえ、孝美は好きな声優とかいないの?」
「僕? あー、まあね。特に興味はないかな」
興味がないというのは本当のことだ。
そもそも、孝美はそこまで注意してアニメや映画を見たことはない。
「あーあ、わかんないかなあ……」
「分からないよ、君みたいなのを声フェチって言うんだろ」
孝美が一言で切り捨てると、薫はうーん、と唸った。
「あたしなんかまだまだだよ。そもそもフェチじゃないし」
「じゃあフェチの基準ってなんなのさ?」
「それは……一種の特殊性癖ですから……」
日向が困ったような顔をした。
少し意地悪だったろうか、と思って、孝美は近くの露店を指した。
「ま、この話はおしまい。焼き饅頭食べようよ」
「お、いいね」
「食べましょう」
二人の賛同を受けて、露店に向けて歩き出した時だった。
三十代中頃だろうか、ジーパン姿の男が人混みをかき分けるように走ってきた。
急なことで裂けきれず、先頭を歩いていた孝美は男と衝突してしまう。
「あ痛っ!」
「ごめん、君……」
男は孝美を助け起こそうとして動きを止めた。
肩越しにさっきの幽霊少女が立っているのが、孝美の目にはっきりと見えた。
***
目の前に立った足を見た瞬間、オレは反射的にきびすを返していた。
再び、人混みの中を懸命に走る。
どうしてあの子はオレの動きについてこられるんだ?
浴衣で走るなんて、できるわけがないだろうに……
いや、幽霊だから関係ないのか?
変なことを考えていたせいだろう、オレは目の前に突如現れた高校生らしい少女に気付かず、ぶつかってしまった。
反動を殺しきれず、その場に尻餅をつく。
すぐに立ち上がり、少女を助け起こそうとした、その時だった。
背後に気配が立った。
目の前の少女が表情を次第に険しくしていく。
「おじさん、鬼ごっこはもうおしまい?」
背後からの、声。
「さすがにもう、逃げられないよね?」
冷たい手が、首筋に触れる。
「おじさんの、負けね」
体から力が抜ける。
「あの、顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」
少女の連れだろう、別の少女が二人、駆け寄ってくる。
その内の片方、メタルフレームの眼鏡をかけた少女がオレの左手に視線を留める。
「あら、それは……?」
逃げなくては。
だが、逃げられない。
体に力が入らない。
「トッキー、荒木、ちょっとこの人を道端まで運ぶから、手伝って」
最初にぶつかった少女が連れの二人に声をかけた。
「この人、さっきの子に憑かれてる。いちおう祓っておいた方がよさそう」
***
男を道端に移動させた孝美は、鞄からお札を取り出した。
師匠に力を込めてもらった、魔祓いのお札だ。
「念のためにと用意してたけど、まさかここで使うことになるとはね」
言いながら、さらにもう一つ、紙包みを取り出し、封を切る。
中身は塩だ。
これも師匠の祭壇で一晩清めた岩塩だ。
男の背にしがみついている少女に向けて塩を振りかけると、お札を挟むように両手を合わせる。
「ここは君のいるべき世界じゃない……行くべき場所があるはずだ……」
ささやくように、少女に語りかける。
「君は……いつまでもこんなところにいてはいけないんだ……」
何度か話しかけると、少女が口を開いた。
「あなたも、見えるの?」
「うん、見えるよ。しっかり見えてる。かわいい浴衣だね」
孝美が浴衣を褒めると、少女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「わたしね、淋しいの。一人じゃ、行けない……」
少女の笑みが陰った。
「だから……ついて来て」
少女が男の背から離れて、孝美に近付いてくる。
「だめだよ。僕はそっちにはいけない」
孝美は手にしていたお札を少女に向けた。
その途端、少女の体が燃え上がり、絶叫がほとばしる。
だが、日向も薫も少女の姿は見えず、絶叫も聞こえていないようだ。
「やれやれ……僕は姉さまに全てを捧げてるんだ。君についていくわけにはいかないんだよ」
孝美はうんざりしたようにため息をついた。
やがて、炎と共に少女の姿がかき消える。
「助かった……のか?」
男がたずねてくる。
「まあ、ええ」
孝美はあいまいに答えた。
今のはあくまで追い払っただけだから、少女はまだこちらを彷徨っているのだろう。
波長が合えば再び取り憑かれる可能性はある。
だが、それは言わなかった。
不安がらせるだけだ、と思ったのだ。
「さて、と。これで祓いはおしまい。それじゃあ気を取り直して、焼き饅頭、食べようか」
孝美はくるり、ときびすを返した。
入れ替わるように日向が男の前に立つ。
「……トッキー?」
訝しむ孝美。
日向は気にした風もなく男の左手を持ち上げた。
「これ、どういうことですか?」
男は観念した様子でうなだれた。
孝美は気付かなかったが、どうも男にはやましいところがあるようだった。
「やはり、見つかっていたか……。警察に自首することにするよ」
「ええ、ぜひそうしてください。でなければ何度でも、あれは来ますよ」
日向の脅しが利いたのかどうか。
男は肩で息をしながら立ち上がると、よろよろと駅の方に向かって歩き出した。
「さて、それでは私たちは行きましょうか。えっと、焼きそばでしたね」
「違うよトッキー。焼き饅頭」
「あーでも、焼きそばもいいよね」
孝美たちは気分を取り直すかのように、露店の方に歩き出した。
八木節祭りの熱狂は、これからが本番だ。