22.- 24.(終わり)
22.
窓の外が明るくなり始めてしばらくしてから大沢は湖山のマンションを出た。湖山と顔を合わせるのが嫌だった。人通りのない早朝の道を駅の方へ歩いた。時間を稼ぐようにゆっくり。そして、もしかすれば、大沢がベッドの隣にいないことに気づいた湖山が、自分を追いかけてきてくれるかもしれないという希望もないわけではなかった。ほとんどありえないことでも、期待する。それを人は希望と呼ぶだろうか。馬鹿みたいだけれど。
改札を通る。階段を一段一段踏みしめて上り、降りる。電車が入線するとアナウンスが告げる。顔を上げれば、線路の向こうに大きな看板広告が並んでいる。『ザ・セブン・シーズ VIII』の広告は、8の字を横に倒し
「There's No Infinity(無限などない)」と煽り文句が書かれている。
大沢は思う。
「And no eternity──そして永遠もない。」
この世に、無限とか永遠とかいうものがあるとすれば、それを愛だと人は言いたがるけれど、無限も、永遠もこの世にはない、それも真実のような気がする。どちらにしろ、自分という人間の存在やその愛については、何ひとつ考えたくない。と大沢は思った。
朝早いフロアはまだ廊下も電気がついていなかった。リノリウムを鳴らす大沢の靴音が薄暗い廊下に響いた。廊下の電気を点けるスイッチを押すとそれは静か過ぎる廊下にカチリと鳴る。明るくなったからなのか、大沢の思考にもほんの少し明かりが差したように、今日一日をなんとかやり過ごそう、という気力が少しは沸いたように思う。
事務所に一歩入ればカーペットが大沢の足音を吸い込む。つい今しがたまで何とかやり過ごそうと思っていた気力が急にしぼんだように感じるのは、足音が消えたと同時にまるで自分の存在そのものがこの空気の中に泡のように吸い込まれてしまったような錯覚を起こしたからだ。
事務所の片隅にあるコーヒーサーバーでコーヒーをセットする。家のものよりもずっと大きい珈琲フィルターをドリッパーに広げる。本当なら湖山の部屋のキッチンで、手のひらサイズのフィルターに、山盛りのスプーンで二つ入れている時間だ。大沢は濃い目のコーヒーが好きだけれど、湖山はいつも苦いというから、湖山の珈琲カップには温めたミルクを半分入れる。
『苦いんだよな・・・』
『朝だから濃いのがいいんじゃない?』
『苦い・・・』
『コドモみてー・・・』
『うるさい』
それまでにもう何度だってふたりで朝を迎えたのに、初めて肌を重ねた日のその朝、湖山と交わした会話を反芻する。あの時、もっと早く言ってくれれば良いのに、と言い掛けて止めた。コーヒーの濃さを、好みの違いをそうやって言いあうことの関係性の深さを急にひどく大事なものに思った。あれは、寝なければ交わさなかった会話だった。そんな些細なことさえ、ふたりだけの物だと思えた瞬間があった。
コーヒーが入るのをぼんやりと見つめていた大沢は中年女性の「おはようございます」という声に急に現実に戻った。生真面目な顔をした中年女性は小さな会釈を二度ほどしてから事務所内に踏み込み、その後を少しふてぶてしい感じの中年女性がひとつ会釈をしてしわがれた声で「おはようございます」と言って入ってきた。大沢に朝の挨拶をした以外は、おそらくいつもの朝と変わらぬ手順だろう、一人はデスクの下のゴミ箱を集めて、もう一人は掃除機を掛けていく。
大沢は自分のデスクに腰掛けて、ぐっと背中を伸ばした。図らずも腕がマウスにあたり、ゆっくりと色を変え始めたスクリーンセーバーが急に動きを止めていつものデスクトップを見せる。大沢はのんびりとインターネットを開いた。
そのうち、ぽつぽつと社員も出社し始める。何かを取りに来て急いで外出する者、朝からあちらこちらへ電話をかけて打ち合わせをしている者、プリンターと格闘し始める者。ざわめき始めた社内の中で、大沢はやっと人心地ついた気持ちになって、PCで仕事を始めた。
背中で湖山の声を聞いた。振り向きたいような振り向きたくないような気持ちが、大沢の中でムクリと動いて、それと同時に電話がなり、まるでそれにすがるように受話器を取る。
「昭栄出版の保坂です。お世話になります。湖山さんはおいでですか?」
電話に出たのが大沢だと気づかなかったらしい保坂がいつになく物静かな声で、それでいて堂々と湖山を請う。
「お待ちください。」
大沢は自分だと悟られないように言葉短く言って三桁の内線ボタンを押した。最後の一桁をぎゅうっと押す。白くなる自分の指先を見つめた。
呼び出し音が一つ鳴って湖山が受話器を取った。我慢しきれずに湖山を振り返ると、湖山はまだ立ったまま左手はまだリュックに手をかけたままで、受話器を握っていた。まっすぐに大沢を見ている。
「ユージンさん、お電話ですよ、昭栄出版の、ホサカさんから。」
湖山は何も言わない。
「ユージンさん」
畳み掛けるようにもう一度呼んだ。
湖山は大沢から目をそらし、「はい」と短く言って外線に切り替えた。
ツーという音が受話器から聞こえる。自分がつないだ電話を湖山が取る。そして自分達をつないでいた回線が途切れる。それは日常の、極めて些細な、極めて当たり前の、極めてありふれた場面でしかないのに、大沢はもう絶望したような気持ちになって受話器を置いた。
23.
何だ、夢だ、と大沢はまた気が遠くなる。そしてまた何かを考え、思い出し、そうこうしていると夢につながっていくのだった。眠ったような、眠れなかったような夜を過ごした。一晩中考え事をしていたような気もするし、それはほとんど夢だったような気もする。記憶と、想像と、夢と、すべてが混在して、それでいてつながっているような、不思議な感覚だ。
たとえば、保坂はやはり、カウンターに頬杖をついて湖山を優しい目で見守っている。湖山の肩越しに目が合うと、保坂はまだ笑っているのになんだか挑戦的な目をしている。けれど本当は、保坂がどんな風に挑戦的な目をするかなんて知らない。彼と目を合わせたことなどないからだ。多分あったとしても、それはいつも打ち合わせ中などで、意識をしたこともない。保坂は常にビジネスライクで湖山を挟んで保坂と向き合うときに彼と目が合うことなどない。それでも、夢の中の保坂はとても挑戦的に大沢を見つめる。湖山は笑っていたはずなのに、どういう訳か大沢に背中を向けていて、いつの間にか保坂の腕の中にいる。湖山は目をつぶっているのだろうか、目を見開いているのだろうか、そんなことをぼんやりと考えていると、大沢は坂を上っていて、坂をめぐる壁の大きな石をみて、ああこれは城壁だと大沢は思う。この上に大きなマンションが立っていて、湖山が待っているはずだと思う。それからまた気づくと、大沢はマンションのドアを開ける。誰もいない部屋をひとつひとつ巡る。最後の部屋にアルバムがあって、陽子がウェディングドレスを着て笑っている。それを一枚一枚繰って陽子の写真をはがしていく。アルバムはいつの間にか卒業アルバムになっていて、自分の写真がいつまでも見つからない。最後のクラスまで確認しても、やはり自分はいなくて、もう一度一組に戻ると、一組のクラス写真が貼ってあり、保坂と湖山が肩を組んで笑っている。大沢は「そうだ、あいつらは昔から仲が良かったな」と夢の中で思う。不意に景色が変わって、学校のレンガ色の廊下を湖山が一人で歩いている。あ、今なら一人だ、と夢の中の大沢は思って、湖山を追いかけるのに、いつまでも追いつかない。それで泣きたくなると目が覚めた。
ベッドの横は空だ。
これまでならこんなときに行くあてなんてあるはずがなかった。でも今は湖山にもそんな場所があるのかといやに落ち着きはらっている自分に気づく。
スマートホンをタップした。朝、4時。湖山の番号は指先ひとつでかかるのに、大沢はわざわざ一桁、一桁を確かめるように人差し指で番号をたたいた。大沢はスマートホンを耳に強く当て今に呼び出し音が途切れて湖山が「もしもし」というのを待ったが、呼び出し音は鳴り続けた。まるで根気比べのような呼び出し音は途切れて「お出になりません。」と女性の声が言った。大沢はリダイヤルを押した。もしこのまま湖山が出ないなら、それは、番号間違いだったと思うことにしたらいいと大沢は思った。けれど今度はほどなく呼び出し音が途切れる。
電話に出た湖山は何も言わない。何も言わないから電話が正しくかかったのかどうかは本当は分からない。けれど電話の向こうに静かな息遣いがあって居住まいを感じさせる空気が伝わって、大沢は確かにそこに湖山がいると信じることができる。
「保坂さんにかわって」
思いの外穏やかに響いた自分の声が己を勇気付けた。「一緒じゃない」という言葉を期待している自分はもういなかった。
電話の向こうで物音がして「はい」と湖山ではない男が答える。
「保坂さん、話をしましょう。」
「いいよ。どこに行けばいい?」
保坂は落ち着いていた。まるで次の打ち合わせの日程を調整しているみたいな錯覚に陥るくらいに。
話をしましょうと言ったのは自分なのに「何を話せばいいんだろう」と通話を切りながら大沢は思った。
24.
都心の真ん中に小さな森がある。小さな森の中にまるでその森をかばうようにホテルは建っている。大沢は分厚い絨毯を踏みしめながらラウンジに向かっていた。一人の男をめぐる男同士の鞘当に都心のホテルのラウンジを指定してくるような保坂が信じられない。どんな風に恥をかかせてやろうか。そしてもう何度も繰り返した問いを胸のうちでまた繰り返す──湖山は、もう──
坂になった庭園を見下ろすように窓の方に向いたソファ席に案内されるとそこにもう保坂は足を組んで寛いでいた。小さなテーブルを挟んで保坂の座るソファと斜に向かうソファにわざとどすんと腰をかけると保坂は庭園を向いたままで笑った。何が可笑しいのだ、大沢はこちらを見ない保坂を睨みつけて、けれど同時に腹立ち紛れにそんなガキくさいことをした自分にも腹が立った。
「単刀直入に言いますけど、湖山さんを返してください。話がしたいって俺、言ったけど、話なんかそれ以外になかった。」
窓を向いていた保坂が大沢を振り向いた。その顔にはいつもみたいにどこか人をからかうような笑みは浮かんでいなかった。どこまでもまじめに、けれど緊張しているという風でもなく、大沢はまるで初めてこの男に会ったような気がした。そしてこれがこの男の本当の姿なのだろう。
「そう。じゃ、俺も、単刀直入に言いますけど、君に渡すつもりはない。そもそも、君のものだったとも思わない。」
陽の光は空の青さを届けていた。人々が歓談するロビーラウンジの窓際のソファ席にその光はやさしくまろやかに差し込んでこんな風にまっすぐに逃げ出すことなく誰かを思い続けて来た男を抱くように包んでいた。この光の中にいることを許されているのはきっと彼だけだ、自分ではない。
かなわないのだろうか。
もう、かなわないのだろうか。
あんなふうに逃げ出して、愛する人から目を背けようとするような男だから。
あんなふうに酷く、愛する人を抱くような男だから。
早く夜になればいい。夜の帳なら隠してくれる、何もかも。自分の愚かさも、自分の狡さも、自分の汚さも。光のない帳の中でならきっとこの男を見ないでいられる。この男を見て自己嫌悪に苛まれることもなくなる。
陽の光は空の青さを届けていた。ロビーラウンジの窓際の席まで。青い革に刻んだ愛しい人の名が脳裏で歪む。零れない涙が記憶の中で滲んだ。
終わり