13.-15.
13.
どうやら機嫌は直ったのだろう、と湖山は思っていた。久しぶりに、そして当然のようにふたりで帰路に着いた。昭栄出版の応接室を出てから多分一度も口を利かなかったけれど、それでもふたりの足は「どうする?」という戸惑いの欠片のひとつもなく粛々とこの部屋へ向かったのだ。玄関のドアを開けて、シャワー…と言い掛けたその時にはもう湖山は大沢に捕まっていた。貪るという言葉が思い浮かんだ。悪くない。だから湖山は「そうか、こいつはやっぱり機嫌が悪かったんだ。」その理由を自分を抱けなかったからだと考えた。単純な男だなとも思った。思い返せば大沢の機嫌が悪くなったのは、保坂と飲みに行った日からなのだ。たかが同級生が大沢の知らない湖山との思い出話に花を咲かせたからと言ってヤキモチを焼くほどのことだろうか。そしてその考えは本当に少しも悪い気分ではない。
十も若くたってあんだけ張り切ればそりゃぁ疲れるだろう。疲労感の見える大沢を横目に卵を割る。今日はいい日になりそうだ、と思った。二つの卵の黄身が綺麗に、微笑むようにフライパンの上でぷるりと震える。
そんなことよりもこの腰だ。
* * *
『昼飯一緒に食おうぜ』という噴出しの下には大きなハンバーガーセットのイラストがあった。「いい年して」とつぶやいて「通話」をおした。呼び出し音は二度も鳴らずに編集室のざわめきとともに「後で折り返すー」という怒鳴り声が聞こえた。湖山はおっと!と急いで電話を切ったがすぐに掛かってきた電話で保坂は
「なぁんで切るんだよー!」
などと言う。
「え?折り返すって言ってたから忙しいのかと思って」
「それはこっちじゃない、あっち。」
「あれとかそれとか、じじいだな。」
「思い込みが激しいのもじじいだぞ」
「でもあの場合は…」
「俺はいつだってお前が優先!まぁいいよ、昼飯の話だろ?ユウジン、今日の予定は?昼ぐらいってどこにいるの?お前に合わせるから。」
「あぁ、えっと…」
ざっくりと予定を伝えると電話の向こうで保坂は「それじゃぁ…」と待ち合わせの時間と場所を指定した。「お前、慣れてんなぁ」と思ったことがつい口にでる。
「こういう仕事だからね。じゃ、11時にな。」
終了ボタンを押すまでもなく電話は切れて湖山はスマートフォンを片手に通路を戻った。事務所の前の人影が大沢だと気づいたとき、大沢は少し会釈をするようにして事務所へ入って行った。他人行儀な仕草だけれど事務所ではよくあることだ。湖山はスマートホンをパンツの尻ポケットに入れて足を速めた。
* * *
「てててて…」
階段と言うほどでもない10センチやそこらのステップだったが、ちょっとした体勢で腰が痛んだ。湖山のほんの一歩後ろにいた保坂は訝しげに湖山を見て、それから大きな声で笑った。
「じじいって、やっぱお前のほうじゃねえか。機材重いんだろ。貸せよ」
「や、違・・・」
「何が違うんだよ、ほら、貸せって」
「いや、だから違うんだって。これは、その…」
保坂は荷物を奪うように持って先に行ってしまった。所在ない手をぶらりと下げて保坂の後に続く。大きなたて看板に今日のオススメメニューがイタリア語だかフランス語だかで書かれていた。湖山はちらりとそれを見て先に店内に入っていく保坂を追った。
「なんか洒落た店だな」
と湖山はできるだけそっと周りを見回した。
「意外~、みたいな顔しやがって」
「はは…そうじゃねえけど、ハンバーガーじゃなくて良かったよ」
「ハンバーガー?なんで?俺、ハンバーガー好きなイメージ?そりゃあ金がない高校生の頃はな。」
「そうじゃなくて、LINEのスタンプ?っての?あれが…」
「あぁ、あれか」
と保坂はどうでもよさそうに頷いた。フランス語の下の小さな日本語を目で追う。よく分からない、そう思ったとき、保坂がメニューを人差し指でトントンと叩き、目を落としたまま
「腰、大丈夫?」
と湖山に尋ねた。蒸し返されると思ってもいなかった湖山は面食らいつつも「あぁ」となんでもないのを装って答えた。保坂は顔を上げて湖山を見てまたメニューに目を戻した。
「大沢くんは今日は?」
「え…?は?なに、なんで?」
「なんだよ、ユウジンどうしたの、大丈夫か?」
「や、急に大沢の話なんかするからびっくりして」
「・・・なにかおかしいか?だっていつもマネージャーさんみたいにくっついているじゃないか。ユウジンのアシスタントなんだろ?今日は一緒じゃないの?」
「あー、あぁ、そう…。そうか、うん、あいつも最近はアシスタントばかりじゃなくて…」
「なぁ、何でもいい?このコースってちょっと気になるんだよ。おまえもこれでいい?」
「おまえ、相変わらず人の話聞かないやつだな」
「聞いてるよ。大沢くんはお前のアシスタントについているばかりじゃない。いつも一緒って訳じゃない。」
保坂は少し間を置いて「そう言ったんだろ?」と湖山の目を見て(ほら、聞いてたろ?)とでも言うように得意気に言った。
「あぁ、うん。」
何か大事なことが置き去りにされているような気がする。でもそれは湖山だけが感じていることのはずだった。高校時代からの友人に伝えていない何かがそこにあると自分だけが知っているから。
「…る?おい、ユウジン、なぁ、なんにする?」
「え?だからコースだろ?」
「そうじゃなくて、飲み物だよ。昼間からワインなんか飲まないだろ?飲むなら付き合うよ、もちろん。」
「あぁ、あー…じゃぁー…アイスティー、にするかな。」
「食前?食後? あ、すみません、こっち」
「しょく・・・」
「コースふたつと、ユウジンどっち、前?後?」
「・・・どっちでもいい」
「どっちでも?じゃぁ・・・前でもいい?」
「いいよ。」
「アイスティーとアイスコーヒー、食前に。はいそう、どうも。──なぁ、もし時間があったらその先で食後の珈琲を飲んでいこう。もちろん食後の紅茶でもいい」
それから週末の予定を決める。ぐいぐいと引っ張るように予定を決めていくけれどけして強引すぎるわけでもなかった。旧知の仲だからなのか、どこはどうやって勝手に進めてもいいか(進めてもらったほうがいいのか、とも言うかもしれない)どういうところは湖山が気になるのか、保坂はよく分かっているのだろう。『こういう仕事だからね』と保坂は言っていた。ひとつのものを作り上げるときに多くの人が関わり、それぞれの人と深く関わらなければできない仕事だ。そしてそんないろんな人達の足並みを綺麗にそろえて最後にひとつのものを作り上げる、そのトップに立つ人間だからなのか。そうなのかもしれないと思う。
自分にはできない。自分にできるのは自分に与えられたことを納得の行く形で仕上げる、ということだけだ。そのために妥協したくないこともあるし、その出来ひとつで一喜一憂したりする。それ以外のことは割とどうでもいい。だから彼女がいた時も言われるままにデートをしたし、大体いつも「なんでもいいよ」と言うから「あたしのことだって『なんでもいい』んでしょ!?」などと言われたりした。そういえばふられる理由っていつもそれだったような気がする。
アイスコーヒーをストローを使わずにあおった保坂の喉仏がワイシャツのカラーの上で上下した。
「お前、モテそうだなぁ」
と湖山が思ったまま言うと、保坂は
「そう思う?」
と言って笑った。
14.
週末の朝、湖山がシャワーを浴びようとおもって下着を取りに寝室に入ると、先につかった大沢は濡れた髪のままでシャツに袖を通していた。オーガニックコットンを使ったニット生地のそのシャツは、去年の秋、大沢の誕生日に湖山が買ったもので大沢は着心地がいいといって度々それを着ていた。けれどその朝、大沢は一度着たそのシャツを着替えた。大沢はブルーのボタンダウンのシャツを着て袖口のボタンをかけながら部屋を出て行った。よく晴れた秋の空のような色のそのシャツは大沢によく似合う。大沢はそのことを自分でも良く分かっていて、古く色褪せてしまえばまた同じ色のボタンダウンのシャツと入れ替える。大沢は少なくとも彼が入社した頃からその色のシャツを選んで着ていた。忘年会で酔っ払って、大沢に肩を抱えられながら「あの青いシャツは大沢くんによく似合っているよ」と言ったら、大沢はとても嬉しそうに笑った。まだまだ学生のようで、でもとても器用な新入社員だった大沢と初めて仕事以外で口をきいた夜だった。
あれからもう十年も経って、大沢はやはり青いボタンダウンのシャツを着ている。でも、彼の横顔はもうあの頃のような幼さを残していない。
一人前の会社員であり、一人前のカメラマンであり、そして
── ひとの夫だ。
いつ言い出すのだろう?週末に会うのは本当だろうか。そう思いながら自分から尋ねることはできずに一週間が過ぎて、金曜の夜にになってやっと大沢は「明日はちょっと出かける」とことのついでのように言った。
「誰と?」と訊いたらいいのか、それとも・・・と繰り返し考えたことはやはりその時にも答えを出せずに、湖山は目を逸らしたままで「俺も」と答えるのが精一杯だった。
シャワーを頭から浴びながら、湖山は大沢が着替えたシャツのことを考える。そのことに意味があるのか。深い、意味があるのか。
もちろん答えが出るわけはなく、最近はそんな答えのないことばかり考えているなと苦笑した。
本当なら一緒に出かけようと話していた週末だ。大沢はそれを覚えているのだろうか。どこも混んでいる週末の映画のチケット売り場、繁華街の歩行者天国・・・たまにはいいじゃん?と言ったら「可愛いこと言うんだな」と言ったあの時の大沢は力尽きたようにベッドに横になって額も肩も汗に濡れていた。たった数週間前のことだ。
シャワーから出てリビングに入ると、大沢はテレビの前で靴下を履いていた。ボタンダウンの立ち上がった衿、上までボタンを留めていないその襟元に男らしい首が青い影を湛えている。湖山は目を逸らすようにタオルを頭からかけてごしごしと髪をぬぐった。
手を止めて大沢がこちらを見ているのが分かる。
ほら、やっぱり。
「なんだよ」
湖山は少しぶっきらぼうに言う。
「いや、なんでもないよ。今日は遅くなる?」
大沢はまるでこの数週間が嘘のように穏やかに湖山に尋ねる。『遅くなるのはそっちじゃなくて?』という言葉を飲み込む。嫉妬深い女みたいなことをいう訳がない。
「どうかな、遅く、なるかな。」
と、壁に掛かった時計を見る。待ち合わせの時間には早い ── でももう出よう。そう思いながら、今日一日、時計を見るのを止めようと決めた。
15.
その週末が、数週間前に湖山と"一緒に出かけよう"と話していた週末だったと気づいたのは「出かけるから」と湖山に伝えた時だった。もっと正確に言うと「出かけるから」と言った時に湖山が「俺も」と答えたからだ。──『湖山さんも休みだったんだっけ…あぁ、そうだ、そうだった』
「出かけるの?」とは訊かなかった。自分がどこへ誰に会いに行くのかを言いたくなかったからだ。
先延ばしにしてきたことを今更言い訳のように並べるのも嫌だった。ただ正直にけじめの一歩を踏み出すつもりだと湖山に言えば、湖山は喜ぶのだろうか。それとも何でもないような顔で「そう?」と首を傾げるのかもしれない。言おうかなと思う、口を開きかけた瞬間にいつも、脳裏で保坂が勝ち誇ったように笑う。
『奥さんがいらっしゃるんでしょ?』
大沢はそんな考えを振り切るようにしてシャワーを浴びていた。大沢がベッドを出たとき湖山はまだ寝ていた。湖山も出かけると言ってたけれどゆっくり時間に急がされずに出かけるのだろうか。一人きりで週末の雑踏を歩いて、一人きりでファーストフードに入ってランチセットを食べて、映画を観て…?
やっぱり言おうか…。
急いで体を拭って寝室に入ったときそこに寝ていると思った湖山はもういなかった。冷蔵庫を閉めた音が聞こえる。まだ出かけてはいないんだな。なんとなく力が抜けた。大沢はタオルを首にかけたままクローゼットを開ける。一番気に入っているシャツを手に取って被った。それからやっぱり勝負シャツを着ようと思い直した。青いボタンダウンのシャツは学生時代から気に入って着ていたが、就職して湖山のアシスタントになって、普段無口な湖山が酔って饒舌になってこのシャツを褒めてくれたことがあった。「晴れた日の空みたいに青いあのシャツは大沢君にほんとよく似合ってるよ」
いつも余計なことを言わない湖山が唐突にそう言った。寒い冬の夜の息の白さ、彼の上気した頬、コート越しに感じる彼の骨格の薄さ。気難しげに見える彼の笑ってしまうほど素直な無邪気な言葉。彼のたった一言で、そのシャツは大沢の一生もんになった。色が褪せて袖口が傷んであれから二度程買い換えたけれど同じブランドの同じブルーのボタンダウンのシャツを買った。馬鹿みたいにそのシャツを大切にした。
大事にしたい。湖山を大事にしたいと思う。
自分にはそれができるんだろうか。─── 。 いや、それでも。
勝負シャツのカフを止める。心に決めたことをもう一度確かめるように。
その時、ペットボトルの水を手にした湖山が入って来てキャビネットの中のアンダーシャツを掴んだ。それから手にしていたペットボトルを少し掲げて「飲む?」と大沢に尋ねた。「いや」と答えて、今から出かけることをなんて切り出せばいいのか考えているうちに湖山はシャワーを浴びに行ってしまった。
いざ言おうと思うとどう言えばお互いに気まずくならないのか分からない。けれど、「遅くなるかも」と言った湖山が時計を見ながら支度を始めたのを見たとき大沢は胸がざわざわと落ち着かずに、言い出すきっかけなど永遠に来なくていいという気がした。