7.~9.
7.
陽子の思わぬ返答に呆然として、その後どうやってここまでたどり着いたのかはっきりと覚えていない。
見た目はまるでプロレスラーか柔道家のような男がオネエ言葉でしきりに先月別の店のゲイナイトで起きた事件を面白おかしく話していた。大沢の隣に座った細面の男は歯並びの綺麗な口を大きく開けて楽しそうに笑っている。女のような顔だ。肌理が細かい白い肌。整えられた眉は割合としっかりしている。二重瞼がくっきりと綺麗で、鼻の形も整っている。大沢に気があるらしくハイテーブルの下でそっと大沢の膝に手を乗せていた。空いた左手でダイキリのグラスのストローをくるくると弄りながら、時折ダイキリを啜って上目遣いに男を見上げる。わざとらしい媚態だけれど、これくらい擦れた男の方が後腐れがなくていい。
オネエ言葉のプロレスラー男が立ち上がってカウンターへ向かうと、膝に置いていた手をそっと大沢の手に乗せて、男は「ねえ」とあからさまに誘った。
強かさを魅力にしたような雰囲気がどこか陽子に似ている。腹立たしくてつい眉を顰めた。
『何言ってるの?別れないよ?』
あの答え方は、まるで、いつか大沢がそれを言い出すと分かっていたようだった。この結婚生活の破綻をいずれ決着をつけなければならぬものと二人ともが同じように考えていると思っていたのはまるで見当違いだったということになる。
(あいつはなんで結婚したんだろう?)
今更そんなことを考えた。結婚しようと言ったときのことを思い起こすと、彼女が何を考えていたのかなんて少しも考えていなかったことに思い当たる。普通の男なら、プロポーズをして断られたらどうしようとか、いつプロポーズをしようとか、いろんなことを考えるのだろうか。想っても想っても届かない恋愛に疲れ果てていた大沢には、「結婚」なんて努力さえすれば自分に成し遂げられるたったひとつのことのような気がしていた。
「おかわり、もらいに行く?」
薄手のパーカーの袖を指先まで伸ばして男は頬杖をつき、大沢のグラスを指差して小首を傾げた。そんな仕草もなぜかこの男には似合うようだ。
中性的な男は実はあまりタイプではない。大沢は女とも寝るけれども、どちらがどちらの代わりということはないし、どちらかと言えば男を好む自分の性癖を隠すために(多分自分自身をも騙すように)女と寝るようなところがあった。
でも今夜はこういう男もいいと思う。
あの女のことを考えながら男を抱くというのも、悪趣味でいい。
一度そう思えてしまえば、大沢は簡単につっこめそうなその男に魅力的な笑顔をひとつ見せて、瞳だけで「あっちへ行こう」と唆した。ホテルまで行くのも馬鹿らしいが、こういう店の個室は大概混んでいる。タイミングが合えば個室でいいし、だめなら近場の小汚いホテルのどこかに時化こもう。
相手の男はニヤリと笑った。大沢はそれに答えて笑う。ふたりは無言でジリジリと後ずさりをするように細い通路に体をねじ込みながら個室を伺って行った。
手馴れた様子で男は大沢のボタンダウンシャツの前を開けていく。女のような細い手と指が大沢の脇腹に潜り込んだ。男の身体にぴったりとしたカットソーシャツを腰の上までたくし上げて、大沢は大きな手で彼の背を摩っていた。首筋を這う大沢の唇が音を立てると、男はいやらしく声を上げる。
(本当に女みたい…)
女と寝ていていやなことを全部やりそうな男だ。そう思うと少し興ざめする。
記憶の中の陽子が白い首を見せて背をそらせる。彼女と初めて寝たのはいつだったろう。そして最後に寝たのはいつだったろう。
真っ白なドレスを着た陽子のサテンのブライダルシューズのつま先。足を入れたときの陽子の笑顔。赤い絨毯の上をゆっくりと歩いてくる陽子の、顔はベールの下で見えなかった。女なら誰でもいいと思った訳ではない。女と結婚するのなら、こいつ以外にはいないと思ったのだ。いまでも、そう思っている。
賢しげな目。常に口角の上がった口元が感情のすべてを隠そうとする。手入れの行き届いた手と爪。笑うと目尻に少し寄る皺も、陽子は気にしていたけれど大沢は嫌いではなかった。愚痴っぽくなく、気が強く、でも大沢を頼りにしてくれる可愛さも持ち合わせていた。
彼女の伏せた睫の黒々とした光、チャペルに鳴る鐘の音、薄くドアが開いたときに差した光の筋、ドアの外に唸る人々の歓声。
『大沢ッッ!!!』
大沢のデニムのポケットでスマートフォンが鳴った。狭い個室にブーンと羽の唸るような音が案外大きく響く。そのことに気づいた男は大沢のデニムのポケットの外からスマートフォンを抑えて意地悪そうに笑って言った。
「イイとこだから邪魔しないで、って言って?」
と男は言った。
大沢はフフンと笑って男のハーフパンツのジッパーを下ろした。
男は自分から片足を抜いて、大沢の首に腕を巻きつけ、艶と微笑む。まるで娼婦のようだ。スマホが唸るのを止め、大沢の唇はもう一度男の首を這い始めた。だがその唇も程なく止まる。
大きなため息をひとつ吐いて大沢は長い前髪を大きな手で掻き揚げた。
「やめた!」
「はぁ?」
大沢は男を置いて個室を出て行った。
行くあてもなく店を出る。こんなことが前にもあったな、と妙に懐かしく思う。忘れていたんだなと気づく。迷いながらも平穏だった時代も、あんなに辛かった恋の歴史も、逃げることにばかり力を注いだ日々も、いつかの自分のものだったのだと思い出す。
8.
腰を浮かしかけて、力が抜けたように湖山は椅子に腰を落とした。あの大沢の睨みつけるような目に気づいていない訳がない。それとも気づかなかったのだろうか。そういや保坂はそんなところがあった。試験ごとに廊下に高成績者が貼りだされるような進学校で保坂を知らない人はいないくらいいつだって彼の名前が上位にあった。一方保坂は誰が自分とともに上位を陣取っていても一向に気にしない性格でクラスも違う生徒から一方的にライバル視されて廊下でジロリと睨みつけられたって気になるのはいつも保坂の周りにいる自分達だけだった。
カウンターの小さな椅子から立ち上がって、保坂は背を向けて歩き出そうとした大沢に手を差し出した。握手を求められたことに気づいているのかいないのかあるいは無視を決め込んでいるのか、大沢は保坂を振り向いただけだったが、保坂はその大沢の手をほとんど掴むように取って、ぶんぶんと一振り、ふた振りして手を離した。その時に湖山の肩にほんの少し体重をかけるようにして身を乗り出していたのを「ごめん、重かった?」と労わるように肩に手をかけて小さな椅子に座りなおした保坂は湖山の目を覗き込んだ。
重かったのは、そっちじゃなくて。
『奥さんもいらっしゃるんでしょ?』
『結婚してるってきいたけど──』
「湖山?なに、ほんとに重かった?痛かった?どこが痛い?肩?」
「え?いや、平気。平気。なんだよ、気持ち悪いな。お前が優しいと気持ち悪いよ。」
茶化すように言って、湖山は保坂から目をそらした。横顔に、様子を伺う保坂の視線を感じた。気づかない振りをした。そうでなければ、今自分が抱えているいろんなものを、たやすくこの男に渡してしまいそうだった。
「変わらねぇなぁ、」
と保坂はやっと身体ごと前を向く。割烹服の若い男が板長の声に威勢よく答えていてカウンターの中で忙しく立ち働くのを目で追って、保坂は
「生、ジョッキでもうひとつ!」
とジョッキを掲げた。それから湖山のジョッキを指して「同じでいい?」と尋ねる。
「にいさん、ジョッキもうひとつね!」
まだ答えてもいないのに。湖山は「変わらないのはお前だよ」とつい笑った。
「何が?」
保坂はジョッキをぐいっと飲み干してモダンなフォルムの塗りの器に残った枝豆を手にした。ポツリポツリと口に放りながら、片腕をカウンターに預けて湖山を振り向く。そして目を細めて
「変わらないわけないか」
と言った。
そうなんだろうか?
「変わったとか、変わらない、とか。訳が分からない」
ほとんど独り言のようにつぶやいて、枝豆がひとつ、ふたつ、みっつ・・・と数えてみる。待てよ、あの殻の中にふたつこの殻のなかにはみっつ、それでこの殻には・・・そしたらこの場合、残っている枝豆はいくつってことになるんだろう。
「湖山、結婚は?」
唐突な質問に湖山はぼんやりと顔を上げた。
「ケッコン?」
「招待状ももらってないし、そんな話も聞いたことないけど、結婚、したの?それともバツがついてる?」
「ついてない、ついてない、結婚──してない。」
「俺も~!したことなぁい。」
「したことないって・・・」
湖山が笑うと、保坂も笑った。
「よくバツイチとかひどいとバツが二つくらいついてるかと思ったーとか言われるんだけど」
「あぁ、確かにね、お前は落ち着いた感じがするから。そう言われてみると高校の頃だってバツがひとつくらいついてそうな感じだった」
「ひでえなぁ。そうか、そうか、俺、そんな色っぽかったか?」
「は?なんでだよ、色っぽいなんて話、してないだろ?」
保坂は微笑みを湛えて黙った。
「はい、ジョッキふたつね」と板前特有の少し赤みのある白い腕がぬっとジョッキを差し出す。保坂と湖山はおのおの受け取って、保坂はよく冷えたジョッキを気持ちよさそうに煽った後に、
「あ、ちょっと飲んじゃったけど、乾杯しよう。『花の独身貴族に』」
とジョッキを持ち上げた。
「独身、貴族に。」
湖山も繰り返した。持ち上げたジョッキの重さ。もう飲みきれない気がする、と少し思う。
9.
単純な作業をしていると眠気が襲う。そうかと言って集中力を要する仕事を今日はどうにもできそうになかった。大沢は両腕を上げて背筋をボキボキと鳴らして伸ばすとまた作業を開始した。
通りに面した大きな窓から燦々と入る陽光が眩しいくらいだった。大沢は作業中の手を止めてブラインドの角度を少し変えた。打ち合わせスペースの空間に満ち満ちていた光は半開きになったブラインドから筋になって床に柔らかく落ちている。穏やかな光のなかで単純な作業を繰り返すのは、色々な絵の具を掻き混ぜて黒を作る作業のように大沢の胸にとぐろを巻く影を作る。自分で作り出していく色をどうにかしようとしてまた次々と色を足してどうにもならなくなっていく。こんな仕事をしているけれど、そういや図工や美術でいつも絵画が苦手だったのだ。
スペースの出入り口でコツリと音がする。パーティションの脇に身体を半分預けるようにして湖山が立っていた。大沢は一瞬手を止めて湖山から目を逸らすのと同時にまた手を動かし始めた。それから湖山を見ずにつとめていつもと変わらぬ声で
「どうしました?」
と尋ねた。
「ここ、いい?」
湖山はパーティションから一歩踏み出し、大沢の向かいの椅子に手を掛けた。
「どぞ」
大沢は手を止めずに答える。
「昨日・・・・」
と、湖山が遠慮がちに口にする。大沢はその続きを待つように一度湖山を見て、すぐまた手元に目線を落として作業を続けた。
「何?」
続かない言葉の端に、駒を置くように大沢が尋ねると、湖山は
「あ、うん。いや。なんでもない」
と濁してしまった。
本当は分かっている。彼が何を尋ねようとしているのか。そして、なぜ、尋ねられないのかも。
── 『昨日、どこに泊まったの?』
湖山にそれを言わせないのは、大沢のせいだ。それでも、身勝手に大沢は訊けばいいのにと思う。『俺のこと一人にして、どこ行ってたんだよ?』と、自分を詰ってくれたらいいのに。湖山がけしてそんなことを言わないと分かっていてそう思った。
盗むように湖山を見やれば、湖山の目は赤い。
眠れなかったのかもしれない。
そう思うと少しだけ救われるような気がした。
持たない間を誤魔化すように湖山は大沢の作業に手を出した。咎めるように湖山を見ると苦笑いをして「俺もやる」と小さく、けれどはっきりと言い切って大沢から目を逸らした──多分それは目を逸らしたのではなかった。手元を確認しただけだ。だけど自分に疚しいことがあるから「目を逸らす」なんて思う。本当に目を逸らしたいのはこっちだった。
意地でも、と大沢は思う。口を利いてやるものか、と。黙々と作業に打ち込んで、でもやはり耐えられずに大沢は必要以上に物音を立てながら湖山に言った。
「自分の仕事は?」
「『先輩』の仕事なんか気にしなくていいんだよ」
「・・・・そ?」
そしてまた沈黙が襲う。かさこそと紙のなる音だけが響いた。電話が鳴る。事務所の電話に応えた誰かが「湖山ですね」と確認する声が聞こえた。
「電話みたいですよ」
「うん」
湖山が立ち上がりかけ、電話に応対した事務員が湖山を呼ぶ。
「ユージンさーん」
そして、電話の相手が昭栄出版の保坂編集長だと告げる声が届いた。やりかけている作業をやりきろうかどうしようかと躊躇いがちに手を止めた湖山を見やると、大沢の不穏な空気を読み取ったのか湖山は戸惑ったような表情を見せた。それをみると胸の奥から沸々と意地の悪い気持ちが湧き上がる。
「電話ですよ、ユージンさん?」
わざとらしく呼んだニックネームに、湖山はほんの一瞬間をおいてそれから噴出すように笑った。作業途中の紙を大沢に押しやりながら打ち合せスペースを出て行く。大沢がふざけたとでも思ったのだろうか。
でもきっと、それでよかったのだと思う。分かっているのだ、こんなこと、いわれもないことで嫉妬されて八つ当たりされて湖山が可哀想だと思う一方でどうしようもなく苛立つ気持ちをぶつけようもない自分が哀れでもある。
(どんな顔して電話してんだろう。)
大きなため息をついて大沢は作業中のものを片付ける。一刻も早く、この場を立ち去ることだけを考えていた。
* * *
それからの数週間、大沢は湖山と顔を合わせたくなくて、仕事にかこつけては湖山が寝入ったかなと思う頃に帰ったり、ちょうどタイミングよく海外出張に出るという陽子と入れ違いでそちらのマンションに帰ったりしていた。
”一番居たくない場所”しか選べない自分が哀れだと感じた。そしてそんな自分の幼稚さにほとほと嫌気がさしても来る。苛立ちは募る。そしてそれが堂々とめぐって湖山にあわせる顔はなく、帰る場所がない、という始末だった。
『奥さんもいらっしゃるんでしょ?大沢君、結婚してるって・・・・うちの若い連中が・・・・』
脳裏で蘇る保坂の声に知らず舌打ちをする。
大沢の脳内で保坂はやりたい放題だ。それは記憶と想像──もっといえば妄想の──織り成すもので、 たとえば脳内で保坂はワイシャツの腕を大仰に広げて「ユウジン!」と湖山を呼んで肩を組んだり、飲み屋の赤い椅子で肩を寄せるように、湖山の顔を覗き込んだりする。不機嫌に眉を寄せそうになる大沢に余裕綽々で話しかけて来たり、もっとひどいときは、自分のネクタイを緩めて湖山を抱きしめようとするのだった。そういうときの湖山はいつも後ろ姿で、細い肩をぎゅっと縮めている。恐々と、でも、逃げたりしていない。そしてどんな表情をしているのかも、背を向けられている大沢からは見えなかった。
あの男は、自分の知らない湖山を知っている。夢や希望に満ちて、反抗心に満ちた彼の青春で、彼がどんな風に足掻いていたのか。どんなくだらない冗談に笑い、どんな悔し涙をのんで、どんな嬉しさに笑顔を零したのか。自分は知らないけれど、あの男は知っているのだ。
もしも湖山が、あの男に口説かれたら。ずっと好きだったんだとかなんとか言われて、絆されたりしたら。一度でいいからなんて、抱きしめられたりしたら。
大沢には分かる。
人生の一時を過ごしたからというだけではなくて、大沢にはないものがあの男にはある。
それだからやはり大沢の脳内で保坂はやはりやりたい放題だ。
『僕ならそんなふうに君を困らせたりしないのに』
保坂はそう言って湖山を抱きしめる。
細い肩を。
襟足にかかった湖山の長めの髪の上からそのうなじに口づける。
大沢がするように。
だけれど、きっと、もっと手馴れていて、もっと優しいはずだ。
「もうやだ」
大沢は泣きたくなる。
ただの想像でしかない。
本当にただの想像でしかないのに。