序章~3.
序章
学校とビジネスビルが肩を寄せ合うような街だ。急に視界が開けて大きな門があったかと思えば、古いビルも近代的なビルも競いようにひしめき合って並んでいる。その街の一角、薄い灰色の近代的なビルの三階に昭栄出版の受付がある。編集・企画室は4階で、5階に総務部と談話室のようなスペースが設えてあったが、その客人は編集部の入り口で、菓子折りを持って立っていた。
編集二部の長を務める保坂は、しきりにキーボードを打ちながら、肩と頬で抑えた電話の内線で何か話していた。時折冗談を飛ばして笑っているところを見ると大して難しい話をしているようには見えなかったが、そうかといえば時折難しそうに眉を顰めている。
ミントグリーンのシャツにオレンジ色と灰色の縞のネクタイをしている。普通のサラリーマンにしては派手な身なりのように見えるが、編集部という部署のせいかその派手さは少しも浮いていない。黙っていると厳つくも見えそうな保坂の真面目そうな顔立ちには、柔和さを加えるようでそのシャツもネクタイもよく似合っていた。
ご多分にもれず、昭栄出版の編集部でも禁煙令がしかれていた。各階に喫煙スペースがある。喫煙室から戻った男は編集部の入り口で菓子折りを下げた男と一言二言話したあとまっすぐに保坂のデスクに向かい来客を告げた。
コンピュータースクリーンから顔を上げて出入り口を見やった保坂は立ち上がりかけて中腰のまま固まった。かつてよく知っていた男がそこにいる。保坂に会釈をした相手もこちらに気づいたらしく、男は親しげに目を細めた。
「ユウジン・・・・?」
思わず零れ落ちた懐かしい響き。その懐かしさに一瞬戸惑った保坂はすぐにいつもの、あるいは以前と同じような、調子と微笑みを取り戻して、今度こそはっきりとその名を呼ぶ。
「ユウジン!優仁じゃないか!久しぶりだなぁ!!!」
1.
一ヶ月の滞在の最後の二日間は自分のために使うと決めていた。大沢 匠は、最後の滞在地となったバンクーバーの繁華街からバスでほんの10分程、滞在しているホテルから歩いていける程の海岸沿いのギフトショップのウィンドウを覗いた。
ウィンドーに飾られた虹色に並ぶロングネックストラップは使い道が多そうだ。大沢は、目に留まった幅七ミリほどのターコイズブルーのネックストラップがある男の首にピタリと吸い付くところを想像した。男性にしては幾分細めの、伸びたままの柔らかい毛足が掛かる首筋に、革の持つ特有の油分を持ったしなやかさで、ぴとっと、くっつく。あるいは革の毛羽立った裏面が彼の首筋を擽るのかもしれない。
大沢はウィンドーを向いたままドアを開けた。
皮革製のストラップはところどころ革独特の皺を刻み、ターコイズブルーのものはその皺の部分だけが深い青色で、それは深遠な海の色のように美しかった。血の色のような赤、大地を思わせる茶色、情熱を搾り出したような濃いピンク色、夜の始まりのような紫・・・・。綺麗に並んだフックから、迷わずにターコイズブルーを選んだ。それから紫色を手に取り、少しだけ迷って、最初の自分の勘に従ってターコイズブルーにする。
『名前を入れるわよ。』
と、店員が大沢に声をかけた。長身の大沢よりもさらに頭ひとつ高い。彼のクルクルと愛らしいパーマは自然のものだろうか。
『すぐ出来るの?明日こっちを発つんだけど』
『すぐよ。30分くらい。』
『そう、じゃぁ、お願いしようかな。』
『マサヒト、M、A、S、A、H、I、・・・』
改めて彼の名前を口にすると、まるで初めて彼を呼んだような気がした。その名が彼の名前の一部であるようには思えない。恋人であった時期よりも、先輩後輩として、同僚として一緒にいた時間が長いから、彼のことを下の名前で呼んだことなどなかった。恋人になった今でも。彼を抱くベッドの中でさえ、呼びなれた上の名前を「さん」付けで呼ぶのだった。
きっかり30分、程近いカフェで時間をつぶしてギフトショップに戻った。出来上がりを確認する。レーザーで焼いた彼の名前が、海のような青に沈んでいる。
「マサヒト・・・・」
ひとさし指で、そっと撫でる。その指はまるで、恋人の頬を撫でるように、恋人の背骨をなぞるように、慈しみ深かった。焼いた文字がまるでまだ熱を持っているように感じる。彼の名前がこんなに美しい名前だったなんて、と改めて思うのだった。
小箱に入ったレザーストラップをギフトラッピングしてもらい、大沢はしゃりしゃりと鳴るビニール袋を手に店を出た。海沿いの町を走る車は街中を走る車と同じ車種でもエンジン音が違うように聞こえる。黒い大きなスポーツトラックをやり過ごして、大沢は道を渡った。砂を刷いた階段を降りて砂浜へ降りていく。長い前髪が潮風に揺れた。目を細めて地平線を見つめる。あと一晩。そしたら日本に帰れる。恋人が待っている、日本に。
2.
湖山優仁はスマートフォンの画面を確認して少し微笑んだ。青い海の写真。それを写した男の目に映る海を思い浮かべる。彼が目が映しているのは、その海の地平線の向こう──今、自分のいるここなのだという自信があった。たったの一言の言葉もないLINEに、彼の気持ちはちゃんと伝わってくる。目の前にいるときは惜しみなく言葉を尽くす男なのに、彼は好きだとも愛しているとも文字にしてくれたことがない。それでも離れているときはたまにこうして送られてくる写真が、彼の伝えたいすべてを語っていると湖山は思う。多分自分だって同じように、いや、それよりも、湖山はこれまで彼に自分の想いを言葉にして伝えたことがあったろうか。
(バンクーバー、か。いいな。今度一緒に行こうって言ったらあいつなんて言うかな)
それからもうひとつの通知を確認する。電話の着信通知だった。
高校の同級生だった男だ。
風がざあっと吹いて湖山をからかうように通り過ぎる。湖山しか並んでいない路線バスの停留所は坂の多い町の住宅と背の低いビルの谷間にあり午後の半端な時間の日差しは届いていなかった。無造作に抱えていたパーカーに袖を通して湖山は言葉を選んで返信しようとしてやめる。保坂の─高校時代よりは幾分皺の増えた─変わらないあの顔が思い浮かんだ。
屈託のない笑顔──というよりも「屈託のない」と思わせる笑顔。そういえば大沢もよくそんな笑い方をした。きっと、だから大沢に親しみを感じたりしたのかもしれないと今は思う。
友達が多い方ではなかった湖山にとって保坂は一番気安い友人だった。中学は別の学区だったが塾が一緒だった。高校の入学式の日掲示板の前で「同じ塾だったよな!?」と話しかけてくれたのが保坂だった。保坂はすべり止めの高校に、湖山は第一希望で入ったのだった。保坂は一年浪人して一流の私大の文学部に入ってその後出版社に就職したと聞いたのは湖山が専門学校を卒業してもう今の事務所に勤めて何年か経っていたろうと記憶している。就職して何年か頻繁に飲み会があったけれどことごとく行けなかった。このごろではそれぞれに仕事や家庭に時間をとられるせいか飲み会自体が少なくなった。それでも一年か二年に一度の飲み会に声を掛けてくれるのはいつも保坂だ。数年前に個展をやったときに年賀状の住所に案内葉書を出した。会えたらいいと思ったので週末に在場している旨を書き添えておいたけれど、ゲストノートに彼の文字を見つけただけで会場で会うことはできなかった。
この出版社に聞き覚えがあるなとは思っていた。けれどなぜか同級生に結びつけることもなく菓子折りを持って挨拶に出向いた先に保坂が出てきた時には驚いたし、なんだか妙に場違いな感じがした。仕事柄ラフな服装が多い湖山はその日紺色のコットンのジャケットを着ていたけれど朝は鏡の前で着慣れてないなと我ながら思ったこともあって気恥ずかしかった。一方保坂の方は、ワイシャツ姿がすっかり様になっていて──それもそうだろう、社会人になって10年以上経ったのだ── 湖山を案内した応接室のドアを後ろ手に閉め、湖山に椅子を勧めながら素早く緩めていたネクタイをぐっと締め直したりするのを見ると、なんだか自分は随分置いてけぼりを食ったような気になってしまった。
懐かしさ半分で思い出話を混ぜながら打ち合わせをして、今度は仕事抜きで会おうと話した。スマートフォンで連絡先のやり取りをするのに二人とも笑ってしまうほど手間取った。一回りも年の離れた一緒に挨拶に行ったアシスタントの吉岡が笑いながら教えてくれたのがもう一ヶ月も前か。このごろは時が過ぎるのが早い。
3.
到着ロビーの宅急便カウンターでスーツケースを預けて大沢は「エクスプレス」の文字を目で追いながら足早に空港を後にする。機内でうまく調整できたのだろうか、朝到着した便で目覚めもすっきりしていた。まっすぐに家に帰ろうかとも思ったが、早く顔を見たい一心で事務所に向かった。逸る気持ちを抑え、メールも打たなかったのは、彼の恋人を、湖山を驚かせようと考えてのことだった。
事務所のドアを開けると同僚で後輩の吉岡が一人でパソコンに向かっている。大沢がフォトグラファーをやることが多くなるに従い吉岡の活躍は昨今目覚しい。
「あれ、吉岡、一人?」
「あれ?大沢さん?お帰りなさい!留守番。笹野さんが足りない文房具を買いに出てます。どうでした、バンクーバー。てか、今日はもう出勤でしたっけ?」
「いや、今日は本当は午前は移動で午後は半日休みもらう予定だったけど朝定刻で着いたから寄ってみたんだ。湖山さんは・・・」
「ユージンさんなら今日は打ち合わせですよ」
「ゆ・・・?誰?」
「だから、湖山さんでしょ?ユージンさん。最近みんなそう呼んでるんですよ。なんでも高校のときのあだ名だったんですって。昭栄出版の保坂さんがそう呼ぶから、そうそう、同級生なんですって、高校の。」
「昭栄出版…ホサカ?高校の同級生…?聞いたことあったかなぁ…。── ユウジン、ねえ。──で、何でお前がそれ知ってるの?」
「大沢さんの代わりにアシに入ることがあるから、ってこの前、近くまで寄ったときに挨拶ご一緒したんですよ。」
「挨拶?」
「昭栄出版の新しい企画ですよ。写真がウチに決まったんです。」
「あぁ、それか。で、向こうさんの一人に湖山さんの同級生がいたって訳?」
「編集長って言ってましたよ。」
「ふーん。」
「まさか、今日の打ち合わせって、その昭栄出版じゃねえだろうな。」
「いや、違いますよ。打ち合わせは大沢さんが帰ってからって、この前も言ってたし。」
「でも挨拶は俺がいなくても行ったんじゃん。」
「ちょっと寄っただけですよ?そんな挨拶より海外のがいいじゃないですか。バンクーバー。都会と大自然が隣り合う町。どうでした?いいの、撮れました?」
「普通だよ。なぁ、湖山さん、今打ち合わせの最中かな。」
「だから、そうだって言ってるじゃないですか。」
「移動中かどうか、って話だよ。ったく、ホワイトボード役に立ってないし。打ち合わせの時間とかも書かないと意味なくない?──まぁ、とにかく── その・・・保坂さん?っていう人、編集長、どんな人だった?」
「どんな?うーん、そうですねえ、普通のおっさんでしたよ。お堅い出版物が多い出版社の割りには派手な色のシャツ着てたけど、でも普通のおっさん。てか、やっぱりユウジンさん、若いっすよねえ?同じ年には見えないな。」
「ユ…ふうん」
大沢は鼻を鳴らすように相槌を打って、ぼんやりとホワイトボードを眺めた。
「ただいま」とメールを打つくらいなら湖山が万が一取引先と打ち合わせの最中であったとしても、大して邪魔にならないよな、と思う。デニムの後ろポケットからスマートフォンを取り出した大沢は、その考えを少し考え直すように大きな手のひらでパタンパタンと手持ち無沙汰に回していた。
結局大沢はスマートフォンをそのままデニムのポケットにしまい、入ってきたときと同じようなさりげなさで「時差ぼけかも。帰るわ、明日な!」と事務所を後にした。
うつらうつらしながらJR線、私鉄と乗り継ぐ。たった四週間帰らなかった駅に降り立って大沢は馬鹿みたいに嬉しく思う自分に気づく。何度も何度も降りた駅のホーム。酔っ払った湖山を送り届けた日の翌朝、眠る湖山を起こさないようにそっとマンションを出てこの駅から始発に乗って自宅に帰ったことがあった。打ち上げの帰りに、ふたりで馬鹿みたいに酔っ払って迷惑そうな乗客たちの合間を縫って歩いた夜更け。重たい機材を背負って待ち合わせた日も、事故で動かない電車をふたりで待ったこともあった。それから、湖山が大沢をこの駅に下ろした忘れてはならない日のことを、大沢は幾度だって愛おしく思い出す。「大沢!」と自分を呼んだ声。呼んで、呼んでしまってから躊躇った湖山の困った顔。湖山の細い指が掴んだ自分のシャツの皺。あの時、彼の指は小刻みに震えてはいなかったろうか。
そう、あの日。何もかも、何もかもを抱え、背負い、捨て去り、受け取る覚悟を決めた日。
諦めたはずの恋を、擲ったはずの恋を、再び手にすることの幸福感よりも、たとえばありきたりな言葉で言って運命というものがあるんだとすれば、あまりにも残酷なそれに歯噛みをする気持ちの方がずっと大きかった。それでも、湖山がいいと言ってくれるなら、背負いきれぬほどの後悔も、自分以外の誰かの人生をこの手で変えてしまったことの責任も、あるときは放り出して、あるときはすべて甘んじて受けなければならないのだろうと覚悟を決めたのだった。
改札口に向かう階段の滑り止めを踏んだスニーカーがキュッと音を立てた。大沢は昼間の静かな私鉄の駅の麗らかさのなかで、ともすれば自分を縛り付けるこの恋の裏側など、まるでこの世には存在しないものであるかのようにすっかり忘れ去っていた。その幸福感は、たとえたったひとつまみ程の小ささであったとしても、大沢にとって大事な恋の甘さだ。そのほんの少しの甘さだけでも、それすらも許されなかった日々を思えば、大沢にとってはこれ以上何を望むのかと思えるほどの贅沢さだった。
翌日宅配される予定のスーツケースから、これだけはすぐに渡したいからと取り出しておいた小さな包み紙の入った袋を大沢は今一度確かめるように胸に抱えてからまた手に提げた。袋の中で小さな包みが少し弾んだ。
昼間の改札口には、甘いシュークリームの香りが漂っている。