弐 理沙之事 一之段 団欒
「急々如律令 奉導誓願可 不成就也…」
「よし、理沙、かなり会得してきたな…」
都の左京六条の屋敷の庭に娘の透き通った声が響き渡る。屋敷の縁に座る父、陰陽助倉橋為広が優しく見つめながら頷くと、理沙と呼ばれた娘は凛とした顔をほころばせ、父の元に駆け寄る。
「やっと心を落ち着けて、呪を唱えることができてきました。父様のおかげです。」
長い黒髪を背中まで伸ばし、透き通った白い肌に意志の強さを感じさせる切れ長の目をまっすぐに向け、愛嬌のある笑顔を見せる。肌に負けない白さの小袖と袴に身を包み、少し肩で息をしながら縁に座り父為広を見上げる。
「理沙、だいぶ頑張ったのね、さあ、そろそろ中にお入り。着替えて、貝合わせをしましょう。」
屋敷の奥から、美しい女房装束をまとった 母倫子が微笑みながら話しかけてきた。
「あ、母様、はい。着替えてまいります。」
理沙が頷き、履を脱ぎ中へと入っていく。母が為広の傍に座り今しがたまで理沙が呪を唱えていた庭を眺めながら語り始める。
「奥よ、理沙ももう15か。大きくなったものだな。聡明なおまえに似て、飲み込みの早い子だ。もう、陰陽寮に入れたとしても恥ずかしくない出来だぞ。」
為広が満足げに頷きながら語りかける。
「私が嫁いだ時、あの子はまだ7つでした。あの子が実の父のように慕い、陰陽道の手ほどきまで受けるのは、婿殿の優しさにつきまする。ほんとうに何事にも頑張る子ですわ。」
母倫子も微笑みながら、昔を思い出すように空を見つめる。ふと為広が気になるように語りかける。
「あの子にはまだ言ってないのか…」
「ええ、あの子には婿殿が父親。実の父のことは知らぬ方が幸せだと思いまする。」
「しかし、世が世なら…」
「崇徳帝は讃岐へと流されました。もし、彼のもとにおらば、あの子も不遇な目にあいましょう。内裏の息苦しさには、理沙はきっと耐えられますまい。」
「確かに。あの爛漫な理沙のことだ。宮中はさぞかし窮屈かろう。この前も、下女の娘だったか、日が暮れるまで遊んでおったな。ほんとうに屈託のない、分け隔てのない子だ。」
慈しむように見つめあい、頷く2人。
倫子がふと思い出したように問いかける。
「そういえば婿殿、讃岐の崇徳院が亡くなられたとの噂が…」
ハッと倫子の顔を見つめ、複雑な表情を浮かべる為広。人目をはばかるように辺りを見回し、倫子に顔を寄せて声を潜める。
「他言無用だが…表向きには、死去としておるが、実はな…」
為広は陰陽寮に届いた讃岐の配所の惨劇を語り、崇徳院が忽然と消えたことを告げる。驚き、恐ろしさに震える倫子。
「ま、まさか、そんな、、あ、あの方が、では、お、怨霊に…?」
「まだそうと決まったわけではない。しかし、そうなのかもしれぬ。それに備えて、過日、太政官より陰陽寮に調伏の準備が命ぜられている。わしもいつ呼び出されるかわからぬ。また、検非違使がわれら陰陽寮の面々の警護に当たられるとのこと。奥の兄にも世話になるやもしれん。よしなに伝えてくれ。」
いつになく真剣な為広の表情に顔を引きしめる倫子。独り言つように呟く。
「あの人は…やはり…」
「やはりとは?」
「はい、理沙を身ごもった時でございます。まだ顕仁様と呼ばれ、私をご寵愛いただいていましたが、あの方は、普段はほんとうに繊細で、和歌も素敵なお方なのですが…感情が高ぶると、人とは思えぬような振る舞いと、そして、人には思えぬ力をお出しになります。私の肩の痣はそれでついたのでございます。」
「な、そうであったか、、なにかが、崇徳院様には、憑いておられると…」
「それははっきりとはわかりませぬ。ただ、人でない気配も幾たびか感じました。そこで、宿下りの折、洛西の花泉院にて破邪の行を受けましてございます。」
過去の良いこと、悪しきことを思い出し、悲しげに首を振りながら崇徳帝とのことを語る倫子。優しく倫子の肩に手を当て、為広が倫子を見つめて力強く頷く。
「花泉院というと、善阿法師か…あのお方なら安心できよう。理沙にも奥にも加護があろう。とにかく、いま陰陽寮のみならず、内裏全体で動いている。わしも全力で守るからな。さあ、理沙がもう戻ってこよう。理沙の遊びをわしも覗こうではないか。」
「はい。理沙に深き加護のあらんことを。はい、なんでしたら、ご一緒になさりませぬか?」
パッと明るく微笑みながら立ち上がる2人。いつしか屋敷の庭に夕日が差し込んでくる。西の空を血のように赤く染めながら夕日の成す長い影が屋敷の中に暗く入り込んでいた。