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迷宮彷徨記  作者: 戦犬
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「ーーッ! ゥゲぇッ!! ゴホッガハッ!」


 喘ぐように空気を求めてえづく身体に、引き摺られるように意識が覚醒していく。


 深い海の底から浮上するような感覚。


 ねっとりと泥のように纏わりつく死の感触に溺れ、沈み行く意識を拒否する肉体が、無理矢理に空気を取り込もうとする。


 限界以上に空気を吸い込もうとする肉体と、膨らみ切った肺が中身を吐き出そうとして起こす反射がぶつかり合って痛みを伴い痙攣する身体を、打ち上げられた魚のようにくの字に曲げて、俺はのたうち激しく咳き込んだ。


 涙で滲む視界に映るのは茶色い土の地面。身体の下に感じる、頼もしく揺るぎない大地の感触。


 ーーどうやら夢じゃないらしい。まだ胸の辺りに残る痛みと違和感に、空咳を零しながら何故か笑いが込み上げてきて喉を震わせる。何が可笑しいのか、直ぐに意識が追いついてきた。

 そうだ。陸の上で溺れるなんて、中々体験出来る事じゃない。


「ここはーー、俺はどうしてこんな所に……」


 口の中だけで呟きながら手を地面に、続いて膝へとついて立ち上がる。なぜか足がある事に安心する。

 疑問を覚えつつも周囲を見回すと、踏み固められた土の地面と、同じ色の天井と壁。

 そして、ほんの少しだけ遠くに木材か何かで出来た扉が、闇に浮かび上がるように薄っすらと見えている。もう朽ちかけた穴だらけの木材で出来た、くっついているのが不思議なくらいボロボロの扉だ。


 どうやら洞窟のような、地下にある広い空間にいるようだった。今見える範囲に危険が無い事は()()()()()()が、それを不思議に思う前に、何故か視覚が効くことを疑問に思う。


 そうして改めて周囲を見渡すと、柔らかい光を放つ苔のようなものが地面と言わず、壁や天井にも所々にへばり付いて幽かな光源となっている事に、遅ればせながら気がついた。


 体育館くらいの広さだろうかーーそんな事を思いながら、身体についた土や砂を叩き落とす。

 手で身体中を払いながら、痛む場所が無いかを再確認する。そう、再確認だ。身体に異常がないことも分かっている。


 ーー逃げなければ。

 ぼんやりとした意識のままで思う。ここにこのまま留まって居る事は危険だと言う事も、何故か俺には分かっているのだ。


 アイツが来る前に逃げなければ!


 理由もなく焦る思考に自分が追いつかない。逃げるって何処へ? アイツって何だ!?

 空回りしたまま焦燥感だけが膨れ上がり、何をすれば良いのか、何をすべきなのかが纏まらない。


 そもそも俺は何でこんな薄暗い穴蔵みたいな所に居るんだ!?


 いつもの帰り道、また明日って笑って手を振る自分の手。手を振り返してくれる相手の笑顔は逆光で見えない。振り返って夕陽が作る影法師を追いかける様に歩く靴。そして気が付くと薄闇の中で飜る白刃の軌跡とすぐにやってくる激痛。


 目覚める前の記憶は断片的な上に曖昧で、霞がかった頭は未だに現実感を感じない。

 逃げろと叫ぶ自分の焦燥感と、いま自分が置かれている理解出来ない状況に、俺は頭を抱えて座り込む。


「ハハ、なんだよこれ。意味わかんねえ、早く帰ってシャワー浴びて飯食ってテレビ見て漫画読んでーー」


 抱えた頭を掻きむしりながら、思い付く限りの現実を呟く。声を出さないと、自分がいるべき社会を感じない無音が怖くて仕方なかった。


 そんな風にブツブツと呟く俺の耳が、自分の立てる音ではない音を感じた。続いて何かが軋む音も。錆びついた蝶番があげる悲鳴のような音だ。

 顔を上げて音の出所に目をやる。どこからした音かは探すまでもなく分かっていた。


 少し離れた所にある朽ちかけた扉が、ゆっくりと開いていくのを俺は呆然と見ていた。湧き上がる恐怖と絶望感に身体が震えだす。

 開いた扉の先は暗く、ぽっかりと闇が口を広げていて、底なしの穴が縦に開いたようにすら感じる。


 時間切れ。アイツが来たーー

 震える身体を抑えつけるように抱きしめて、扉の向こう側からやって来る絶望を見つめる。


 ゆっくりとした動作で、そいつは暗闇からこちら側へと踏み入って来た。金属と金属が擦れる耳障りな音がここまで響いてくる。


 あちこちに錆びや汚れが付着したボロボロの甲冑で全身を鎧われたその人影は、漫画やゲームでよく見る、騎士のように見えた。


 頭全体を覆う兜のせいで表情は見えない。右手に抜き身の剣をぶら下げて、ゆっくりとだが迷いのない足取りで、その錆びれた甲冑の騎士はこちらへと歩いてくる。


 ただ、その手に持った剣の刀身だけは汚れ一つなく、光源の少ない薄暗闇の中にあっても美しい輝きを放っていて、俺の眼を強く惹きつけた。

 ふと目から魂を引きずり出されるような恐怖を覚えて、強く目を瞑ってから改めて騎士の顔を見つめる。


「あ、良かった。あの、俺、気がついたらそこに寝てて、意味わかんなくて、誰も居なくて。なんでゲームみたいな格好してるんですか? ハハ、撮影とか?」


 現実感なんてとっくに失った頭で、日常に回帰したい俺は震える手足に苦労しつつ再び立ち上がると、努めて普通に騎士に話しかける。出来る限り平静を装って、道端ですれ違った知人に接するかのように好意的な笑顔で。そうしたら目の前の彼だか彼女だかも、普通に返事をしてくれるんじゃないか、なんて妄想に取り憑かれる。


 この際こいつが誘拐犯でもテロリストでも、頭のおかしなコスプレイヤーでもいい。日本語が聞きたかった。


 しかし震える身体と一欠片の理性は、自分がこの後どうなるかが分かっているのだ。激しい動悸が耳の中でうるさい。恐怖に竦む足はともすればその場に崩れ落ちそうで、立っている事が不思議なくらい、ほとんど感覚がなくなっている。顔はどうしたって引き攣って、笑えてるのか歪んだ泣き顔なのか自信がない。


 騎士は無言のまま、俺の方へ歩いてくる。軋むような金属の擦れる音が、何か小動物の鳴き声の合唱みたいに聞こえる。


「あのう! 何か言ってくれませんか!ーーこんな所に連れてきたのはお前かよ! 黙ったまま近寄るなよ! こっち来んなよ、怖えんだよ!!」


 呆気なく臨界点に達した俺は、恐怖にどうにかなりそうで、みっともなく激昂して叫ぶ。微かに残る冷静な部分が、一歩引いた所から恐慌する自分を眺めているような感覚。

 俺はゆっくりと近寄ってくる騎士に、唾を飛ばしながら怯えた犬みたいに吼えたてる自分自身を、どこか他人事のように感じていた。


 錆びた騎士は目の前までくると、平均よりも上背のある俺が少し見上げる程の体格をしていた。全身を完全に金属の甲冑で覆われた姿が放つ威圧感に、俺は思わず口を閉ざした。


 途端にやってくる静寂の中、甲冑の節々があげる金属音がひたすらに耳障りだった。それに耳の内側では止まらない動悸も、うるさい程に警鐘を鳴らし続けている。


 何故か唐突に気がついている事を思い出す。この後起きることを、既に分かっている俺がいる。


 目の前で立ち止まった騎士は、右手に持った剣を胸の前で押し抱くように掲げて一呼吸おいた後、そのままゆっくりと振り上げるのだ。翻る白刃の煌めきが否応もなく、俺の意識を縛り付ける。


「ーーーーあっ?」


 俺はその白刃がこれから数秒もしないうちに、自分の鎖骨を断ち、心臓を通り抜けて背骨ごと身体を分断して斜めに通り抜けて行くのを、思い出していた。


 これから起きる事を幻視した俺自身は、恐怖に震える事も忘れてピクリとも動けない。自分だけが止まったような時の中で、俺はその剣が振り下ろされるのを見ていた。


 激痛と共に喉の奥から口内へと湧き上がり、鼻へと抜ける血の味と匂い。支えを無くした上半身が後ろへと倒れるのに合わせて、上へ上へと見上げていく視界の先に地面が迫って来るのが見えて、俺は自分が頭から落下している事を理解する。


 地面の上で溺れたつぎは、地に足をつけたまんまで逆さまに落下するなんて、今日は冗談みたいな事ばかりだと笑う自分を感じながら、俺は再びあっけなく命を落とすのだ。


 立ったまま落ちたその最期、昏く笑う意識が暗闇に呑まれていく刹那、俺はどうして再び死ぬなんて思ったんだろうと、考えていた気がする。もう感じるのは寒さだけで痛みはない。


 頬に感じる血だまりが暖かい。そうか。身体から暖かい血が抜けたから寒いのか。


 ぼんやりと霞んでいく視界の端に、今まさに自分を殺した相手が見える。そいつは俺の血に濡れた剣を逆手に持ち、胸の前で掲げるようにして立っていた。さっきとは逆で刀身が地面に向く形。


 まるで、なにかに祈るようなーー


 そんなことをぼんやりと思い浮かべていると、滑り落ちるように意識は遠くなり、暗転は直ぐにやってきた。


 切実に思うーーもうこれで終わって欲しいーー


 ーーしかしその願いが叶わないと確信している事が、とてもとても怖かった。

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