2章 4
明人に伝えなければいけない事はあったが、今ここでは話せなかった。
「いや、今のところはない。よく病気になったのは親のせいだというカウンセラーもいるが、どんな非情な親の元でも健康に育つ人間がある程度は存在する」
「──おまえみたいな出来すぎな兄が負担だったら、この世は病気だらけだよ」隼優が明人を気遣う。
「そうだよ。だから気にすることはない。ただ……」加納は言いよどむ。
「その……明歌ちゃんのことは隼優くんにまかせて、君は自分の身は自分で守るようにね。どうやら君は少しそそっかしいようだから」
「あれ? 先生って不思議系っぽい人なんですね。全てお見通しみたいな」
「俺から見たら、ここにいる全員が不思議系だ」隼優は自分を普通だと言わんばかりだ。
「ごめん、隼優が一番不思議系だと思うよ」明人が呆れ返る。
「そうだね。私はわりとまともだから」加納が真面目な顔で言う。
「えっっ……?」デスクで作業をしていた海里や誠が疑惑の眼差しで加納を見た。
「──天真爛漫ってああいう人のことなんだろうなぁ」
明歌たちが帰った後、海里がぼそっとつぶやいた。
「……海里にはそう見えるんだね」加納の表情は若干憂いを帯びていた。
「違うんですか」誠にとっても明人は人を和ませる存在に見える。
「違うのか、と言われるとそれも違う」
「先生~またそんな、なぞなぞみたいなこと言って。僕にはわかりませんよ~」
海里が困ったような顔をしていた時、海外からの電話が入った。ある国の企業から、バージニア州へ交渉に出向いてほしいという依頼だった。
鹿屋家では、居間で母の鹿屋明乃と明人、明歌がくつろいでいた。父はまだ仕事で帰っていない。
「え、冷たくないスケート? 何それ」
「明歌はまだ手足が冷えるだろう。でも、病気は良くなったんだし、遊びに行きたいだろうと思って」明人は明歌が幼い頃楽しんでいたスケートをさせられないかと考えていた時、偶然氷ではない素材で作られたスケート場を見つけた。
「そうよぉ。明歌ったら、治ったとたんにアルバイトなんて。今まで動けなかったんだから遊んでらっしゃい。隼優も一緒に」
「──お母さん。隼優は忙しいの。どーしていつも隼優と、って言うの!」
「だって隼優は明歌がいなかったらおかしくなっちゃうのよ」
「そんなワケないでしょ!」
「まぁまぁ、二人とも。そのへんでおさめといてよ。」
明人は明乃が言うことの方に一理あると思ってはいるが、論理が飛躍しがちな母に一般人がついていくのは大変だった。しかし……このおかしな母の相手が隼優にはできるんだよなぁ。あいつって実はこましなのかな?と明人はいつも疑問に感じている。
だが、明人にとってそれは嬉しいことだった。隼優の母親が姿を消してから、明乃は隼優にとっても母のような存在だったからだ。明乃は家族に対しても他人に対してもまるで同じような愛情を注げる稀有な人間だった。明人はそんな女性を外では見たためしがなく、自分の母のどこかに綻びがあるに違いない、と疑い続けたこともある。
しかし、いくら疑っても母はそのまんまだった。あまり物に動じず、思い悩むこともない。
人間はたとえ他人であっても本物の愛情の下では、その見えない威力を感じとることができる。そのおかげか、隼優はまっすぐに育つことができた。
「明歌。隼優の空いてる日を聞いてみるね。」
「う、うん。」明歌は隼優が忙しいとわかっていても、やはり一緒に遊びに行きたい。
隼優はバイトを掛け持ちしているが、その日は『丸焼き珈琲』でウェイターをしていた。
「マスター、金曜の夜、休ましてくれ」
「何寝ぼけたこと言ってんの。金曜の夜ってのは一番混むんだよ。わかってるでしょ。まさか……あんたまた新しい女?」
「違う。明人と明歌だよ」
「明歌ちゃん、病気じゃない」
「治ったんだよ」
「またそうやって嘘ついて。病院行っても治らないって言っただろう? 騙されないんだから」マスターは不機嫌そうに勝手口を出た。
「まいったな。俺ってどれだけ疑われてんだ?」隼優はホールで給仕をしている由希に話しかけた。
「まぁ、しょうがないですよね。隼優さんの人生ってフツー起きないようなことばっか起きるしね。こっちだって言い訳聞くたびに混乱しますよ」
「もう慣れただろ」
「隼優さんの対応に慣れたりなんかしたら、フツーの暮らしができません。だからマスターも私も慣れないように日々警戒してるんです」
「何だよ、そりゃ」
しかし、なんだかんだ言ってマスターは隼優に甘かった。まかないでも「おまえは全然栄養が足りてないんだから」と言って、喫茶店には普通備えていないような食材を買い込み、煮物などを作って食べさせた。それを脇で見ていた常連客が「なんだよ、ずるいな。それ俺にも食わしてくれよ」と言い出し、喫茶店なのに煮物が出てくるという裏メニューが評判になってしまったこともある。
「よくマスターが許してくれたね。こんな客の多そうな日に」
結局、隼優は休みをもらえることになり、繁華街にある特設スケート場へ明人と明歌と出かけた。
「マスターはおまえにぞっこんだからな」
「僕、男だよ」
「今度、おまえと明歌を連れてこいっていう条件で休みもらったんだ」
「なんで私も?」
「マスターはおまえの歌のファンだからだろ」
「でも、今は歌えない……」
「歌わなくたっていいんだ。マスターはお前たちが気に入ってるんだよ。それに、明歌が治ったっていくら説明しても信じてくれねぇんだ」
「私も……今ね、時々これは現実なのか夢なのかなぁって思うよ。目の前に兄さんと隼優がいてくれて、私はスケートができる。小さい頃のスケート場は冷たかった。でも、今は冷たくない」
「じゃあ、このスケートを開発してくれた人に感謝しないとね!」明人が明歌の手を引いて滑り出す。
「そうじゃないの、兄さん」
「──え?」
その時、4,5人のスーツを着用した男性たちが寄ってくるのに隼優は違和感を感じた。
「──お前たち、出口に向かって走れ」




