5
明歌は床にしゃがんだ。今になって震えが止まらない。
「明歌ちゃん、すまなかったね。こんなことに巻き込んで」加納は明歌の手をとり、ソファへ連れていく。
「せ、」明歌は先生、と呼ぼうとして言い直す。「加納さん。今のって超能力か何か……?」明歌はおびえたように尋ねた。
「いや、あれは催眠の一種でね。昭和初期には有名な達人が日本にも存在したんだ。相手の動きを止めて、強盗を追い返したりね。今はそういう特別な能力って言うと、すぐ欧米に倣えみたいなところがあるけど、まぁ、日本にもすごい人がいたってことかな。」
「私の兄の親友は怪力だけど、加納さんみたいな人に触れずに動かすような力はないわ。」
その時、加納の脳裏にはまた何かイメージが浮かび軽く眩暈がした。ああ、その子も自分に深く関わってくるんだな、と。
「加納さん?」加納の動きが止まったので、明歌は不安になる。
「ああ、ごめん、ごめん。たまに自分の人生と関わりが大きい人についてはシャットアウトできずに、見えてしまうことがあってね。」
「加納さんって魔法使いみたい」明歌はさっきまでの不安が嘘のように笑った。
「いいな、それ。さすが女の子だ。今まで私に魔法なんて洒落た言葉を使ったのは君ぐらいだよ。外国の人は私を忍者の末裔か、なんて言うしね」
笑っていた明歌の表情が少し曇る。
「……あの、さっきの人って加納さんの以前のクライアントさんなの?」
「うん……ここへ初めて来た時から、酒を断つのは難しいだろうという予感はあったんだけど、彼は無意識の修正を努力してやってくれそうなタイプでもないしね、一度ぐらいはいいかな、と。」
「でも、あんな怖そうな人、面倒見たらその後も面倒です!」
加納は明歌が『面倒』を連発したことに苦笑する。
「そうなんだけど、ごくたまにね、人を傷つけてばっかりいた社長さんとか、よっぽど病気がしんどかったのかな、治ると改心することもあるんだ。急に慈善事業とかしだして。」
このどこか人に甘いところが、加納の最大の弱点とも言えた。加納の師である本若泰七は、もうほとんど人間の病気の面倒はみなかった。ある日突然、そんな必要はないのだ、とある種天啓のようなものがひらめいたらしい。
人間の病気というのは、治る人は誰に治療してもらっても治るし、治らない人は誰に治療してもらっても治らない、ということがわかったというのだ。
それ以来、専ら動物や植物のケアばかりするようになった。地球はあと一世紀もしないうちに資本主義が変容するとか吹聴し、自給自足のコミュニティを運営し始めたこともあって、そうせざるをえないところもある。乳の出なくなったヤギをかたっぱしから治療したり、ウツになってしょげている馬を「おまえが動かんと子供がうるさくてかなわんわい」と言って瞬時に治してしまったりしていた。
しかし実のところ、本若は加納の力があまりにも強力であることがわかったので、後を託したような一面もある。霊能力を乱用することは禁じたが、そもそもそんなものは使わなくとも十分貢献できることも教えた。
加納はいつのまにか、自分の人生に突如として出現した少女に親しみを感じ、打ち解けていた。
「たとえどんな人間であっても別人のようにエネルギーが切り替わる可能性がある、ってことに賭けてみたいんだよ。」
「……加納さん。私みたいなこんがらがってしまった人にも賭けてくれる?」
「君が、こんがらがった人?」
加納はプッと吹き出す。
「君がこんがらがった人なら、まぁ世間の人々の問題はまずほどけないね。……さて、じゃあ始めようか。」
「治療ですか?」
「いや、歌ね。」
明歌は歌、と聴いてなぜか不安になる。そして、その一瞬の感情のゆらぎを加納は見逃さなかった。
「好きな歌はあるかい?」
「はい。──でも、あの、もう二年近く歌ってないんです。」
「大丈夫だよ。ここには私しかいないから。歌ってごらん。歌は君に希望をもたらすから。」
最終的には、と加納は心の中でつけ足す。今は多少のハッタリもやむをえない。
明歌が加納に歌った曲は、世界中の誰もが知っている子供の歌だった。翻訳されたために、なぜか日本語バージョンが複数存在する。
──なんだ、これは。さすがに加納も明歌の声に圧倒された。普通の人間は気づかないだろうが、何か時空を超えるかのような不可解なエネルギーに覆われている。音楽には興味のない加納がエンドレスで聴いていたいような感じにすらなる。




