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「あの先生、治療なんですけど、私、とても難しい症状みたいで、薬も効かないし……」
「私のことは先生じゃなくて、加納さん、でいいよ。私はほとんど君を治療しないと思うから」
「──え!? そんな……困ります! 先生が治してくれなかったら、私、もう終わりです」
明歌は涙ぐんだ。加納はそれを見てギョッとする。
「あああ~、待ってくれ。違うんだ。君の場合は他のクライアントとは全く異なるケースっていうか──」しかも、先のことを考えると病気をやっている場合ではないな、と思いながら加納は明歌にハンカチを渡す。
「明歌さん、唐突だけど好きなことってある?」
「好きなこと……書道とか。字でイラストのように装飾したりするのは楽しいです」
「書道か。他には? たとえば趣味じゃなくてもいい。物とか場所とか」
「のんびりした田舎は好きです。人が多いところは怖いし」
少し対人恐怖の気もあるなぁ。加納は明歌の本心が聞きたかったが、なかなか手強い。
「では、言い方を変えよう。君はまだ十六だが、物心ついてからあきらめたことはあるかい? そう、たとえば人に何か言われたり、バカにされたりしてね」
「……あります。でも、それは自分でやめたっていう感じで──」
「どうして?」
明歌は口ごもった。この人は信用できるだろうか。本当のことを話しても大丈夫なのか。精神に問題を抱えていると、このような考え方に陥りやすい。この頃の明歌は見えない何かにおびえて生きていた。
「小さい頃、自然と歌を歌っていました。ただ単に好きで──音楽の時間も大好きで、小学校は音楽クラブにも入っていました」
ふぅ~助かった、と加納は胸をなでおろす。どうやら今日1日でこの子の熱ぐらいは下げられそうだ。この子の声はどう考えても何かがあるし。
「でも、中学校に入った時、歌のテストであまりいい評価を受けませんでした。それに、クラスにとても美人な子がいて、その子が信じられないぐらい歌が上手かったんです。その時、ああ、私じゃダメなんだな、って劣等感で歌が歌えなくなりました。それまではなんの躊躇もなく歌えたのに」
「君は自分で、自分に歌うことを禁止した。歌が好きなのにね。ただ、原因はそれだけじゃないなぁ。歌を歌うことが怖いと思ったはずなんだよねぇ」
加納の言葉に、明歌は何かが剥がされるようで不安が募る。
「大丈夫だよ。その話はまた今度にしよう。──子供の頃にも思い出していない何かがあるな。」
加納はしばらく考え込む。
「年齢退行とかやってもいいけど、君はたぶん、何かがきっかけで思い出すだろうから今日はやめておく。でも、簡単には思い出せないよ。トラウマって忘れていた方が本人にとっては人生がラクなんだ」
「でも、思い出さなかったら治らないんですよね?」
「ああ、そういう説もあるね。でも、実はそんなことはないんだ。方法はいくらでもあって……」
その時、玄関に気配がした。しかも殺気に近い。「明歌さん、そこから動かないように」と言って、加納がソファから立ち上がる。
「やあ、久しぶりだね」
事務所に現われた男性は山川名と言い、何年も前に、加納が病気を治したクライアントだった。かつてはスレンダーな男性だったが、酒のせいかすっかりお腹が出ている。
「先生、俺はな、また肝臓をやられちまったんだよ。先生、言ったよな? 俺を治してくれるって」山川名は加納につかみかかる。
明歌は咄嗟に「やめて!」と加納の元に駆け寄ってしまう。
「あぁ? なんだ、この女は。あんたの女か」
「そう見えるのかい? 私は二十歳も年下の女性に手を出すほどロリコンじゃない」
明歌は一瞬で恐怖が吹き飛ぶほど驚いた。──ええっ? この人てっきり私と十ぐらいしか違わないと思ってたのに。
加納は見た目が二十代後半か多く見積もっても三十代前半、人によっては少し老けた大学生、ぐらいにしか見えなかった。若く見えるのは彼が少食であることと、ストレス除去のエキスパートであるため、細胞にダメージがないせいかもしれない。しかし、立派なアラフォーだった。
「私は君の酒への依存も治したつもりだったが、また飲んでしまったと言うことか。しかも君、まだ完治してないってのに途中で治療をやめたね」
「先生に俺の気持ちなんか分かるわけないだろうっ!」
山川名は加納の胸倉をつかんで持ち上げた。明歌が「先生を放してよ!」と山川名の腕をつかむ。
「明歌ちゃん、ダメだ、下がれ!」
「くっ……こいつ、何しやがる!」
山川名は明歌を突き飛ばそうとする。加納の目が光った。
「──山川名。その子に何かしたら君をふっとばす」
「あんたは暴力反対なんだろう? できるもんならやってみろ!」
加納は右手を上げ、空気を押すようなしぐさをした。その瞬間、山川名は玄関の方へふっとんだ。入口付近にある植物にぶつかり植木鉢が粉々に割れてしまう。明歌には明らかに彼が勝手に後ろへ倒れたように見えた。
「せ、先生。何これ……」明歌は自分の見たものが信じられない。
「明歌ちゃん、大丈夫かい? ──山川名。私は言ったね、二度目はないよ、と。警察沙汰にされたくないなら帰ってくれないか。」
山川名は倒れた衝撃と自分に何が起こったのかわからない意識の混乱で、口をパクパクさせていたが、そろそろと立ち上がると、何も言わずに事務所から出ていった。




