1.彦根琴葉という少女
※警告
本作品はグルメ小説ではありません。むしろ対極に位置する小説です。
これから食事をなさる方、「鍋」という単語につられたグルメ好きの方などは、今すぐ別の小説に移動しましょう。
……ホント、痛い目見ますので。
これは僕が実際に体験した、ある冬の日の出来事である。
とまあ、仰々しい物言いから始めたけど、ここで僕が伝えたいことはただ一つ。
もしあなたが万が一彼女――彦根琴葉と友達、ご近所さん、あるいは何かの間違いで恋人になることがあったなら。
悪いことは言わない。
ことわざ辞典を丸暗記することを強く推奨する。
*****
「はぁ? 今日達彦来れねぇの?」
「うん、ついさっき連絡があってさ。急にバイト抜けられなくなったって」
伝言を口にした途端、買い出しから戻ったばかりの雄也は露骨に不機嫌そうな顔をした。
両手のスーパーの袋をこたつにどかりと置き、コートに付着した雪を乱暴にはらう。せっかくきれいにしたカーペットもおかげで水浸しだ。
「んだよあの馬鹿。バイトあるなら先に言えっての。うーさびぃ……」
コート姿のままこたつ布団に潜り、まるで自分の部屋のようにくつろぐ雄也。粗雑な行いに文句の一つでも言いたいところだけど、ここはぐっと我慢。僕は「おつかれさん」と一声かけると、スーパーの袋の中を覗きこんだ。
そこには白菜や豚肉、豆腐、キノコ類など、鍋用の定番具材がぎっしり詰まっていた。鍋スープの素が味噌味なあたり、僕のリクエストもきちんと反映されているようだ。
「それにしても凄い食材の量だね。軽く三人分以上はあるんじゃない?」
「まあな。せっかくの鍋パーティだし、豪勢にと思って奮発したんだ。……今となっては完全に裏目だがな」
そう呟くと雄也は小さく舌打ちをした。
確かにこれだけの食料を僕ら二人で食べきるのは難しいだろう。
でもそれ以上に問題なのは……。
「男子高校生二人で鍋パーティ、って……」
「絶望的に華がないな」
「……だよねぇ」
二人そろってため息をつく。
せっかくの一人暮らしだからとみんなを誘ったのに、結局集まったのは僕を含めて二人だけ。しかもよりによってムードメーカー気質の達彦が不参加とは……。これでは盛りあがるどころか、青春の一ページにむさ苦しい地獄絵図を刻みかねない。
しかも追加で誰か呼ぼうにも、生憎僕も雄也も友人関係は広くない。すぐ呼び出せる共通の友達は、残念ながら皆無だ。
「……いや待てよ」
と、そこで雄也が何か思いついたかのように顔を上げた。
「だったら琴葉ちゃん呼ぼうぜ、健斗。たしかここから家も近かったよな?」
……ああそうか。雄也には去年あいつのこと、紹介してたっけか。
確かに僕と琴葉は小学校以来の馴染みだし、雄也とも面識がある。補欠メンバーとしては適任だろう。
でも、
「却・下」
「はぁあ? 何でだよ。女の子だし、華やかさって意味でも一番いい選択だろ」
雄也があり得ないとばかりに目を丸くするが、ありえないと言いたいのはこっちの方だ。
僕は断固とした姿勢で声を張った。
「ふざけんな、ここは僕の部屋なんだぞ! あいつの"能力"で被害を被るのは僕じゃないか」
「でも異能力持ちの美少女だぜ? 男子高校生として、呼ばない手はないだろ」
「ラノベの読み過ぎだ馬鹿! そんなの現実に居たってろくなことないんだよ!」
「あれ? ケンちゃんにユウちゃん、なにやってるの?」
「琴葉は黙ってて。今おまえを鍋パーティに呼ぶかどうかの議論で忙し――」
痛烈な違和感を感じた。
即座に雄也とともに首をまわす。と、そこには童顔にふんわり髪が特徴的な見覚えのある女の子の顔が、
「「う、うわああああっ!?」」
「えっ、鍋ぱーてぃ!? ずるいよふたりともー! 私もやりたーい!」
僕ら二人が仰け反る中、琴葉は頬を膨らませてむぅ~っと唸り声をあげていた。
その様子に雄也が恐る恐る訊ねる。
「こっ、琴葉ちゃんどこから入ってきたの!? 玄関からは何も音が聞こえなかったんだけど」
「ほへ? どっからって言われても……、気づいたらここにいた、って感じかな~」
キョトンと首をかしげる琴葉。その表情に動揺はなく、どうやら本当に身に覚えがない様子だった。
その説明(とすら言えない証言)に雄也はポカンと口を開ける。一方僕はというと……経験上、大方の予測がついたため、額に手を置いていた。
ぽけぽけの琴葉に代わって、仕方なく僕が理由を答えてやる。
「『噂をすれば影が射す』……だな」
「…………あー」
その一言だけで、納得したように頷く雄也。
物分かりが早くて非常に助かる。どっかの馬鹿とは大違いだ。
で、その件の馬鹿はというと、雄也と僕の間を割り込むようにスーパーの袋を漁っていた。
「それでそれで~? 今日のおなべの具材はな~にっかな~♪」
「あ、おい勝手に漁るなって」
「ハクサイにおとうふに油あげに……おお~っ! 豚肉はっけーん!」
僕の制止も聞かず、琴葉はトレーに入った豚バラ肉を取り出すと子供のようにはしゃぎだした。
トレーを頭の上に掲げ、こたつの周りをくるくると踊り始める。
「ぶたにくぶたにく~。やっぱりお肉はブタちゃんだよね~っ♪ お鍋との相性なんてもうサイコー! ケンちゃんわかってるぅ!」
「いや食材買ってきたのは俺なんだけど……、って琴葉ちゃんどこ行くの!?」
豚肉を褒め称える琴葉は、興奮のあまり廊下を駆け抜け、そのまま玄関の向こう側へと消えてしまった。
外の冷たい風が廊下を抜け、部屋の温度を一気に下げる。
「さむぅっ! あの馬鹿、玄関閉めずに出ていきやがったな!」
「お、おい健斗、早くドア閉めてこいよ」
「やだよ! てか雄也が行ってよ。ドアに近いし、まだコート着てるんだからさ!」
「おまえこの部屋の主だろうが! ゲストに働かせるなよ!」
互いに一歩も譲らず睨みあう僕たち。
そりゃあそうだ。せっかくこたつで温まったのに、誰が好んで外に出るかって話だ。
でも当然このままでは埒が明かない。ここはやはり最終手段、石と紙と鋏による三つ巴合戦(通称:じゃんけん)で決着をつけるしか……。
僕と雄也が拳を振り上げた、そのとき。
開けっ放しだった玄関から琴葉がとぼとぼと戻ってきた。
「うぅ……ごめんね……ケンちゃん、ユウちゃん」
「あーもう、戻ってきたなら玄関閉めてよ! ……って、どうしたの琴葉?」
さっきのテンションとは打って変わって、琴葉は涙目でしょんぼりしていた。その手には何故か空っぽの食品トレーが握られている。
「ていうか豚肉は?」
「えと、その……逃げちゃった」
「はぁ? 逃げたぁ?」
僕と雄也が疑問の声を上げる。すると琴葉は俯いていた顔を上げ、わたわたした手振りで説明を始めた。
「あ、あのね……外に出たらお肉がバッ! て飛び出して、木にベチャーってなって……あの、それで」
琴葉の説明は擬音語ばかりでよく分からなかったが、恐らく自分のせいではないと主張したかったのだろう。
確かに彼女が持つ食品トレーを見ると、ラップが内側から突き破られたような裂け方をしていた。まるで豚肉が勝手に脱走したような痕跡。
「てことは……もしかして」
僕は一つの可能性に思い至り、寒さも無視して玄関の外へと飛び出した。後ろから雄也も「ど、どうした健斗?」と、こたつから這い出て後に続く。
外に出ると自分の白い吐息が頬を撫でた。雪もいまだ止む気配を見せず、「今季最大の寒波到来」という今朝の天気予報にも頷ける景観だった。
でも僕の意識はそこにはなかった。薄着であることすら忘れて、目の前の光景を唖然と見つめる。
それはアパートの前に立つ一本の常緑広葉樹の幹に、無数の赤黒い軟体物が魚の鱗のようにびっちり貼りついている光景。
豚肉だった。豚バラ肉の群れがまるでしゃくとり虫のようにうぞうぞと幹を這い登っているのだ。
「な、なんじゃこりゃあああ! 気持ちわるぅ!」
背中からは雄也の絶叫が聞こえてくる。
……やはりそうか。どうやら僕の懸念は当たってしまったようだ。
先程から琴葉はしきりに豚肉を褒め称えていた。となればこの現象の正体は容易に想像できる。
すなわち、
「『豚もおだてりゃ木に登る』……か」
「……加工品でもありなのかよ、それ」
僕の隣に並びつつ、雄也は呆然とつぶやいた。
どこか遠い目をしている気もする。きっと琴葉とつるむようになって、常識と非常識の境界が分からなくなってきたのだろう。俗にいう「琴葉の洗礼」である。(命名はもちろん僕)
でも一般の人々は僕や雄也と違って琴葉耐性がない。そんな人からすれば赤い肉片が集団でうねうねと木に登る光景、なんて某ホラーTRPGでなくても発狂待ったなしの怪奇映像だろう。
もうじきそこの道も人通りが多くなる。犠牲者を出さないためにも何とか事を収めなければ。
「それに鍋用の肉もなくなっちゃったし、こっちも何とかしなきゃなぁ……」
「だな、そんじゃあ」
そう言うと雄也はアパートの手すりに片足をかけ、飛び降りる気満々の体勢をとった。
「俺があの肉全部引っぺがしてきてやるよ。多分あの高さなら登れるだろ」
「え? 雄也って木登りとか得意なの?」
「ああ。こう見えても俺、昔ボーイスカウトやってたからな」
「……ボーイスカウトってそんな野性味あふれる活動内容だったっけ?」
僕の記憶だと小中学生が自然の中でキャンプとかを通じて自立性や協調性を養うクラブ活動、みたいなイメージなんだけど……。住む地域によって活動内容も変わってくるのだろうか。
「ま、そんなわけで行ってくるわ。回収した肉も洗えば食えるしな」
「あ、ちょっと雄也!」
雄也は手すりを飛び越えると、真下の地面にきれいに着地した。ここは二階だから怪我もないだろうけど……相変わらず無鉄砲というかなんというか。
そのままダッシュで木に向かう雄也に対し、僕は大声で呼びかけた。
「取った肉は捨てろよなーっ。また新しく買ってくるからー」
……ダメだあいつ、全然聞いてない。すっかり木登り&肉剥がしに夢中になってる。
というか、あいつ本当に現代っ子なのか? 動きが完全に猿なんだけど。
「……仕方ない。奴はほっとくか」
まあ木を掃除してくれること自体は純粋にありがたし、相手が猿じゃあ何を言っても無駄だろう。ここはとりあえず彼に任せるとして、買い物は僕が行くとするか。
買い物の準備のため一度部屋へ戻ると、表情が明るく一変した琴葉が出迎えてくれた。
「あ、ケンちゃん! あのね、さっきのお肉のことなんだけど」
「ああ、それなら今から買いに行ってくるよ。だからもうちょっと待ってて」
財布をポケットに捻じ込みつつ、念のため不足の食材がないかスーパーの袋を再チェック。
雄也のことだから特に買い忘れたものがあるとは思えないけど……
「あれ? そういえばネギがないなぁ」
それ以外は完璧なのに、なぜか肝心の食材だけが抜け落ちていた。全体的に食材は豊富だからなくても問題はないけど……やっぱりもの足りない感はある。どうせ買い物に行くのだから、ついでに買って損はないだろう。
なんてことを考えていると、背後から琴葉が声をかけてきた。
「じゃあ、いま足りないのって、お肉とネギだけ?」
「ん、まあそうだね。他にリクエストがあるなら別だけど」
「おおーっグッドたいみんぐ! それならお買いものしなくても済むよー」
「……どういうこと?」
怪訝な思いで琴葉を見ると、彼女は両手を後ろに回し、「実はねぇ」とどこか自慢げな表情で僕の目の前に立った。
そして「じゃ~ん!」という効果音(口頭)とともに、背中に隠していた何かを出した。
それは色鮮やかなネギを背中にひもで括りつけられており、彼女の腕の中から必死で逃げ出そうともがいている……カモ?
「さっき窓の外からね、『鴨が葱を背負ってやってきた』の! これでお肉もネギもゲットだね!」
「……どうやって食うつもりだよ、それ!」
バタバタ暴れながら羽根と泥をまき散らす鴨を前に、もはや僕には頭を抱えることしかできなかった。