あの日、あの夜<5>
なんだろう、この状況は……。
フランツは困惑していた。というよりも逃げそびれた自分に、馬鹿と怒鳴りつけてやりたい心境だ。
軍学校も高等政務学院も、その他の学校と名の付くもの総てが、毎週同じ女神を司る陽の曜日はお休みだ。だからのんびりとすごそうと思って図書館で借りてきた本を片手に談話室でソファーに寝そべっていたら、気がつくとこの状況になっていた。
ちなみに一週間は六日間で、陽・光・火・風・水・土の曜日で成り立っている。一ヶ月はこの繰り返しで三十日だ。これが亜人種に伝わるエネノア大陸創世の物語と符合することに気がついたのは、情けないことにシアーズに帰ってきてからだ。
ヒントは身近にある。真理だ。
それはまあいい。
今はこの状況をどうしたらいいんだ、という困惑がフランツを支配している。
目の前にはどんよりと暗い目をしたアンナ。そしてその前にいるのは何故か恋愛関係の本を山ほど積み上げたジョーなのである。その二人の間にフランツは座らされていた。
実を言えば、フランツは二人の深刻な状況を見て、席を外そうとしたのだ。だが部屋を出た瞬間、小声のジョーに泣きつかれた。
「お願いフランツ、助けてくれよ!」
「何を!?」
「完全にばれたの! 師匠の浮気」
「あ……」
ジョーは簡単に浮気といったが、ジョーもフランツもリッツの浮気の理由を知っている。リッツはまだ年若いアンナを抱くことを恐れて、他の女と関係を持ち続けているのだ。それをなんと言ったらいいか分からないから、二人ともありきたりな、浮気という言葉に置き換えていたのである。
ずっと二人と共に旅をしてきたフランツにとってこの二人の関係は、少し羨ましいけど苦しい関係に見えて仕方なかった。危うすぎてフランツには耐えられない。
フランツは今のところ、自分の勉学が面白くて恋愛に興味がない。でももし恋愛するなら、複雑にならないシンプルで分かり易い恋愛をしたいと、二人を見て心から感じている。
だけどそれでもこの二人の仲間として、二人にはうまくいって貰わないと困るし、とにかく仲良くやって欲しいのだ。フランツが間に立つ事なんて無理なのだから。
「僕に出来ることはない」
「あるって! フランツは師匠と娼館に行ったことがあるよね?」
思わず言葉に詰まる。リッツが娼館通いを再開し始めた頃、夜の街で偶然会ったリッツに、娼館に連れ込まれたことがある。娼館でしこたま飲まされて、気がつくと娼婦と関係を持っていたという、なんともいえない苦い経験だ。
だが元々父親のハーレムで育ったフランツは、その状況をため息一つで水に流した。元来フランツはあまりそういうことに興味が薄いのだが、男女の愛憎渦巻くハーレム育ちのせいか、男としてそういう状況になれば普通に女性に触れることが出来てしまう。父親のようになりたくないと思っているから嫌なのだが。
それ以来リッツの誘いに乗ることは一度もなかった。
「それが何か?」
「それが役に立つの! アンナに説明して欲しいんだよ! 男が女を抱くのはどういう状況なのか」
「! 僕が!?」
「フランツが!」
「無理」
「そんなつれないこと言わないでくれよ! アンナと師匠の仲間は、フランツの方だろ」
それを言われると返す言葉もない。フランツは妥協することにした。
「……とりあえずいるだけでいいね?」
「いい! ありがとう、フランツ!」
そんなわけでフランツはこの状況なのだ。目の前には紅茶が置かれている。自分用にと入れたはずがいつの間にか三人分に追加されてアニーに届けられてしまった。もう逃げるすべがない。
重い沈黙の中、アンナが口を開いた。
「説明、してくれるんだよね、ジョー」
見つめられたジョーが緊張した面持ちでこくりと頷く。
「じゃあ、聞かせて。私とリッツのボタンの掛け間違いは、どこから始まってるの?」
ジョーの目が何故かフランツを向いた。それにつられるようにアンナの目もフランツを向く。思わずジョーを見返したが、アンナの追求はこちらを向いてしまった。
「フランツは知ってるの?」
卑怯にもこんな時だけ大人の女の顔でアンナは追求してくる。このアンナの実年齢相応の女の表情が一番苦手なのに。渋々フランツは口を開いた。
「最初から」
「最初からって?」
「リッツがアンナに恋をした時から掛け間違ってる」
「! そんなに前から?」
大きな緑の瞳を更に見開いて、アンナがフランツを見つめる。ため息をついてフランツはぽつりぽつりと旅路のリッツがアンナへの恋心を募らせるくせに、娼館で女を買いまくっていた話をした。
そしてアンナへの恋心が決定的になった頃から、絶対に宿を取るとき同室にしなかったこと、そしてフランツだとちょっと嫉妬してしまうからと、アンナを必ずエドワードの同室にしたことまで白状する。これはジョーも初耳だったようで、額を押さえてため息をついた。この掛け違い、本当に二人の間の根本的な原因なのだ。
焦ったように、アンナが言葉の途切れたフランツを遮った。
「待って待って! そんな前からなの?」
「うん。聞いた話だと、アンナ、リュシアナ連合王国のヴァレリーで、陛下に買って貰ったドレスをリッツに見せなかった?」
「あ、見せたけど?」
「あのドレス姿を見て、リッツはアンナと同室でいるのに限界を感じたって」
「どうして?」
「あれみて、アンナを抱きたくなったんだって。すごく……その、色っぽかったって」
「!」
アンナがぽかんとした顔をした。
「ええっと、まだ付き合ってなかったけど?」
「でもリッツはもう、アンナに本気で恋してた」
「え、え、だって……」
アンナが混乱している。
「だからそれからは娼館通いが頻繁になったって言ってた」
混乱しているアンナが、二人を交互に見た。
「そもそも娼館が何か分からないんだけど」
意外な言葉に思わず突っ込んだ。
「そこから!?」
「うん。あと娼婦も」
そこは勘弁して欲しい。ジョーを見るとアンナもジョーを見つめた。質問がジョーに移る。
「ジョー、それって何?」
「ええっとね、一言で言うと、綺麗な女性がいっぱいいて、その女性と性的な関係をもつために男が金を出すところ」
簡単だが的確な説明だ。だがアンナはまた目を丸くした。
「え……?」
「でそこにいる綺麗な女性が娼婦。アマリアはこの街で一番由緒ある娼館の一番の売れっ子で、女王って呼ばれてる」
「ちょっとまって。ええっと、そんなにみんな子供が欲しいの?」
アンナの言葉に今度はフランツが愕然とする。子供を作りたいなら、結婚して子供を作ればいい。そうではなくて遊びたいから娼館に行くのだ。フランツが思わずジョーを見ると、ジョーはまた額を押さえてため息をつく。
「そこがアンナの一番の誤解なんだよね」
「ああ、なるほど」
「ええ? 誤解なの?」
それでこの状況が読めてきた。浮気がばれたということは、アンナはリッツが女と関係を持っていることに気がついてしまったということだ。だがリッツが関係を持つ女は娼婦や、後腐れのない遊び人に限られている。
でもアンナは関係を持つことは子供を作ることだと思っている。つまりリッツはアンナではない人と子供を作ろうとしている、それはひいては子供の出来ないアンナとの関係を解消したいと思っているのだと思い込んだ。ということなのだろう。
ちらりとテーブルに積まれた本に目をやって納得した。つまりジョーは男女間の関係が、子供を作る以外で存在することをアンナにきちんと教えなくてはならないということだ。その上でリッツが何故他の女と関係を持っていたのかと教えなければならない。何とも大変な作業だ。
この二人には仲良く何十年も何百年も過ごして貰って、フランツの大陸間ネットワークを完成させて貰わなければならない。だから二人の関係が戻るために、フランツも少々力を貸すことにした。
「アンナはリッツが好きだろ?」
唐突に聞いたのだが、アンナはこくりと頷いた。
「リッツと触れ合うのは好き?」
「大好き」
率直に答えられてしまうと、少し恥ずかしいが、これ以上こじれられても困る。フランツはアンナがリッツとのことで、食事に手を着けることも出来ない状況を二度目撃している。あの時も今同様相当なやつれようだった。
「どんなことが好き?」
「……キスされるの好き。抱きしめられるのも好きだし、頭を撫でられるのも好き。眠るときに体を抱きしめられて優しく撫でられるのも好き」
フランツは不意にリッツの苦悩を思った。ここまで好きな女性と触れ合って、そこで寸止めできるリッツの精神力はすごい。しかもそれをリッツは二年半も続けている。これはアンナと過ごす前に娼館で性欲を抜いておくという選択をしたからこそ出来たことだ。
「フランツ?」
「ごめん。続けよう。アンナはそれで満足してた?」
「満足……?」
アンナが首をかしげた。
「そう。もっと触れて欲しいとか思わなかった?」
淡々と聞いたのだが、アンナは眉を寄せて考え込んでしまった。
しばらくしてからアンナが口を開いた。
「もうたっぷりキスして貰ったのに、足りない気がして、ねだっちゃったことが何回かあったよ。そういう時はリッツもすごく深いキスを返してくれるの。でもそれが何か関係があるの?」
駄目だ。仲間の恋愛談をリアルに聞くと恥ずかしい。というよりいたたまれない。俯いたままジョーに向かって手を出すと、ジョーが心得たようにフランツの手をパチンと叩いた。
選手交代だ。
「あのね、アンナ。確かに性行為っていうのは子供を作ることなんだけど、それはこう、なんて言うのかな。形式上のことなの」
「……形式?」
「うん。ええっと……あ、そうだ。想像してみて。もしもアンナがもっと触れて欲しいって思っていた時に、師匠がこの間アンナにしたようなことをしたら、どう思う?」
「え?」
「強姦……されかかったんだよね?」
それは初耳だ。
「誰が、誰を!?」
「師匠が、アンナを」
「どうして!?」
「アマリア姐さんに街中で会っちゃって、色々あって……裏路地に連れ込んじゃったらしいよ、師匠。未遂だったらしいけど」
フランツはため息をついて髪を掻き上げた。
「何やってるんだ、リッツは」
「本当だね」
二人でため息をつくと、考え込んでいたらしいアンナが顔を上げた。
「もしかしたら……嫌じゃなかったかも……」
「え?」
「路地裏で喧嘩しながらじゃなくて、もっとキスして欲しい時だったら嫌じゃないかも」
「じゃあアンナ、その時、師匠の子供が欲しかった?」
「え?」
「師匠の行為が、子供を欲しがってしていることなら、それが嫌じゃないアンナは子供が欲しくて師匠に触れて欲しくなるの?」
「違うよ。欲しいのは子供じゃなくてリッツだよ……あ……」
アンナが顔を上げた。
「もしかして性行為には子供を作る以外に、意味があるの?」
ようやく導き出た答えに、ジョーとフランツは心からほっとした。
「そうだよ」
二人同時に答える。
「どういう意味があるの? ジョーは知ってる?」
「うっ……まだ彼氏いないし」
「フランツは?」
「知識としてはいくつか知ってる。一つは経験した」
ため息混じりに言うと、アンナはじっとフランツを見つめてきた。
「教えてくれるよね?」
こうなると言い逃れようがない。
「……教えるよ」
フランツは覚悟を決めてアンナと向き合った。
「はじめは僕の経験したケース。男はだいたい女性に迫られると、本能的に抱きたくなる。女性と比べて性欲が強いことが原因らしい。僕はそういう感情が少ない方だけど、その経験がある」
「フランツは女の人を抱いたことがあるんだ……」
「……一度だけ。不可抗力」
その経験の原因を作ったのは、当然リッツだ。
「そっかぁ……」
妙に感心されてしまった。嬉しくも何ともない。
「次は?」
「とても性欲が強くて女性が大好きだというパターン。これはただ単に女好き。娼館を利用する男のほとんどが、この中に入ってる」
断言すると、アンナは不安そうな顔をした。
「リッツも? 前にジンさんが女好きだって言ってたよ?」
「リッツはただの寂しがり屋で臆病。女好きとか遊び人はリッツのポーズだ」
「ポーズ?」
「そう。リッツみたいな男もいる。リッツの性格はアンナの方が分かっているね?」
見るとアンナは、真剣な顔で頷いた。
「ならわかるだろ。アンナに出会って恋に落ちるまでのリッツは、孤独と寂しさを埋めるために、女を抱いてた。性的な快楽と女のぬくもりを感じているだけで少しだけ孤独を忘れられるって」
リッツが一度だけフランツにそう話してくれたことがあった。シアーズに帰ってきて、初めて二人で酒を飲んだときのことだ。アンナとの関係を危ぶんだフランツに、リッツは今までの孤独を語り、現在の幸福を語った。
「それでいつも女をとっかえひっかえって、ジンさんが言ったんだ」
「そう。それぐらいリッツは寂しかったんだ。陛下や仲間と別れて、師と呼べる人とは死に別れ、仲間は年をとってく。それはきっとアンナの方がよく知ってるね」
「……うん」
小さく頷いたアンナが顔を上げた。
「でも今は私がいるよ? なのにどうしてリッツは娼館に通うの?」
それが一番の問題だった。だがフランツはその理由をよく知っている。
「アンナが何も知らないからだよ」
「え?」
「アンナとリッツが出会ったとき、アンナは子供がどうやって出来るかも知らなかったよね。仲のいい夫婦の奥さんのお腹に、女神様が授けてくれるんだっけ?」
「何も知らなかったんだってば! 医学専攻になって初めて知ったよ。びっくりしちゃった。そうやって子供を作るんだぁって……」
アンナは照れたように笑う。昔の純粋無垢なアンナを思い出すと、リッツの苦悩はよく分かる。リッツの目には、アンナは永遠に純粋無垢な少女に見えているのだ。
「そんなアンナだから、リッツはどうしても手を出せなかった」
「どうして?」
「リッツはアンナが好きでたまらないんだ。大切でかけがえのない人だと思ってる。だからアンナを傷つけたくなくて、自分の欲望はアンナではなく他の人で発散しようとしたんだ。常識的に考えても、リッツぐらいの年でアンナを抱くのには抵抗があると思う」
「何で?」
「だって……見た目かなり若いし……」
「でもリッツは私の年齢知ってるのに?」
アンナに詰め寄られて困っていると、ジョーがポツリと言った。
「師匠、怖かったんだって」
「何が?」
「アンナを傷つけてしまうことが」
「私を?」
困惑したアンナに、ジョーは真剣に向き合う。
「ほら師匠って背も高いし、剣士だから体もがっちりしてるでしょ? だから相応の年になってからじゃないと、華奢なアンナを抱いたら、壊してしまいそうで怖いんだって。師匠はさ、アンナが大事なあまりに、愛し方を間違っちゃったんだよね」
アンナはジョーの言葉に俯いた。ようやくリッツの事が分かってきたようだった。そんなアンナに静かに告げる。
「最後は性行為の意味で一番重要視されていること。アンナも分かることだよ」
「何?」
「相手が好きで心も体も、もっと愛し合いたい時。アンナがさっき言ってたのはこれに当たる。リッツがアンナに対して抱いている感情もこれ。リッツはかなり我慢してこらえてたけど、我慢の限界が来てあんなことをした」
フランツが言葉を切ると、アンナはじっと黙って俯いた。その時の状況を思い出しているのかも知れない。いたたまれなくなって、フランツは口を開いた。
「僕はリッツの考えも行動も知ってて黙ってた。こんな風にこじれると思わなかったんだ。ごめん」
「……フランツは悪くないよ。悪いのはリッツと……きっと無知な私」
小さく笑ったアンナはまた、思考に沈んでしまう。フランツはジョーを見た。ジョーもこちらを見て小さく頷く。二人が出来ることはこれぐらいだろう。
「じゃあ僕はこれで」
さっさと退散しようとしたのだが、アンナに再び見つめられて浮かせた腰をまた下ろした。
「まだ何か?」
「……どんなことをするの?」
「何が?」
「だから、抱かれるって、どんなことをされるの?」
真剣な問いかけだったが、フランツは固まった。そんな直接的なことに答えられるわけがない。誤魔化すにしろぼやかすにしろ、フランツではとてもじゃないが経験不足だ。それこそ、そんなことは遊び人気取りのリッツに聞いてくれと言いたい。
「ジョー?」
「分かんないよ。私はまだ彼氏いないんだってば!」
言葉と共にジョーがアンナに向かって数冊の本を押しやる。その一番上にのせられた本の題名にフランツはため息をついた。
『初めて男性に求められたら 知って守る自分の体』
つまりここに積まれた本はそれに相当する本たち、つまりは性の指南書ということだ。今日の午前中にジョーが図書館に付き合ってくれというのを断って本当に良かった。
「借りといたから、アンナが自分で研究して。私には分からないよ」
「ありがとうジョー。そうするね」
アンナはいつものように穏やかに微笑んだ。
その日からアンナは真剣にそれらの本を読み始めたのだが、研究書か何かのように真剣に読むアンナに少しフランツは複雑なものを感じてしまった。
初めて会った時のアンナは、ひたすら無邪気で、世間知らずで、とにかく食べることと人助けだけを考えているような少女だった。
それがたった四年半経っただけで、アンナには全く無縁だったこんな本を真剣に読みあさっているなんて。保護者たるリッツは、アンナを悪い道に引き込んだのではないだろうか。
フランツはため息をつく。
よくよく考えれば自分だって十七歳から二十二歳の大人になっているのだから、アンナだって大人になって当たり前……なのかもしれない。